俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
白塔を出て最初に気づいたのは、自由の匂いではなかった。
下水だった。
「これが四本目の道か」
「正確には西水路です」
「呼び方を変えても臭いは変わらない」
細い舟が、白塔の地下船着き場に浮いている。幅は俺の肩二つ分。船頭はいない。ミレーユが後ろへ立ち、聖刻で水流を押すらしい。
過去に使った三本の道では、荷車、看板、暴走馬、瓦礫、狙撃。
水路には事故歴がない。
なぜなら、過去の俺が一度も使っていないから。
安全ではなく、未記入というだけだ。
「乗ってください」
ミレーユが手を出す。
借りずに舟へ足を置くと、思ったより揺れた。右足が滑りかけ、腰へ腕が回る。
速い。
俺の膝が曲がる前に、ミレーユは身体を支えていた。
「一歩離れる契約だったな」
「落水の危険時は緊急です」
「深さは?」
「腰までです」
「死なないだろ」
「第百四十三回は、浅い水で意識を失いました」
離れろと言いかけて、やめる。
今の俺は滑った。過去の死を言い訳にされるまでもない。事実を負けた腹立ちで消すな。
「支えるのは認める。抱えたままにするな」
「はい」
腕が離れる。
少しだけ寒い。
水路のせいだ。
舟は音もなく進み始めた。白塔の地下門を抜けると、石造りの水路が王都の下へ続く。天井は低く、十歩ごとに青い導光石が埋め込まれていた。水面へ俺たちの影が揺れる。
逃げ道を数える。
後ろの塔門は閉じた。左右の点検梯子が三本。頭上の格子蓋が二つ。舟の底に係留縄。ミレーユは杖を持っている。俺の腰には葬院手帳、右手には死痕の手袋。契約書は内ポケット。
自由ではない。
だが、自分で逃げ道を数えられる場所にいる。
それだけで肺へ入る空気が違った。
「笑っています」
「臭いで顔が引きつったんだ」
「口角は上がっていました」
「俺の顔を監視項目に入れるな」
ミレーユは前を向いた。
見ていないふりが遅い。
水路を十五分進み、葬院裏の荷揚げ場へ着く。格子戸には新しい封印があった。俺が手を伸ばす前に、ミレーユが杖を上げる。
「待ってください」
「危険の種類」
契約どおり訊く。
「格子戸の上、留め具が腐食しています。第八十九回に落下」
見上げる。
鉄の留め具は黒い。腐食しているようには見えない。だが、表面へ触れたミレーユが聖光を流すと、中から赤い粉が落ちた。
「今回はまだ落ちてない」
「今日の午後、荷運びが扉を強く閉めた時に折れます」
彼女が補強の聖刻を刻む。
手際に迷いがない。
昨日まで何度も直した職人のようだ。
格子戸を抜ける。今度は俺が先に足元を確認した。石段の三段目だけ色が薄い。
「ここは?」
「第六十二回、油で滑りました」
「油はない」
「十一時に魚屋の瓶が割れます」
現在は朝七時前。
未来の事故現場を巡っている気分になる。墓誌なら死んだ後の結果だ。ミレーユの記憶は、まだ誰も知らない事故の下書きだ。
葬院の裏庭へ出る。
四日ぶり――俺の記憶では二日前の朝以来だ。灰色の建物。煙突。荷車。死者を運ぶ西扉。見慣れた景色に、肩の力が抜ける。
その瞬間、頭上で木が軋んだ。
反射的に右へ跳ぶ。
何も落ちない。
屋根の縁にいた修繕工が、長い板を持ち直しただけだった。板の先は俺から三歩離れている。
「大丈夫です」
ミレーユが言う。
お前が言うと、逆に不安になる。
修繕工はこちらへ頭を下げた。
「聖女様。ご指示の留め縄、二重にしてあります」
ミレーユを見る。
「指示したのか」
「午前四時に」
「板が落ちる前に」
「第九回と第三百二十回で落ちました」
修繕工は会話を聞いても驚かない。聖女が朝早く縄を増やせと言えば、そうするものらしい。
葬院の中へ入る。
