影山茂夫、呪術高専に入学する   作:stein0630

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第8話「怒っていると言うこと」

 

 影山茂夫は、五条悟を探していた。

 

 朝の座学が終わってから十分。

 

 職員室にはいない。

 

 訓練場にもいない。

 

 医務室では、家入硝子が机に突っ伏して眠っていた。モブが静かに扉を閉めようとすると、顔を上げないまま「五条なら屋上」と言われた。

 

「起きていたんですか」

 

「寝てる」

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 屋上へ続く階段を上る。

 

 扉を開けると、五条は給水塔の上に座っていた。

 

 片手に菓子パン、もう片方に携帯電話を持っている。携帯電話の画面には、地方の有名菓子店らしきページが表示されていた。

 

「五条先生」

 

「お、影山君。先生を探して学校中を歩き回ってた?」

 

「はい」

 

「人気者はつらいね」

 

「職員室にいてください」

 

「いきなり正論」

 

 五条は給水塔から飛び降りた。

 

「何か相談?」

 

「昨日の任務についてです」

 

「報告書なら読んだよ。初めてとは思えないくらい丁寧だった」

 

「霊体については、まだ分からないと書きました」

 

「うん。正しい書き方だと思う」

 

「それとは別です」

 

 モブは一度、息を吸った。

 

 昨夜、霊幻から言われた。

 

 怒っているなら、怒っていると自分の言葉で伝えろ。

 

 だが、言葉にすると、相手を責めることになる気がした。

 

 五条にも別の任務があった。

 

 現場へ戻らなかった理由もある。

 

 自分たちが無事だったのは、五条が判断を誤ったからではなく、予想できない条件が重なった結果かもしれない。

 

 そう考えるほど、何を怒っているのか分からなくなる。

 

「僕は」

 

 五条は急かさなかった。

 

 菓子パンを袋へ戻し、待っている。

 

「昨日のことで、五条先生に怒っています」

 

「うん」

 

 予想していなかった返事だった。

 

「怒らないんですか」

 

「影山君が僕に怒ってることに?」

 

「はい」

 

「怒る理由がないよ」

 

 五条の口調は軽い。

 

 だが、笑ってはいなかった。

 

「何に怒ってるか聞いてもいい?」

 

「事前に聞いていた情報と、実際の状況が違いました」

 

「うん」

 

「一般人はいないと言われました。でも三人いました。呪霊も三級ではありませんでした。伊地知さんが怪我をしました」

 

「うん」

 

「五条先生は、十五分で戻れると言いました」

 

「戻ったよ」

 

「全部終わった後でした」

 

 五条が少し黙った。

 

「だから」

 

 モブは言葉を探す。

 

「戻った時間が十五分以内だったかではなく、必要なときにいなかったことに怒っています」

 

「なるほど」

 

「別の任務があったのは分かっています」

 

「分かってるから、怒っちゃいけないと思った?」

 

「少し」

 

「それは別の話だよ」

 

「別ですか」

 

「僕に事情があったことと、君が怒っていいかどうかは関係ない」

 

 五条は屋上の柵へ背を預けた。

 

「昨日の現場については、もう調査を始めてる。割れた窓は、管理会社が二週間前から把握してた。でも解体予定だから修理費を出したくなくて、そのままにしてた」

 

「不法侵入した人がいたことも?」

 

「知らなかった。ただ、侵入できる状態を放置した責任はある」

 

「呪霊の等級が違った理由は」

 

「調査した補助監督が建物の外から測ったとき、呪霊は女児の霊を核の近くへ隠してた」

 

「女の子を?」

 

「正確には、君が見た霊体の周囲にある感情を利用して、自分の呪力を薄く見せていた可能性が高い」

 

 モブの胸の中に、再び嫌悪が湧く。

 

 死んだ少女の恐怖を使い、人間を誘い、さらに自分の力まで隠していた。

 

「そのことは、報告書に書かれますか」

 

「書く。管理会社の責任も、等級判定が外れた原因も、僕が現場を離れた判断も」

 

「五条先生の判断も?」

 

「隠したら、次も同じことが起きるからね」

 

「怒られますか」

 

「偉い人には」

 

「嫌ですか」

 

