◆◆◆
決戦前
「
五条は、まるで思いつきの雑談でも始めるような口調で言った。
しかし、その場にいた誰もが、それを軽い話として受け取ることはできなかった。
「僕の死体を使う案があっただろ」
五条は自分の目元を指し、続ける。
「戦いが終わったあと、僕の
もちろん、僕が生きているなら話は別だけど。
五条はそう前置きしてから、自らの考えを淡々と語り始めた。
「全国に広がった喪呪路を撤去するとなれば、相当骨が折れる。全部掘り返して処分するより、そのまま使ったほうがいい」
喪呪路は、日本各地へ張り巡らされた巨大な呪力伝送網だった。
その規模ゆえに、一度完成したものを完全に取り除くことは容易ではない。ならば、危険な構造物として封じるのではなく、別の目的に転用する。
五条が提案しているのは、そういうことだった。
「喪呪路全体をアップデートする呪具を作る。この眼で見て、仕組みはだいたい把握した。僕の六眼と脳を組み込めば、良い感じに制御はできると思う」
真依は眉をひそめた。
五条は構わず続ける。
「まず問題になるのは、呪力をそのまま伝送することだ。呪力が漏れれば周囲に悪影響を与えるし、経路そのものが呪いを放つ可能性もある」
五条は自分の頭を指先で軽く叩いた。
「だから、喪呪路に反転術式の機構を組み込む。僕の脳には、反転術式を常時稼働させるための仕組みができている。これを利用すれば、集めた呪力を一度、正のエネルギーへ変換してから流せるはずだ」
負の感情から生じる呪力を、反転術式によって正のエネルギーへ変える。
それを全国へ張り巡らされた喪呪路へ流し、循環させる。
「正のエネルギーとして伝送するなら、周囲への悪影響はほとんどない。途中で漏れたとしても、呪力が漏れるよりはずっとましだ。むしろ、多少いい影響があるかもしれないね」
喪呪路は髪を媒体に作られた、肉体に近い性質を備えた生体呪具でもある。
正のエネルギーを絶えず循環させることで、経路の損傷を自動的に修復できる可能性もあった。
真依は、五条の説明を最後まで聞いてから口を開いた。
「でも、それはまだ仮説ですよね」
「なるさ」
五条は即答した。
「これは勘だけど」
それから五条を見つめ、僅かに声を低くした。
「死んだあと、呪具になったからといって、それで終わりじゃない。喪呪路に組み込まれれば、この先ずっと、あれと一体になって管理を続けることになる」
それが十年なのか、百年なのか、それ以上なのかは分からない。
意識が残るのかさえ、誰にも断言できない。
人間として死んだあとも、六眼と脳だけが呪具として残り、日本全土を巡る巨大なインフラの礎となる。
家入が言っているのは、そういう未来だった。
「死んだあとのことだろ」
五条は、ほとんど考える間もなく答えた。
「気にしないよ」
家入は何も返さなかった。
五条が強がっているわけではないことを、彼女は知っていた。
だからこそ、何も言えなかった。
「喪呪路が完成すれば、自然発生する呪霊はほとんどいなくなるだろうね」
五条は窓の外へ視線を向ける。その表情は少し柔らかい。
「人から漏れ出した呪力を、呪霊になる前に回収して循環させる。そのエネルギーは、別のことにも使えるかもしれない」
呪術師だけが呪力を扱い、非術師が無自覚に呪いを生み出し続ける世界ではなくなる。
術師が非術師を守り、非術師が知らぬ間に術師を追い詰めるという、歪んだ関係も変わっていく。
「回収される呪力は、もう呪術師だけのものじゃない」
五条の声は、いつになく穏やかだった。
「本当の意味で、術師と非術師が一緒に生きられる未来が来る。きっとね」
五条には、その未来が観えていた。
かつて夏油傑が望み、そして辿り着けなかった世界。
呪いによって人が苦しまず、術師だけが犠牲になることもない世界。
五条は夏油の代わりに、その未来を語った。その表情と声色は夢を語る子供のようだった。
「だから頼んだよ、真依」
五条は、真依へ向き直る。
「喪呪路が完成したら、その呪力を少しくらい使ってもいいからさ」
冗談めいた口調だった。
だが、真依に託そうとしている役目は、決して軽いものではない。
