雨。
尸魂界の、どこか。
白壁の瓦礫を踏みしめ、六車拳西は立つ。
袖の無い羽織が濡れている。
対面に、白いフードのガキ。
星十字騎士団、グレミィ・トゥミュー。
ポケットに手を突っ込んだまま、少年が言う。
「六車拳西」
「ガキが」
地を蹴る。
瞬歩。
拳西の右手に握られているのは、刃の短いコンバットナイフ。
「吹っ飛ばせ――『断地風』」
空間が裂ける。
刻まれた太刀筋から透明な刃が走り、少年の首筋へと肉薄した。
硬い音が響く。
風の刃は、グレミィの肌に触れた瞬間に虚しく弾け飛んだ。
衣服の皺一つ変わりはしない。
「言ったはずだよ」
グレミィが首を傾げる。
「僕の想像力の前には、君の現実なんて届かない」
拳西は応えない。
ただ、フッと鼻で笑った。
「卍解」
「『鐵拳断風』」
ナイフが消える。
両拳を覆う鈍色のメリケンサック。両腕から背後へと、金属の装甲が絡みつく。
踏み込み。地が砕ける。
少年の視界が、一瞬で銀髪の男で埋まる。
顔面への直撃。
拳は離れない。
「あ、が……っ」
グレミィの目が見開かれる。
接地面から、無限の爆発が少年の内側へと叩き込まれ続ける。
「触れてる間は、ずっとだ」
白い仮面が、その顔を覆う。
「……面白いね」
連続する爆音の隙間から、少年の声が漏れる。
血を吐きながらも、グレミィの瞳は濁らない。
フゥ、と白い煙が立つ。
爆発の只中から、肉体が巻き戻るように再生していく。
「だけど、触れられなければ意味がない」
グレミィが、指を鳴らす。
頭上。空間が歪む。
黒い裂け目の奥から、巨影が這い出した。
数百、数千の、漆黒の外套。
大虚の大群。
不気味な白い仮面が、一斉に地上を見下ろす。
その口元に、赤黒い霊圧の光が灯る。
「壮観だろう」
いつの間にか、グレミィが二人になっていた。
「この数の『虚閃』を、君は全部防げるかい?」
拳西は、笑った。
仮面の奥の歯が、獰猛に剥き出しになる。
「舐めるなよ」
上空へと跳ね上がる。
落下する無数の光の奔流へ、ただ一人で突撃していく。
先頭の大虚の顔面に、拳がめり込む。
爆発。
肉薄する二体目の顎を蹴り上げる。三体目の喉笛をナイフの残光が裂く。湧き上がる黒い腕を次々にへし折り、踏み台にしてさらに高く跳ぶ。
だが、その背後。
数十の虚閃の光が、網の目のように交差し、拳西の身体を完全に呑み込んだ。
天空が赤黒く染まる。
「あははは! やっぱりただの――」
地上でグレミィが笑う。
だが、その笑みは途中で止かった。
光の奔流を突き破り、ボロボロになりながらも、なお次の大虚の頭部を叩き潰し続ける男の姿があったからだ。
仮面は半分砕け、剥き出しの肉がじくじくと焼けている。
拳を突き出すたび、自らの骨が軋む音が脳裏に響く。
それでも、男の眼光は消えない。
ひたすらに、目の前の敵を殺することだけ。
(……何だ、あいつ)
グレミィの胸に、冷たいものが走る。
六車拳西の戦い方は、どこまでもただの肉弾戦だ。
なのに、なぜ退かない。
(もし――)
少年の頭脳に、小さなノイズが走る。
大虚を爆破するたびに生じる気流の乱れが、いつの間にかグレミィたちの周囲の空気を、奇妙に循環させていた。
ただの風だ。だが、その微細な風圧の変化が、少年の耳の奥を、ほんの僅かに刺激する。
(もし、あの男の拳が、この数を全部抜けて――)
(僕の頭に、届いたら?)
「――待て」
一人が、呟く。
だが。
グレミィは深く息を吐き、もう一人の自分と目を合わせた。
「……いや。届くわけがないんだ」
その瞬間、グレミィの瞳から揺らぎが消える。
かつて地下の深淵に幽閉されていた頃に感じた、理屈を全て断ち切られるような終焉の気配。それと比べるには、目の前の死神の風は、あまりにも優しく、あまりにも秩序に満ちていた。
「君の執念はすごいよ。だけど」
グレミィが右手をすっと突き出す。
「僕の想像力は、君の『風の檻』くらいじゃ、もう揺らがない」
上空の大虚が一斉に吠える。
二重、三重の虚閃の面的な放射。
拳西の拳が、次の一体を砕いた瞬間だった。
避ける隙間のない光の壁が、彼の残った半身を完全に捉える。
「が、あ……っ」
仮面が完全に砕け散る。
鐵拳断風の装甲が、強烈な霊圧の奔流に耐えかねて悲鳴を上げ、一本、また一本と、肉ごと引き剥がされていく。
鍛え上げた矜持が、容赦なく磨り潰されていく。
それでも拳西は拳を引かない。
焼ける肉体のまま、なおも前へ進もうと地を蹴る。
だが、空中に新たな壁が生まれる。
それは鋼鉄よりも硬く、ダイヤモンドよりも密度が高い、目に見えない想像の断絶。
拳西の拳が、その透明な壁に弾かれた。
拳が触れて爆発するはずの『鐵拳断風』が、触れることすら許されずに停止する。
「終わりだよ」
地上のグレミィが静かに呟く。
上空から、無数の大虚が放つ光の雨が、限界を迎えた死神の肉体を容赦なく地面へと叩き落とした。
轟音。
土煙が晴れた戦場に、六車拳西は仰向けに倒れていた。
卍解は既に解け、衣服は消え失せ、全身が凄惨に焼け焦げている。指先一つ動かす力すら、その肉体には残されていない。
グレミィが歩み寄る。一人に戻った少年は、上から静かに九番隊隊長を見下ろした。
「君の言う『引かねえ覚悟』ってやつかな。それは確かに強かったよ」
フードの影で、金髪の少年が淡々と告げる。
「でもね。引かないまま消えてしまえば、それは最初から無かったのと同じなんだ」
拳西の視界が、次第に黒く染まっていく。
悔恨も、恐怖もない。ただ、目の前のガキの圧倒的な理不尽さに、フッと自嘲の息が漏れただけだった。
「……クソ……ガキが……」
それが、最後の言葉だった。
九番隊隊長の眼光から、完全に光が消え去る。
グレミィは興味を失ったように踵を返した。
ソウルソサエティの冷たい雨が、動かなくなった男の骸を静かに叩き続けている。