影山茂夫は、五条悟を探していた。
朝の座学が終わってから十分。
職員室にはいない。
訓練場にもいない。
医務室では、家入硝子が机に突っ伏して眠っていた。モブが静かに扉を閉めようとすると、顔を上げないまま「五条なら屋上」と言われた。
「起きていたんですか」
「寝てる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
屋上へ続く階段を上る。
扉を開けると、五条は給水塔の上に座っていた。
片手に菓子パン、もう片方に携帯電話を持っている。携帯電話の画面には、地方の有名菓子店らしきページが表示されていた。
「五条先生」
「お、影山君。先生を探して学校中を歩き回ってた?」
「はい」
「人気者はつらいね」
「職員室にいてください」
「いきなり正論」
五条は給水塔から飛び降りた。
「何か相談?」
「昨日の任務についてです」
「報告書なら読んだよ。初めてとは思えないくらい丁寧だった」
「霊体については、まだ分からないと書きました」
「うん。正しい書き方だと思う」
「それとは別です」
モブは一度、息を吸った。
昨夜、霊幻から言われた。
怒っているなら、怒っていると自分の言葉で伝えろ。
だが、言葉にすると、相手を責めることになる気がした。
五条にも別の任務があった。
現場へ戻らなかった理由もある。
自分たちが無事だったのは、五条が判断を誤ったからではなく、予想できない条件が重なった結果かもしれない。
そう考えるほど、何を怒っているのか分からなくなる。
「僕は」
五条は急かさなかった。
菓子パンを袋へ戻し、待っている。
「昨日のことで、五条先生に怒っています」
「うん」
予想していなかった返事だった。
「怒らないんですか」
「影山君が僕に怒ってることに?」
「はい」
「怒る理由がないよ」
五条の口調は軽い。
だが、笑ってはいなかった。
「何に怒ってるか聞いてもいい?」
「事前に聞いていた情報と、実際の状況が違いました」
「うん」
「一般人はいないと言われました。でも三人いました。呪霊も三級ではありませんでした。伊地知さんが怪我をしました」
「うん」
「五条先生は、十五分で戻れると言いました」
「戻ったよ」
「全部終わった後でした」
五条が少し黙った。
「だから」
モブは言葉を探す。
「戻った時間が十五分以内だったかではなく、必要なときにいなかったことに怒っています」
「なるほど」
「別の任務があったのは分かっています」
「分かってるから、怒っちゃいけないと思った?」
「少し」
「それは別の話だよ」
「別ですか」
「僕に事情があったことと、君が怒っていいかどうかは関係ない」
五条は屋上の柵へ背を預けた。
「昨日の現場については、もう調査を始めてる。割れた窓は、管理会社が二週間前から把握してた。でも解体予定だから修理費を出したくなくて、そのままにしてた」
「不法侵入した人がいたことも?」
「知らなかった。ただ、侵入できる状態を放置した責任はある」
「呪霊の等級が違った理由は」
「調査した補助監督が建物の外から測ったとき、呪霊は女児の霊を核の近くへ隠してた」
「女の子を?」
「正確には、君が見た霊体の周囲にある感情を利用して、自分の呪力を薄く見せていた可能性が高い」
モブの胸の中に、再び嫌悪が湧く。
死んだ少女の恐怖を使い、人間を誘い、さらに自分の力まで隠していた。
「そのことは、報告書に書かれますか」
「書く。管理会社の責任も、等級判定が外れた原因も、僕が現場を離れた判断も」
「五条先生の判断も?」
「隠したら、次も同じことが起きるからね」
「怒られますか」
「偉い人には」
「嫌ですか」
「嫌いな人に怒られても、あんまり響かない」
「それでは意味がないと思います」
「影山君、今日は厳しいね」
「すみません」
「謝らなくていい」
五条は携帯電話をポケットへ入れた。
「昨日、別件の方には準一級相当の呪霊が二体いた。僕が離れなければ、そっちで人が死んだ可能性がある」
