俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
目を覚ました時、俺は自分が死んだことを知っていた。
いや、順番が違う。
最初に見えたのは白い天井だ。次に左の窓。閉まっている。扉。鍵穴は内側になく、蝶番も向こう。寝台の脇には女が立っていて、水差しを持っている。銀髪、白い法衣、左手首を隠す長い袖。
知らない部屋。知らない女。
なのに右手だけが、先に怯えた。
指の骨へ冷たい水を流し込まれたような感覚がする。痛みではない。痛かった、という記録だ。まだ触れてもいない黒革の手袋から、その記録が薄い糸になって俺の右手へ伸びていた。
だから俺は訊いた。
「俺は前にも、ここで目を覚ましましたか」
女の表情は動かなかった。
動かなかったことが、答えになった。
初対面の男からこんな質問をされたら、普通は意味を聞き返す。病人なら熱を測る。聖職者なら悪夢を疑う。この女は、予定と違う扉を急に開けられた人間の目をした。
俺は手袋を見る。
「それとも、目を覚ます前に死んだ?」
女は水差しを机へ置いた。
「どこから話せば、あなたは逃げませんか」
なるほど。
俺が逃げることまで知っているらしい。
しかも、どこから話せば理解しやすいかではなく、逃げないかを先に考えた。信用するには最悪の言い間違いだが、取り繕う前の本音としては値段が高い。
「どこから聞きたいですか」
言い直した女へ、俺はすぐ答えなかった。
右手。手袋。女の袖。窓。扉。
情報は少ない。だが、少ない時ほど順番が大事だ。いきなり「俺を殺したのはお前か」と聞けば、否定か肯定しか返ってこない。どちらも検証できない。まず、相手が隠しきれない事実から取る。
「今日の日付」
「王暦四一二年、初夏月二日です」
頭の中で日付を探る。
俺が最後に覚えているのも初夏月二日だ。葬院の朝当番へ向かう途中、石畳の隙間へ白い花が咲いていた。そこで記憶が切れている。
同じ日。
右手の冷えは、同じ一日を二度生きた残響かもしれない。
「名前は」
「ミレーユ・アルノー」
知っている名だった。
還暁の聖女。王都の疫病を三度止め、東砦の崩落で百二十人を治した人。鐘へ祈れば夜明けを呼ぶ、と子供向けの絵本にまで描かれている。
実物が絵本より疲れて見えることは、ひとまず帳簿の端へ置く。
「俺をここへ運んだのは?」
「私です。鎮静の聖刻を使いました。あなたの同意は得ていません」
告白が早い。
嘘をつかない人間、ではない。隠しきれない項目を先に差し出し、別の項目を守るやり方にも見える。
「理由」
「外へ出れば、あなたが死ぬからです」
その答えを、俺はなぜか知っていた。
耳で聞くより先に、胸の奥が「またそれか」と呟いた。俺自身の声ではある。だが今朝の俺が作った言葉じゃない。
机の手袋へ手を伸ばす。
ミレーユが半歩動いた。
俺は止める。
「触るな、と言う?」
「いいえ」
一拍遅い。
言いたかったが、やめた。止めれば安全だと知っていて、それでも止めなかったらしい。
手袋を取る。
革は普通だ。右手用。親指だけ二重縫いで、葬院の作業用に俺が特注した形と同じ。表には傷も汚れもない。
内側を返す。
何も見えない。
なのに親指の腹が熱くなる。
視界が白く弾けた。
左の窓が割れる。
黒布の男が入る。
青い紐。袖針。太陽の印。百十二。
喉が焼ける。舌が痺れる。脈を数える。六時四十八分。銀髪が頬へ落ちる。誰かが俺の名前を繰り返す。
――戻すな。
――隠すな。
鐘が鳴る。
俺は手袋を落とした。
肺が息を忘れ、寝台の縁を掴む。吐くものはないのに喉が痙攣した。右手は焼けていない。舌も動く。胸の鼓動は速いが止まりそうではない。
今のは記憶じゃない。
少なくとも、今朝から生きている俺の記憶ではない。
「水を」
ミレーユが杯へ注ぐ。
受け取る前に匂いを嗅ぐ。透明。沈殿なし。杯の縁に青い光の封印。毒見を頼むのは簡単だが、この女が毒を盛るなら目の前で水を注ぐような雑な真似はしない。
半口だけ飲む。
冷たい。
生きている身体の温度へ戻る。
「今のが、俺の死か」
「はい」
ミレーユは目を逸らさなかった。
「何回目だ」
左の袖口が、ごく小さく揺れる。
当たり。
回数がある。しかも隠したいほど多い。
「七百一回目です」
頭の中で数字が滑った。
七回ではない。七十回ですらない。
七百一。
俺が一日に一枚ずつ墓札を磨いても二年近くかかる数だ。その全部が俺の死だと言われても、実感は湧かない。湧いたら困る。七百一人分の恐怖を一度に受け取ったら、今の一人が立っていられない。
だから、分ける。
「最初へ戻ったのは七百一回」
