金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
———富・名声・力。
この世のすべてを手に入れた真我は、採算度外視で単独スポンサー、筆頭株主、単独でクラウドファンディング達成、インディーズへの支援などを始めた。
「僕の資本力? 欲しければ与える。頑張れ、皆さんの未来に、見返りのない支援を約束しよう」
一才の口出しをしない真我からの支援を受けた人々は、それぞれの理念やコンセプトを突き詰めつつ、優良会社を両立させた夢を追い続けるようになった。
世はまさに、極楽浄土。
正しき道を往く者に、それに見合いし光あれ。
というリアル放置ゲー、リアルクリッカーみたいのを始めた真我だったが、それは現実に疲れた結果だった。
豊川グループの一員として『リアル・育成・経営シュミレーション』をやり続けた結果、人間をコストとしか考えられなくなる現象に陥ったので、『夢のために頑張る人達を全力で支援して、その成長を見守る』ことで、人間性のバランスを保っていた。
「視座が高くなった結果がこれか」
支配者の論理。
前提として人間は、不完全である。それは欠陥ではない。人間という種が背負い続ける宿命であり、可能性でもある。
誤るから学ぶ。
迷うから考える。
傷付くから他者を知る。ゆえに成熟とは、完全無欠へ至ることではない。矛盾を抱えたまま歩き続ける精神の在り方に他ならない。
そして、豊川真我はその問いを生涯追い続ける。
人を感覚ではなく構造として理解しようとする者。
感情を言葉へ変えて、理論を行動へ移り、経験を仕組みに整備する。
彼の生き方そのものが、「翻訳」という思想を証明していた。だが、その思想は抽象的な理想から生まれたものではない。
家出した妹、豊川祥子が、いつか戻ってこられる居場所を残したい。
その極めて個人的な願いが、彼を現実へ縛りつけていた。
◇
豊川グループ本社。
高層階の会議室には、冷えた空調と、数字だけが並ぶ資料の匂いが満ちていた。
真我は、長机の端に置かれた報告書へ視線を落としていた。
そこに記されているのは、利益率の改善案、部門統廃合、採算の取れない事業の整理、そして人員削減の対象となる部署の一覧だった。
どれも合理的で、どれも正しかった。少なくとも、紙の上では。
「この案で進めれば、来期の損失は抑えられます」
役員の一人がそう言う。
真我は頷く。否定はしない。数字は嘘をつかない。少なくとも、嘘をつくのは数字ではなく、それを扱う人間だ。だが、真我の胸の奥には、言葉にならない疲労が沈殿していた。
採算の合わない地方拠点を閉じる。
長年勤めてきた社員を配置転換する。
再教育の名目で、実質的には切り捨てる。
弱い者から順に、静かに、しかし確実に擦り潰していく。
それが企業の論理だと、彼は理解していた。
(気分が悪い)
会議が終わり、役員たちが退出していく。残された真我は、椅子に深く背を預けた。
窓の外には、都市の光が広がっている。
無数の灯り。
無数の生活。
その一つ一つに、名前があり、事情があり、守るべき日常がある。だが、経営という言葉は、その一つ一つを等しく扱ってはくれない。
全体を守るために、部分を切る。
未来を守るために、現在を削る。
その判断を下すたび、真我は自分の中の何かが少しずつ摩耗していくのを感じていた。
弱者を擦り潰すことに疲れていた。甘えや同情もあるが、理論上は正しく回っている。むしろ、誰よりも構造を理解しているからこそ生じる疲労だった。
(これは、なんとも)
救えない者がいる。
救うためには、救えない者を生むしかない。
その循環を何度も見てきた。そして、そのたびに思うのだ。
このやり方しかないのか、と。
その問いは、経営者としては無意味だった。だが、人間としては無視できなかった。そして、その疲労の底には、もっと個人的な痛みがあった。