「はい」
「同じ状況なら、また離れるかもしれない」
モブは五条を見る。
「でも次は、君たちを残す前に、現場の情報が外れている可能性を今より重く見る。伊地知一人に判断を集中させない方法も考える」
「誰かを増やす?」
「増やすか、最初から担当を変える」
「それなら」
モブは少し迷ってから言った。
「怒っていることを言ってよかったです」
「どうして?」
「五条先生が、次にどうするか分かったから」
「言わなかったら?」
「僕の中だけで、信用できない人になっていたかもしれません」
五条の口元が、わずかに動いた。
「霊幻さんに言われた?」
「怒っているなら言え、と言われました」
「やっぱり」
「でも、何を言うかは自分で考えました」
「そこは強調するんだ」
「大事なので」
五条は一度、空を見上げた。
「先生も一つ言っていい?」
「はい」
「影山君が僕に怒ってくれて、少し安心した」
「どうして?」
「全部、自分のせいにしてないってことだから」
モブは返事をしなかった。
高専の結界が破れたとき。
初任務で伊地知が負傷したとき。
自分の力が原因ではないかと、最初に考えた。
その癖は、まだ残っている。
「でも」
五条は続けた。
「怒りを正しく伝えれば、必ず相手が変わるわけじゃない。聞かない人間もいる。逆に怒る人間もいる」
「はい」
「だから、言葉で伝えるか、距離を取るか、それとも力で止めるか。そこは選ばないといけない」
「力で止める」
「呪術師には、話し合えない相手もいるからね」
「人間でも?」
「人間だから話し合える、とは限らない」
屋上の扉が開いた。
きっちりと七対三に分けられた金髪。
薄い色のスーツ。
青いシャツと、柄の入ったネクタイ。
背の高い男が、腕時計を確認しながら屋上へ出てきた。
「五条さん」
声には、すでに疲労が含まれていた。
「指定された教室に誰もいませんでしたが」
「ごめんごめん。ちょうど大事な教育中で」
「勤務予定にない校内捜索までさせられた私の時間は、大事ではないと?」
「七海は細かいなあ」
「時間を守らない人間が大雑把すぎるのです」
男は五条を無視し、モブへ視線を向けた。
「影山茂夫君ですね」
「はい」
「七海建人です。一級呪術師をしています」
「影山茂夫です。よろしくお願いします」
モブが頭を下げると、七海も小さく会釈した。
「礼儀については、五条さんより信頼できそうです」
「会って一分で担任を下げるのやめない?」
「下げてはいません。元から低い位置にあります」
五条は胸を押さえた。
モブには、傷ついているふりだと分かった。
「七海先生も、高専の先生ですか」
「違います」
七海の返事は早かった。
「一度、呪術師を辞めて一般企業で働き、現在は呪術師へ戻っています。教師ではありません」
「今日は何をしに?」
「あなたの実地能力を確認するよう依頼されました」
モブの肩がわずかに固くなる。
「実験ですか」
「任務です」
七海は訂正する。
「その過程で、あなたの能力と判断を観察します。目的を伏せて現場へ連れ出すことはしません」
五条が横から口を挟む。
「霊幻さんの条件書を読んだんだよ」
「当然でしょう」
「全部?」
「業務に関係する部分は」
「どう思った?」
「未成年を危険な仕事へ就かせる組織として、要求されて当然の内容です」
モブは七海を見る。
「危険な仕事だと思っているんですか」
「思っています」
「それでも続けているのは、なぜですか」
七海はすぐには答えなかった。
「後ほど話します」
「今ではなく?」
「現在、予定より七分遅れています」
腕時計を見る。
「移動中に説明しましょう」
◇
今回の任務に参加するのは、七海、虎杖悠仁、モブの三人だった。
釘崎は真希との訓練。
伏黒は別の補助監督と、式神の調整を兼ねた任務へ出ている。
車を出す前に、モブは霊幻へ電話をかけた。
『二日連続で任務だと?』
「今日は七海さんが同行します」
『誰だ』
「一級呪術師です」
『五条は』
