■金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
②若葉睦
午後の柔らかな日差しが、カフェの窓から店内へ差し込んでいた。
昼時を過ぎた店内は落ち着いていて、カップを置く音と小さな話し声だけが静かに流れている。
窓際の席で、豊川真我は温かなコーヒーを前に座っていた。ほどなくして、小さな足音が近づく。
「……こんにちは」
若葉睦だった。
制服姿の彼女は軽く頭を下げ、向かいの席へ腰掛ける。
「来てくれてありがとう、睦さん」
真我は穏やかに微笑んだ。
「急に呼び出してごめんね」
「……ううん」
短い返事。
真我は店員へ飲み物を注文すると、改めて睦へ視線を向けた。
「今日は、祥子さんのことで聞きたいんだ」
睦は少しだけ視線を伏せた。
「……うん」
「最近、学校ではどう?」
少し沈黙。
「……来ない」
「祥子さんが?」
「……練習も」
「バンドの練習にも来ていないんだね」
「……うん」
そこで真我は話を急がない。
返事を待つ。睦は考える時間が必要な子だと分かっていた。
数秒後、小さく口を開く。
「……私を」
そこで止まる。
真我は続きを促すように優しく尋ねる。
「祥子さんが、睦さんを……?」
「……見てる」
「うん」
「……理由」
「理由?」
「……来ない理由」
真我はゆっくり整理する。
「祥子さんが練習に来ない理由は、睦さんに原因があると、見える?」
睦は静かに頷いた。
「……うん」
「どうしてそう思ったの?」
睦は膝の上で指先を重ねる。
「……私」
「うん」
「……下手」
睦の技量を真我は知っている。だからそんなことはないと思うが、真我はすぐには否定しない。
「ギター?」
「……さきは、もっと……弾いてほしいって」
言葉を探しながら話している。
真我は急かさない。
「祥子さんが満足できるギターを、自分は弾けてないと思っている?」
「……うん」
「なるほど。なるほど、もう少し詳しく」
睦は少し息を吸う。
「……私が……上手く弾けたら……さき……来た」
「自分がもっと上手だったら、祥子さんは練習に来てくれたと思ってるんのかな?」
「……うん」
その返事は、少し震えていた。
真我はカップを持ち上げ、一口だけコーヒーを飲む。
(それはあんまり関係ないはず。睦さんも祥子さんの父親のことは知ってるのに、コレか)
そして、静かに口を開いた。
「睦さん、一つ聞いてもいい?」
「……うん」
「祥子さんは、睦さんの演奏を嫌いだと言ったことはある?」
睦は首を横に振る。
「……ない」
「怒ったことは?」
「……ない」
「失望した、と?」
「……ない」
「なるほど」
睦は黙る。長い沈黙。やがて、小さく答えた。
「でも……私のせい」
(なんで?)
真我は内心を抑えつつ、穏やかに笑った。
「そうか。ありがとう」
睦は少しだけ顔を上げる。
「僕はね。睦さんの話を聞いていて思ったんだ。祥子さんが来ない理由を、睦さんは全部自分のせいにしている感じがした」
睦は何も言わない。
「それは、睦さん的にはどう思う?」
「……分からない」
「そうか、うん」
真我は頷く。
「分からないなら、『自分のせいだ』と決めなくてもいいと、思うかな」
「……」
「祥子さんには祥子さんの事情があるように、睦さんには睦さんの気持ちがある。まだ話を聞けてない以上、本当の理由は誰にも分からない」
睦は真我の言葉を、一つひとつ噛みしめるように聞いていた。
「だからね。そういう気持ちになるのは睦さんの責任感と優しさで素敵だと思う。それは否定しない。でも一つだけ残しておいてほしい可能性がある」
「……可能性?」
「祥子さんは睦さんのせいで苦しんでいるのではなくて、祥子さん自身の問題で苦しんでいるのかもしれない、という可能性」
睦はゆっくり瞬きをした。
その考えは、今まで思いつきもしなかったのだろう。
「……そう、かも」
「うん」
真我は微笑む。
「僕もまだ分からない。だから、決めつけないで、一緒に考えたい。一緒に考えたい、と思う。睦さんはどう思う?」
睦は静かにココアのカップを両手で包み込んだ。少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「……ありがとう」
その声は小さかったが、先ほどよりも少しだけ温かかった。真我はただ穏やかに頷き、彼女が話してくれた勇気を大切に受け止めていた。