「はい」
「お前だけが覚えている」
「はい」
「俺は毎回忘れる」
「これまでは」
ミレーユが手袋を見る。
「あなたが死痕を残しました。七百一回目のあなたが」
「内側の線は見えるか」
「聖刻を使えば」
「何が書いてある」
彼女は一度、息を吸った。
「左窓。針。大司教の暁日印。番号は百十二。そして、《彼女は覚えている》」
俺が見た断片と一致する。
最後の文だけ、胸へ刺さり方が違った。
昨日の俺は、犯人の名ではなく、彼女が覚えていることを未来の俺へ渡した。大司教よりミレーユの記憶を重要だと判断したわけだ。
信用しろ、とは書かなかった。
覚えている。
それだけ。
「手袋を交換できたな」
ミレーユの指が袖を押さえる。
「できました」
「燃やすことも」
「はい」
「なぜ残した」
「あなたに、隠すなと言われたからです」
「約束した?」
「していません。返事をする前に、あなたは亡くなりました」
正確すぎる答えだった。
約束していないから破ってはいない。そう自分へ言い聞かせた人間の言い方だ。それでも残した。俺の知らないところで、彼女は自分に都合の悪い証拠を机の上へ戻した。
一円にもならない善意より、よほど信用できる。
「大司教は?」
「グレゴール・ヴァイス。暁鐘教会の最高位です。前回、刺客のダリオ・セルンが持っていた命令印は、大司教の私印でした」
「百十二は」
「私にはまだ分かりません」
まだ。
その単語を覚えておく。
「刺客は今どこにいる」
「大聖堂西棟へ向かう前です。殺さず拘束するよう命じました。姉のマリアには治療師を送りました」
俺の知らない死を防ぐために、俺の知らない朝から動いた。
助かった人間がいる。それはいい。
だが、引っかかる。
「俺が頼んだのか」
「前回のあなたは、ダリオが死ぬ前に姉を助けると約束しました」
「その約束は戻した時点で消えた」
ミレーユの唇が止まる。
「はい」
「お前が覚えていなければ、誰も履行しない」
「はい」
俺は右手を見る。
世界を戻せば死者は生き返る。便利な説明だ。だが、約束も選択も巻き戻る。助けると決めた俺は消え、助けられるはずだった姉は病室へ戻り、刺客はまだ罪を犯していない男へ戻る。
全員が生きている。
でも、何かが帳簿から抜け落ちている。
「戻した世界で、戻らないものは何だ」
ミレーユの視線が初めて俺から外れた。
左袖。
手首に傷がある。七百一回目の印。前の俺はそれを知っている。断片の最後、鐘へ手を伸ばした時に見えた。
「私の記憶と、還暁痕です」
「それだけか」
沈黙。
窓の外で鳥が鳴く。朝の同じ時刻なら、昨日も鳴いた鳥かもしれない。そいつは自分が二度目に鳴いているなんて知らない。
「ミレーユ」
「私が確認できているのは、それだけです」
嘘ではない。
全部でもない。
「どこまで戻った」
「二日前の午前三時です」
「俺がこの塔へ来る前?」
「あなたを運び込んだ直後です」
都合のいい起点だ。
俺が自由だった時点ではなく、すでに鎮静され、鍵の内側へ置かれた後。戻るたび監禁だけは確定している。
「起点は選べるのか」
「いいえ。最初に暁鐘へ血を与えた時刻へ固定されています」
「誰の血」
「私と、あなたのです」
また俺の同意が怪しい話が出た。
「俺は承知してた?」
「一回目のあなたは」
一回目。
その言い方だと、承知した俺と今の俺を同じ人間として扱いながら、都合が悪い時だけ番号で分けられる。昨日の俺との約束を俺へ継がせ、今日の俺の拒否は明日へ持ち越さない。無敵の契約だ。
「一回目の俺が何に承知した」
「また会うための聖刻に、血を貸すことです。死ぬたび戻ることも、世界全体が巻き戻ることも伝えていませんでした」
ミレーユの声は平らだった。
平らにしないと口から出せない種類の事実なのだろう。
「つまり、承知してない」
「はい」
ここで弁解しないのは助かる。許せる、とは別の話だが。
「二日前から昨日まで、俺は何をした」
ミレーユは順に話した。
扉と窓を調べた。廊下の折り返しを見破ろうとした。手紙を見つけた。青い紐の残響を読んだ。地下の墓所へ入り、七百枚の墓標を見た。存在しない日付と、聖女が死因だと刻まれた未来の墓標を見つけた。左窓からダリオが侵入した。毒を受けた。手袋へ死痕を刻んだ。
情報が多すぎる。
しかも、どれも一つずつ問い返したくなる。
七百枚の墓標。
未来の俺を、聖女が殺す。
胸の中で言葉が喧嘩を始めた。先に怖がるべきものを決めろと騒ぐ。だが、優先順位は簡単だ。
手元の証拠があるものから。
「墓所は今もある?」
「あります」
「未来の墓標も?」
「はい」
「後で見る」