「来ません」
『それは安全なのか危険なのか分からんな』
モブは助手席にいる七海を見る。
「師匠が、七海さんと話したいそうです」
「私と?」
「はい」
「業務上必要な確認なら」
モブは電話を渡した。
「七海建人です」
『霊とか相談所所長、霊幻新隆です。今回の現場は?』
「閉鎖された貸しオフィスです。夜間警備員が内部で襲われ、現在入院中。一般人の退去は、私自身が確認します」
『敵の等級』
「現時点では二級以下。残穢の量と被害状況から判断しています。ただし、呪霊が複数いる可能性、術式によって出力を隠している可能性は否定できません」
『撤退基準は』
「私が二人の安全を確保できないと判断した時点です」
『本人たちが残ると言ったら』
「聞きません」
電話の向こうが一瞬静かになる。
『まともだな』
「比較対象が五条さんであれば、光栄とは思えません」
後部座席の虎杖が小さく笑った。
『モブは、必要以上に人間を傷つけるのを嫌がる』
「承知しています」
『だからって、本人の代わりに全部決めるな。必要なら選択肢を説明して、選ばせろ』
「命に直結する場面では、私が決めます」
『終わった後は?』
「本人が自分の判断を検討できるよう、説明します」
霊幻は少し黙った。
『……五条より話が通じる』
「何度も比較しないでいただきたい」
『帰宅予定は』
「十八時前。ただし、現場状況により遅れる場合は連絡します」
『残業は?』
「嫌いです」
『信用できるな』
七海が電話をモブへ返した。
「あなたの師匠は、随分と細かい」
「すみません」
「謝る必要はありません。確認すべき内容でした」
車が走り出す。
虎杖が身を乗り出した。
「七海、霊幻さんと気が合いそうじゃない?」
「どこを聞いてそう思ったのですか」
「働く時間を気にするところ」
「彼は経営者で、私は労働者です。立場が違います」
「師匠も働いています」
モブが言う。
「人を働かせてもいます」
「モブがな」
虎杖が付け加えた。
「時給は」
七海が尋ねる。
「今は千円です」
「今は?」
「前は三百円でした」
七海の表情が止まった。
「影山君」
「はい」
「今後、労働条件に関する相談は、保護者か労働基準監督署へしてください」
「師匠も同じことを言っていました」
「本人が?」
「今は改善したので、過去のことを蒸し返すなと」
「反省している人間の言葉ではありませんね」
◇
現場は、十二階建ての雑居ビルだった。
問題の貸しオフィスは八階。
かつて電話営業を行う会社が入っていたが、半年前に撤退している。現在は次の借り手を探すため、机や仕切り板だけが残されていた。
「警備員は、巡回中に何かに背後から襲われました」
七海がエレベーター内で説明する。
「頭部と背中に打撲。命に別状はありません。証言では、人間の声で名前を呼ばれた後、意識を失った」
「警備員の知り合いの声?」
虎杖が尋ねる。
「本人は、十年前に亡くなった妻の声だと話しています」
モブは昨日の少女を思い出した。
「死んだ人の霊ですか」
「断定できません。声を模倣する呪霊は珍しくない」
八階で扉が開く。
照明は消えていた。
非常灯だけが、長い廊下を緑色に照らしている。
七海が先頭。
その後ろに虎杖。
モブが最後を歩く。
「私の指示なく、単独で廊下の角を曲がらないこと」
「はい」
「何かを感知した場合は、自分で確認しに行かず、まず口頭で伝えること」
「はい」
「虎杖君」
「分かってるよ」
「あなたは返事をした三秒後に忘れることがあるので、念のためです」
「三秒は早すぎない?」
「実績に基づく評価です」
廊下の奥に、ガラス扉がある。
鍵は開いていた。
扉の向こうには、同じ形の机と椅子が何十組も並んでいる。
机同士を区切る灰色の仕切り板。
天井から垂れ下がる電話線。
空調は止まっているのに、受話器の一つが揺れていた。
七海が室内へ入る。
モブも続こうとして、足を止めた。
「七海さん」
「何ですか」
「人がいます」
虎杖が周囲を見回す。
「どこ?」