家出した妹、豊川祥子。
彼女がいつか戻ってきたとき、帰る場所だけは失いたくない。
会社を守ることは、単なる利益の維持ではない。豊川という家を、まだ帰れる形で残しておくことでもあった。だからこそ真我は、現実から目を逸らせなかった。
◇
その夜、真我は豊川家本邸を訪れた。
豊川家本邸。
そこはいつもの豪邸ではない。
歴史そのものが建築という形を取った空間だった。磨き抜かれた廊下には、一族が積み重ねてきた年月が沈殿している。庭園へ視線を向ければ、一本の松でさえ何十年という時間を語っていた。
金では決して買えないものがある。
それは信用であり、伝統であり、積み重ねた歴史である。そして、それらを守る者には必ず決断が求められる。
和室には、一人の老人が座っていた。
豊川定治。
豊川グループ現トップの祖父。婿養子ながら幾度となく時代の転換点を見届け、数え切れない決断を積み重ねてきた男である。
彼の瞳には冷酷さはなかった。あるのは、現実を見続けた者だけが持つ静かな諦観だった。
「座りなさい」
真我は一礼し、静かに腰を下ろす。
二人の間に置かれた湯飲みから、細く湯気が立ち上る。しばらく沈黙が続いた。しかし、その静寂は息苦しいものではない。互いが言葉を急がないからこそ生まれる、思考の余白だった。
やがて定治は、真我の顔を見て言った。
「疲れているな」
真我は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに答える。
「……ええ、はい。少し、疲れました」
「何にだ」
真我はすぐには答えなかった。だが、祖父の前では取り繕う意味がないことを知っている。
「弱い人たちを、切り捨てることです」
その言葉は、感情を抑えたまま吐き出された。
「合理化、再編、統廃合、採算の見直し言葉は綺麗ですが、結局は同じです。生き残れる者だけを残して、残れない者を静かに押し潰す」
定治は何も言わない。
真我は続ける。
「もちろん、全員を救うことはできません。無能を切除するのは大切です。それは理解しています。ですが、理解しているからこそ、余計に苦しい。救えないと分かっていても、目の前で誰かが擦り潰される……いや、僕が潰すのは慣れません」
その声には、怒りよりも疲労があった。
憤りよりも、摩耗があった。
「僕……いや、私は、正しいことをしているはずです。会社を守るために。社員全体を守るために。豊川グループという器を壊さないために……それでも、どうしても思ってしまう」
真我は湯飲みを見つめたまま言う。
「このやり方しかないのか、と」
定治はしばらく黙っていた。やがて、低く穏やかな声で言う。
「優しすぎるな。祥子は瑞穂に似たが、お前は清告の方に似ている。聡く、誠実で、柔軟だ。率直に言うなら優秀だ」
真我は顔を上げる。
「優しさは、経営者には不要ですか」
「不要ではない」
定治は首を振る。
「だが、優しさだけでは人は守れない。守るとは、綺麗なことではない。時には、守るために切る。時には、救うために見捨てる。その矛盾を引き受ける覚悟がなければ、上に立つ資格はない」
真我は黙って聞いている。
定治は続けた。
「お前が疲れているのは、弱者を切ることに慣れていないからではない。切ることの意味を、理解しすぎているからだ。誰かを切るたび、その人間の人生があることを知ってしまう。だから苦しいのだろう。だが、それは悪いことではない」
老人は湯飲みを手に取り、一口だけ茶を飲んだ。
「苦しむ者は、まだ人間だ。本当に危険なのは、切ることに何も感じなくなることだ」
真我は静かに息を吐く。
「では、私はこのまま苦しみ続けるべき、と?」
「違うな」
定治は即答した。
「苦しみを消すな。だが、苦しみに支配されるな。お前がやるべきなのは、弱者を切ることに慣れることではない。切らずに済む構造を、少しでも増やすことだ」