「嫌いな人に怒られても、あんまり響かない」

 

「それでは意味がないと思います」

 

「影山君、今日は厳しいね」

 

「すみません」

 

「謝らなくていい」

 

 五条は携帯電話をポケットへ入れた。

 

「昨日、別件の方には準一級相当の呪霊が二体いた。僕が離れなければ、そっちで人が死んだ可能性がある」

 

「はい」

 

「同じ状況なら、また離れるかもしれない」

 

 モブは五条を見る。

 

「でも次は、君たちを残す前に、現場の情報が外れている可能性を今より重く見る。伊地知一人に判断を集中させない方法も考える」

 

「誰かを増やす?」

 

「増やすか、最初から担当を変える」

 

「それなら」

 

 モブは少し迷ってから言った。

 

「怒っていることを言ってよかったです」

 

「どうして?」

 

「五条先生が、次にどうするか分かったから」

 

「言わなかったら?」

 

「僕の中だけで、信用できない人になっていたかもしれません」

 

 五条の口元が、わずかに動いた。

 

「霊幻さんに言われた?」

 

「怒っているなら言え、と言われました」

 

「やっぱり」

 

「でも、何を言うかは自分で考えました」

 

「そこは強調するんだ」

 

「大事なので」

 

 五条は一度、空を見上げた。

 

「先生も一つ言っていい?」

 

「はい」

 

「影山君が僕に怒ってくれて、少し安心した」

 

「どうして?」

 

「全部、自分のせいにしてないってことだから」

 

 モブは返事をしなかった。

 

 高専の結界が破れたとき。

 

 初任務で伊地知が負傷したとき。

 

 自分の力が原因ではないかと、最初に考えた。

 

 その癖は、まだ残っている。

 

「でも」

 

 五条は続けた。

 

「怒りを正しく伝えれば、必ず相手が変わるわけじゃない。聞かない人間もいる。逆に怒る人間もいる」

 

「はい」

 

「だから、言葉で伝えるか、距離を取るか、それとも力で止めるか。そこは選ばないといけない」

 

「力で止める」

 

「呪術師には、話し合えない相手もいるからね」

 

「人間でも?」

 

「人間だから話し合える、とは限らない」

 

 屋上の扉が開いた。

 

 きっちりと七対三に分けられた金髪。

 

 薄い色のスーツ。

 

 青いシャツと、柄の入ったネクタイ。

 

 背の高い男が、腕時計を確認しながら屋上へ出てきた。

 

「五条さん」

 

 声には、すでに疲労が含まれていた。

 

「指定された教室に誰もいませんでしたが」

 

「ごめんごめん。ちょうど大事な教育中で」

 

「勤務予定にない校内捜索までさせられた私の時間は、大事ではないと?」

 

「七海は細かいなあ」

 

「時間を守らない人間が大雑把すぎるのです」

 

 男は五条を無視し、モブへ視線を向けた。

 

「影山茂夫君ですね」

 

「はい」

 

「七海建人です。一級呪術師をしています」

 

「影山茂夫です。よろしくお願いします」

 

 モブが頭を下げると、七海も小さく会釈した。

 

「礼儀については、五条さんより信頼できそうです」

 

「会って一分で担任を下げるのやめない?」

 

「下げてはいません。元から低い位置にあります」

 

 五条は胸を押さえた。

 

 モブには、傷ついているふりだと分かった。

 

「七海先生も、高専の先生ですか」

 

「違います」

 

 七海の返事は早かった。

 

「一度、呪術師を辞めて一般企業で働き、現在は呪術師へ戻っています。教師ではありません」

 

「今日は何をしに?」

 

「あなたの実地能力を確認するよう依頼されました」

 

 モブの肩がわずかに固くなる。

 

「実験ですか」

 

「任務です」

 

 七海は訂正する。

 

「その過程で、あなたの能力と判断を観察します。目的を伏せて現場へ連れ出すことはしません」

 

 五条が横から口を挟む。

 

「霊幻さんの条件書を読んだんだよ」

 

「当然でしょう」

 

「全部?」

 

「業務に関係する部分は」

 

「どう思った?」

 

「未成年を危険な仕事へ就かせる組織として、要求されて当然の内容です」

 

