金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」   作:あばなたらたやた

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⑧話:定めて治める者

 

———富・名声・力。

 この世のすべてを手に入れた真我は、採算度外視で単独スポンサー、筆頭株主、単独でクラウドファンディング達成、インディーズへの支援などを始めた。

 

「僕の資本力? 欲しければ与える。頑張れ、皆さんの未来に、見返りのない支援を約束しよう」

 

 一才の口出しをしない真我からの支援を受けた人々は、それぞれの理念やコンセプトを突き詰めつつ、優良会社を両立させた夢を追い続けるようになった。

 世はまさに、極楽浄土。

 正しき道を往く者に、それに見合いし光あれ。

 

 というリアル放置ゲー、リアルクリッカーみたいのを始めた真我だったが、それは現実に疲れた結果だった。

 

 豊川グループの一員として『リアル・育成・経営シュミレーション』をやり続けた結果、人間をコストとしか考えられなくなる現象に陥ったので、『夢のために頑張る人達を全力で支援して、その成長を見守る』ことで、人間性のバランスを保っていた。

 

「視座が高くなった結果がこれか」

 

 支配者の論理。

 前提として人間は、不完全である。それは欠陥ではない。人間という種が背負い続ける宿命であり、可能性でもある。

 誤るから学ぶ。

 迷うから考える。

 傷付くから他者を知る。ゆえに成熟とは、完全無欠へ至ることではない。矛盾を抱えたまま歩き続ける精神の在り方に他ならない。

 そして、豊川真我はその問いを生涯追い続ける。

 人を感覚ではなく構造として理解しようとする者。

 感情を言葉へ変えて、理論を行動へ移り、経験を仕組みに整備する。

 彼の生き方そのものが、「翻訳」という思想を証明していた。だが、その思想は抽象的な理想から生まれたものではない。

 

 家出した妹、豊川祥子が、いつか戻ってこられる居場所を残したい。

 その極めて個人的な願いが、彼を現実へ縛りつけていた。

 

     ◇

 

 豊川グループ本社。

 高層階の会議室には、冷えた空調と、数字だけが並ぶ資料の匂いが満ちていた。

 真我は、長机の端に置かれた報告書へ視線を落としていた。

 

 そこに記されているのは、利益率の改善案、部門統廃合、採算の取れない事業の整理、そして人員削減の対象となる部署の一覧だった。

 

 どれも合理的で、どれも正しかった。少なくとも、紙の上では。

 

「この案で進めれば、来期の損失は抑えられます」

 

 役員の一人がそう言う。

 真我は頷く。否定はしない。数字は嘘をつかない。少なくとも、嘘をつくのは数字ではなく、それを扱う人間だ。だが、真我の胸の奥には、言葉にならない疲労が沈殿していた。

 採算の合わない地方拠点を閉じる。

 長年勤めてきた社員を配置転換する。

 再教育の名目で、実質的には切り捨てる。

 弱い者から順に、静かに、しかし確実に擦り潰していく。

 それが企業の論理だと、彼は理解していた。

 

(気分が悪い)

 

 会議が終わり、役員たちが退出していく。残された真我は、椅子に深く背を預けた。

 窓の外には、都市の光が広がっている。

 無数の灯り。

 無数の生活。

 その一つ一つに、名前があり、事情があり、守るべき日常がある。だが、経営という言葉は、その一つ一つを等しく扱ってはくれない。

 全体を守るために、部分を切る。

 未来を守るために、現在を削る。

 その判断を下すたび、真我は自分の中の何かが少しずつ摩耗していくのを感じていた。

 弱者を擦り潰すことに疲れていた。甘えや同情もあるが、理論上は正しく回っている。むしろ、誰よりも構造を理解しているからこそ生じる疲労だった。

 

(これは、なんとも)

 

 救えない者がいる。

 救うためには、救えない者を生むしかない。

 その循環を何度も見てきた。そして、そのたびに思うのだ。

 

 このやり方しかないのか、と。

 

 その問いは、経営者としては無意味だった。だが、人間としては無視できなかった。そして、その疲労の底には、もっと個人的な痛みがあった。

 

