俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
共同捜査を始めるにあたって、最初に必要なのは剣でも地図でもなかった。
紙だった。
「もう署名しました」
ミレーユが予定表を指す。
《レイへ全記録を開示。共同で大司教の百十二を調査》
たしかに俺の字と彼女の字が並んでいる。だが、こんな一行で足りるなら、葬院の引取書はもっと薄い。死者の名、引取人、遺品、埋葬法、宗派、費用、異議が出た時の連絡先。生きている人間は後から意味を変える。だから紙が要る。
死者はもっと意味を変えられる。
本人が訂正に来ないからだ。
七百一人分の俺を、ミレーユ一人の記憶だけに預ける気はない。
「これは予定だ。契約じゃない」
「違いは?」
「破った時に分かるかどうか」
彼女は少し考えた。
「分かれば、破ってもよいのですか」
「よくはない。けど、破られない約束なんて作れない」
それこそ、この女が一番よく知っているはずだ。
俺は机へ紙を五枚並べた。塔の備品らしく、白くて厚い。俺の月給で買うなら一枚書き損じるたびに舌打ちする値段だ。
一枚目の上に書く。
《白塔滞在および共同調査の条件》
「監禁ではなく?」
「お前が題を付けたら《レイ保護規則》になるだろ」
「保護しているつもりです」
「だから中立の名前にした」
ミレーユは納得していない顔で、反対側の椅子へ座る。扉の鍵は彼女の腰にある。紙の上では対等でも、出入口は対等じゃない。
まず、それを書く。
《第一条。レイは本契約中、白塔からの無断脱出を試みない》
ミレーユの肩がわずかに下がった。
安心するのが早い。
《ただし、ミレーユは塔外同行を理由なく拒否しない。拒否時は具体的な危険、根拠、解除条件を記録する》
下がった肩が戻る。
「理由は、あなたが死ぬからです」
「具体的じゃない」
「王都では三歩ごとに危険があります」
「なら三歩ごとに書け」
「紙が足りません」
「聖女様の紙だぞ」
「国費です」
真顔で返された。
今、初めてこの女へ勝てる項目が見つかった気がする。紙代なら俺のほうが敏感だ。
「危険は種類でまとめる。毒、刃物、落下、聖刻、群衆、過去に起きた事故。回数と場所を添える」
「あなたはそれを見て、危険が少ない道を選びますか」
「危険が多い道に証拠があるなら、対策を考える」
「つまり行きます」
「一人では行かない」
ミレーユが黙った。
俺は自分の言ったことを頭の中で読み返す。
一人では行かない。
彼女と行く、とほとんど同じ意味だ。そこまで信用した覚えはない。だが、王都で俺を狙う大司教と、王都で俺を生かすためなら街を折り曲げる聖女を比べれば、後者を視界に入れておくほうがいい。
利害だ。
今はそういうことにしておく。
第二条。
《ミレーユは、レイの生命、死亡、還暁、大司教、白塔、過去周回に関係する記録と証拠を、存在を知った時点で開示する》
「すべて、ですか」
「全部」
「あなたが読めば命を落とす残響もあります」
「存在を教えるのと、素手で触らせるのは別だ」
文を足す。
《危険物は危険性と閲覧方法を併記する。閲覧延期は双方の同意を必要とする》
ミレーユはまだ紙を見ている。
「私が忘れていることは、開示できません」
ペン先が止まった。
昨日の手袋。七百一回目の死。彼女だけが覚えていると言った。その彼女が「忘れている」を条件へ入れようとする。
「何を忘れる」
「還暁には代価があります」
やっと出た。
右手が冷える。手袋の死痕ではない。たぶん、俺自身の警戒だ。
「七百一回目では?」
「青鈴花を好きだった理由を失いました」
花。
人の命ではないと聞いて、息を吐きかける。
待て。
好きだった理由は、その人の中にしかない。誰にも写せない。失った本人が価値を測れないから、小さいとは限らない。
「前は何を失った」
「全部は把握できません。把握するための記憶も失うことがあります」
「記録は」
「あります」
「見せろ」
「第二十一項の保管庫に」
「それも四十七個の危険の一つか」
「はい」
契約書の余白へ《記憶欠落記録》と書く。
予定が一つ増えた。
同時に、彼女への見方が一つ崩れた。七百回を覚えている女ではない。七百回、覚えるものを選べず削られ、それでも俺の死だけ残った女だ。
同情は危険だ。
同情しても、鍵は開かない。
「忘れていた場合は、記録上の欠落も開示対象にする。『分からない』で閉じず、最後に確認できた時点を書く」
「分かりました」
第三条は身体だ。
《ミレーユは、緊急時を除き、レイの同意なく鎮静、拘束、追跡聖刻、治癒聖刻を使用しない》
「治癒も?」
声が一段低くなった。
「治療は善いことだから、勝手にしていいと思うな」