 モブは七海を見る。

 

「危険な仕事だと思っているんですか」

 

「思っています」

 

「それでも続けているのは、なぜですか」

 

 七海はすぐには答えなかった。

 

「後ほど話します」

 

「今ではなく?」

 

「現在、予定より七分遅れています」

 

 腕時計を見る。

 

「移動中に説明しましょう」

 

     ◇

 

 今回の任務に参加するのは、七海、虎杖悠仁、モブの三人だった。

 

 釘崎は真希との訓練。

 

 伏黒は別の補助監督と、式神の調整を兼ねた任務へ出ている。

 

 車を出す前に、モブは霊幻へ電話をかけた。

 

『二日連続で任務だと?』

 

「今日は七海さんが同行します」

 

『誰だ』

 

「一級呪術師です」

 

『五条は』

 

「来ません」

 

『それは安全なのか危険なのか分からんな』

 

 モブは助手席にいる七海を見る。

 

「師匠が、七海さんと話したいそうです」

 

「私と?」

 

「はい」

 

「業務上必要な確認なら」

 

 モブは電話を渡した。

 

「七海建人です」

 

『霊とか相談所所長、霊幻新隆です。今回の現場は?』

 

「閉鎖された貸しオフィスです。夜間警備員が内部で襲われ、現在入院中。一般人の退去は、私自身が確認します」

 

『敵の等級』

 

「現時点では二級以下。残穢の量と被害状況から判断しています。ただし、呪霊が複数いる可能性、術式によって出力を隠している可能性は否定できません」

 

『撤退基準は』

 

「私が二人の安全を確保できないと判断した時点です」

 

『本人たちが残ると言ったら』

 

「聞きません」

 

 電話の向こうが一瞬静かになる。

 

『まともだな』

 

「比較対象が五条さんであれば、光栄とは思えません」

 

 後部座席の虎杖が小さく笑った。

 

『モブは、必要以上に人間を傷つけるのを嫌がる』

 

「承知しています」

 

『だからって、本人の代わりに全部決めるな。必要なら選択肢を説明して、選ばせろ』

 

「命に直結する場面では、私が決めます」

 

『終わった後は?』

 

「本人が自分の判断を検討できるよう、説明します」

 

 霊幻は少し黙った。

 

『……五条より話が通じる』

 

「何度も比較しないでいただきたい」

 

『帰宅予定は』

 

「十八時前。ただし、現場状況により遅れる場合は連絡します」

 

『残業は?』

 

「嫌いです」

 

『信用できるな』

 

 七海が電話をモブへ返した。

 

「あなたの師匠は、随分と細かい」

 

「すみません」

 

「謝る必要はありません。確認すべき内容でした」

 

 車が走り出す。

 

 虎杖が身を乗り出した。

 

「七海、霊幻さんと気が合いそうじゃない?」

 

「どこを聞いてそう思ったのですか」

 

「働く時間を気にするところ」

 

「彼は経営者で、私は労働者です。立場が違います」

 

「師匠も働いています」

 

 モブが言う。

 

「人を働かせてもいます」

 

「モブがな」

 

 虎杖が付け加えた。

 

「時給は」

 

 七海が尋ねる。

 

「今は千円です」

 

「今は?」

 

「前は三百円でした」

 

 七海の表情が止まった。

 

「影山君」

 

「はい」

 

「今後、労働条件に関する相談は、保護者か労働基準監督署へしてください」

 

「師匠も同じことを言っていました」

 

「本人が?」

 

「今は改善したので、過去のことを蒸し返すなと」

 

「反省している人間の言葉ではありませんね」

 

     ◇

 

 現場は、十二階建ての雑居ビルだった。

 

 問題の貸しオフィスは八階。

 

 かつて電話営業を行う会社が入っていたが、半年前に撤退している。現在は次の借り手を探すため、机や仕切り板だけが残されていた。

 

「警備員は、巡回中に何かに背後から襲われました」

 

 七海がエレベーター内で説明する。

 

「頭部と背中に打撲。命に別状はありません。証言では、人間の声で名前を呼ばれた後、意識を失った」

 

「警備員の知り合いの声?」

 

 虎杖が尋ねる。

 

