俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した   作:朝を数えない人

1 / 10
聖女に監禁された朝

鍵のかかっていない部屋で、俺は監禁されていた。

 

「三十日だけ、ここにいてください」

寝台の横で、聖女ミレーユ・アストラがそう言った。

 

三十日だけ。

なるほど。パン屋の休業なら短い。借金の返済猶予なら泣いて喜ぶ。理由もなく閉じ込められる期間としては、気軽に頼める長さじゃない。

 

「断ったら?」

「外へ出れば、あなたは死にます」

 

朝の挨拶より静かな声だった。

脅しにしては語尾が弱い。予言にしては顔が青い。俺が返事をする前に、彼女の視線は俺の顔から首、胸、右手へ移った。怪我を探す者の目だ。少なくとも、死ねと言っている人間の見方じゃない。

 

だから安心できるかというと、話は別になる。

 

俺は掛布をずらし、最初に両足を確かめた。指は十本。左の小指だけ少し曲がっているのもいつもどおり。胸に傷はなく、息を吸っても痛まない。舌に苦みもないから、少なくとも覚えていない間に毒を盛られた可能性は低い。

頭痛。軽い。後頭部に腫れなし。酒を飲んだ翌朝よりましだ。

 

窓が二つ。南と西。

扉が一つ。取っ手はあるが、鍵穴はない。

聖女が一人。杖は壁へ立てかけてあり、右手は空いている。左手には白い磁器の水差し。武器にはなる。俺を殴るより、たぶん俺へ水を飲ませるための物だ。

 

たぶん、という言葉は便利だ。外れた時に責任を取らない。

 

「ここは?」

「曙光教会の北白塔です。王都ルーメン。あなたが勤める市葬院から、馬車で十五分ほど」

「日付は」

「初夏月の二日。朝六時十二分です」

 

答えが速い。

見上げた壁時計は六時十一分を指していた。秒針が頂点を越え、長針が一つ進む。十二分。少なくとも時刻を適当に言ったわけではない。

 

最後の記憶は、昨夜の市葬院だった。

身元不明の水死体が一人。年齢は五十前後。左の靴底だけ減りが強く、右手の爪に青い蝋が残っていた。残響を拾う前にオスカー院長から休めと追い出され、夜番用の珈琲を一杯だけ盗んだ。酸味の強い、焦げたような味。あれを金を取って飲ませる店があれば、葬院より先に埋めたほうが世のためだ。

 

裏口を出た。雨は降っていない。路地の角で鐘を聞いた。

 

そこまでだ。

 

襲われた記憶も、聖女に誘われた記憶もない。自分の足で塔へ来たなら、その十五分だけがきれいに抜け落ちている。

記憶の欠落は証拠になる。原因の証拠にはならないが、少なくとも俺が寝ぼけて修道生活を始めた線は消せる。

 

「俺を運んだのは、あなたですか」

「はい」

「どうやって?」

「眠っていただきました」

「それは運び方じゃなく、俺の状態です」

 

ミレーユは水差しを机へ置いた。底と受け皿が触れて、小さな音を立てる。指は震えていない。代わりに、置いた後も取っ手を離さなかった。

 

「路地で倒れているあなたを見つけ、教会の馬車で運びました」

「倒れた原因は?」

「鎮静の聖刻です」

「誰が使った」

 

彼女は黙った。

答えは出たようなものだが、黙った理由までは決めない。罪悪感かもしれないし、次の嘘を選んでいるのかもしれない。人の顔は死体の傷ほど素直じゃない。

 

「あなたですね」

「抵抗されれば、怪我をさせてしまうと思いました」

「俺が抵抗することは分かっていた?」

「……はい」

 

一度も話したことがない相手に性格を断定されるのは、なかなか気分が悪い。

正確に言えば、一度も、は言いすぎだった。聖女ミレーユは王都で一番有名な十九歳だ。冬の疫病で百人を治し、王弟の戴冠式では暁鐘を鳴らした。市葬院の合同慰霊式にも来た。俺は列の後ろで棺を運び、彼女は祭壇の前で祈っていた。

