『本当は、死にたくありませんでした。』
その一文だけ、あとから書き足されていた。
インクは薄く、何度も消そうと水でこすった跡がある。それでも完全には消せず、紙の裏へ残った。
カイルは指で文字をなぞった。
「死にたく、なかった」
分かっていたはずだった。
十五歳の少女が、死を怖がらないはずはない。
けれど誰もが、心のどこかで美しい物語に逃げていた。リュシアは自ら犠牲を選んだ聖女だから。覚悟していたから。世界を救うことを望んだから。
彼女の選択を尊いものにすれば、奪われた命を仕方のないものにできた。
違った。
死にたくなかった。
修道院へ帰りたかった。店を開きたかった。蜂蜜菓子を食べ、髪を結ってもらい、くだらないことで笑いたかった。
それを全部奪われた少女が、最後までうまく演じただけだった。
「俺は」
カイルは終火の剣を見た。
「あいつが死にたいんだと思おうとした」
「そんなこと、一度も言ってない」とノア。
「分かってる。けど、自分から魔神を取り込んで、俺の剣の前へ立った。だから、きっと覚悟していたんだって」
「覚悟と、死にたいことは違うわ」
セレナの声は冷たかった。
自分へ向ける冷たさだった。
「怖いまま選んだ。逃げたいまま残った。私たちといたいまま、私たちを捨てた」
「では、私たちはどうすればよかったのでしょう」
エルドの問いに、誰も答えられなかった。
カイルが剣を刺さなければ、灰の軍勢が王都へ出た。
セレナが記録庫で無理に真実を聞けば、完全な封印は成立しなかった。
ノアが最後まで信じ、裏切り者と呼ばなければ、灰の王は愛情を道にしたかもしれない。
エルドが約束を破れば、同じ結末へ届かなかった。
誰か一人が別の選択をしても、リュシアは救えなかった。
それでも四人は、別の選択をした自分を想像せずにはいられない。
「あの子は、僕たちが憎めば楽になると思ったのかな」とノア。
「自分を愛したままでは、私たちが罪悪感に潰れると思ったのよ」とセレナ。
「実際、潰れかけています」とエルド。
「真実を話しても潰れる。話さなくても潰れる。リュシア、計画が下手だね」
ノアは涙の跡が残る顔で笑った。
「そうね。嘘も下手だった」
「料理もできなかった」とカイル。
「それはあなたでしょう」
一瞬の間のあと、三人が笑った。
カイルも遅れて笑い、すぐ泣いた。
一年間、四人は憎しみで立っていた。
カイルは裏切り者を討った責任で剣を握り、セレナは嘘を暴く怒りで坑道を掘った。ノアは二度と利用されないため一人になり、エルドは約束を守るため朝を迎えた。
けれど前へ進んだのではない。
同じ場所から目をそらし続けただけだった。
愛情は罪を消さない。笑いも悲しみを消さない。それでも一つの心に、全部を置いておくことはできる。
「どうすればよかったかなんて、もう分からない」
セレナは手紙を握った。
「でも、何をすればいいかは決められる」
彼女はエルドを見る。
「記録庫の頁は、本当に全部焼けたの?」
「儀式の条件が書かれた一頁だけ、残っています」
エルドが懐から、古い羊皮紙を出す。
一年間、肌身離さず持っていた。縁は焦げているが、聖女を憎む英雄が殺すという記述は読める。
「リュネの住民は百十二人。全員が証人です」とダレス。
「灰祷会の密書は偽物だった」とエルド。「印章の彫りが逆です。私なら証明できる」
「攻撃が急所を外していたことは、私が証言する」とセレナ。「焼け跡の記録も取ってある。坑道も掘り直す」
ノアが涙を拭った。
「僕は、看板を探す。リュシアの荷物、王城の遺品庫にあるんだろ」
「木彫りの猫も」とエルド。「彼女の鞄に残っていました。教会が灰祷会の呪物として封印しています」
「呪物じゃない」
ノアの耳が立つ。
「尾が二本ある、幸運の猫だ」
カイルは三人を見た。
「何をするつもりだ」
