ゆりさんは僕たちの様子を見て、満足そうに笑った。
「ふふっ、十分楽しませてもらったし。私は席を外そうかな」
「お、お姉ちゃん?」
「部屋で仕事してるから、あとは二人でごゆっくり〜」
「え?」
僕が思わず聞き返すと、ゆりさんは悪戯っぽく人差し指を立てた。
「恋人同士なんだから、二人きりの時間も大事でしょ?」
「お、お姉ちゃんっ! 恥ずかしいよ」
りみちゃんの顔が一瞬で真っ赤になる。
「はいはい、分かってる分かってる」
くすっと笑うと、ゆりさんは僕へ向き直った。
「彼氏くん」
「はい」
「りみはすごく照れ屋だけど、無理はしない子だから」
「……はい」
「だから、これからも今みたいに自然に笑わせてあげてね」
その言葉には、姉として妹を想う優しさが込められていた。
僕はまっすぐ頷く。
「もちろんです」
「うん、それなら安心。これからもよろしくしてあげてね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ゆりさんは満足そうに微笑むと、キッチンを出る前に振り返った。
「あと、焼き上がったら一個ちょうだいね?」
「あ、はい! もちろんです」
「もう、お姉ちゃん!」
「冗談冗談。じゃ、ごゆっくり〜」
ひらひらと手を振りながら、二階へ上がっていく。
階段を上る足音が少しずつ遠ざかり、やがて静かに部屋の扉が閉まる音が聞こえた。
その瞬間、家の中は驚くほど静かになる。
さっきまで笑い声で満たされていたキッチンには、時計の秒針が時を刻む音だけが響いていた。
「…………」
「…………」
二人きり。
改めてそう意識すると、不思議なくらい緊張してしまう。
隣を見ると、りみちゃんも同じだった。
エプロンの裾を指先でぎゅっと握り、小さく俯いている。
さっきまでゆりさんにからかわれていたからだろうか。
頬はまだほんのり赤い。
「ご、ごめんね……」
「え?」
「お姉ちゃん、いつもあんな感じだから……」
申し訳なさそうに眉を下げるりみちゃん。
そんな表情をさせたくなくて、僕はゆっくり首を横に振った。
「僕は楽しかったよ」
「ほんと?」
「うん。仲のいい姉妹なんだなって思うよ。見ていてすごく温かい気持ちになった」
その言葉を聞くと、りみちゃんはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう……」
優しく微笑むその笑顔は、さっきまでの照れた表情とはまた違って穏やかだった。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
「それじゃあ、続きを作ろうか」
「うん!」
二人は気持ちを切り替えるようにボウルの前へ並ぶ。
発酵を終えた生地は、最初に見た時よりもふっくらと膨らみ、柔らかな香りを漂わせていた。
「わぁ……」
りみちゃんが目を輝かせる。
「すごく膨らんでる」
「発酵、大成功だね」
「うん!」
そっと指先で生地を押してみる。
柔らかく沈み込み、ゆっくり元へ戻る様子を見て、りみちゃんは嬉しそうに笑った。
「なんだか生きてるみたい」
「パンって不思議だよね」
「うん。だから好きなんだ」
その笑顔は本当に楽しそうで、料理が好き……。というよりは、チョココロネが好きなんだという気持ちが自然と伝わってくる。
「じゃあ、ガス抜きしていこう」
「うん」
二人並んで、生地を優しく押して空気を抜いていく。
力を入れすぎないよう慎重に。
ふわふわの感触が手のひらに伝わってくる。
「彼氏くん、こうかな?」
「うん、そのくらいで大丈夫」
「よかったぁ」
安心したように笑うりみちゃん。
その笑顔につられて、僕も笑みを浮かべる。
同じタイミングで次の生地へ手を伸ばした、その時だった。
「あっ」
「あ……」
指先が少しだけ触れる。
二人とも反射的に手を引っ込めた。
「ご、ごめん!」
「ううん!」
顔を見合わせる。
そして。
「えへへ」
「あはは」
どちらからともなく笑い声が漏れた。
「今日、なんだかいっぱい照れちゃうね」
僕がそう言うと、りみちゃんは照れ笑いを浮かべる。
「だって……」
「?」
「彼氏くんがお家に来てくれてるから」
その一言だけで十分だった。
今日この日を、彼女も楽しみにしてくれていたのだと分かる。
「僕もだよ」
「え?」
「りみちゃんとこうして料理するの、ずっと楽しみにしてた」
「……ほんと?」
「うん」
そう答えると、りみちゃんは少しだけ照れながらも嬉しそうに微笑んだ。
「私もだよ」
その短い言葉だけで、十分気持ちは伝わった。
生地を切り分け、一つずつ細長く伸ばしていく。
「ここからコロネの形にしていくんだよね」
「うん」
「彼氏くんは先生だね」
「そんな大げさな」
「だって、お菓子作りも料理も私より上手なんだもん」
「そ、そうかな?」
りみちゃんは楽しそうに笑った。
細長く伸ばした生地を金属の型へ巻き付けていく。
「こうやって少しずつ重ねるように」
「こう?」
「うん、いい感じ」
真剣な表情で巻いていくりみちゃん。
けれど途中で少しだけずれてしまう。
「あっ……」
「大丈夫?」
「うん。でも、ちょっと曲がっちゃった……」
少し残念そうに完成したコロネを見つめる。
僕は隣に並べて見比べた。
「僕はこっちの方が好きだけどな」
「え?」
「手作りって感じがして、りみちゃんらしい」
「も、もう……。彼氏くん」
照れたように笑いながら肩を軽く叩かれる。
「すぐ褒めるんだから」
「本当のことだよ」
「そういうところだよ……」
また顔を真っ赤にする。
その反応が可愛くて、僕まで照れてしまう。
型に巻き終えたコロネを天板へ並べる。
少しずつ完成が近づいてきた。
「えへへ」
「どうしたの?」
りみちゃんは並んだコロネを眺めながら、小さく笑う。
「こうして並んで料理するの、なんだか新婚さんみたいだなって思っちゃって……」
「えっ……」
言った本人も気付いたらしく、慌てて両手で口を押さえた。
「あっ……!」
耳まで真っ赤になっていく。
「私……ご、ごめん! 今の忘れて!」
慌てる姿があまりにも可愛くて、思わず笑みがこぼれる。
「ううん、忘れないよ」
「え?」
「いつか本当に、こんなふうに毎日一緒に料理できたら幸せだろうなって、僕も思ったから。それって、夫婦みたいだよね」
りみちゃんは大きく目を見開いた。
その瞳がゆっくり潤んでいく。
「……うん」
小さく頷き、照れながらも嬉しそうに笑う。
「朝、一緒にご飯を作って……」
「休日は今日みたいにパンを焼いて」
「買い物も一緒に行って」
「帰ってきたら、一緒に『いただきます』って言う」
二人で未来を少しだけ想像する。
まだ先の話。
でも、不思議とその光景が自然に思い浮かんだ。
「私も……そんな毎日が来たら、すごく幸せだよ」
りみちゃんは少し照れながら、それでも真っ直ぐ僕を見つめてそう言った。
「僕も」
自然と笑い合う。
そんな毎日が来る。ううん、そんな毎日にさせてみせる。
オーブンの予熱完了を知らせる電子音が静かなキッチンに響いた。
「あっ、焼けるよ」
「うん!」
二人で顔を見合わせ、同時に笑う。
今日一番の笑顔だった。
甘い香りに包まれるまで、あと少し。
二人で作る初めてのチョココロネは、きっと世界で一番おいしいパンになる。そんな予感がしていた。