――明治三十八年。煉獄家。
炎柱である父、槇寿郎は変わらず鬼殺隊の任務に励んでいるが、その背中からはどこか、熱が失われていた。
この屋敷に保護されていた伊黒小芭内は、槇寿郎の紹介によって、信頼できる水の呼吸の育手の元へと送られることになった。
そして、母である煉獄瑠火は、寝たきりになる時間が増えてきた。
そんな、今にも喪われそうな日常の中で。
長男である杏寿郎は、母の居室へと呼ばれていた。
「杏寿郎。あなたにこれを、託しましょう」
「母上、これは……?」
しばらく布団に寝たきりだった母の手は、やせ細っていた。
まだ十歳の杏寿郎は、こみ上げてくる涙を堪えながらも、母の手に視線を向ける。
母の手にあるのは、橙色の果実。いや、小ぶりな蜜柑がそこにあった。
「これは花枝様の力の結晶である、『トキジクの実』という物です」
「伯母上の? ……でも母上、これは蜜柑です」
「ふふ、そうですね。これは蜜柑にしか見えませんね」
僅かながらも、母が笑うと、杏寿郎も安心する。
しかし、すぐに彼女は杏寿郎の瞳を見つめて、言葉を続けた。
「ですが、杏寿郎。この実は永遠に褪せることのない常世の実なのです。あなたは、この実を大切になさい」
「はい」
母の目は、とても真剣だった。
杏寿郎はその実をしかと両手で受け取り、こくりと頷いてみせる。
手で持っただけでは普通の蜜柑のようにも思えた。けれど確かに、その実はなにか、不思議な力を秘めているような――そんな気がした。
「いつか、あなたが槇寿郎様のような立派な隊士になったとき、この『トキジクの実』がいったい何なのか、それを知る日が訪れることでしょう」
「はい」
「母は、自らの意志でその実をあなたに託すことを選びました。杏寿郎、あなたは――」
母は、そこで一度言葉を止めて、瞳を伏せた。そして再び、寂しげで、優しさのこもる瞳を杏寿郎へと向けた。
杏寿郎もまた、その瞳を見つめ返した。
「あなた自身の意志で、選びなさい。本当に、自分自身の心に従い、大切なものを、成すべきことを、その手で選び取りなさい」
「……はい。わかりました、母上」
言葉の意味はわからなかった。
けれど、その後すぐに杏寿郎は母に抱きしめられ、細くなってしまったその身体を感じて。
母の胸で、静かに泣いた。
◆ ◆ ◆
「ああ……伯母上。俺はまた、眠っていましたか……」
杏寿郎は、うっすらと瞳を開く。
目の前にはぼんやりと、巫女鬼――
彼女はここまで成長していただろうか、もしかしたらこれは夢なのではないだろうか、と。朧気な意識の中で杏寿郎は思うが、しかしすぐにそんな思考は何処かへと流れていく。
「伯母上、俺には、この命を懸けてでも、成し遂げたいことがあります。そして、あなたたちをいつか、救い出したいと思っています」
杏寿郎はしっかりと言葉を話しているつもりだが、もしかしたらうまく花枝に伝わっていないのかもしれない。
彼の目の前にいる、花枝の面影を宿した少女は、泣きながら、何かを伝えようとしている。叫んでいるようにも見える。
残念ながら、彼女が何を言っているのか、杏寿郎には聞き取れない。
「そのためならば、人ならざるものとなっても、俺はかまいません」
自らの意志を伝えた。
ぼんやりとする視界に意識を向ければ、目の前に映る成長した花枝の指先には、橙色の実があった。
さすがは伯母上、自分の頼みはすでにお見通しなのか、と。杏寿郎は、安堵の笑みを浮かべ。
「ですから、その『トキジクの実』を、頂きたく思います。伯母上」
杏寿郎は。
花枝の――禰豆子の指先が唇へと運んだトキジクの実を。
自らの意志で、受け入れた。
◇ ◇ ◇
「煉獄さん……煉獄さん……っ!!」
炭治郎は、禰豆子が差し出した小ぶりの蜜柑の房を杏寿郎が咀嚼し、飲み込む姿を見届けた。
けれど、杏寿郎は目を覚まさない。静かに目を閉じ、返事が返ってくることもない。
ただひたすらに杏寿郎の肩を揺する炭治郎だが、すぐにそこへ友の絶叫が飛んでくる。
「おい! 駄目だよ! 炭治郎! ここは駄目だ! 禰豆子ちゃんをはやく日陰に入れろ! 箱に入れろ!」
禰豆子。その名で炭治郎はすぐに我に返る。
今は善逸が自分の羽織や、乗客のものだったのであろう厚手のコートで禰豆子を朝日から庇ってくれているが、しかしこのままでは禰豆子が危険だ。
そしてすぐ、もう一人。
朝日に晒してはいけない人物がいることを思い出す。
「っ! そうだ、禰豆子だけじゃなくて、煉獄さんも早く日陰に! いま、煉獄さんは『トキジクの実』を食べたんだ!!」
「うおおおお、くそ、意味はわからねえけど、とにかく日陰まで運べばいいんだな! 俺が、俺がやってやる!! 猪突猛進、猪突猛進!!」
善逸が禰豆子を庇いながら、すぐ近くの木陰へと避難する。
伊之助と炭治郎は二人がかりで杏寿郎の身体を抱え、同じく木陰へと運んでいく。自分たちの身体の痛みなど、今はどうでもよかった。
遠くから、多くの隠たちが駆けつけてくるのが見えた。
今はまだ、杏寿郎が助かったのかどうかはわからない。
もしかしたら、もしかしたらもう――。
炭治郎はそんな不安を振り払い。絶望を振り払い。
今はただ、杏寿郎が無事に目を覚ますことだけを、祈り続けていた。
◆ ◆ ◆
――藤襲山。
隠れ里へと見知らぬ鎹鴉が飛び込んできたのは、その日の朝のことだった。
黄昏の世界では昼夜の区別はない。けれど、その鎹鴉の訪れは、どうしてかヤタガラスが教えてくれた。
『緊急! 緊急ゥッ! 炎柱・煉獄杏寿郎ガ上弦ノ参トノ戦イデ致命傷ヲ受ケ、意識戻ラズ煉獄家ヘ運ビ込マレタァッ!!』
鎹鴉は、里の者たちに伝わるように。
大きな声で、それを伝えていく。
『最期ニ、トキジクノ実ヲ食ベタトノ報告アリ! ダガ、生死不明! 生死不明ィッ!!』
それは、里のものたちの心から、とても、とても大切なものを奪うのに、十分な通達だった。
「……手鬼。皆さん」
境内で。
花枝が、黄昏に染まった空を見つめている。
住民たちは全員がそこに集い、真剣な表情を見せている。
「私は、煉獄家へ向かいます」
花枝の言葉に、異を唱えるものはいない。
悔しげに、悲しげに。拳を強く握るもの、肩を震わせるもの、ただただ俯くもの。その反応は様々だが、全員の心には、同じ想いが灯っていた。
「上弦たちは、わたしたちの大切なものを、二度も傷つけました。わたしはもう、許せません」
この日。
隠れ里の『あやかし』たちは。
鬼舞辻無惨を明確な敵と定めて、戦うことを。
決意した。
四章『炭と焔』了
五章『しあわせの箱』
9月14日(月)23時公開予定です