「出血している人へ許可を取っている間に死にます」
「だから緊急時を除く、と書いた」
「緊急かどうかを誰が判断しますか」
俺はペンを置いた。
ここが一番揉める。
俺は痛みを我慢する癖がある。本人が大丈夫と言っていても危険な場合はある。ミレーユは七百一回、それを見ている。彼女にだけ判断させれば、眠れない俺へ鎮静をかけることまで救命になる。
「意識がなく、意思表示できず、八分以内に死亡または回復不能になる合理的な根拠がある時」
「八分では長すぎます」
「何分ならいい」
「一分」
「短すぎる」
「あなたは一分で死ねます」
反論しづらい実績を出された。
「じゃあ時間じゃない。俺が拒否できる状態なら、拒否を一度は聞け。拒否できないなら救命を優先。落ち着いた後、何をしたか全部書く」
「拒否した結果、死ぬ場合は?」
「説明しろ」
「説明しても拒否したら?」
「その時は――」
言葉が止まる。
自分で選んだ死なら認めろ、と言うのは簡単だ。だが、毒で判断力を失った俺が意地を張る場面を想像すれば、彼女が従えないのも分かる。
分かることと、任せることは違う。
「二人目の判断を入れる。医師か、オスカー院長か、俺が事前に指定した者」
「間に合わない場合は」
「救命して、違反として記録する」
ミレーユが顔を上げた。
「助けても、違反ですか」
「助かった結果で、勝手にしたことが正しくなるわけじゃない」
彼女の指が鍵束へ触れた。
音は鳴らない。強く握っているだけだ。
「違反した私は、どうなりますか」
「俺へ謝って、理由を公開して、同じことを防ぐ条項を足す」
「塔を出ますか」
「違反の内容による」
「私を置いて?」
質問の形だが、声には答えが決まっている。
置いていかせない。
俺はそこで初めて、この契約を彼女が何のために読んでいるか気づいた。俺は権力を縛るために書いている。ミレーユは、どこまでなら俺が離れないかを測っている。
同じ紙を見て、別の出口を探している。
「逃げるかどうかを先に聞くな」
「ですが」
「お前が何をしたかで決める。今ここで、将来の俺に絶対離れないと約束させるな」
ミレーユの手が鍵から離れた。
「はい」
小さい返事だった。
「まだ第三条だ」
「まだ」
ミレーユが五枚の紙を見る。大司教を倒すより長い仕事だと思っているかもしれない。
身体の次は監視について詰めた。
追跡聖刻は位置と脈を拾う。思考までは読まない。俺が塔のどこにいても、ミレーユは生きているか確かめられる。これまでは告知なし。解除も俺にはできない。
「常時は駄目だ」
「生存確認ができません」
「俺は一日中、脈を見られたくない」
「なぜですか」
本気で理由が分からない顔をされた。
「便所にいて脈が速くなった時、お前が扉を破って入ってきそうだから」
「異常な上昇なら入ります」
「ほらな!」
冗談で出した例が現実になった。
彼女の安全判定へ羞恥という項目はない。過去に何があったか訊きたくないが、訊かないままだと改善もしない。
「便所で死んだ回数」
「四回です」
「原因」
「毒が二回。窓からの狙撃が一回。床下からの刺突が一回」
「便所の安全が悪すぎるだろ、この王都」
「今は窓を塞ぎ、床へ鉄板を入れました」
だからそういう問題ではない。
いや、半分はそういう問題か。便所の改修としては正しい。だが、正しい対策の先に「ずっと見ていていい」はつながらない。
俺は監視の印を常時から定時へ変更する案を書いた。起床、外出前後、就寝前。危険地域では一時的に連続。本人が解除を要求した時は理由を聞き、拒否するなら記録。
ミレーユは《就寝中》を足した。
俺は消した。
彼女はもう一度書いた。
俺は《異常を検知した時に限る》を加えた。
「異常を検知するには、監視が必要です」
「音を聞け」
「呼吸音は扉越しだと」
「寝室へ入るな」
「入りません。扉の前にいます」
七百回の聖女が、毎晩扉の前で俺の呼吸を聞いていた光景が浮かぶ。
怖い。
同じくらい、寒い。
彼女の寝台はどこにあるのだろう。眠っているのか。そこまで考えて、俺は頭の中の帳簿を閉じる。今は彼女の生活改善会議ではない。
《就寝中は扉外の警戒聖刻のみ。室内の脈拍監視は、本人から要請がある場合を除き使用しない》
妥協した。
鍵についても書く。
外鍵はミレーユが持つ。内側から開けられない状態は継続する。ただし火災、崩落、侵入時に俺が自力避難できる緊急鍵を封印箱へ置く。封印を破ればミレーユへ通知される。
「無断脱出に使えます」
「使ったら第一条違反だ。記録しろ」
「違反しても、出られます」
「そういうものを選択って言うんだ」
ミレーユはすぐには答えず、腰の鍵束から一本を外した。
細い銀鍵。
机へ置く時、指が離れるまで三秒かかった。