「リュシアの汚名をそそぐ」とセレナ。
「教会は真の儀式を隠していた。王国は私たちの証言で裏切りを歴史にした。今さら間違いだったとは認めない」
「認めさせる」とノア。
「簡単に言うな。記録を覆せば、教会と王家の権威が揺らぐ。俺たちは称号も地位も失う。リュネの住民も、偽証と逃亡の罪に問われる」
「だから何?」
ノアはカイルをにらんだ。
「また世界かリュシアかを選ぶの?」
言葉が突き刺さる。
「違う」
カイルは終火の剣を卓へ置いた。
「今度は、どちらも選ぶ」
「そんなきれいな方法はないわ」とセレナ。
「なら、汚い方法も使う。騎士団の記録庫へ入れる。討伐隊の報告原本と、改訂された歴史書を比べられる。王家がどこを書き換えたか分かるはずだ」
カイルは修道院の古い地図を広げた。
「明日の夜、俺とノアで王都へ入る。正門は英雄の顔を知りすぎてるから、北の排水路を使う」
「臭そう」とノア。
「得意だろ」
「獣人への偏見だ」
「路地で三か月寝ていた人間への評価だ」
「それは正しい」
ノアが地図へ身を乗り出す。
「遺品庫は僕が入る。猫と看板を見つけたら、先に修道院へ送る。捕まっても取り返されないように」
「私は学院へ戻る」とセレナ。「写した偽の歴史書を、信用できる教授たちへ配る。私一人を除名しても、記録までは消せないように」
「私はリュネの皆さんとベルクレアへ」とエルド。「記録庫の焼け跡を公に調査します。初代聖女アリアの名が、ほかにも残っているかもしれない」
アリア。
歴史から消された、千年前の少女。
「リュシアだけじゃないんだね」とノア。
「ええ。名を奪われた聖女は、ほかにもいます」
「なら全員、連れて帰ろう」
簡単に言うには大きすぎる仕事だった。
それでも、始める場所は見えた。
ダレスは百十二人の署名を集める。マルタ院長は辺境の修道院へ教会の秘儀を知らせる。五人で始めた旅より、今度の旅には多くの人が加わる。
空いていた席は、幸運を呼ぶためだけではなかった。
誰かが新しく座るために、空いていたのだ。
「犯罪ですよ」とエルド。
「元灰祷会に言われたくない」
「確かに」
一年ぶりに、ごく小さな笑いが起きた。
笑ってしまったことに全員が戸惑い、すぐに黙る。
マルタ院長が薬草茶を飲んだ。
そのとき、正門の鐘が三度鳴った。
修道女が慌てて礼拝堂へ入る。
「王都大聖堂の方々です。灰祷会の残党を捕らえに来たと」
エルドが立ち上がる。
「私ですね」
「手紙のことが漏れた?」とセレナ。
ダレスが住民たちを礼拝堂の奥へ下がらせる。
扉が開き、白い法衣の審問官が六人入ってきた。先頭の男はカイルを見ると、丁寧に頭を下げる。
「灰断ちの英雄殿。背教者エルドが、裏切り者リュシアの名を用いて虚偽を広めているとの報告を受けました」
「誰から」
「お答えできません。彼の身柄と、所持する記録をお渡しください」
審問官の目が卓上の羊皮紙へ向く。
「それは大聖堂から盗まれた禁書です」
「ベルクレアの記録庫にあった」とセレナ。
「教会に属する聖遺物は、すべて大聖堂の所有です」
「聖女の命も?」
セレナの問いに、審問官は答えなかった。
「これは王国と教会の秩序に関わる問題です。英雄の皆さまが、罪人の戯言に惑わされぬことを願います」
カイルは胸の騎士章を外した。
一年間、どれほど嫌っても捨てられなかった英雄の印も、続けて卓へ置く。
「カイル・レインフォード正騎士として命じる。修道院から出ていけ」
「教会の審問権は騎士団より上です」
「なら今のは、リュシア・アルヴェインの幼なじみとしての頼みだ」
終火の剣を抜き、床へ突き立てる。
「断るなら、頼み方を変える」
ノアが短剣を回し、セレナの杖に氷が集まる。エルドも逃げず、三人の横へ立った。
審問官はリュネ住民の顔を見た。
死んだはずの者たちだと気づき、顔色を変える。
