【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
小さな居間では、メアリーが机へ向かい、宇宙用生命維持設備の検査基準書を読んでいた。工場の制服も検査員の識別証もまだなく、壁に貼られているのは技能証明書ではなく、翌日の採用試験の日時と会場が記された通知書であり、机の上には何度も読み返したらしい資料と、表面傷の深さや材質の違いを書き写した紙が重ねられていた。
「お久しぶりです、ムルタさん。せっかく来てくださったのに、工場までご一緒できなくて、ごめんなさい」
「謝る必要はありません。あなたはまだ工場の従業員ではなく、今度の試験を受ける立場なのですから、部外者として見学へ同行するより、試験に備えるほうが合理的です。それより、体調はいかがですか」
「重力にも空気の匂いにも、まだ慣れません。到着した日は何度も吐きましたけれど、今日は食事も取れましたし、今度の試験は受けられます」
「受けられることと、合格できることは別ですよ。地球で十年以上検査をしてきた経験は評価しますが、宇宙用部品は同じ基準ではありませんし、今日工場で見た部品も、僕には傷か加工痕か判断できませんでした」
「分かっています。だから、自分の経験だけで大丈夫だとは思わず、できる限り勉強しておきます。試験を受ける機会まで用意してもらったのですから、あとは自分の力で合格したいんです」
「その考えで結構です。僕が用意したのは機会であって、合格という結果ではありませんから、遠慮なく実力を示してください」
「母さん、ムルタは応援してるのか脅してるのか、どっちなんだ?」
「両方でしょう。でも、何もできない人として慰められるより、私はこのほうがいいわ」
「アーサーよりは、僕の言葉を理解していますね」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味です」
食卓には豆の煮込みと合成肉の焼き物、配給所で受け取った葉物が並び、豪華な食事ではなかったものの、湯気と皿の音が近く、船の食堂よりもずっと温かく感じられた。人数分の椅子がなかったため、ジンネマンが工具箱を裏返して座ろうとすると、メアリーがすぐに止めた。
「ジンネマン、あなたが椅子を使いなさい。今日はお客様でしょう」
「毎日来てるから、もう客じゃありません。それに、俺は工具箱で平気です」
「到着から一か月もたっていないのに、毎日来ているのですか」
「兄貴が夕食を一人分多く作っても、母さんは怒らないって言ったから」
「俺は、そんな言い方してないだろ。ジンネマンが飯を一人で食う日があるなら、こっちで食えばいいって言ったんだ」
「それを毎日来ていいと言うんです」
「言わない」
「では、今日は来てはいけなかったのですか」
「そうは言ってない!」
「見事に扱われていますね、兄貴」
「ムルタ、お前は楽しんでるだろ」
「多少は」
結局、アーサーが工具箱へ座り、狭い部屋に笑い声が広がった。
食事が進むにつれて、話は工場の近況から広場の集会へ移り、メアリーは煮込みを取り分けながら、「私はまだここへ来たばかりで、自治や独立について何かを決められるほど知っているわけではありません。でも、地球にいた頃より仕事の選択肢があり、失敗しても訓練を受けられる制度があると聞いて、ここならやり直せるかもしれないと思いました」と率直に語った。
「その制度も、僕の会社が投資した工場の制度です。試験に不合格だった場合でも、基礎技能が認められれば、再訓練を受けたうえで再受験できるようにしています」
「最初から落ちた場合の話をしないでください。もうすぐなのに、母さんが緊張するだろ」
「不合格になる可能性を考えないほうが危険です。制度とは、失敗する人間がいることを前提に用意するものでしょう」
「本当に言い方が嫌な奴だな」
「でも、失敗しても終わりではないと分かるのは、ありがたいわ。地球では、一度仕事を失ったあと、もう一度始める場所を見つけられなかったから」
欠乏を埋めれば満足が得られると考えるのは、与える側にとって都合がよく、受け取った側が、なぜ自分たちには最初から選択肢がなかったのか、なぜやり直すための制度まで遠くの誰かに決められなければならないのかという次の問いを持つことまで、僕は勘定に入れていなかった。
「お前の会社のおかげで、俺たちがここへ来られたのは本当だ。母さんが試験を受けられるのも、お前が話をつけてくれたからだし、俺もそのことには感謝してる」
「感謝を請求した覚えはありませんし、感謝を担保に何かを要求するつもりもありません」
「だから言ってるんだ。俺は感謝してるし、そのことは隠さない。でも、お前の金でここへ来られたからといって、地球の言うことを何でも聞けという話にはならない」
「僕は地球の代表ではありませんよ」
「サイド3の人間から見れば、地球から来た大金持ちで、連邦軍の少尉を連れて、工場へどれだけ金を入れるか決められる人間だ。お前が自分を何だと思っていても、周りが同じように見るとは限らない」
サザーランド少尉は何も言わず、煮込みを食べていた。
「連邦側から見れば、僕は現地企業へ金を流し、自治派と親しい人間の家で夕食を取っていることになります。どちらから見ても都合よく解釈されることくらい、分かっていますよ」
「それなら、中立だとか、工場を見に来ただけだとか言って逃げるなよ。ここへ来た時点で、お前はもう見物人じゃない。何も言わずに街を歩くだけでも、あの大金持ちは俺たちに賛成したとか、連邦の様子を探りに来たとか、どっちかの都合に合わせて利用されるぞ」