「奥です」
机の列の向こう。
窓際の小さな会議室。
壁を隔てた先に、人間の気配がある。
ただし、形がおかしい。
一人分の身体が、狭い箱へ無理に押し込まれているような感覚。
「生きていますか」
七海が尋ねる。
「分かりません」
「呪力は?」
「少しあります。でも、呪霊とは違う」
七海は携帯電話を取り出し、建物の管理者へ連絡する。
残っている人間はいないはずだった。
清掃員の入室記録もない。
「確認します」
七海は鈍い色の刃を、布で巻いた呪具を手に取った。
「私が先頭。虎杖君は右側。影山君は、我々の身体を支えられる範囲で後方に」
「攻撃は?」
「正体が分かるまで行わない」
三人は机の間を進んだ。
左右から、電話が鳴り始める。
一台。
二台。
やがて室内にあるすべての電話が、同じ間隔で鳴った。
「出るなよ」
虎杖が言う。
「出ません」
モブのすぐ横で受話器が持ち上がった。
誰も触れていない。
『もしもし』
若い男の声。
『聞こえますか』
モブは答えない。
『助けてください』
会議室の中にいるものと、同じ気配がする。
七海が手を上げ、二人を止めた。
「声に反応しないこと」
『身体が、変なんです』
受話器の向こうで、湿った音がする。
『戻してください』
虎杖の拳が握られる。
「人間なのか?」
「まだです」
七海は会議室の扉へ近づいた。
ガラスは、内側から黒い布で覆われている。
「開けます」
扉を引く。
中から、腕が飛び出した。
人間の腕だった。
ただし、長すぎる。
途中に関節が三つあり、指は互いに癒着して一枚のひれのようになっている。
七海は身体を傾けて避けた。
「下がりなさい!」
会議室の扉が吹き飛ぶ。
中から、人の形を崩したものが這い出てきた。
頭部は縦に引き延ばされ、目と鼻の位置が入れ替わっている。胸の中央に口があり、そこから電話線が何本も伸びていた。
下半身は折り畳まれ、背中へ埋め込まれている。
「呪霊……?」
虎杖が構える。
「違います!」
モブの声が、室内へ響いた。
虎杖の拳が止まる。
「人です」
「これが?」
「人間です!」
変形した男が、虎杖へ飛びかかる。
モブは念動力で身体を止めた。
空中に固定する。
だが、抵抗の仕方がおかしかった。
腕を押さえているのに、胸の口が動く。
胴体を押さえると、頭部が別の方向へ伸びる。
身体の形と、内側にある人間の輪郭が一致していない。
「う、あ」
男の胸の口が動く。
「でん、わ……おわら、ない」
「話せますか」
モブが近づこうとする。
「止まりなさい」
七海が腕で制した。
「まだ攻撃意思があります」
「でも、人です」
「人間でも、あなたを殺すことはできます」
男の背中から、新しい腕が生える。
モブの念動力を滑り抜け、七海へ伸びる。
虎杖が横からつかんだ。
「こいつ……力、強い!」
床へ押さえつける。
男の身体が、粘土のように変形する。
虎杖の指の間から肉が盛り上がり、首へ巻きつこうとした。
「虎杖君、離れて!」
モブが虎杖だけを後方へ引く。
男を傷つけないよう、床と天井の間へ固定する。
念動力の圧力を細かく分ける。
頭。
胴体。
四本になった腕。
折り畳まれた脚。
だが、どこまでが本来の位置なのか分からない。
「七海さん」
「何ですか」
「この人を治せますか」
七海は答えなかった。
「反転術式なら」
「私は使えません」
「家入さんなら?」
「分かりません」
「身体の形を戻せば」
「やめなさい」
七海の声が強くなる。
モブの手が止まった。
「あなたは治療の知識を持っていない。何を正常な位置へ戻すつもりですか」
「この人の中に、元の形があります」
モブには感じられた。
歪んだ肉体の奥。
押し潰され、引き延ばされながら、それでも人間の輪郭が残っている。
魂。
そう呼ぶべきものかもしれない。
少女の霊とも、エクボとも違う。
肉体の中にあり、肉体と重なっている。
だが、その輪郭自体が、誰かの手で捻られていた。
「形が分かるなら、戻せるのですか」