受付の老人が俺を見て、手にしていた印章を落とした。
「レイ?」
「二日休んだだけだろ」
「休暇届には三十日と」
ミレーユを見る。
「私が出しました」
「本人の同意なしに?」
「はい」
契約書へ一件増える。
老人は俺と聖女を交互に見た。質問は多いはずだが、王都で長く葬院をやる人間は、貴族と教会の事情へ鼻を突っ込まない。
「戻ったなら助かる。今朝は数が合わん」
「死者が多い?」
「逆だ」
老人――院長代理のボリスは、受付台の帳簿を回した。
初夏月二日、朝六時集計。
王都内の死亡届、九件。
平時なら十五から二十。少ないこと自体はいい。葬院が暇なら、そのぶん誰かが家で朝食を食べている。
「事故死がゼロ?」
「転落も馬車も火事もなし。病死が七、老衰が二」
ミレーユを見る。
彼女は帳簿ではなく、俺を見ていた。
「お前が止めたのか」
「止められる事故は」
「いくつ」
「今日だけで三十八件です」
鳥肌が立つ。
人を救った数だ。喜ぶべき数字のはずなのに、言い方が「回収した罠」の数に聞こえる。
「全部、過去に俺が巻き込まれた?」
「直接は二十一。あなたが救助に向かい、別の死因へ繋がったものが十七」
なるほど。
俺を塔へ閉じ込めるだけでは足りず、街の事故まで先に消した。俺が聞けば助けに行くから。
結果として三十八件、死人や怪我人が減る。
悪いことではない。
なのに、喉へ小骨が刺さる。
ボリスが別の帳簿を出した。
「死亡届が少ないのは結構だ。だが、巡回報告の人口が一人合わん」
「人口?」
王都では毎朝、各区の夜警が宿屋、施療院、牢、共同寝所の人数を数える。疫病の兆候と行方不明者を拾うためだ。葬院にも死亡届との照合票が来る。
「昨日の夜と今朝で、差し引き一人減っている。死んだ記録も、門を出た記録もない」
「名簿の書き間違いは」
「それを探してる。西区だけ合計が一人少ないが、個別名簿は昨日と同じだ」
意味が分からない。
個別の名前は全員残っている。合計だけ一人減るなんて、足し算を間違えたとしか考えられない。
「数え直した?」
「三人で五回」
帳簿を見る。
昨日の西区、四千三百十二。
今朝、四千三百十一。
個別名簿の末尾には《計四千三百十二名》と書かれている。だが、頁ごとの小計を足すと四千三百十一になる。
どこかの頁で一人減った。
どの頁か比較するには、全名簿を昨日分と並べるしかない。
「昨日の名簿は?」
ボリスが奥の棚を指す。
取ろうとした瞬間、若い葬員が横から走ってきた。
「そこ、止まって!」
俺は足を止める。
葬員は床へ膝をつき、棚の前に落ちていた小さな釘を拾った。
「踏むところでした。危ない」
「靴底は厚い」
「でも転ぶかもしれないでしょう」
彼女は釘を専用の箱へ入れた。箱には《鋭利物・即時回収》と大きく書いてある。
葬院にそんな決まりはなかった。
「いつから?」
「昨日からです。聖女様が、床の異物を見つけたら作業を止めて拾うようにって」
ミレーユは当然のように立っている。
「俺が釘で死んだ回もある?」
「踏んだ傷から腐灰症を起こした回が二回」
「二回目は学習しろよ、過去の俺」
「二回目は別の場所でした」
それなら仕方ない、とはならない。
棚から名簿を運ぶ間にも、妙なことが続いた。
湯を運ぶ葬員は曲がり角の前で必ず声を出す。扉は一度止めてから開く。脚立には二人つく。刃物を渡す時は柄を相手へ向け、受け取ったと返事をするまで離さない。
全部、安全な作法だ。
昨日までの葬院より、ずっといい。
だが、全員の動きが揃いすぎている。
一度事故を起こし、その後で決まりを作った職場の動きだ。実際には事故は起きていない。彼らは理由を知らないまま、誰かの失敗を練習済みだった。
王都全体が、ミレーユの記憶を台本にしている。
「他の場所にも指示した?」