カフェには穏やかな音楽が流れていた。
窓際の席で向かい合う真我と睦の間には、しばらく静かな時間が流れる。
ココアの湯気を見つめていた睦が、小さく口を開いた。
「……さき」
真我は静かに頷く。
「うん」
「……転校」
「学校を変わったんだね」
「……学費。学費が高いからって」
真我はその事実を知っていた。
豊川家を出た祥子は、父・清告と二人で暮らしている。
生活は決して楽ではない。
学費の問題で転校したことも、父が酒に溺れ、まともに生活できる状態ではないことも。だからこそ、祥子がバンドへ来られない理由も、おおよそ察していた。しかし、睦は知らない。あるいは、知っていても繋げられていない。
「他のみんなは?」
真我が優しく尋ねる。
睦は少し考えてから答える。
「……みんな。自分だと……思ってる」
「祥子さんが来ない理由は、自分にあるって?」
「……うん。私も」
その声はひどく小さかった。
真我は否定しない。ただ続きを待つ。
「……でも」
「うん」
「……さき」
睦は唇を噛む。
「限界」
真我は静かに目を細めた。
その一言だけで十分だった。
祥子は限界なのだ。父を支え、生活を支え、自分まで支えようとしている。中学生の少女が背負うには、あまりにも重すぎる。
睦は真我を見つめる。
「……助けて」
少し間を置いて。
「……さきに。それが必要」
「そうだね」
「助ける用意はできているよ」
睦は顔を上げる。
「なんなら、今すぐにでも」
その答えに、睦の表情が少しだけ明るくなる。しかし次の瞬間、その顔は曇った。
「……なら」
「うん」
「なんで……?」
睦の瞳が揺れる。
「……さきは……もう」
その続きを言葉にできない。
“もう限界なのに。”
“もう苦しんでいるのに。”
そんな思いだけが、睦の表情に滲んでいた。
真我は静かに頷く。
「これは、祥子さんの選択だからね」
睦は首を傾げる。
「祥子さんは、自分でお父さんについて行くことを選んだ。僕はその選択を尊重すると約束した」
真我は窓の外へ目を向ける。
「ここで僕から手を差し伸べることはできる。豊川家へ戻すことも生活を支えることも、全部できる」
少しだけ苦笑する。
「歯痒いけどね。でも、それを僕が勝手にやってしまったら祥子さんの選択を、僕が否定することになる」
睦は黙って聞いている。
「だから待つ。祥子さんが助けを求めたら助ける。それが、僕の考える『尊重』なんだ」
睦はしばらく黙り込んだ。やがて、小さく尋ねる。
「……それで、さき……苦しんでも?」
「うん」
その一言は静かだった。
「苦しむと思う」
睦は息を呑む。
真我は続ける。
「でもね、その苦しみに価値を見出すかもしれない。価値があるか、ないか。それを決めるのは僕じゃない」
睦は真我を見つめる。
「祥子さんなんだ。自分で選んだ道を。苦しかった。間違っていた。進んで良かった。そう思うのも。もう無理だと助けを求めるのも。全部、祥子さん自身が決めることなんだ」
真我は柔らかく笑う。
「僕は、その自由を奪いたくない」
睦は静かに視線を落とした。
すぐには理解できない。けれど、真我が冷たいから待っているのではないことだけは伝わった。
助けられないのではない。
助けないのでもない。
助けを求めるという祥子の意思を、誰よりも大切にしているのだ。
その静かな覚悟を前に、睦は何も言えなくなり、小さくココアのカップを包み直した。
静かな時間が流れる。
窓の外では人々が行き交い、それぞれの日常を歩いていた。
真我は空になりかけたコーヒーカップをそっと置くと、睦へ穏やかな視線を向けた。
「睦さん」
「……うん」
「君にも、言っておくね」
睦は静かに顔を上げる。
真我は優しく微笑んだ。
「睦さんも、助けてほしい時は僕を頼っていいからね」
睦は瞬きをする。
真我は続けた。
「そのためのお金だ。そのための権力だ。僕が豊川グループにいる意味の一つでもある」
その声には、自慢も誇示もない。ただ、自分が持つ力の使い道を語るだけの静かな確信があった。
「君たちが助けを求めるなら、僕は喜んで支援する。学校のことでも。生活のことでも。誰にも言えない悩みでも。できる限り、一緒に考える」
睦は黙って聞いている。
真我は少しだけ困ったように笑った。