「封印箱は私が用意します」
「透明な箱にしろ。鍵が本物か毎日見る」
「毎朝、扉で試します」
そこまでして初めて、閉じ込められている事実の中に、非常口が一つできた。
第四条。
《過去周回のレイの同意、約束、好意、拒否は、現在のレイへ自動的に継承されない》
書き終えた時、紙の上だけ風が止まったように見えた。
ミレーユは読む。
一度。
二度。
「過去のあなたが望んだことを、今のあなたへ話すのも違反ですか」
「話すのはいい。従う義務があるように言うな」
「好きだったと伝えることは」
胸のどこかが変な跳ね方をした。
聞き流せ。
契約の確認だ。
「事実なら話せ。ただし、今の俺も同じだと決めるな」
「今のあなたが私を好きになった場合は?」
「契約書で予約するな!」
今度こそ声が大きくなった。
ミレーユは目を瞬いた後、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったのか。
この状況で。
俺は羽根ペンを持ち直す。頬が熱い。鐘蝕ではない。そういう診断はいらない。
「第五条。還暁」
口元の緩みが消えた。
《レイが死亡しても、本人の事前意思に反して暁鐘を鳴らさない》
ミレーユは首を横へ振る。
「署名できません」
「昨日、俺は戻すなと言った」
「死の直前です。鐘蝕で判断が――」
「判断が鈍った証拠は?」
「ありません」
「なら意思だ」
「一度死ねば、訂正できません」
「だから生きているうちに書く」
「書いても鳴らします」
静かな即答だった。
紙が何枚あっても、この一点では止まらない。
ミレーユの中で俺の生存は、俺の意思より上にある。知っていた。だが文字へすると、逃げ道がなくなる。
俺は第五条へ横線を引いた。
削除ではない。合意できなかった印だ。
「なら、未合意と記録する。お前が鳴らしたら、約束を守ったことにはならない」
「はい」
彼女はそれを受け入れた。
受け入れて、鳴らすつもりだ。
恐ろしいほど一貫している。
「もう一つ」
未来の墓銘板を思い出す。
存在しない初夏月三十一日。死因、聖女。
今の俺は現物を見ていない。ミレーユの説明だけだ。だからこそ、確認する。
「還暁を止めるため、お前が俺を殺す可能性はあるか」
ミレーユの顔から表情が消えた。
「あります」
喉が乾いた。
予想していた答えなのに、身体は律儀だ。
「条件は」
「暁鐘が私の意思と無関係に起動し、あなたの死が避けられず、死ぬ時刻を選ばなければ世界全体が白化する場合」
「過去に起きた?」
「未遂が十一回」
また新しい数字だ。
百十二。四十七。十一。
この物語には、俺の知らない欄が多すぎる。
「その場合、お前が先に殺す」
「もっと苦しくない方法を選びます」
「問題はそこじゃない」
「分かっています」
分かっていて、楽な死を提案する。
愛情と凶器は両立するらしい。むしろこの女の場合、同じ手で持つ。
俺は第六条を書く。
《ミレーユがレイを殺傷する可能性を認識した時、条件、根拠、代替策を直ちに開示する。殺傷を救命または保護と言い換えない》
「署名できるか」
ミレーユは長く読んだ。
「最後の一文を、《レイの生命を救う目的であっても、殺傷と記録する》へ変えてください」
意味はほぼ同じだ。
違いは、彼女が救う目的まで否定されたくないこと。
俺は修正した。
二人で署名する。
五枚の契約書は、鍵を開けなかった。
鐘も壊さなかった。
ただ、何をされた時に「助けられた」ではなく「傷つけられた」と書けるか、その欄を作った。
今はそれでいい。
ミレーユが複写へ封印を施し、一部を俺へ渡す。俺は四つ折りにして、手袋と反対の内ポケットへ入れた。両方とも右側では、奪われた時にまとめて失う。
「では、最初の塔外同行を申請します」
「どこへ」
「王都葬院。昨日までの死者記録と、今朝の記録を比べる」
ミレーユの目が細くなる。
「過去に、荷車、落下看板、暴走馬、瓦礫、狙撃がありました」
「具体的で結構。対策は?」
「道を封鎖します」
「街ごとはやめろ。俺たちが道を変える」
「三本とも事故歴があります」
「四本目を歩く」
「水路です」
「舟を借りる」
ミレーユは十秒ほど黙った。
過去の死にない経路を探しているのだろう。
「分かりました。ただし、私の手が届く位置にいてください」
「一歩?」
「半歩」
「一歩半」
「一歩」
交渉成立。
ミレーユが腰の鍵を外す。
白塔の扉が、初めて彼女の手で外へ向かって開いた。
俺は敷居の前で止まり、契約書の重さを確かめる。
自由になったわけじゃない。
隣には、俺を守るためなら俺を殺せると署名した女がいる。
それでも、自分の足で出る。
昨日までの俺たちにはなかった、一歩だった。