本日二度目の投稿です。
島から帰還して数日後。
次郎は病院の個室で、窓の外を眺めていた。
白い壁。
無機質な医療機器。
消毒液の匂い。
ベッドの脇には、検査結果をまとめた分厚いファイルが置かれている。
今回の件で負った右肩の銃創や崖から落下してできた傷は、すでに完全に修復していた。
それだけなら、いつものことだった。
問題は――プラーガだった。
あれほど激しい拒絶反応を起こした以上、体内に何らかの痕跡が残っている可能性は否定できない。
そのため帰還後すぐに精密検査を受けることになった。
血液検査。
画像診断。
組織検査。
神経系の検査。
さらに、プラーガの残留を確認するための特殊検査まで行われた。
全く同じ検査をエレンも受けている。
そして。
「結論から言います」
担当医がファイルを閉じた。
「プラーガによる影響は確認されませんでした」
次郎は小さく頷いた。
「完全に?」
「はい」
医師は検査結果を確認しながら続ける。
「寄生痕もありません」
「神経系への異常もなし」
「脳機能にも問題はありません」
「少なくとも、現在の医学的な検査ではプラーガが体内に残っている形跡は確認できませんでした」
次郎は肩の力を抜いた。
「そうか」
これで一つの問題は片付いた。
しかし。
次郎には以前から気になっていたことがあった。
「先生」
「はい?」
「少し気になっていたことがあるんだが」
「何でしょう」
次郎は自分の腕へ視線を落とす。
「俺の体液は……他人に感染したりするのか?」
医師が僅かに目を見開く。
「Tウイルスやレイジウイルスのことですね」
「ああ」
次郎は淡々と続ける。
「例えば、俺が怪我をして血が出た場合」
「その血液が他人の粘膜に付着したらどうなるのか」
「輸血なんかをした場合も含めて」
医師はしばらく考えるように沈黙した。
そして、慎重に口を開く。
「その点についても、以前からの研究で確認しています」
「結論から言えば――感染する危険はありません」
「……本当に?」
「はい」
医師は検査データを一枚取り出した。
「あなたの場合、Tウイルスとレイジウイルスが通常の感染状態とは違い、完全に共生しています」
次郎は黙って聞いている。
「二種類のウイルスがあなたの細胞と一体化している状態です」
「どちらか一方が単独で増殖しているわけでもない」
「体内で安定した共生関係を形成しているため、あなたの体液を介して他者へ感染する状態にはなっていません」
「つまり?」
「あなた自身が感染源になることはありません」
次郎は少しだけ安心した表情を浮かべた。
「そうか。それならよかった」
「気にされていたんですね」
「まあな」
次郎は苦笑する。
「自分が知り合いに感染させる可能性があるなら、さすがに怖いから」
「当然の心配だと思います」
医師はそう答えながら、手元の資料へ視線を落とす。
そして。
少しだけ表情が変わった。
「ただ……」
「ん?」
「別の意味では、非常に重大な問題があります」
次郎が首を傾げる。
「問題?」
「あなたの血液データです」
医師は検査結果を机へ並べた。
「正直に言います」
「このデータは、医学研究の観点から見れば世界最高レベルの価値があります」
「……そんなに?」
「はい」
医師の声には、隠し切れない興奮が混じっていた。
「Tウイルスとレイジウイルス」
「本来なら、どちらも人間の身体にとって極めて危険な存在です」
「ところがあなたの場合、その二つに完全に適応、共生している」
「しかも、肉体機能を維持したまま」
次郎は黙っている。
「免疫系」
「細胞の再生機構」
「代謝」
「神経系」
「どのデータを見ても、既存の医学では説明しきれない部分があります」
医師は一枚の検査結果を指差した。
「特に、ウイルスと人体の共生状態」
「これは、現在の医学ではほとんど前例がありません」
「もしこのデータを解析できれば、ウイルス感染症の治療研究そのものが大きく進む可能性があります」
次郎はしばらく黙っていた。
「……たかが血液一つが、そんなに価値があるとはな」
「研究者からすれば、とんでもない価値ですよ」
医師は苦笑する。
「ただし」
表情が真剣になる。