七海が尋ねる。
「分かりません」
「なら、動かさないでください」
「でも」
男の胸の口から、声が漏れる。
「たす、け」
モブの胸が締めつけられる。
「助けてと言っています」
「聞こえています」
七海の顔は変わらない。
だが、呪具を握る指が強くなっていた。
「七海さんは、この人を殺すんですか」
虎杖が七海を見る。
「現時点では決めていません」
「人間だぞ」
「分かっています」
「なら」
「人間であることと、救命できることは別です」
七海は男を観察する。
「呼吸器官の位置が変えられている。循環器も複数に分断され、呪力によって無理に機能を維持されている可能性が高い」
「可能性」
モブが繰り返す。
「分からないのに、諦めるんですか」
「分からないから、あなたに無責任な希望を持たせるつもりはありません」
七海の声は冷静だった。
冷たいわけではない。
感情を出せば、判断が揺れることを知っている人間の声だった。
「まず家入さんへ連絡します。それまで拘束を維持できますか」
「できます」
「無理をしていませんか」
「まだ」
「曖昧ですね」
「少し、難しいです」
「それでいい。難しくなった時点で言いなさい」
七海が携帯電話を取り出す。
その瞬間、男の身体の奥で、異質な呪力が動いた。
「何かあります!」
モブが叫ぶ。
男の胸が膨らむ。
電話線が一斉に震え、すべての受話器から笑い声が流れた。
子供のような、明るい笑い声。
七海が男へ向き直る。
「離れろ!」
男の身体が内側から崩れ始める。
骨が液体のように溶け、皮膚の下で臓器が移動する。
モブは念動力を強めた。
「影山君、何をしている!」
「身体を保っています!」
「それは治療ではない!」
「このままだと死にます!」
「すでに致命的です!」
「まだ話しています!」
男の口が動く。
「いや、だ」
モブは力を細くする。
心臓らしき器官を動かす。
裂けた血管を押さえる。
潰れかけた肺へ空気を送る。
昨日、家入から言われた。
治療に必要なのは、力だけではない。
何をどう戻すかという情報。
モブにはない。
それでも、目の前で止まりかけている命を、手放せなかった。
「影山君」
七海がモブの肩をつかむ。
「やめなさい」
「まだです」
「あなたが今しているのは、治しているのではない」
七海の声が、耳元ではっきり響く。
「死ぬ過程を、力で引き延ばしているだけです」
モブの指が震える。
「でも、離したら」
「死にます」
「それなら」
「あなたが離したから死ぬのではありません」
七海は言った。
「この人をこうした者が、殺したのです」
男の魂の輪郭が薄れていく。
肉体だけではない。
内側に残っていた人間の形そのものが、崩れている。
モブの力では触れられる。
だが、つかめない。
砂を握ろうとするように、指の間から抜けていく。
「たすけ、て」
最後の声だった。
モブの念動力が、わずかに緩む。
男の身体から力が抜けた。
胸の口が閉じる。
伸びていた腕が床へ落ちる。
すべての電話が鳴りやんだ。
室内に、機械の待機音だけが残る。
モブは手を下ろせなかった。
「影山君」
七海が呼ぶ。
「もう、終わっています」
モブは、ゆっくり腕を下ろした。
床に横たわるものは、人間の形をしていない。
それでも、人だった。
少し前まで生きていた。
助けを求めていた。
「僕は」
声がうまく出ない。
「何もできませんでした」
「違う」
虎杖が言った。
拳を握り、男の遺体を見ている。
「モブが止めなかったら、俺、こいつを呪霊だと思って殴ってた」
「でも、助けられなかった」
「それは」
虎杖も言葉を失う。
七海は床へしゃがみ込み、男の身体へ白い布をかけた。
「助けられなかったことと、何もしなかったことは違います」
「結果は同じです」
「死んだという結果だけを見れば」
七海は立ち上がる。
「しかし、彼が人間だと判断したのはあなたです。虎杖君の攻撃を止めた。最後の言葉も聞いた」
「それで、この人は救われましたか」
