【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
サザーランド少尉が扉の前で足を止めると、待っていた職員が内側から鍵を開けた。案内された部屋は、執務室というよりも会議室と資料倉庫を無理に一つへまとめたような場所で、壁際の棚には自治制度、人口推移、輸送税、教育費、生命維持設備に関する書類が隙間なく詰め込まれ、机の端には各地で予定されている演説会と討論会の日程表が積まれていた。
高価な絵画も、権威を示す旗も、軍人の姿もなく、窓際に置かれた観葉植物だけが灰色と茶色ばかりの部屋へ色を加えていたが、その葉先は少し乾いていた。
机の向こうから立ち上がった男は、僕が想像していたより痩せていた。年齢以上の疲労が目の周囲へ刻まれ、着ている服も地球の政治家が好む仕立てのよい礼服ではなく、何度も袖を通したことが分かる地味な上着だったが、こちらへ歩み寄る姿に迷いはなく、視線を向けられた瞬間、自分が観察されているのではなく、自分の背後にある会社、資本、人脈までまとめて見られているような感覚を覚えた。
彼こそが——ジオン・ズム・ダイクン。最近サイド3へ来たばかりの思想家である。
「ムルタ・アズラエル君、急な招待に応じてくれたことへ感謝する。君の年齢を考えれば、もっと柔らかい言葉で迎えるべきなのだろうが、十二歳の少年として扱われるためにここへ来たわけではないだろうから、最初から一人の経済人として話をさせてもらいたい」
「年齢を理由に話を簡単にされるよりは助かりますが、僕は経済人として事業を見に来ただけで、政治運動へ参加するためにサイド3まで来たわけではありません。その点を最初に確認していただけるなら、こちらも率直にお話しできます」
「それは確認ではなく、君が私へ飲ませたい条件ではないかね」
「条件を提示する前に交渉を始める人間は、後から提示された条件へ文句を言う資格を失います。お互いに時間を無駄にしないためにも、先に申し上げただけですよ」
ダイクンは僕の差し出した手を握り、すぐには離さなかった。力を誇示するほど強く握るわけでも、子どもへ配慮して弱く握るわけでもなく、相手が手を引くまで待つような握手であり、先に手を離した側が何かを譲ったことになるような気がしたので、僕もしばらく待ったが、こちらが意地を張っていると気づいた彼が小さく笑い、ほとんど同時に手を離した。
「噂どおり、君は何でも取引にするらしい。では、条件を承知したうえで話そう。私は、君が政治運動へ参加するためにサイド3へ来たとは考えていないが、君がサイド3で行っている事業は、すでに政治の一部になっていると考えている」
「僕を政治的に活用するのは、やめていただきたいですね。僕が資金を出したのは工場、住宅、水再生設備、輸送網であって、演説台や政党事務所ではありません。空調装置へ自治派と反自治派を見分ける機能はありませんし、水も利用者の思想を調べてから蛇口から出るわけではないでしょう」
「だからこそ政治なのだよ。人がどこで働き、どこへ住み、どの水を飲み、子どもをどの学校へ通わせるか、その選択肢を増減させる力を、政治と呼ばずに何と呼ぶのかね。君の投資によって新しい職が生まれ、地球から移住してきた家族が住み、昨日まで諦めていた者が明日の計画を立てられるようになった。君が投票箱へ触れていなくても、君の金はすでに何千人もの生活へ票を投じている」
「その理屈なら、パン屋も政治家になってしまいますよ。パンの値段を一割上げれば、住民の食卓と不満へ影響するのですからね。政治という言葉をどこまでも広げれば、最後には人間が息をすることまで政治になり、本来責任を負うべき政府の輪郭が見えなくなるでしょう」
「パン屋が政治家だとは言わない。しかし、百万人分の小麦をどこへ運ぶか決められる者は、本人が望むかどうかにかかわらず、政治的な力を持つ。君は一軒のパン屋ではない。工場を建て、船を動かし、銀行から金を引き出し、官僚へ認可を急がせることができる。自分の力を単なる商売だと言い換えるのは、謙虚ではなく責任の回避ではないのかね」
「僕が責任を回避していると決める前に、政府が果たしていない責任を僕へ押しつけていないか、確かめていただきたいですね。税を徴収し、法を定め、行政官を任命しているのは僕ではありません。彼らが放置した不足を、僕が利益の出る事業として埋めたからといって、今度は政治的責任まで引き受けろと言われるのは、いささか都合がよすぎます」
「その点については、あなたの指摘にも理があります」
黙っていたサザーランド少尉が口を挟むと、ダイクンは責めるような目ではなく、続きを促すように彼を見た。
「連邦政府が徴税と認可の権限を維持しながら、生活基盤の不足を民間資本へ補わせていることは事実です。その一方で、アズラエル様の企業が行政より速く住民の生活へ影響を与えていることも否定できません。問題は、どちらか一方だけが政治をしているということではなく、誰が決めたのか住民から見えない決定が増えていることではないでしょうか」
「地球連邦の軍人から、その言葉を聞けるとは思わなかった」
「私は連邦政府の政策すべてを肯定するために軍服を着ているわけではありません。しかし、地球という一語で政府、官僚、企業、労働者、貧困層まで一つにまとめられるなら、それにも異議を申し上げます。サイド3の住民が一枚岩でないように、地球の人間も一つの意思で動いているわけではありません」
「分かっている。だが、制度として意思を示す場を独占しているのが地球である以上、我々は地球へ向かって要求を突きつけなければならない。声を上げる相手を細分化しすぎれば、誰も責任を取らないまま、問題だけが残る」