真我の瞳がわずかに揺れる。
「……増やせるでしょうか」
「一度に全部は無理だ。だが、無理だからといって諦めるのか?」
定治は真っ直ぐに真我を見る。
「お前は、現実を知り、理想を掲げ、狭間で生きている。だからこそ、理想を語る資格がある」
豊川グループは魔窟だ。その中で生きてきた老人は弱々しく、あらゆるものに諦め、停滞を選び腐った定治は、若い真我へ語る。
「現実を知らない理想は空虚だ。だが、理想を失った現実はただの消耗だ。お前が疲れているのは、まだ理想を捨てていない証拠だ」
その言葉は、慰めではなかった。
助言だった。
支配者としての助言であり、同時に祖父としての助言でもあった。
「覚えておきなさい。弱者を守るとは、弱者だけを見ることではない。全体を見て、その中で弱者が擦り潰される速度を少しでも遅くすることだ」
完全な救済はできない。だが、完全な切り捨てもまた、選ぶ必要はない。
「人間は不完全だ。だからこそ、制度を作る。制度も不完全だ。だからこそ、定めて、治める。それが理想だ」
儂にはできなかったことだ、と続いた。
真我はしばらく目を閉じた。胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ形を変える。消えたわけではない。だが、言葉によって輪郭を与えられた。
それだけで、人は少しだけ前へ進める。
「……ありがとうございます。」
真我は深く頭を下げた。
定治は小さく頷く。
「礼を言う必要はない。身の程を弁えろ。だが、最善を尽くせ。希望に進むな、絶望へ堕ちるな。自分を見失わず、真実の今を積み重ねれば必ず報われる」
少し時間があって、やがて定治は口を開く。
「お前は一人一人の人生を大切にしたいと思っているな?」
「はい」
短い返答。
その迷いのない声に、老人は穏やかに頷いた。
「良いことだ」
しかし、その言葉は肯定では終わらない。
「だが、一人一人に思いを巡らせていたら、組織というものは回らない」
真我は何も言わない。
ただ、老人の言葉を受け止める。
「全体を優先する以上、どれほど嫌でも少数の命や想いを燃料へ変える局面は訪れる。これは善悪ではない。構造なのだ」
断定だった。
理想でもなければ願望でもない。
長い歴史の果てに積み重ねられた現実の結論。
「国の指導者も、大企業の社長も、大集団を率いる者も、本質的には同じだ。誰かを救うために、誰かを切り捨てる。そして当然、その犠牲になった者は怒る。自分の人生を踏みにじられたと思うからな」
老人はそこで一度笑う。
それは嘲笑ではない。人間という存在を知り尽くした者の苦笑だった。
「しかし、本当に難しいのはそこからだ。支配者に必要なのは、犠牲を出さないことではない。犠牲を出しながら、それでも秩序を維持することだ」
空気が僅かに重くなる。
「絶望した人間は過激になる。失うものがない者ほど危険な存在はない。だから彼らに『社会は最後まで自分を裏切らなかった』と思って人生を終えてもらう必要がある。残酷だと思うかもしれない。しかし、社会全体を守るという視点では、それもまた一つの責任なのだ」
その思想は冷たい。だが、冷酷とは少し違う。冷酷とは他者を傷付けることを楽しむ精神である。
対して定治は、傷付けることを望まない。
それでもなお、傷付けなければ社会は維持できないという現実を受け入れている。
それこそが、支配者という思想だった。
沈黙が落ちる。
真我は俯かない。
怒鳴らない。
反射的に否定もしない。
まず理解する。
それが彼の流儀だった。
「……理解はできます」
静かな声だった。
「ほう」
「規模が大きくなれば、一人一人へ最適解を返すことは不可能になる」
有限な資源。
全体最適。
部分最適。
「その構造自体は理解できます」
そこで真我は一度言葉を切る。
「ですが」
老人の視線が細くなる。
「私は一つだけ、お聞きしたいことがあります」