「本人は、十年前に亡くなった妻の声だと話しています」

 

 モブは昨日の少女を思い出した。

 

「死んだ人の霊ですか」

 

「断定できません。声を模倣する呪霊は珍しくない」

 

 八階で扉が開く。

 

 照明は消えていた。

 

 非常灯だけが、長い廊下を緑色に照らしている。

 

 七海が先頭。

 

 その後ろに虎杖。

 

 モブが最後を歩く。

 

「私の指示なく、単独で廊下の角を曲がらないこと」

 

「はい」

 

「何かを感知した場合は、自分で確認しに行かず、まず口頭で伝えること」

 

「はい」

 

「虎杖君」

 

「分かってるよ」

 

「あなたは返事をした三秒後に忘れることがあるので、念のためです」

 

「三秒は早すぎない?」

 

「実績に基づく評価です」

 

 廊下の奥に、ガラス扉がある。

 

 鍵は開いていた。

 

 扉の向こうには、同じ形の机と椅子が何十組も並んでいる。

 

 机同士を区切る灰色の仕切り板。

 

 天井から垂れ下がる電話線。

 

 空調は止まっているのに、受話器の一つが揺れていた。

 

 七海が室内へ入る。

 

 モブも続こうとして、足を止めた。

 

「七海さん」

 

「何ですか」

 

「人がいます」

 

 虎杖が周囲を見回す。

 

「どこ?」

 

「奥です」

 

 机の列の向こう。

 

 窓際の小さな会議室。

 

 壁を隔てた先に、人間の気配がある。

 

 ただし、形がおかしい。

 

 一人分の身体が、狭い箱へ無理に押し込まれているような感覚。

 

「生きていますか」

 

 七海が尋ねる。

 

「分かりません」

 

「呪力は?」

 

「少しあります。でも、呪霊とは違う」

 

 七海は携帯電話を取り出し、建物の管理者へ連絡する。

 

 残っている人間はいないはずだった。

 

 清掃員の入室記録もない。

 

「確認します」

 

 七海は鈍い色の刃を、布で巻いた呪具を手に取った。

 

「私が先頭。虎杖君は右側。影山君は、我々の身体を支えられる範囲で後方に」

 

「攻撃は?」

 

「正体が分かるまで行わない」

 

 三人は机の間を進んだ。

 

 左右から、電話が鳴り始める。

 

 一台。

 

 二台。

 

 やがて室内にあるすべての電話が、同じ間隔で鳴った。

 

「出るなよ」

 

 虎杖が言う。

 

「出ません」

 

 モブのすぐ横で受話器が持ち上がった。

 

 誰も触れていない。

 

『もしもし』

 

 若い男の声。

 

『聞こえますか』

 

 モブは答えない。

 

『助けてください』

 

 会議室の中にいるものと、同じ気配がする。

 

 七海が手を上げ、二人を止めた。

 

「声に反応しないこと」

 

『身体が、変なんです』

 

 受話器の向こうで、湿った音がする。

 

『戻してください』

 

 虎杖の拳が握られる。

 

「人間なのか?」

 

「まだです」

 

 七海は会議室の扉へ近づいた。

 

 ガラスは、内側から黒い布で覆われている。

 

「開けます」

 

 扉を引く。

 

 中から、腕が飛び出した。

 

 人間の腕だった。

 

 ただし、長すぎる。

 

 途中に関節が三つあり、指は互いに癒着して一枚のひれのようになっている。

 

 七海は身体を傾けて避けた。

 

「下がりなさい!」

 

 会議室の扉が吹き飛ぶ。

 

 中から、人の形を崩したものが這い出てきた。

 

 頭部は縦に引き延ばされ、目と鼻の位置が入れ替わっている。胸の中央に口があり、そこから電話線が何本も伸びていた。

 

 下半身は折り畳まれ、背中へ埋め込まれている。

 

「呪霊……?」

 

 虎杖が構える。

 

「違います!」

 

 モブの声が、室内へ響いた。

 

 虎杖の拳が止まる。

 

「人です」

 

「これが?」

 

「人間です!」

 

 変形した男が、虎杖へ飛びかかる。

 

 モブは念動力で身体を止めた。

 

 空中に固定する。

 