「責任を求めることと、敵を一つにまとめることが同じにならないよう、ご注意ください。敵は大きく単純に見せたほうが、人を集めやすいものですから」
ダイクンとサザーランド少尉の視線が正面からぶつかったが、どちらも声を荒らげず、相手の言葉を最後まで聞いてから返していた。昨日の広場より音量は小さいのに、言葉の一つ一つが置かれるたび、机の上へ見えない境界線が引かれていくようだった。
「アズラエル君、君は連邦の欠点を見抜き、サイド3の不満も理解しながら、どちらにも属さないと言う。しかし、旗幟を鮮明にしない八方美人は、最後には双方から蝙蝠と呼ばれ、誰からも信用されなくなる。地球とサイド3の間を飛び回れば、両方の景色を見られるかもしれないが、争いが始まったとき、どちらからも最初に撃たれるのは空を飛んでいる者だ」
「ずいぶん物騒な忠告ですね。しかし、右の旗か左の旗を選ばなければ責任ある人間ではないという考えには賛成できません。僕が選びたいのは旗ではなく、具体的な行動です。空調を改善する、住宅を建てる、輸送費を下げる、学校を増やす、その一つ一つについて責任を負うことはできますが、未来に何をするか分からない集団へ、今日のうちに忠誠を誓うつもりはありません」
「では、連邦が君の工場を軍需生産へ転用するよう命じたら断るのか。自治運動を監視するため従業員の名簿を渡せと言われたら拒むのか。我々が独自の行政機構を作り、その設備へ出資を求めたなら応じるのか。具体的な行動を選ぶと言うなら、抽象的な中立ではなく、その場ごとの答えを聞きたい」
「軍需生産への転用は、契約と法律を確認したうえで可能な限り拒否します。思想調査のための名簿提供には応じません。生活に必要な行政設備なら、所有と会計と利用条件を確認し、利益か社会的効果が見込めれば出資します。ただし、あなたの支持者が使うから出す、連邦の官僚が使うから出さない、という判断はしません。これで旗の代わりになりますか」
「旗ほど分かりやすくはないが、白紙よりはよい。君は、どちらにも従わないという立場を選び、そのためなら双方と衝突する覚悟もあるらしい」
「衝突は避けたいですよ。人と殴り合うより、札束で頬を叩いたほうが、こちらの手も痛みませんからね」
「金で殴られた側は、もっと痛むのではないかね」
「痛みを感じるほど金を受け取ったなら、少なくとも治療費には困らないでしょう」
ダイクンは一瞬きょとんとしたあと、声を立てて笑った。控えめに笑う政治家の作法を知らないのか、意識して使わないのか、疲労の刻まれた顔がそのときだけ若く見え、隣の職員まで驚いたように彼を見た。
「なるほど、君と話した者が、腹を立てながらも次の約束を取りつける理由が分かった。では、私からも抽象論ではなく、君がここで何を見たのか聞こう。サイド3は、地球から切り離されるべきだと思うかね」
「昨日一日見ただけの十二歳へ、社会全体の進路を決めさせないでください。僕が見たのは、休みなく働く工場と、値上がりする空気と水、増え続ける労働者、足りない住宅、地球側の認可を待つ設備、自治を求める教師、独立を叫ぶ活動家、その集会を迷惑がる商店主です。地球から切り離せばすべて解決するとも思いませんし、地球の管理下へ置いておけば安全だとも思いません」
「それだけ見えていれば十分だ。多くの者は、自分に都合のよい一つしか見ようとしない。我々が求めているのは、単に税を減らし、議席を増やし、役人を現地から選べるようにすることだけではない。人類が宇宙へ出たにもかかわらず、地球の重力に縛られていた時代の制度と考え方を、そのまま宇宙へ持ち込んでいることが問題なのだ」
「重力に縛られた制度という表現は演説向きですが、具体的には何を指していますか。徴税権ですか、議会制度ですか、それとも地球居住者を優先する行政慣行ですか」
「それらすべてであり、さらにその根にある人間の意識だ。地球では土地も空気も水も、自分が生まれる前からそこにあるものとして扱える。遠くに住む者の生活を知らなくても、すぐには自分の呼吸へ影響しない。しかし、コロニーでは違う。誰かが水を浪費すれば再生設備へ負担がかかり、誰かが小さな亀裂を見落とせば、同じ区画に住む全員の命が危険にさらされる。宇宙では、自分一人だけが周囲から切り離されて生きることはできない」
「それは人間が立派になったのではなく、設備上の都合で協力を強制されているだけではありませんか。空気を共有しなければ死ぬから規則を守る、それを人類の進歩と呼ぶなら、地球でも水道料金を上げれば文明が進歩しそうですね」
「最初は強制で構わない。環境によって求められた行動が習慣となり、習慣が価値観を変え、その価値観を持って育った子どもたちは、我々とは違う方法で他者を見るようになる。人類は、環境へ適応することで生き延びてきた。宇宙という新しい環境が、人間の肉体だけでなく、感覚と精神へ変化を求めることも不思議ではないだろう」
「世代が変われば価値観も変わるという話なら理解できます。しかし、それは教育と生活習慣の違いであって、人間そのものの革新と呼ぶのは大げさではありませんか。商品名なら、大げさなくらいが売れますけれど」
「商品として売るつもりはないよ。これは、まだ証明された学説でも、完成した政治綱領でもない。宇宙へ進出した人間が、距離や立場を越えて他者を感じ、地球にいた頃より深く理解し合えるようになる可能性を、私はそう呼んでいる」
ダイクンはそこで一度言葉を切り、僕が理解できているかを確かめるように見つめたあと、ゆっくりと、その名を口にした。
「ニュータイプ、と」
その瞬間、部屋の空調音が消えた。