 家出した妹、豊川祥子。

 彼女がいつか戻ってきたとき、帰る場所だけは失いたくない。

 会社を守ることは、単なる利益の維持ではない。豊川という家を、まだ帰れる形で残しておくことでもあった。だからこそ真我は、現実から目を逸らせなかった。

 

     ◇

 

 その夜、真我は豊川家本邸を訪れた。

 豊川家本邸。

 そこはいつもの豪邸ではない。

 歴史そのものが建築という形を取った空間だった。磨き抜かれた廊下には、一族が積み重ねてきた年月が沈殿している。庭園へ視線を向ければ、一本の松でさえ何十年という時間を語っていた。

 

 金では決して買えないものがある。

 それは信用であり、伝統であり、積み重ねた歴史である。そして、それらを守る者には必ず決断が求められる。

 

 和室には、一人の老人が座っていた。

 豊川定治。

 豊川グループ現トップの祖父。婿養子ながら幾度となく時代の転換点を見届け、数え切れない決断を積み重ねてきた男である。

 

 彼の瞳には冷酷さはなかった。あるのは、現実を見続けた者だけが持つ静かな諦観だった。

 

「座りなさい」

 

 真我は一礼し、静かに腰を下ろす。

 二人の間に置かれた湯飲みから、細く湯気が立ち上る。しばらく沈黙が続いた。しかし、その静寂は息苦しいものではない。互いが言葉を急がないからこそ生まれる、思考の余白だった。

 やがて定治は、真我の顔を見て言った。

 

「疲れているな」

 

 真我は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに答える。

 

「……ええ、はい。少し、疲れました」

「何にだ」

 

 真我はすぐには答えなかった。だが、祖父の前では取り繕う意味がないことを知っている。

 

「弱い人たちを、切り捨てることです」

 

 その言葉は、感情を抑えたまま吐き出された。

 

「合理化、再編、統廃合、採算の見直し言葉は綺麗ですが、結局は同じです。生き残れる者だけを残して、残れない者を静かに押し潰す」

 

 定治は何も言わない。

 真我は続ける。

 

「もちろん、全員を救うことはできません。無能を切除するのは大切です。それは理解しています。ですが、理解しているからこそ、余計に苦しい。救えないと分かっていても、目の前で誰かが擦り潰される……いや、僕が潰すのは慣れません」

 

 その声には、怒りよりも疲労があった。

 憤りよりも、摩耗があった。

 

「僕……いや、私は、正しいことをしているはずです。会社を守るために。社員全体を守るために。豊川グループという器を壊さないために……それでも、どうしても思ってしまう」

 

 真我は湯飲みを見つめたまま言う。

 

「このやり方しかないのか、と」

 

 定治はしばらく黙っていた。やがて、低く穏やかな声で言う。

 

「優しすぎるな。祥子は瑞穂に似たが、お前は清告の方に似ている。聡く、誠実で、柔軟だ。率直に言うなら優秀だ」

 

 真我は顔を上げる。

 

「優しさは、経営者には不要ですか」

「不要ではない」

 

 定治は首を振る。

 

「だが、優しさだけでは人は守れない。守るとは、綺麗なことではない。時には、守るために切る。時には、救うために見捨てる。その矛盾を引き受ける覚悟がなければ、上に立つ資格はない」

 

 真我は黙って聞いている。

 定治は続けた。

 

「お前が疲れているのは、弱者を切ることに慣れていないからではない。切ることの意味を、理解しすぎているからだ。誰かを切るたび、その人間の人生があることを知ってしまう。だから苦しいのだろう。だが、それは悪いことではない」

 

 老人は湯飲みを手に取り、一口だけ茶を飲んだ。

 

「苦しむ者は、まだ人間だ。本当に危険なのは、切ることに何も感じなくなることだ」

 

 真我は静かに息を吐く。

 

「では、私はこのまま苦しみ続けるべき、と?」

「違うな」

 

 定治は即答した。

 

「苦しみを消すな。だが、苦しみに支配されるな。お前がやるべきなのは、弱者を切ることに慣れることではない。切らずに済む構造を、少しでも増やすことだ」

 

 真我の瞳がわずかに揺れる。

 