「本日のことは、大聖堂へ報告します」
「正確にね」とセレナ。「あなたたちの得意な書き換えはせずに」
六人は去った。
正門が閉まる音を聞き、カイルは騎士章を見下ろした。
「これで後戻りできないわよ」
「一年前から、戻る場所なんてない」
「あります」とマルタ院長。
修道院を示す。
「ただし、逃げ帰る場所ではない。やるべきことを終えた者が帰る場所だ」
カイルは騎士章を拾わなかった。
「笑えばいい」
四人を見る。
「あの子は、お前たちを泣かせるために守ったのではない」
「でも、忘れるみたいで」とノア。
「忘れずに笑うこともできる。人間の心は、一つしか入らないほど小さくない」
院長は五つ目の空席を叩いた。
「この席に、あの子を縛りつけるな。死んだ者のための席ではない。いつか、ここへ新しい誰かを座らせなさい」
「五つ目は、リュシアの席だよ」
「そう思うなら、店を六人掛けにすればよい」
ノアは泣きながら笑った。
「院長、頭いいね」
「今ごろ気づいたか」
午後、四人は修道院の裏山へ登った。
大きな樫の木の下に、小さな墓標がある。遺体はない。エルドが赤い外套から集めたひとつまみの灰と、焼けた青い髪紐の金具だけを納めた。
石には名前だけが刻まれている。
『リュシア・アルヴェイン』
聖女とも、裏切り者とも書かれていない。
セレナは青い髪紐を新しく結び、墓標へ置いた。
「今度は曲がってないわよ」
ノアは五つの小石を並べた。一つだけ少し離し、考え直して六つ目を置く。
「五つ灯亭は、絶対に作る。獣人も人間も、金がない奴も入れる店にする。床で食べたいって言っても、椅子へ座らせる」
エルドは古い祈祷書を墓前へ置いた。
「皿洗いの席を、残しておいてください」
「割ったら弁償」とノア。
「努力します」
旅のころと同じ返事に、また少し笑った。
カイルは最後まで何も置けなかった。
終火の剣を墓標へ立てかけようとして、やめる。この剣はリュシアを殺した。同時に、彼女の願いを叶えた。憎むことも、手放すこともできない。
「俺は、英雄をやめる」
三人へ言う。
「騎士の地位も返す。この剣と公式記録を持って、国王の前で証言する」
「捕まるわよ」とセレナ。
「脱獄は僕が得意」とノア。
「まだ捕まってない」
「先に決めておこうよ」
「私は教会の封印記録を探します」とエルド。「灰祷会の残党にも、初代儀式の口伝が残っている。私が戻れば殺されるでしょうが」
「死なせないわ」とセレナ。
「心強い」
「死ぬ前に全部しゃべらせるという意味よ」
「さらに心強い」
セレナは杖を肩へ担いだ。
「王立学院にも協力者はいる。教会が隠した儀式を公にすれば、次の聖女が同じ目に遭うことも防げる」
次の聖女。
その言葉で、カイルはようやく分かった。
リュシアの名誉を取り戻すことは、死者のためだけではない。
これから生きる誰かが、自分の命を数から外されないためだ。
「世界を敵に回すことになる」とカイル。
「一度、世界を救ったんだ」とノア。「今度は喧嘩するくらい、いいだろ」
「喧嘩で済むかしら」
「済ませるよ。僕、接客係だから交渉もうまい」
「初耳ね」
「今決めた」
風が樫の葉を揺らした。
灰のない青空から、春の光が落ちる。
カイルは墓標の前へ膝をつき、石の名に触れた。
「リュシア」
一年前、神殿で呼べなかった名前。
「迎えに来るのが遅くなった」
答えはない。
それでも今度は、言葉の続きを飲み込まなかった。
「帰ろう」
修道院へ、ではない。
彼女の名が裏切り者として刻まれた歴史から、本当の彼女がいた場所へ。
四人は墓標へ背を向けた。
王都へ向かう道は長い。
教会も、王国も、彼らを英雄に仕立てた世界も、簡単には真実を認めないだろう。
それでも歩き出す。
傷を抱えたまま。
憎むことも、愛することも、忘れずに。
灰の向こうにある明日へ。