 だが、抵抗の仕方がおかしかった。

 

 腕を押さえているのに、胸の口が動く。

 

 胴体を押さえると、頭部が別の方向へ伸びる。

 

 身体の形と、内側にある人間の輪郭が一致していない。

 

「う、あ」

 

 男の胸の口が動く。

 

「でん、わ……おわら、ない」

 

「話せますか」

 

 モブが近づこうとする。

 

「止まりなさい」

 

 七海が腕で制した。

 

「まだ攻撃意思があります」

 

「でも、人です」

 

「人間でも、あなたを殺すことはできます」

 

 男の背中から、新しい腕が生える。

 

 モブの念動力を滑り抜け、七海へ伸びる。

 

 虎杖が横からつかんだ。

 

「こいつ……力、強い!」

 

 床へ押さえつける。

 

 男の身体が、粘土のように変形する。

 

 虎杖の指の間から肉が盛り上がり、首へ巻きつこうとした。

 

「虎杖君、離れて!」

 

 モブが虎杖だけを後方へ引く。

 

 男を傷つけないよう、床と天井の間へ固定する。

 

 念動力の圧力を細かく分ける。

 

 頭。

 

 胴体。

 

 四本になった腕。

 

 折り畳まれた脚。

 

 だが、どこまでが本来の位置なのか分からない。

 

「七海さん」

 

「何ですか」

 

「この人を治せますか」

 

 七海は答えなかった。

 

「反転術式なら」

 

「私は使えません」

 

「家入さんなら?」

 

「分かりません」

 

「身体の形を戻せば」

 

「やめなさい」

 

 七海の声が強くなる。

 

 モブの手が止まった。

 

「あなたは治療の知識を持っていない。何を正常な位置へ戻すつもりですか」

 

「この人の中に、元の形があります」

 

 モブには感じられた。

 

 歪んだ肉体の奥。

 

 押し潰され、引き延ばされながら、それでも人間の輪郭が残っている。

 

 魂。

 

 そう呼ぶべきものかもしれない。

 

 少女の霊とも、エクボとも違う。

 

 肉体の中にあり、肉体と重なっている。

 

 だが、その輪郭自体が、誰かの手で捻られていた。

 

「形が分かるなら、戻せるのですか」

 

 七海が尋ねる。

 

「分かりません」

 

「なら、動かさないでください」

 

「でも」

 

 男の胸の口から、声が漏れる。

 

「たす、け」

 

 モブの胸が締めつけられる。

 

「助けてと言っています」

 

「聞こえています」

 

 七海の顔は変わらない。

 

 だが、呪具を握る指が強くなっていた。

 

「七海さんは、この人を殺すんですか」

 

 虎杖が七海を見る。

 

「現時点では決めていません」

 

「人間だぞ」

 

「分かっています」

 

「なら」

 

「人間であることと、救命できることは別です」

 

 七海は男を観察する。

 

「呼吸器官の位置が変えられている。循環器も複数に分断され、呪力によって無理に機能を維持されている可能性が高い」

 

「可能性」

 

 モブが繰り返す。

 

「分からないのに、諦めるんですか」

 

「分からないから、あなたに無責任な希望を持たせるつもりはありません」

 

 七海の声は冷静だった。

 

 冷たいわけではない。

 

 感情を出せば、判断が揺れることを知っている人間の声だった。

 

「まず家入さんへ連絡します。それまで拘束を維持できますか」

 

「できます」

 

「無理をしていませんか」

 

「まだ」

 

「曖昧ですね」

 

「少し、難しいです」

 

「それでいい。難しくなった時点で言いなさい」

 

 七海が携帯電話を取り出す。

 

 その瞬間、男の身体の奥で、異質な呪力が動いた。

 

「何かあります!」

 

 モブが叫ぶ。

 

 男の胸が膨らむ。

 

 電話線が一斉に震え、すべての受話器から笑い声が流れた。

 

 子供のような、明るい笑い声。

 

 七海が男へ向き直る。

 

「離れろ!」

 

 男の身体が内側から崩れ始める。

 

 骨が液体のように溶け、皮膚の下で臓器が移動する。

 

 モブは念動力を強めた。

 