五条の六眼と脳を呪具に変え、喪呪路へ組み込む。
それは、真依にしか成し得ない仕事だった。
五条は僅かに目を伏せた。
「それに――」
脳裏に浮かんだのは、かつて夏油と決別した日の光景だった。
背を向け、五条の前から去っていった親友。
最後まで同じ場所に立つことのできなかった、たった一人の親友。
「アイツが遺した理想は、俺が責任を持って見届けたい」
――俺は、あのとき置いていかれた。
最強になり、誰よりも遠くまで行けるはずだったのに、夏油の苦しみに追いつくことはできなかった。
隣に立っていたつもりで、その心が離れていくことに気づけなかった。
――けれど。
五条は目を閉じる。
――ようやく、追いつけるかもしれない。
◆◆◆
とてもよく晴れた昼下がりだった。
高専施設の屋上には、柔らかな風が吹いている。
遠くまで澄み渡った空の下、家入は手すりのそばに立ち、復興の進む街を見下ろしていた。
倒壊した建物は減り、新しい足場や重機が並び、人々が行き交っている。
失われたものは多い。
元に戻らないものも、数え切れないほどある。
それでも、街は少しずつ前へ進んでいた。
「バカ二人が」
家入は、もうここにはいない二人へ愚痴をこぼす。
一人は、理想を抱えて道を違えた。
もう一人は、その理想を拾い上げ、自分の死後まで使って形にした。
どちらも自分勝手で、最後まで周囲を振り回した。
「まあ、男子なんてそんなもんか」
小さく息を吐いてから、家入は背後にいる真依へ振り返った。
「それより、体調はどうだ?」
「ええ。大丈夫です」
真依は、切断されていた右腕を軽く動かしてみせる。
腕は完全に繋がっていた。
指先の感覚も、関節の動きも、失われる以前と何ら変わらない。
ただし、その腰元にリボルバーはない。
真希の魂を宿し、数々の戦いをともにした呪具は、もう必要なくなっていた。
「そりゃよかった」
家入は頷き、それから真依の背後へ視線を向けた。
「そっちはどうだ?」
屋上へ続く扉が開く。
そこから姿を現したのは、禪院真希だった。
「ええ。問題ありません」
真希は、自らの身体を確かめるように肩を回す。
真依はそんな姉を、ニッと笑顔で迎える。
「おかえり!」
その声も、表情も、歩き方も、真依の知る姉そのものだった。
真依の術式は、「
かつて存在した状態を現在へ構築する、「
それは、完全な原状回復の術であり──
──死者の蘇生にすら手が届き得る
もっとも、真希の蘇生は、術式の力だけで成し遂げられたものではない。
幾つもの状況と条件、そして縛りが重なり合って初めて成立した、一度限りの奇跡だった。
第一に、真希の魂が失われていなかった。
真依は、真希の魂を宿す器としてリボルバーを構築していた。そのため、肉体を失ったあとも真希の魂は散逸せず、共振での会話ができるほど、劣化することなく形を保ち続けていた。
第二に、術式を成立させるだけの膨大な呪力が存在した。
完成した喪呪路から共有される、途切れることのない呪力。
日本全土から回収され、正のエネルギーへ変換されながら循環するその力を借りることで、真依は本来なら到底維持できない規模で「再現」を発動することができた。
それでも、条件が揃っただけでは、死者の蘇生は成し得なかった。
真依は最後の代償として、自らに残されていた
それだけではない。
最愛の姉の手をもう一度掴むために、自らが持つ天賦の才も、呪いに愛された証しも、惜しむことなく放り出した。
たとえそこまでしても、成功する保証はなかった。
蘇った肉体へ魂が定着するのか。
真希が再び目を覚ますのか。
誰にも分からなかった。
それでも真依は、僅かに残された可能性へ手を伸ばした。
そして、その希望を手繰り寄せた。
家入は真希の顔色や立ち姿を改めて確認し、医師としての口調に戻った。
「それならよかった。検査結果にも問題はなかった。ただ、完全に死んだ状態から肉体を再構築された人間なんて、私も診たことがない」
真希は黙って話を聞く。
「今は異常がなくても、今後何が起きるかは分からない。無茶はするな。定期的に検査も受けろ。せっかく戻ってきたんだから、身体は大事にしろよ」