「それでは、僕に何をしろと言うのです。独立派へ金を出せば満足ですか。それとも、連邦との交渉を引き受ければよいのですか」
「それは自分で決めろよ。俺たちが、自分たちのことを自分で決める権利が欲しいって話を、お前は今日ずっと聞いてきたんだろ。だったら、お前が何をするかまで俺に決めさせるな」
僕は返す言葉を失った。中立とは、両方から同じ距離に立つことではなく、金も会社も人脈も持つ者が何も選ばないという選択をすれば、それだけで現在の仕組みを支える力になり得る。
しかし、だからといって独立派へ肩入れすればよいというほど単純でもなく、輸送、金融、食料、防衛、外交、通貨と、一つの社会が地球から離れるために支払う値段は、演説の勢いだけで払いきれる額ではなかった。
僕なら連邦と自治派の間に交渉の席を作れるかもしれないが、同時に双方から裏切り者と呼ばれる可能性もある。仲介役とは橋のようなもので、平時には便利に渡られ、争いが始まれば相手が渡ってこないように最初に落とされる。
「ムルタ、また難しい顔をしてるぞ。これで二回目だ」
「今日はもう三回目です。港と、工場と、いまです」
レイが訂正すると、ムウが指を折りながら、「そうだったか? じゃあ次で四回目だな」と言った。
「数えなくていいのですよ。人が真剣に悩んでいる横で、回数を記録しないでください」
「悩めるようになったなら、少しはまともになったじゃないか。お前、何でも金を出せば片づくと思ってそうだからな」
「あなたにだけは、まともになったなどと言われたくありません」
「俺は最初からまともだぞ」
「到着して一か月で、十歳の舎弟を連れている人間の、どこがまともなのです」
「こいつは舎弟じゃない!」
「兄貴、諦めたほうがいい。俺はもう舎弟として紹介された」
「俺は一度も紹介してない!」
笑いが戻ったあと、ラウがメアリーの試験通知を見ながら、「自分たちで決める権利を持つなら、決めた結果も自分たちで引き受けなければならない」と言うと、メアリーは静かにうなずいた。
「そうね。自由というのは、自分が決めたあとで、失敗だけを誰かに片づけてもらえることではないもの。次の試験だって、受ける機会を用意してもらったからといって、ムルタさんに合格させてもらおうとは思っていないし、落ちれば自分に足りなかったものを覚えなければならないわ」
「落ちると決まったわけじゃないぞ、母さん」
「もちろん合格するつもりよ。でも、失敗を考えることと、最初から諦めることは違うでしょう」
「自分たちで決めることも、怖い?」
レイが尋ねると、メアリーは少し考えてから答えた。
「怖いわ。思っていたより悪い結果になるかもしれないし、自分の選択が間違っていたと知るかもしれない。それでも、自分で選んだ結果なら、次にどう直すかも自分で考えられるでしょう。怖いけれど、それでも欲しいの」
その答えは、広場で聞いたどの演説よりも強く僕の中に残った。
食後、メアリーが茶を入れ、ジンネマンが皿を重ね、アーサーが手伝うふりをして一枚落としかけると、ムウが「工場では黄色い線から出るなと言われてたけど、家では皿に触るなと言われたほうがいいんじゃないか」と笑い、アーサーも「お前だって船でコップを倒しただろ」と言い返し、二人はどちらが不器用かという、勝者の存在しない争いを始めた。
レイは机の上の検査基準書を眺め、ラウは窓の外の人工の夜を見ており、狭い部屋には、先ほどまでの政治の話が嘘のような穏やかな時間が流れた。
「ムルタ、今度こそ手紙を書けよ。本人が来たから返事は省略した、なんて言い訳は次には使えないからな」
「あなたこそ、読める字を書く練習をしておいてください。解読できない手紙には返事をしませんよ」
「まだ俺の字を見たこともないだろ」
「あなたの性格から、容易に予測できます」
「絶対に、お前よりきれいな字で書いてやる」
「それでは、楽しみに待つことにしましょう」
だからこそ、玄関の呼び出し音は場違いなほど大きく響いた。
サザーランド少尉が立ち上がり、扉の外に来た自治政府の職員から薄い封筒を受け取った。封にはサイド3自治政府の印が押されており、少尉は表書きを確かめてから僕へ差し出した。
「アズラエル様宛ての正式な面会依頼です。届けるのは今夜ですが、返答は明朝まででよいとのことです」
「ずいぶん急ですね。相手は、こちらが到着する前から準備していたのでしょうか」
「少なくとも、あなたが誰と会い、どの工場を見て、今夜どこで食事を取っているかは把握しているのでしょう」
「あなたの警告どおり、夕食まで政治になったわけですか」
「この街では、食卓を囲む相手も立派な意思表示になります」
僕は封を切った。紙は上等だったが文章は短く、サイド3の将来と、人類が宇宙で迎える新しい時代について意見を交わしたい、とだけ記され、その下に日時と場所、そして差出人の署名があった。
新しい時代とは、いかにも政治家が好みそうな大きな言葉であり、普通なら投資を引き出したい人間の誇大広告として読み流すところだったが、署名を目にした瞬間、胸の奥へ小さな棘が刺さったような違和感が走った。
どこかで聞いたことがある。人の名前だったのか、国の名前だったのか、それとも、まだこの世界には存在していない何かの名前だったのか、記憶の棚を探っても答えは出てこない。
「誰からの手紙なんだ? さっきから黙ったまま、同じところを何度も読んでるぞ」
アーサーが僕の肩越しにのぞき込んだが、僕は答えず、最後の一行だけを声に出さずに読み直した。
差出人の欄には、ジオン・ズム・ダイクンとあった。