「私には分かりません」
モブは七海を見る。
七海は目を逸らさなかった。
「救われたと言えば、我々が満足できるだけかもしれない。だから言いません」
モブの胸の中に、悲しみが溜まっていく。
怒りもあった。
誰が、この人をこうした。
なぜ、助けを求める人間へ、死ぬための仕掛けまで入れた。
その怒りは、行き先を持たないまま内側へ沈んだ。
影山茂夫――悲哀、三十四パーセント。
「七海」
虎杖の声が低い。
「これ、呪霊がやったのか」
「可能性は高い」
「人間を、こんなふうにできる呪霊がいる?」
「私は知りません」
「じゃあ、術師?」
「どちらもあり得ます」
七海は会議室の中へ入った。
床に、何かが落ちている。
小さな丸い札。
人間の顔を雑に描いたような印がある。
札には、ほとんど呪力が残っていなかった。
「警備員を襲わせた後、我々が来るまでここに置かれていた」
「僕たちを待っていた?」
モブが尋ねる。
「この場所を選び、発見されるよう配置したのなら」
七海は札を布で包む。
「任務ではなく、実験だった可能性があります」
「誰の?」
「それを調べます」
モブは、白い布の下にある人間を見た。
「僕が人間だと分かるか、試した?」
七海はすぐには答えなかった。
「その可能性も報告します」
モブの背中に、冷たいものが走った。
どこかにいる。
この人を変えたもの。
助けを求める声を電話から流し、自分たちの反応を見ていたもの。
今も、見られている気がした。
◇
任務を終えた三人は、ビルの非常階段に座っていた。
遺体の搬送と現場検証は、後から到着した補助監督が行っている。
七海は建物の管理者と話していた。
虎杖は、買ってきた缶飲料をモブへ渡した。
「温かいやつ」
「ありがとう」
缶を両手で持つ。
指先の震えが、少し収まる。
「俺さ」
虎杖は階段の下を見た。
「じいちゃんに、人を助けろって言われた」
「前に聞きました」
「うん」
しばらく沈黙する。
「でも、あれは助けられないだろ」
モブは答えなかった。
「もう身体がああなってて、戻し方も分かんなくて。俺たちが着く前から、死ぬようにされてた」
「うん」
「それでも、助けられなかったって思うんだよな」
「うん」
「正しい死とか、考えてたけど」
虎杖の声が、かすかに揺れる。
「あんな死に方、正しいわけない」
「僕は、正しい死がどういうものか分かりません」
「苦しまないとか。納得してるとか。誰かに囲まれてるとか」
「それなら、今日の人は全部違った」
「だから腹立つんだよ」
虎杖は拳を膝へ打ちつけた。
「誰がやったか知らねえけど、絶対許せない」
モブも怒っている。
だが、虎杖と同じ言葉をすぐには言えなかった。
「許せないなら」
モブは言った。
「見つけたとき、どうするの?」
「倒す」
虎杖の答えは早かった。
「殺すの?」
虎杖の顔が止まる。
「呪霊なら、祓う」
「人間だったら?」
「それは……」
虎杖は黙った。
モブも答えを持っていない。
人間だから話し合えるとは限らない。
五条はそう言った。
人間であることと、救命できることは別だ。
七海はそう言った。
なら、人間が人をあの形に変えた場合、自分はどうする。
止めるために傷つけるのか。
殺す可能性まで受け入れるのか。
「モブは?」
虎杖が尋ねる。
「どうする?」
「分からない」
「また、それか」
「うん」
モブは温かい缶を見つめる。
「でも、分からないまま怒っていると、間違えるかもしれない」
「じゃあ怒らないの?」
「怒っています」
「見えない」
「釘崎にも言われました」
「俺にも分かんない」
モブは自分の頬へ触れた。
「でも、怒ってる」
「そっか」
虎杖は少しだけ笑った。
「じゃあ、見つけるまでに考えようぜ」
「一緒に?」
「俺も分かんねえから」
「うん」
「その間に、そいつがまた人を襲ったら止める」
「うん」
「止めた後は」
虎杖は言葉を探した。
「そのとき考える」
「それでは遅いかもしれない」
「じゃあ、それまでに考える」