「これはあなたの身体から採取したものです」
「本人の同意なしに利用することはできません」
「それに、研究価値が高いからといって、好きなだけ採血していいものでもありません」
「確かにそうだな」
次郎は小さく頷く。
そして、検査結果へ視線を落とす。
「じゃあ、俺の身体には問題ないと」
「はい」
「プラーガも残っていない」
「ありません」
「血液から他人へ感染する危険もない」
「ありません」
「……なら、もうここに用はない」
次郎はベッドから立ち上がった。
医師が少し驚いた顔をする。
「もう帰るんですか?」
「ああ」
「まだ詳しい説明が――」
「必要なことは聞いた」
次郎は上着を手に取る。
「それに、病院は長居する場所じゃないだろう」
医師は苦笑した。
「それは確かに」
次郎は扉へ向かう。
しかし、最後に一度だけ振り返った。
「先生」
「はい」
「俺の血液データ」
「もし研究に使うなら、良い事に役立ててくれ」
医師は一瞬だけ目を丸くした。
そして静かに頷く。
「分かりました」
「ありがとう」
次郎はそのまま病室を出ていった。
扉が閉じる。
静かになった部屋で、医師は改めて検査データへ目を落とした。
そこに並んでいるのは、医学史そのものを書き換える可能性を秘めた数字の羅列。
だが。
その価値を持つ本人は、そんなことなど気にする様子もなく、病院の廊下を歩いていた。
自分の身体に異常がない。
それだけ分かれば十分だった。
次郎にとって、それ以上に重要なことはなかった。
◇
数日後のロンドン郊外。
朝の柔らかな日差しが、キッチンの窓から差し込んでいた。
フライパンの上でベーコンが焼ける音がする。
次郎は慣れた手つきでフライパンを二つ同時に使い、ベーコンとオムレツを焼き、皿へ盛り付けていく。
トーストとサラダを添える。
最後にコーヒーを二人分淹れた。
「朝から豪華ね」
背後から声がする。
振り返ると、エレンがキッチンの入口に立っていた。
「おはよう、エレン」
「おはよう、アリス」
エレンは眠そうに目をこすりながら、テーブルへ向かう。
「座っててくれ。すぐ終わる」
「手伝おうか?」
「もうできる」
「相変わらずね」
エレンは苦笑しながら椅子へ腰掛けた。
ほどなくして、二人分の朝食がテーブルへ並ぶ。
「「いただきます」」
二人は静かに食事を始めた。
島での出来事から、まだそれほど時間は経っていない。
それでも、こうして朝食を摂っていると、あの場所で起きた出来事が遠い昔のように感じられる。
「うん、美味しい」
エレンがオムレツを口に運び、嬉しそうに笑う。
「それならよかった」
「アリスって、本当に料理上手よね」
「やりだして長いからな」
穏やかな時間だった。
その時。
テーブルの端へ置かれていた次郎の携帯電話が鳴った。
静かな室内に着信音が響く。
次郎は携帯電話を手に取る。
画面に表示された名前を確認すると、僅かに眉を上げた。
「……珍しいな」
「知り合い?」
「ああ。アメリカ政府の知人だ」
エレンへ一言断ると、次郎は席を立った。
「少し出てくる」
「うん」
次郎は廊下へ出ると、通話ボタンを押した。
「俺だ」
『久しぶりだな、アリス』
聞き慣れた中年男性の声だった。
ラクーンシティ事件の後から付き合いのある、アメリカ政府関係者。
普段は必要最低限の連絡しかしてこない男だった。
「朝から電話とは珍しいな」
『世間話をするためじゃない』
「だろうな」
男の声が少し低くなる。
『君自身に関する話だ』
「俺に?」
『そうだ』
次郎は壁へ背を預ける。
『政府内部で、君を危険視する動きが出ている』
「……理由は?」
『大きく二つある』
男は慎重に言葉を選んだ。
『一つ目は、レオン・S・ケネディの報告書だ』
「レオンの?」
『アシュリー・グラハム誘拐事件に関する報告書だ』
次郎は黙って聞く。
『そこには、君が事件の解決とアシュリーの救出に協力したと受け取れる内容が記載されている』
「……随分と簡単に纏められたな」
『現場の全容を知っている人間ばかりじゃない』
『結果だけを見れば、君はアメリカ政府側の作戦に協力した人物と判断できる』
「なるほど」
『そして、もう一つ』