「だけどね。助けてほしいという声がなければ、僕は動けない。勝手に踏み込むことは、相手の人生を僕が決めることになってしまうから」
睦は少し考え込む。
「……?」
その表情は、まだ完全には理解できていないことを物語っていた。
「……わかった」
それでも、小さく頷く。
真我はその返事に満足そうに微笑んだ。
「うん。それで十分」
「今すぐ理解できなくてもいい」
「ただ、一つの選択肢として頭の片隅に残してくれれば、嬉しいかな」
睦は首を傾げる。
真我は穏やかな口調で言葉を結ぶ。
「『困ったら頼ってもいい人がいる』その選択肢があることだけは、忘れないで」
睦はしばらく真我の顔を見つめていた。やがて、小さく、しかし今までで一番はっきりと頷く。
「……うん」
その返事を聞いた真我は、それ以上何も言わなかった。
無理に約束を取り付けることもしない。ただ、いつか本当に助けを求める日が来たなら、その時は迷わず手を伸ばせるように。
そんな静かな願いだけを胸に、睦の小さな頷きを大切に受け止めていた。
◼️ 真我はノートを取り出し、静かに書き綴る
……睦さんは、本当に優しい子だ。
優しいというより、責任感が強すぎる。祥子さんが来ない。その事実を見た時、彼女は最初に考えた。
「私が悪かった」
誰にも言われていない。祥子さんも言っていない。それでも、自分を責めた。
……不思議だ。
人は大切な人ほど、その人の苦しみを自分の責任にしたくなる。理由が分からない方が怖いから。
「私のせいだった」
そう思えた方が改善できる余地があるように感じる。でも、それは違う。責任を持つことと責任を背負い込むことは別なんだ。
……睦さんは、自分を責めることで、祥子さんを理解しようとしていた。でも、それでは見えなくなる。
相手にも、相手自身の人生がある。
それを忘れてしまう。だから最初に伝えたかった。
「まだ分からないなら、決めつけなくていい」
あれは慰めじゃない。考えるための余白を渡したかった。
……そして。
今日、一番印象に残った言葉がある。
「助けて」
あの一言。
あれは睦さん自身のお願いじゃなかった。祥子さんのためのお願いだった。
自分ではなく、誰かを助けてほしい。そう願える人なんだ。だからこそ危ない。
自分は後回しになる。
……でも、僕は断った。いや、断ったわけじゃない。
待つことを選んだ。正直に言えば、苦しかった。今すぐ助けられる。生活だって、学校だって、全部なんとかできる。
それだけの力はある。でも、その力を使うということは祥子さんが選んだ人生を、僕が「間違いだった」と決めることにもなる。
それはしたくなかった。
尊重って難しい。見捨てることにも似ている。放任にも見える。冷たいとも思われる。でも、相手の人生を奪わないというのは、きっとこういうことなんだ。
苦しみも含めて、本人が選ぶ自由を認める。
……もちろん、命に関わるなら話は別だ。自分では助けを求められない状態なら、ためらわず手を伸ばす。でも今の祥子さんは、まだ歩いている。
苦しくても、自分で歩くと決めている。
だから待つ。信じて待つ。その代わり、睦さんには伝えておきたかった。
「君は一人で抱えなくていい」
たぶん彼女はこれからも誰かのために悩む。誰かのために泣く。その時、今日の言葉を思い出してくれたらいい。
「困ったら頼っていい」
それだけ覚えていてくれれば今日会った意味はある。
内なる自分が言う。
「面白いね」
何が?
「君は今日、二人を見ていた。睦だけじゃない。祥子も見ていた」
……そうだね。睦さんを理解しようとしたら、自然と祥子さんのことも考えていた。
「そして気付いた。この二人は正反対に見えて、とても似ている」
似ている?
「祥子は『私が支える』を選んだ。睦は『私のせいかもしれない』を選んだ。どちらも、自分より相手を優先している。形は違うが、本質は同じだ」
……確かに。どちらも、自分を最後に置いている。
「だから君は、二人とも救おうとはしなかった。代わりに、一つだけ同じものを渡した」
……『頼ってもいい』ということ。
「そう。責任感の強い人間は、自分で立ち続けようとする。だから最初から立たせないようにするのではなく、倒れた時に寄りかかれる場所があることを教える。それが先人の責任だ」
……すぐに理解してもらえなくてもいい。
今日の会話が、いつか誰かに助けを求める勇気につながると、信じている。