「危険です」
「塔の地下だろ」
「あなたにとっては、塔の中も危険です」
それを言われると弱い。
少なくとも、この女は自分の守備範囲を安全だと言い張る段階から一歩進んだらしい。
「なら、なおさら四十七個を一緒に潰す必要がある」
「あなたを危険へ近づけず、私が――」
「昨日のお前もそう言った?」
ミレーユが黙る。
「言った顔だな」
「同じ言葉ではありません」
「意味は」
「同じです」
帳簿に一件。
この人は不利な証言を自分から訂正できる。ただし、こちらが欄を作った時だけ。
右手が冷える。
死痕は手袋にだけあるはずだ。それなのに彼女の返答へ反応した。俺の能力が証拠の欠落を拾ったのか、単に俺が疑ったせいか。区別できない。
区別できないものを事実に数えるな。
葬院で嫌というほど覚えた。遺体が握っていた硬貨は証拠だが、「寂しかったから握った」は推測だ。推測を事実の顔で台帳へ書けば、死者は訂正できない。
生きている女なら訂正できる。
「塔の外へ出す気は?」
「ありません」
即答。
そこは変わっていないらしい。
「俺が死ぬから」
「はい」
「閉じ込めた結果、俺は死んだ」
彼女の顔から、ほんの少しだけ血の気が引いた。
言い過ぎた、とは思わない。
事実だ。
安全にするための塔へ刺客が入り、毒で俺が死んだ。逃げた場合より危険だったかは比較できないが、監禁が成功したとも言えない。
「前回は侵入経路を塞げませんでした。今回は――」
「今回は別の穴から来るかもしれない」
「すべて調べます」
「一人で?」
「あなたを危険へ近づける必要はありません」
ここだ。
この女は俺を信じていない。能力でも判断でもなく、生きようとする意志を信用していない。俺が証拠を見れば危険へ走ると決め、必要な情報だけ自分で選ぶ。
たぶん七百回、それで失敗した。
失敗したからこそ、もっと強く閉じ込める。
呪いは鐘だけじゃない。
「条件を出す」
「条件?」
「俺は今すぐ窓を割らない。扉をこじ開けない。食事も検査するまで捨てない。お前の監視下で大司教と毒を調べる」
ミレーユの眉がわずかに寄った。
「代わりに?」
「情報を隠すな。俺に関係する証拠は全部見せろ。外へ出る必要がある時は、危険だからで終わらせず、危険の内容を言え。俺の質問に答えられないなら、答えられない理由を記録する」
「外出は認められません」
「まだ要求してない」
「いずれします」
「俺のことをよく知ってるな」
皮肉のつもりだった。
ミレーユは傷ついた顔をした。
七百一人を知っている。その全員が俺で、俺ではない。彼女にとって今の俺は、長く付き合った相手の続きなのか、それとも毎回失う別人なのか。
訊きかけてやめる。
今は関係の名前より、鍵の位置だ。
「拒否したら?」
「あなたを塔に置きます」
「受けても?」
「塔にいてください」
思わず笑った。
条件交渉の形になっていない。どちらを選んでも監禁だ。ここまで堂々としていると、値切る側が馬鹿らしくなる。
だが、差はある。
黙って閉じ込められるか、帳簿を同じ机で開くか。
「なら、これは脱出の延期だ。共同捜査に見える間だけ、俺は自分からここにいる」
「自分から」
ミレーユが、その言葉を確かめるように繰り返す。
「勘違いするな。鍵を認めたわけじゃない」
「はい」
返事が妙に素直だった。
彼女は机から予定表を取り、俺へ差し出す。
ダリオ拘束。マリア治療。鐘蝕押収。オスカー院長への報告。時刻と担当者まで書いてある。
最後の欄だけ空いていた。
俺は羽根ペンを取る。
《レイへ全記録を開示。共同で大司教の百十二を調査》
書き足し、署名する。
ミレーユにもペンを渡した。
彼女は紙と俺を交互に見た。
「これは約束ですか」
「昨日の俺が返事を待てなかった分まで、今日は文字にする」
ミレーユが署名する。
細く、乱れのない字だった。最後の一画だけ、紙を破りそうに深い。
俺は手袋を右手にはめた。
死んだ自分の冷たさが、指へ重なる。
怖くないと言えば嘘になる。
逃げたい。扉を壊したい。この女からも鐘からも、七百一枚の墓札からも遠ざかりたい。
だが、昨日の俺は逃げる代わりに証拠を残した。
なら今日の俺は、それを無駄にしない。
「最初の質問だ、ミレーユ」
「はい」
「この塔に、俺を殺せるものはあといくつある?」
彼女はすぐには答えなかった。
視線が扉、窓、水差し、俺の手袋、そして自分の左手へ動く。
数えている。
俺も数えた。
窓。食事。聖刻。鐘。大司教。
最後に、目の前の聖女。
「分かっている範囲で、四十七です」
四十七。
笑えない数だ。
それでもゼロという嘘よりは、ずっとましだった。