男の声がさらに低くなる。
『君の能力だ』
次郎は黙った。
『二種類のウイルスへ完全適応した身体』
『高い再生能力』
『常人を遥かに上回る身体能力』
『そして、極めて高い戦闘能力』
『もし、それを軍事目的で利用できると考える人間が出てきたら――』
男は一拍置いた。
『厄介なことになる』
「軍事利用か」
『そうだ』
『仮に君自身ではなく、君の能力だけを兵器として考えた場合でも、危険性は極めて高い』
「制御できなくなった時のことを恐れている?」
『その通りだ』
『君を軍の管理下に置くべきだという意見まで出ている』
次郎は小さく息を吐いた。
「面倒な話だな」
『ただし、政府全体がそう考えているわけじゃない』
「他の評価もあるのか?」
『むしろ、そちらもかなり強い』
男の声に僅かな苦笑が混じる。
『一部の軍関係者は、君を英雄視している』
「俺を?」
『ああ』
『ラクーンシティ事件やレイジウイルス事件を生き延びたこと』
『その二つの事件で生存者を守ってきたことや血液データの自主的な提出』
『そして今回の事件でも、結果的にアシュリーの救出へ繋がる行動を取ったこと』
『現場を知る人間ほど、君を高く評価している』
「英雄なんて柄じゃないぞ」
『君ならそう言うと思ったよ』
電話の向こうで男が小さく笑った。
『面白いことに、現場を経験した軍人ほど君への評価が高い』
『逆に、資料だけを見ている人間ほど危険視する傾向がある』
「皮肉だな」
『政府なんてそんなものだ』
次郎は窓の外へ目を向けた。
穏やかな朝の街並み。
車が走り、人々が行き交っている。
そんな日常の裏側で、自分を巡って議論している人間がいる。
『だからな』
男の声が変わった。
それまでの説明口調とは違う。
明らかに、次郎個人へ向けた忠告だった。
『しばらくの間……』
「身を隠した方が良いか?」
『ああ』
『少なくとも、しばらくは表立った活動を控えてくれ』
次郎は黙った。
『君を危険視している連中は、まだ具体的な行動には出ていない』
『だが、今回の報告書が出回ったことで、君への関心が一気に高まっている』
『今まで君を知らなかった人間まで、君の存在を調べ始めている』
「なるほど」
『君の現在の居場所まで正確に把握している人間が、どれだけいるか分からない』
『だからこそ、今は目立たない方がいい』
「テラセイブでの仕事もか?」
『可能なら一時的に休め』
『少なくとも、政府関係者の目に留まるような行動は避けた方がいい』
次郎は少し考える。
「……分かった」
『一応言っておくが』
『これは政府からの命令じゃない』
『私個人からの忠告だ』
「それでも、電話をしてきたってことは相当なんだろうな」
『ああ』
男は短く答えた。
『君を危険視している人間の中には、君を捕らえることまで考えている者がいる』
『実現できるかは別としてだが』
次郎の目が僅かに細くなる。
「捕らえる?」
『あくまで可能性の話だ』
『だが、君を軍事利用したいと考える人間にとって、君が自由に動き回っているのは都合が悪い』
「……随分と勝手だな」
『だから、しばらく姿を消せ』
『ほとぼりが冷めるまで、できるだけ普通の生活をしてくれ』
「分かった」
『何か動きがあれば、こちらから連絡する』
「ああ、了解」
『それじゃあな、アリス』
「またな」
通話が切れた。
次郎は携帯電話をポケットへしまう。
しばらく廊下に立ったまま、天を仰いでいた。
危険視する者。
英雄視する者。
そして、自分を管理下に置こうと考える者。
政府内部で、自分に対する評価が大きく割れている。
しかも今は、レオン・S・ケネディの報告書によって、自分の存在をこれまで以上に多くの人間が知ることになった。
「……本当に面倒なことになったな」
小さく呟く。
次郎自身は、政府に追われることを恐れてはいない。
仮に捕らえようとしてくる人間が現れたとしても、簡単に捕まるつもりはなかった。
だが、自分の周囲まで巻き込むつもりもない。
エレンは既にテラセイブの幹部として、自分の足で立っている。
自分が守らなければ何もできない少女ではない。
だからこそ、今の状況で自分が近くにいることが、彼女にとって余計な危険になり得る。