「分かりました」
真希が素直に答えると、家入は僅かに目を細めた。
「随分と聞き分けがよくなったな、反骨心はどうした?」
「あぁ、
家入はやれやれと、屋上の扉へ向かう。
「じゃあ、私は戻る。何かあったらすぐ呼べ」
扉が閉じる音が響き、屋上には真依と真希だけが残された。
風が二人の髪を揺らす。
互いに向き合ったものの、どちらもすぐには言葉を発しなかった。
先に口を開いたのは真希だった。
「真依」
迷うように一度視線を落とす。
「その……すまなかった」
短い言葉の中には、あまりにも多くの意味が込められていた。
置いていこうとしたこと。
一人で強くなろうとしたこと。
真依の気持ちを知りながら、振り返ることができなかったこと。
そして、最後には自分の命まで背負わせたこと。
真依は呆れたように眉を下げた。
「何言ってるのよ、もう」
怒ることも、責めることもできた。
けれど、再び目の前に立つ姉を見ていると、そんな言葉はどれも必要ないように思えた。
真依は少しだけ笑う。
「護ってくれて、ありがとう。お姉ちゃん」
真希は一瞬目を見開き、それから表情を緩めた。
「ああ」
短く笑い、真依を真っ直ぐに見る。
「ありがとう、真依」
呪力を持たない姉。
呪力を棄て去った妹。
二人を縛り続けていた禪院家は、もうない。
互いを引き裂いていた呪いも、今はない。
呪いから解放された二人の姉妹の
それは、誰かに決められた道ではない。
一族の価値観に従うためでも、過去に復讐するためでもない。
二人が自分たちの意思で選び、並んで歩いていく人生だった。
しばらく街を眺めてから、真依が手を叩いた。
「さて。健康状態には問題ないってことだけど、ご飯でも行く?」
「そうだな」
真希は少し考え込む。
「まずは……」
「まずは?」
真依が首を傾げる。
真希は真剣な顔で答えた。
「憂太に説教しに行くか」
真依は一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「……ははっ。了解」
◆◆◆
その後、二人は乙骨憂太のもとを訪れた。
しかし、蘇った真希を目の前にした乙骨が人目も憚らず涙を流したため、真希の説教は当初の予定よりも大幅に短くなったという。
◆◆◆
死滅回游は、その機能を完全に失った。
結界の多くは消滅し、残されたものも順次解除されていった。
日本全国は決戦と死滅回游によって甚大な被害を受けたが、生き残った者たちの手によって復興が進められている。
瓦礫が撤去され、道路が繋ぎ直され、失われた街には少しずつ人が戻り始めた。
受肉した過去の術師である泳者についても、検討と対応が進んだ。
すべてが穏便に解決したわけではないが、無秩序な殺し合いは終わりを迎えつつあった。
完成した喪呪路には、日本全土の呪力が流れ込んでいる。
五条悟の遺志によりアップデートされた喪呪路は、集められた呪力を正のエネルギーへ変換し、各地へ循環させ続けていた。
その影響か、以前のように澱んだ空気を感じる場所は少なくなった。
人々から漏れ出した呪力が蓄積しにくくなったことで、自然発生する呪霊はほとんど姿を消した。
回収した呪力をエネルギーとして活用する案も次々に出ている。
呪霊による被害が完全になくなったわけではない。
特殊な条件下で生まれる呪いは今も存在している。
一方で、泳者を含む呪詛師による事件は僅かに増加した。
呪霊が減ったことで、呪術師たちの主な役割は、呪詛師や呪物による被害への対処へと移りつつあった。
呪いの存在は公のものになったものの、世界を満たす空気は以前より軽い。
少なくとも、呪いが生まれ続けることを当然として受け入れる時代は、終わりへ向かっていた。
◆◆◆
今は誰もいない、静かな部屋。
窓から差し込む柔らかな日差しが、床の上へ細長く伸びている。
机も椅子も、そこにいた者が少し席を外しただけのように残されていた。
窓辺には、千切れた黒いミサンガが置かれている。
風が吹き込むたび、切れた糸の先が僅かに揺れた。
「これからの彼らの――」
「――
――『呪術廻戦 喪呪路』 了
次があれば
題材を変えてみるのもいいかもしれない