「何だ」
「今お話しされた内容は、支配者が目指すべき理想でしょうか。それとも、現時点で確認されている最適解でしょうか?」
和室が静まり返る。
老人は数秒、真我を見つめ続けた。
やがて、小さく笑う。
「なるほど、そう辿り着くか」
その問いは、思想の否定ではない。
構造そのものへの問いだった。
「答えよう。後者だ。現時点で確認されている最適解に過ぎない。弱者を効率よく燃料に変え、組織を延命させる。それは現時点の最適解だ」
真我は静かに頷く。その瞬間、彼の中で一つの結論が組み上がる。
「でしたら」
穏やかな声だった。しかし、その芯は揺るがない。
「私は、その構造を改善したいと思います」
老人は黙って聞いている。
「人間は不完全です。だから失敗します。制度も、人間が作る以上、不完全です。定めて治めるのは確かに維持することはできます。しかし、その先はない」
老人が目を細める。
「人は変わります。制度も改善できます。切り捨てることを前提とする社会ではなく、切り捨てる人数を減らし続け、全てを救う社会を設計することを理想とし、進むべきです」
それがきっと家出した妹の豊川祥子が戻ってきたとき、帰る場所を残すための戦いに繋がる。
真我の言葉は理想論だった。しかし、それは現実を知らない者の理想ではない。
現実を理解した上で、それでも更新を諦めない思想だった。
「失敗を前提にすることと、失敗を放置することは違います。もちろん、犠牲が避けられない局面はあるでしょう」
その犠牲は本当に避けられなかったのか?
もっと前に救えなかったのか?
制度は機能していたのか?
対話は存在したのか?
犠牲を産む理由が『ルールだから、という思考停止』と、『ちゃんと考えて、悩み、選んだ結果』では意味が違う。
「私はそこを問い続けたい」
それこそが真我の思想だった。
人を変えるわけでもなく、社会を否定するのでもない。
「お前はそれがどんな世界か分かって発言しているのか?」
「はい。みんなが不幸になる世界です。大きな不幸を、みんなで分散して、一人一人が潰れないように助け合う世界です」
「それを成し遂げられると?」
「いいえ。けれど、その理想を目指し、行動するのをやめてはいけないと感じています」
「その結果、大きな破滅になるとしてもか? お前の大切な祥子の居場所が無くなることになるかもしれん」
「私は……いえ、僕はその破滅を背負って、生きましょう。生き残れば居場所となり、破滅すれば枷は外れる。どうなっても祥子さんに利益があります」
「お前は地獄へ行くぞ」
「妹のためなら、本望」
人と社会、その間にある断絶を少しずつ翻訳し、より良い構造へ更新し続ける
完成を目指す思想ではない。
継続を目指す思想である。
「欺瞞だ」
「覚悟です」
定治はゆっくりと息を吐いた。
「現実を知らない理想家ではなく、現実を知った上で、それでも理想を捨てない……か。あの愚かな男とよく似ている。跳ねっ返りにもな」
真我は穏やかに微笑む。
「全ては虚しく、人はこれからも間違え続けます。社会も完全にはなりません。ですが、だけど、それでも」
その一言には迷いがなかった。
「それは最善を尽くさない理由にはなりません」
夕陽が障子を朱く染める。
その光は、どちらの思想にも肩入れしない。
ただ静かに、二人を照らしていた。
一人は恐怖に屈し諦めた支配者。
一人は愛する者を見守る挑戦者。
互いに人間を見ている。
一人は、法を定め、組織を治めて、世界を維持するために。
一人は、誰もが自らの内にある真我に気づいて、過度な不安や孤独から解放される社会に更新するために。
ゆえに、この対話に勝者はいない。
思想とは、論破するためのものではない。
世界をどのように見つめ、どのような未来を選び続けるかという、生き方そのものなのだから。
真我:観照者または見守る者を意味する
定治:確定または決定を意味する