政府が自分を探し始めれば、当然その周辺も調べられる。
エレンとの関係まで掘り返される可能性もある。
「……なら、離れた方がいいか」
次郎は静かに決断した。
しばらく身を隠す。
名前も。
居場所も。
自分がどこで何をしているのかも。
すべてを表から消す。
エレンには何も知らせずに消えることもできる。
だが、それは選ばなかった。
最低限、本人には伝えておくべきだった。
次郎はリビングへ戻る。
「終わった?」
丁度皿を洗い終わったエレンが振り向いて尋ねる。
「ああ」
次郎は席へ戻らず、その場に立ったまま答える。
「エレン」
「何?」
「少し話がある」
いつもとは違う声音に、エレンの表情が変わる。
「……どうしたの?」
「しばらく、俺は姿を消す事にする」
「え?」
エレンが目を見開く。
「政府内部で、俺を危険視している連中がいるらしい」
「具体的な動きはまだないが、これ以上ここにいると、君まで巻き込む可能性がある」
エレンは黙って次郎を見る。
「だから、しばらく身を隠す」
「どこへ行くの?」
「決めていない」
「連絡は?」
「必要な時はこちらからする」
エレンは俯いた。
しばらく何も言わない。
やがて顔を上げる。
「……いつ戻ってくるの?」
「分からない」
その答えに、エレンの表情が僅かに曇った。
次郎はそれを見て、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せる。
「悪いな」
「でも、今はこれが一番いい」
「アリスが決めたことなら……止められないわね」
「ああ」
「それなら、待ってる」
次郎は僅かに目を細めた。
「いや、待たなくていい」
「君には君の役目がある」
「テラセイブの仕事も、これまで通り続けてくれ」
「……分かってるわ」
エレンは笑っていたが、指先はわずかに震えていた。
「でも、戻ってきたらちゃんと教えてね」
「ああ」
「分かった」
次郎は頷く。
それ以上は何も言わない。
しばらくして、次郎は自室へ戻り、最低限の荷物だけをまとめる。
財布に携帯電話。
数日分の衣類。
身分を特定される可能性のあるものは極力残していく。
エレンとの生活を思わせる物も、持っていかなかった。
荷物は小さなバッグ一つ。
これで十分だった。
準備を終えると、次郎は部屋を出る。
廊下へ出たところで、エレンが待っていた。
「もう行くの?」
「ああ」
「気を付けてね」
「君もな」
短い言葉だった。
次郎は玄関へ向かい、ドアを開ける。
冷たい朝の空気が流れ込んできた。
一度だけ振り返る。
そこにはエレンが立っている。
次郎は小さく手を上げた。
「またな」
「……待って」
エレンの声に、次郎が足を止める。
「どうした?」
「忘れ物よ」
「忘れ物?」
次郎が体ごと振り返る。
エレンはゆっくりと次郎へ近付いた。
そして。
少しだけ背伸びをする。
次の瞬間。
エレンの唇が、次郎の唇へ触れた。
「……」
次郎が目を僅かに見開く。
エレン自身も顔を真っ赤にしていた。
それでも、離れようとはしない。
やがて身体を離すと、照れたように小さく笑った。
「これよ」
「……忘れ物か」
「うん」
エレンは頷く。
「ちゃんと持っていって」
次郎はしばらくエレンを見つめていた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
「ああ。持っていくよ」
それだけ答える。
エレンも笑った。
「じゃあ……またね、アリス」
「……ああ、またな」
次郎は玄関の外へ出る。
エレンは最後までその姿を見送っていた。
やがて。
静かに扉が閉じる。
その向こうで、次郎の足音が少しずつ遠ざかっていく。
エレンは閉じた扉へ手を添えた。
もう片方の手で唇に触れる。
そして、小さく呟いた。
「……いってらっしゃい」
こうして、有栖次郎は表舞台から姿を消した。
その後の彼の行方は、誰も知らない。
因みにエレンはアシュリーと同じ年齢、シェリーの二つ上です。
日頃から頂いている応援、感想、そして☆評価が日々の執筆の大きな原動力になっています。
明日の投稿で第三章はラストです。
今はただ皆様に感謝を。