 

向こうが俺を見た可能性はある。

それでも、見ただけの葬院職員へ鎮静術を撃つほど深く知り合った覚えはない。

 

「水をどうぞ。頭が重いはずです」

「何か入ってます?」

「入っていません」

「鎮静術を無断で使った人の保証は、いま少し値下がりしてる」

 

言ってから、机の水差しを見る。封はない。銀の検毒匙もない。喉は乾いていたが、一杯の水と引き換えに警戒心を売るほどではない。

 

ミレーユは傷ついた顔をしなかった。予想していた返答を帳面から見つけたように、戸棚の上段へ手を伸ばす。

取り出したのは、硝子瓶だった。蝋封に市葬院の黒鳥印がある。俺が仕事で使う採取瓶と同じ物だ。

 

「未開封です。あなたは教会印より、こちらを信用します」

 

背中の皮膚が遅れて冷えた。

 

市葬院の印は、死因記録に使う器具が途中で開けられていないと保証するものだ。外部の人間でも印の意味くらい知っている。だが、俺が教会の封蝋を嫌って葬院印を選ぶことは、院長と同僚二人くらいしか知らない。

 

「調べたんですか。俺を」

「必要なことは」

「どこまで?」

 

返事を待たず、瓶を受け取った。蝋は割れていない。印の羽根は六本、右下の一本だけ欠けている。うちの古い印章だ。偽造するなら、わざわざ欠けまで写したことになる。

 

歯で蝋を割る。

その瞬間、ミレーユが半歩近づいた。

 

俺は飲まずに止めた。彼女も止まる。

 

「何です?」

「いえ」

「俺が瓶で喉を切るとでも?」

 

青白い目が、瓶の割れ口へ落ちた。

図星か。いや、それだけではない。彼女は俺の右手首を見ていた。傷一つない場所を、もう傷があるみたいに。

 

「割れ口で唇を切らないようにしてください」

「親切な忠告をどうも」

 

角度を変え、少しだけ飲む。水だった。冷たすぎず、金属臭もしない。俺は一口ごとに止めて異変を待ったが、舌もしびれず、喉も焼けない。

 

三口目で気づいた。

水の温度まで、ちょうどいい。

 

笑うところじゃない。人を監禁するなら水くらい飲ませる。だが、井戸から汲んだばかりの冷たさを俺が嫌うことは、葬院の連中でさえ覚えていない。仕事中は腹を壊すから常温を選んでいるだけで、好き嫌いとして話したこともなかった。

 

偶然は一つなら偶然だ。

二つ並べば、記録する。

三つ目からは原因を探す。

 

俺は瓶を机へ戻し、寝台から立った。足元に革靴が揃えてある。古い自分の物ではない。新品だ。左だけ履き口が指一本ぶん広げてあり、右はそのまま。

 

俺は左足を先に入れる。昔の怪我で足首が曲げにくいからだ。

 

「……ずいぶん、必要なことを調べたらしい」

「靴が合いませんか」

「合います。そこが気持ち悪い」

 

初めて、彼女の指が動いた。

右手で左の手首を包む。袖の下に何かある。火傷か、聖刻の痕か。確かめる材料はない。

 

服も調べる。

白い寝間着は教会の備品らしいが、袖が短すぎも長すぎもしない。腰紐の結びは左。俺は右手で死者の残響を拾うから、仕事着の結び目は必ず左へ逃がす。着替えさせた誰かが、そこまで合わせたことになる。

 

上着とズボンは椅子の背に畳まれていた。財布、葬院手帳、鍵束はない。代わりに、机の隅へ黒革の手袋が一つ置かれている。

 

俺の右手用だ。

 

親指の縫い目が二重になっている。先月、自分で直した箇所まで同じ。昨夜も着けていたから、連れてくる時に外したのだろう。

死者の物へ素手で触れれば、残響が勝手に流れ込むことがある。生きた人間なら起きない。それでも裸の右手は、墓穴へ靴を落とした時みたいに落ち着かなかった。

 

手袋を取ると、ミレーユが息を止めた。

 