「影山君、何をしている!」

 

「身体を保っています!」

 

「それは治療ではない!」

 

「このままだと死にます!」

 

「すでに致命的です!」

 

「まだ話しています!」

 

 男の口が動く。

 

「いや、だ」

 

 モブは力を細くする。

 

 心臓らしき器官を動かす。

 

 裂けた血管を押さえる。

 

 潰れかけた肺へ空気を送る。

 

 昨日、家入から言われた。

 

 治療に必要なのは、力だけではない。

 

 何をどう戻すかという情報。

 

 モブにはない。

 

 それでも、目の前で止まりかけている命を、手放せなかった。

 

「影山君」

 

 七海がモブの肩をつかむ。

 

「やめなさい」

 

「まだです」

 

「あなたが今しているのは、治しているのではない」

 

 七海の声が、耳元ではっきり響く。

 

「死ぬ過程を、力で引き延ばしているだけです」

 

 モブの指が震える。

 

「でも、離したら」

 

「死にます」

 

「それなら」

 

「あなたが離したから死ぬのではありません」

 

 七海は言った。

 

「この人をこうした者が、殺したのです」

 

 男の魂の輪郭が薄れていく。

 

 肉体だけではない。

 

 内側に残っていた人間の形そのものが、崩れている。

 

 モブの力では触れられる。

 

 だが、つかめない。

 

 砂を握ろうとするように、指の間から抜けていく。

 

「たすけ、て」

 

 最後の声だった。

 

 モブの念動力が、わずかに緩む。

 

 男の身体から力が抜けた。

 

 胸の口が閉じる。

 

 伸びていた腕が床へ落ちる。

 

 すべての電話が鳴りやんだ。

 

 室内に、機械の待機音だけが残る。

 

 モブは手を下ろせなかった。

 

「影山君」

 

 七海が呼ぶ。

 

「もう、終わっています」

 

 モブは、ゆっくり腕を下ろした。

 

 床に横たわるものは、人間の形をしていない。

 

 それでも、人だった。

 

 少し前まで生きていた。

 

 助けを求めていた。

 

「僕は」

 

 声がうまく出ない。

 

「何もできませんでした」

 

「違う」

 

 虎杖が言った。

 

 拳を握り、男の遺体を見ている。

 

「モブが止めなかったら、俺、こいつを呪霊だと思って殴ってた」

 

「でも、助けられなかった」

 

「それは」

 

 虎杖も言葉を失う。

 

 七海は床へしゃがみ込み、男の身体へ白い布をかけた。

 

「助けられなかったことと、何もしなかったことは違います」

 

「結果は同じです」

 

「死んだという結果だけを見れば」

 

 七海は立ち上がる。

 

「しかし、彼が人間だと判断したのはあなたです。虎杖君の攻撃を止めた。最後の言葉も聞いた」

 

「それで、この人は救われましたか」

 

「私には分かりません」

 

 モブは七海を見る。

 

 七海は目を逸らさなかった。

 

「救われたと言えば、我々が満足できるだけかもしれない。だから言いません」

 

 モブの胸の中に、悲しみが溜まっていく。

 

 怒りもあった。

 

 誰が、この人をこうした。

 

 なぜ、助けを求める人間へ、死ぬための仕掛けまで入れた。

 

 その怒りは、行き先を持たないまま内側へ沈んだ。

 

 影山茂夫――悲哀、三十四パーセント。

 

「七海」

 

 虎杖の声が低い。

 

「これ、呪霊がやったのか」

 

「可能性は高い」

 

「人間を、こんなふうにできる呪霊がいる?」

 

「私は知りません」

 

「じゃあ、術師?」

 

「どちらもあり得ます」

 

 七海は会議室の中へ入った。

 

 床に、何かが落ちている。

 

 小さな丸い札。

 

 人間の顔を雑に描いたような印がある。

 

 札には、ほとんど呪力が残っていなかった。

 

「警備員を襲わせた後、我々が来るまでここに置かれていた」

 

「僕たちを待っていた?」

 

 モブが尋ねる。

 

「この場所を選び、発見されるよう配置したのなら」

 

 七海は札を布で包む。

 

「任務ではなく、実験だった可能性があります」

 

「誰の?」

 