「……増やせるでしょうか」

「一度に全部は無理だ。だが、無理だからといって諦めるのか?」

 

 定治は真っ直ぐに真我を見る。

 

「お前は、現実を知り、理想を掲げ、狭間で生きている。だからこそ、理想を語る資格がある」

 

 豊川グループは魔窟だ。その中で生きてきた老人は弱々しく、あらゆるものに諦め、停滞を選び腐った定治は、若い真我へ語る。

 

「現実を知らない理想は空虚だ。だが、理想を失った現実はただの消耗だ。お前が疲れているのは、まだ理想を捨てていない証拠だ」

 

 その言葉は、慰めではなかった。

 助言だった。

 支配者としての助言であり、同時に祖父としての助言でもあった。

 

「覚えておきなさい。弱者を守るとは、弱者だけを見ることではない。全体を見て、その中で弱者が擦り潰される速度を少しでも遅くすることだ」

 

 完全な救済はできない。だが、完全な切り捨てもまた、選ぶ必要はない。

 

「人間は不完全だ。だからこそ、制度を作る。制度も不完全だ。だからこそ、定めて、治める。それが理想だ」

 

 儂にはできなかったことだ、と続いた。

 真我はしばらく目を閉じた。胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ形を変える。消えたわけではない。だが、言葉によって輪郭を与えられた。

 それだけで、人は少しだけ前へ進める。

 

「……ありがとうございます。」

 

 真我は深く頭を下げた。

 定治は小さく頷く。

 

「礼を言う必要はない。身の程を弁えろ。だが、最善を尽くせ。希望に進むな、絶望へ堕ちるな。自分を見失わず、真実の今を積み重ねれば必ず報われる」

 

 少し時間があって、やがて定治は口を開く。

 

「お前は一人一人の人生を大切にしたいと思っているな?」

「はい」

 

 短い返答。

 その迷いのない声に、老人は穏やかに頷いた。

 

「良いことだ」

 

 しかし、その言葉は肯定では終わらない。

 

「だが、一人一人に思いを巡らせていたら、組織というものは回らない」

 

 真我は何も言わない。

 ただ、老人の言葉を受け止める。

 

「全体を優先する以上、どれほど嫌でも少数の命や想いを燃料へ変える局面は訪れる。これは善悪ではない。構造なのだ」

 

 断定だった。

 理想でもなければ願望でもない。

 長い歴史の果てに積み重ねられた現実の結論。

 

「国の指導者も、大企業の社長も、大集団を率いる者も、本質的には同じだ。誰かを救うために、誰かを切り捨てる。そして当然、その犠牲になった者は怒る。自分の人生を踏みにじられたと思うからな」

 

 老人はそこで一度笑う。

 それは嘲笑ではない。人間という存在を知り尽くした者の苦笑だった。

 

「しかし、本当に難しいのはそこからだ。支配者に必要なのは、犠牲を出さないことではない。犠牲を出しながら、それでも秩序を維持することだ」

 

 空気が僅かに重くなる。

 

「絶望した人間は過激になる。失うものがない者ほど危険な存在はない。だから彼らに『社会は最後まで自分を裏切らなかった』と思って人生を終えてもらう必要がある。残酷だと思うかもしれない。しかし、社会全体を守るという視点では、それもまた一つの責任なのだ」

 

 その思想は冷たい。だが、冷酷とは少し違う。冷酷とは他者を傷付けることを楽しむ精神である。

 対して定治は、傷付けることを望まない。

 それでもなお、傷付けなければ社会は維持できないという現実を受け入れている。

 それこそが、支配者という思想だった。

 沈黙が落ちる。

 真我は俯かない。

 怒鳴らない。

 反射的に否定もしない。

 まず理解する。

 それが彼の流儀だった。

 

「……理解はできます」

 

 静かな声だった。

 

「ほう」

「規模が大きくなれば、一人一人へ最適解を返すことは不可能になる」

 

 有限な資源。

 全体最適。

 部分最適。

 

「その構造自体は理解できます」

 

 そこで真我は一度言葉を切る。

 

「ですが」

 

 老人の視線が細くなる。

 