革の内側を裏返す。針も粉もない。鼻を近づけても薬草の匂いはせず、自分の手汗と黒革油の匂いだけだ。

 

「これまで細工されていたら、俺にはお手上げでした」

「しません」

「俺を眠らせた人の保証は――」

「値下がりしている。分かっています」

 

同じ皮肉を先回りされ、言葉が止まった。

彼女は勝ち誇らない。むしろ失敗したように目を伏せる。まるで、俺がこの台詞を言うことまで知っていて、知らないふりをするはずだったのに忘れたみたいに。

 

手袋をはめた。右手の冷えは消えない。それでも、自分の皮膚を一枚取り戻した気がした。

 

「不快にさせるつもりはありませんでした」

「誘拐しておいて、その言い分は欲張りですよ」

 

立てる。目眩なし。膝も働く。

扉まで七歩。ミレーユが間へ入るには三歩で足りる。それでも彼女は動かなかった。

 

逃げるなら今だ。

違う。まず、扉が本当に出口か確かめる。逃走と調査を同じ言葉にすると、失敗した時に格好がつかない。

 

取っ手へ手をかける。

 

「レイ」

 

呼ばれて、指が止まった。

俺はまだ名乗っていない。

 

有名な聖女が葬院の下働きを知っている。それだけなら調査で済む。だが、名前の呼び方が近すぎた。姓でも、記録官殿でも、あなたでもない。昨日まで一緒に働いていたみたいな、迷いのない呼び方だった。

 

「開ければ死ぬんでしたっけ」

「塔の中にいる限り、すぐには」

「なら、開けるだけなら平気だ」

 

止める手は来なかった。

扉を引く。

 

外には白い廊下が伸びていた。

幅は三歩。右手に細長い窓、左手に燭台。二十歩ほど先で角を曲がっている。修道院の療養棟としては普通だ。血痕も、待ち伏せも、足元の術式も見えない。

 

一歩出る。

背後の部屋を振り返る。ミレーユは寝台のそばに立ったままだった。

 

「追わないんですか」

「追いません」

「自信がありますね」

 

廊下を歩く。

窓の外には朝の王都が見えた。七層の屋根。中央の暁鐘楼。さらに遠く、東門へ続く街道。高さは地上六階ほど。窓から飛び降りる案は保留する。死なないために監禁された男が、初日に骨を数え直してもらうのは間が抜けている。

 

歩数を数えた。

一。二。三。

床石は同じ幅。六歩ごとに継ぎ目。右の窓が二枚、三枚。角まで十九歩。

 

曲がる。

 

白い廊下。

右手に細長い窓。左手に燭台。二十歩ほど先に、見覚えのある扉。

 

俺は止まった。

見覚えがあるどころじゃない。扉の下部に、俺がさっき靴でつけた灰色の擦れがある。

 

背後を見る。曲がり角は消えていた。そこにも同じ廊下が伸び、同じ扉がある。

 

では、前後に二つ?

仮説を立て、前の扉を選ぶ。取っ手に右手を置き、開けた。

 

寝台の横で、ミレーユが待っていた。

 

「お帰りなさい」

「嫌味ですか」

「そう聞こえたなら、ごめんなさい」

 

扉を閉めず、敷居を調べる。目立つ刻印はない。床板を指で叩く。中身の詰まった普通の音。蝶番は三つ、外開き。扉そのものに空間を曲げる仕掛けがあるなら、俺の知識では見抜けない。

 

知らないことを、ないことにはできない。

 

廊下へもう一度出た。今度は壁へ爪で傷をつけ、七歩進んで戻る。

傷は扉の脇に移っていた。

 

三度目は目を閉じて後ろ向きに歩いた。十二歩で寝台へ踵が当たった。

 

なるほど。

腹は立つが、仕組みは分かった。塔の廊下がつながっているのではない。俺一人の移動先が、この部屋へ折り畳まれている。ミレーユが追わなかったのは信頼ではなく、出られないと知っていたからだ。

 

「最初から説明できましたよね」

「言葉だけでは、あなたは確かめます」

「確かめさせたかった?」

「納得してほしかったんです」

 