「それを調べます」

 

 モブは、白い布の下にある人間を見た。

 

「僕が人間だと分かるか、試した?」

 

 七海はすぐには答えなかった。

 

「その可能性も報告します」

 

 モブの背中に、冷たいものが走った。

 

 どこかにいる。

 

 この人を変えたもの。

 

 助けを求める声を電話から流し、自分たちの反応を見ていたもの。

 

 今も、見られている気がした。

 

     ◇

 

 任務を終えた三人は、ビルの非常階段に座っていた。

 

 遺体の搬送と現場検証は、後から到着した補助監督が行っている。

 

 七海は建物の管理者と話していた。

 

 虎杖は、買ってきた缶飲料をモブへ渡した。

 

「温かいやつ」

 

「ありがとう」

 

 缶を両手で持つ。

 

 指先の震えが、少し収まる。

 

「俺さ」

 

 虎杖は階段の下を見た。

 

「じいちゃんに、人を助けろって言われた」

 

「前に聞きました」

 

「うん」

 

 しばらく沈黙する。

 

「でも、あれは助けられないだろ」

 

 モブは答えなかった。

 

「もう身体がああなってて、戻し方も分かんなくて。俺たちが着く前から、死ぬようにされてた」

 

「うん」

 

「それでも、助けられなかったって思うんだよな」

 

「うん」

 

「正しい死とか、考えてたけど」

 

 虎杖の声が、かすかに揺れる。

 

「あんな死に方、正しいわけない」

 

「僕は、正しい死がどういうものか分かりません」

 

「苦しまないとか。納得してるとか。誰かに囲まれてるとか」

 

「それなら、今日の人は全部違った」

 

「だから腹立つんだよ」

 

 虎杖は拳を膝へ打ちつけた。

 

「誰がやったか知らねえけど、絶対許せない」

 

 モブも怒っている。

 

 だが、虎杖と同じ言葉をすぐには言えなかった。

 

「許せないなら」

 

 モブは言った。

 

「見つけたとき、どうするの?」

 

「倒す」

 

 虎杖の答えは早かった。

 

「殺すの?」

 

 虎杖の顔が止まる。

 

「呪霊なら、祓う」

 

「人間だったら?」

 

「それは……」

 

 虎杖は黙った。

 

 モブも答えを持っていない。

 

 人間だから話し合えるとは限らない。

 

 五条はそう言った。

 

 人間であることと、救命できることは別だ。

 

 七海はそう言った。

 

 なら、人間が人をあの形に変えた場合、自分はどうする。

 

 止めるために傷つけるのか。

 

 殺す可能性まで受け入れるのか。

 

「モブは?」

 

 虎杖が尋ねる。

 

「どうする?」

 

「分からない」

 

「また、それか」

 

「うん」

 

 モブは温かい缶を見つめる。

 

「でも、分からないまま怒っていると、間違えるかもしれない」

 

「じゃあ怒らないの?」

 

「怒っています」

 

「見えない」

 

「釘崎にも言われました」

 

「俺にも分かんない」

 

 モブは自分の頬へ触れた。

 

「でも、怒ってる」

 

「そっか」

 

 虎杖は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、見つけるまでに考えようぜ」

 

「一緒に?」

 

「俺も分かんねえから」

 

「うん」

 

「その間に、そいつがまた人を襲ったら止める」

 

「うん」

 

「止めた後は」

 

 虎杖は言葉を探した。

 

「そのとき考える」

 

「それでは遅いかもしれない」

 

「じゃあ、それまでに考える」

 

 同じところへ戻っている。

 

 それでも、モブは否定しなかった。

 

 簡単な答えを出すよりはいいと思った。

 

 七海が階段を上ってくる。

 

「休憩は終わりです」

 

「もう?」

 

 虎杖が言う。

 

「現在、十七時四十二分。高専へ戻れば十八時を過ぎます」

 

「霊幻さんとの約束?」

 

「業務時間の問題です」

 

「どっちでもよくない?」

 

「よくありません」

 

 七海はモブを見る。

 

「影山君」

 

「はい」

 

「先ほど、私があなたへ中止を命じた理由については、後日改めて説明します」

 

「今ではなく?」

 