同じところへ戻っている。
それでも、モブは否定しなかった。
簡単な答えを出すよりはいいと思った。
七海が階段を上ってくる。
「休憩は終わりです」
「もう?」
虎杖が言う。
「現在、十七時四十二分。高専へ戻れば十八時を過ぎます」
「霊幻さんとの約束?」
「業務時間の問題です」
「どっちでもよくない?」
「よくありません」
七海はモブを見る。
「影山君」
「はい」
「先ほど、私があなたへ中止を命じた理由については、後日改めて説明します」
「今ではなく?」
「あなたも、今すぐ整理できる状態ではないでしょう」
「たぶん」
「そして私も、あの場で最善の言葉を選べたとは思っていません」
七海は視線を少し下げた。
「あなたが手を離したから死んだのではない。それだけは、忘れないでください」
「忘れないようにします」
「信じられなくても、記憶しておけばいい」
モブは七海を見た。
慰めようとしているわけではない。
納得させようともしていない。
今は受け入れられなくても、後で考えるための言葉を置いている。
「七海さん」
「何ですか」
「どうして、呪術師へ戻ったんですか」
車で後ほど話すと言われた質問だった。
七海は腕時計を見る。
「帰りの車内で話します」
「また時間ですか」
「今話すと長くなります」
「長いんだ」
虎杖が言う。
「あなた方が余計な質問を挟まなければ、短く済みます」
「それ、無理だと思う」
モブが言った。
七海は一瞬、モブを見る。
「……そうでしょうね」
◇
地下室で、真人は笑っていた。
彼の手のひらには、小さな口が一つ開いている。
貸しオフィスへ残してきた改造人間と結びつけていた感覚は、死と同時に途切れていた。
見えたものは多くない。
音。
触れられた感覚。
魂の外側を、何かが包もうとした瞬間。
「すごいね」
真人は自分の指を何度も曲げる。
「僕が変えた形の下に、元の人間を見つけた」
向かいでは、額に縫い目のある男が本を読んでいた。
「戻せたのかい」
「全然」
真人は楽しそうに答える。
「身体を動かして、壊れないように押さえてただけ。魂には触ってたけど、形を変える方法は分かってない」
「では、反転術式とも異なる」
「うん。治すんじゃなくて、元の形を探してた」
真人は自分の胸へ手を当てる。
魂の輪郭をなぞるように。
「僕と逆だ」
「逆?」
「僕は魂を変えて、身体を従わせる。あの子は身体の奥から魂を見つけて、元に戻そうとした」
「失敗したがね」
「最初だからでしょ」
真人は立ち上がった。
口元に、無邪気な笑みが広がる。
「教えたら、できるようになるかな」
「何を教える」
「魂の触り方」
男は本から目を上げる。
「君が直接触れれば、観察だけでは済まない」
「壊さないよ」
「君の壊さない、は信用できないな」
「じゃあ、少しだけ」
「五条悟の生徒だ」
「五条悟がいないところへ呼べばいい」
「そのために、感情を利用するつもりか」
真人は答えず、両手で顔を覆った。
指の隙間から、笑う目だけが見える。
「怒ってたよ」
「誰に」
「僕に」
触れていない。
会ってもいない。
それでも、自分が作ったものを通して、少年の怒りが伝わった。
恐怖より静かで、深い。
すぐには爆発しない。
だからこそ、溜めればどうなるのか見てみたい。
「次は」
真人は呟いた。
「目の前で、選ばせてみようか」
助けられる者と、助けられない者。
人間と、呪霊。
殺す相手と、守る相手。
どちらも同じ顔をしていたら、影山茂夫は何を選ぶのか。
男は真人の笑顔を見ながら、静かに本を閉じた。
「急ぐな。彼はまだ、自分の力を呪術界に見せ始めたばかりだ」
「だから楽しいんじゃないか」
「例外は、環境によって性質を変える」
男は机に置かれた札の一枚へ指を乗せる。
「まずは、五条悟が彼をどう育てるか見よう」
真人は不満そうに頬を膨らませた。
しかし、拒みはしなかった。
待つことが嫌いなのではない。
待った後に、より大きく壊れるものを見るのが好きだった。