納得。

いい言葉だ。相手が自分で選んだように聞こえる。

 

俺は開いたままの扉を閉じた。取っ手に鍵はない。なくて当然だ。檻そのものが俺を同じ場所へ返すなら、金属の鍵なんて飾りにもならない。

 

「俺が三十日以内に死ぬ根拠は?」

「話せません」

「話さない、じゃなく?」

「話せば、起きることが変わります」

「変えるために話すんでしょう」

 

ミレーユは首を横へ振った。

 

「変えた結果も、あなたは死にました」

 

過去形。

 

部屋の空気が急に薄くなった気がした。実際に息はできる。窓の布も揺れている。これは身体の反応で、証拠じゃない。

証拠なのは、彼女が言い間違えたことだけだ。

 

「死ぬ、ではなく、死にました?」

 

「言い間違いです」

答えが遅かった。

 

机の端へ腰を預ける。右手が冷えていた。残響術を使った後に似ているが、いまは死者にも遺品にも触れていない。単なる警戒だ。そう分類する。

 

「予言で見た?」

「似たものです」

「何回?」

 

彼女の目が伏せられた。

回数を聞いて否定しないなら、一回ではない。

 

俺は窓へ視線を移した。南窓は小さく、鉄格子がある。西窓は大きい。留め具は内側。外には雨樋が通り、二階下に礼拝堂の屋根が張り出している。落下の危険はあるが、廊下より出口らしい。

 

ミレーユは扉側にいる。窓まで五歩。

走るふりをすれば、彼女がどう止めるか見られる。だが一度目から手の内を全部出す必要はない。それに、西窓は目立ちすぎる。逃げるなら、寝台脇の南窓を――。

 

いや。

 

俺は考えを切った。

いま必要なのは脱出じゃない。彼女が過去形で語った死と、俺のことを知りすぎている理由だ。窓へ飛びつけば、一番大きな問いを小さな騒ぎで隠すことになる。

 

「今日は逃げません」

 

ミレーユの肩から、わずかに力が抜けた。

安堵に見えた。そう見えただけだ。だが彼女が俺の返答を待っていたことは確かだった。

 

「ありがとうございます」

「勘違いしないでください。ここに残ることへ同意したんじゃない。調べる順番を決めただけです」

「はい」

 

従順な返事だった。

俺の言葉を尊重したからか、出られない人間の強がりを聞き流したのかは分からない。

 

ミレーユは戸棚から二つの杯を出した。片方へ水、もう片方へ黒い珈琲を注ぐ。湯気は少ない。俺が熱い飲み物をすぐ口にできないことまで知っているのだろう。

 

もう驚かない。驚きは同じ情報を増やさない。

 

代わりに数える。

葬院印の瓶。左だけ広い靴。水の温度。珈琲。名前。抵抗する性格。俺が死んだという過去形。

 

七つ。

偶然を埋葬するには十分だ。

 

彼女は珈琲の杯を机の右端へ置いた。俺は右利きだが、仕事中の飲み物だけは左に置く。残響を拾う右手へ液体をこぼしたくないからだ。

 

違う位置だ。

初めて、彼女が外した。

 

胸の奥に小さな隙間ができる。何もかも知られているわけじゃない。知らないことがあるなら、そこから出られる。

 

俺は杯を左へ移した。

 

ミレーユの顔から血の気が引いた。

 

「何です?」

「いえ。ただ……前は、右に置いていたので」

 

前。

 

彼女はすぐに唇を閉じた。遅い。一度書かれた記録は、インクを塗っても紙の凹みまで消えない。

 

「いつの俺ですか」

 

返事はない。

 

窓の外で、朝の鐘が一度鳴った。

ミレーユはその音に怯えたように左手首を押さえ、それから、もっと小さな声で言った。

 

「今回は、左の窓を試さないのですね」

 

俺は窓を見た。

 

西ではない。

彼女の視線は、寝台脇の小さな南窓へ向いていた。

 

さっき俺が、一度も見ていないふりをした窓へ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。