「あなたも、今すぐ整理できる状態ではないでしょう」

 

「たぶん」

 

「そして私も、あの場で最善の言葉を選べたとは思っていません」

 

 七海は視線を少し下げた。

 

「あなたが手を離したから死んだのではない。それだけは、忘れないでください」

 

「忘れないようにします」

 

「信じられなくても、記憶しておけばいい」

 

 モブは七海を見た。

 

 慰めようとしているわけではない。

 

 納得させようともしていない。

 

 今は受け入れられなくても、後で考えるための言葉を置いている。

 

「七海さん」

 

「何ですか」

 

「どうして、呪術師へ戻ったんですか」

 

 車で後ほど話すと言われた質問だった。

 

 七海は腕時計を見る。

 

「帰りの車内で話します」

 

「また時間ですか」

 

「今話すと長くなります」

 

「長いんだ」

 

 虎杖が言う。

 

「あなた方が余計な質問を挟まなければ、短く済みます」

 

「それ、無理だと思う」

 

 モブが言った。

 

 七海は一瞬、モブを見る。

 

「……そうでしょうね」

 

     ◇

 

 地下室で、真人は笑っていた。

 

 彼の手のひらには、小さな口が一つ開いている。

 

 貸しオフィスへ残してきた改造人間と結びつけていた感覚は、死と同時に途切れていた。

 

 見えたものは多くない。

 

 音。

 

 触れられた感覚。

 

 魂の外側を、何かが包もうとした瞬間。

 

「すごいね」

 

 真人は自分の指を何度も曲げる。

 

「僕が変えた形の下に、元の人間を見つけた」

 

 向かいでは、額に縫い目のある男が本を読んでいた。

 

「戻せたのかい」

 

「全然」

 

 真人は楽しそうに答える。

 

「身体を動かして、壊れないように押さえてただけ。魂には触ってたけど、形を変える方法は分かってない」

 

「では、反転術式とも異なる」

 

「うん。治すんじゃなくて、元の形を探してた」

 

 真人は自分の胸へ手を当てる。

 

 魂の輪郭をなぞるように。

 

「僕と逆だ」

 

「逆?」

 

「僕は魂を変えて、身体を従わせる。あの子は身体の奥から魂を見つけて、元に戻そうとした」

 

「失敗したがね」

 

「最初だからでしょ」

 

 真人は立ち上がった。

 

 口元に、無邪気な笑みが広がる。

 

「教えたら、できるようになるかな」

 

「何を教える」

 

「魂の触り方」

 

 男は本から目を上げる。

 

「君が直接触れれば、観察だけでは済まない」

 

「壊さないよ」

 

「君の壊さない、は信用できないな」

 

「じゃあ、少しだけ」

 

「五条悟の生徒だ」

 

「五条悟がいないところへ呼べばいい」

 

「そのために、感情を利用するつもりか」

 

 真人は答えず、両手で顔を覆った。

 

 指の隙間から、笑う目だけが見える。

 

「怒ってたよ」

 

「誰に」

 

「僕に」

 

 触れていない。

 

 会ってもいない。

 

 それでも、自分が作ったものを通して、少年の怒りが伝わった。

 

 恐怖より静かで、深い。

 

 すぐには爆発しない。

 

 だからこそ、溜めればどうなるのか見てみたい。

 

「次は」

 

 真人は呟いた。

 

「目の前で、選ばせてみようか」

 

 助けられる者と、助けられない者。

 

 人間と、呪霊。

 

 殺す相手と、守る相手。

 

 どちらも同じ顔をしていたら、影山茂夫は何を選ぶのか。

 

 男は真人の笑顔を見ながら、静かに本を閉じた。

 

「急ぐな。彼はまだ、自分の力を呪術界に見せ始めたばかりだ」

 

「だから楽しいんじゃないか」

 

「例外は、環境によって性質を変える」

 

 男は机に置かれた札の一枚へ指を乗せる。

 

「まずは、五条悟が彼をどう育てるか見よう」

 

 真人は不満そうに頬を膨らませた。

 

 しかし、拒みはしなかった。

 

 待つことが嫌いなのではない。

 

 待った後に、より大きく壊れるものを見るのが好きだった。

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