「私は一つだけ、お聞きしたいことがあります」

「何だ」

「今お話しされた内容は、支配者が目指すべき理想でしょうか。それとも、現時点で確認されている最適解でしょうか?」

 

 和室が静まり返る。

 老人は数秒、真我を見つめ続けた。

 やがて、小さく笑う。

 

「なるほど、そう辿り着くか」

 

 その問いは、思想の否定ではない。

 構造そのものへの問いだった。

 

「答えよう。後者だ。現時点で確認されている最適解に過ぎない。弱者を効率よく燃料に変え、組織を延命させる。それは現時点の最適解だ」

 

 真我は静かに頷く。その瞬間、彼の中で一つの結論が組み上がる。

 

「でしたら」

 

 穏やかな声だった。しかし、その芯は揺るがない。

 

「私は、その構造を改善したいと思います」

 

 老人は黙って聞いている。

 

「人間は不完全です。だから失敗します。制度も、人間が作る以上、不完全です。定めて治めるのは確かに維持することはできます。しかし、その先はない」

 

 老人が目を細める。

 

「人は変わります。制度も改善できます。切り捨てることを前提とする社会ではなく、切り捨てる人数を減らし続け、全てを救う社会を設計することを理想とし、進むべきです」

 

 それがきっと家出した妹の豊川祥子が戻ってきたとき、帰る場所を残すための戦いに繋がる。

 真我の言葉は理想論だった。しかし、それは現実を知らない者の理想ではない。

 現実を理解した上で、それでも更新を諦めない思想だった。

 

「失敗を前提にすることと、失敗を放置することは違います。もちろん、犠牲が避けられない局面はあるでしょう」

 

 その犠牲は本当に避けられなかったのか?

 もっと前に救えなかったのか?

 制度は機能していたのか?

 対話は存在したのか?

 犠牲を産む理由が『ルールだから、という思考停止』と、『ちゃんと考えて、悩み、選んだ結果』では意味が違う。

 

「私はそこを問い続けたい」

 

 それこそが真我の思想だった。

 人を変えるわけでもなく、社会を否定するのでもない。

 

「お前はそれがどんな世界か分かって発言しているのか?」

「はい。みんなが不幸になる世界です。大きな不幸を、みんなで分散して、一人一人が潰れないように助け合う世界です」

「それを成し遂げられると?」

「いいえ。けれど、その理想を目指し、行動するのをやめてはいけないと感じています」

「その結果、大きな破滅になるとしてもか? お前の大切な祥子の居場所が無くなることになるかもしれん」

「私は……いえ、僕はその破滅を背負って、生きましょう。生き残れば居場所となり、破滅すれば枷は外れる。どうなっても祥子さんに利益があります」

「お前は地獄へ行くぞ」

「妹のためなら、本望」

 

 人と社会、その間にある断絶を少しずつ翻訳し、より良い構造へ更新し続ける

 完成を目指す思想ではない。

 継続を目指す思想である。

 

「欺瞞だ」

「覚悟です」

 

 定治はゆっくりと息を吐いた。

 

「現実を知らない理想家ではなく、現実を知った上で、それでも理想を捨てない……か。あの愚かな男とよく似ている。跳ねっ返りにもな」

 

 真我は穏やかに微笑む。

 

「全ては虚しく、人はこれからも間違え続けます。社会も完全にはなりません。ですが、だけど、それでも」

 

 その一言には迷いがなかった。

 

「それは最善を尽くさない理由にはなりません」

 

 夕陽が障子を朱く染める。

 その光は、どちらの思想にも肩入れしない。

 ただ静かに、二人を照らしていた。

 

 一人は恐怖に屈し諦めた支配者。

 一人は愛する者を見守る挑戦者。

 互いに人間を見ている。

 一人は、法を定め、組織を治めて、世界を維持するために。

 一人は、誰もが自らの内にある真我に気づいて、過度な不安や孤独から解放される社会に更新するために。

 

 ゆえに、この対話に勝者はいない。

 思想とは、論破するためのものではない。

 世界をどのように見つめ、どのような未来を選び続けるかという、生き方そのものなのだから。

 




真我:観照者または見守る者を意味する
定治:確定または決定を意味する
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