「市場、工房、学校、騎士詰所、劇場、城門、施療院。過去に同じ事故が三回以上あった項目から」
「何項目」
「二千八百六十四」
数字が大きすぎて、驚きが遅れて来た。
ボリスが低く口笛を吹く。
「うちへ来たのは十九項目だ。大鍋の取っ手を朝夕確認しろ。納棺針を床へ直置きするな。焼炉の灰を捨てる前に水を二杯。北倉庫の梁には二人以上で近づくな」
「理由は聞かなかったのか」
「教会の安全指針としか。悪い内容じゃなかったからな」
悪くない。
そこが難しい。
試しに北倉庫へ行く。梁は新しい支柱で補強され、立入線が床へ引かれていた。ボリスに訊くと、昨日の午後、教会の職人が来て一時間で直したらしい。
「ここでは何が起きた」
ミレーユは梁の中央を見る。
「第十五回、積んだ棺が崩れました。あなたは下にいた見習いを押し出し、頭部を打ちました」
「死んだ?」
「三日後に」
「他は」
「第二百七回、梁そのものが折れました。第五百九十回、補強具が外れました」
支柱の金具が三重になっている。
一度目の失敗で棺の積み方を変え、二度目で梁を直し、三度目で金具を増やした。職人は今朝、事故も知らずに最終回答だけ渡された。
見習いの名を訊く。
「サムです」
作業場にいる。俺が呼ぶと、十六歳の少年が灰まみれの顔を出した。
「なんです、先輩」
元気だ。
三日後に死んだ自分も、梁の下から押し出されたことも知らない。俺も知らない。ミレーユだけが知っている。
「北倉庫には入るなよ」
「分かってます。今朝からみんなに三回言われました」
サムは笑って戻る。
俺は支柱へ触れた。新しい木。残響はない。事故そのものが起きていないから、死者の記録も痛みも残らない。
救えた。
間違いなく。
なのに、サムが生きている理由をサム自身は選べず、知ることもできない。感謝しろと言いたいわけじゃない。命の借りを負わせたいわけでもない。ただ、彼女一人がいなくなったら、次に梁が軋んだ時、誰も理由を説明できない。
「指示書の根拠を残す」
俺はもう一度言った。
「過去周回とは書かなくていい。木材の耐久、作業動線、実際の点検結果に直せ。サムが自分で危険を判断できる形にする」
ミレーユは支柱を見たまま答える。
「それでは、私の知っている事故すべてを防げません」
「全部は無理だ」
「私は全部知っています」
「知っていることと、一人で全部決めていいことは違う」
昨日なら塔の鍵の話だった。
今日は王都の梁だ。
大きさが違うだけで、同じ問題なのかもしれない。
七百回なら、同じ人が鍋を落とす日もある。子供が同じ道へ飛び出すことも、馬が同じ音に怯えることもある。それを彼女は覚え、手順へ変えた。
「一晩で?」
「以前から準備していました。今回の還暁直後、配布しました」
「この周回のために」
「あなたを塔の外へ出す可能性が生じた場合に備えて」
俺のため。
その言葉は、三十八件の事故を消した。
同時に、何千人もの今日の動きを、彼女の知る昨日へ寄せている。
善悪をすぐ決めるな。
事故を防ぐ手順自体は残すべきだ。危険なのは、理由と検証が彼女の頭の中にしかないことだ。存在しない事故を根拠に命令されても、誰も反論できない。
契約の第二条が、塔の外まで膨らんだ。
「指示書を全部見せろ」
「二千八百六十四項目です」
「読む。俺だけじゃなく、各職場の人間にも過去の事故を伏せた一般的な根拠を付ける」
「時間がかかります」
「明日が来るならな」
口から出た言葉に、自分で引っかかった。
なぜ明日を条件にした。
手袋の死痕が冷える。
未来墓銘板の日付は存在しない三十一日。鐘は世界を同じ起点へ戻す。ミレーユは今日の事故を知りすぎている。
もし彼女が、明日を来させない方法を選んだら。
まだ仮説だ。
証拠を探す。
俺とボリスは昨日と今朝の名簿を並べた。西区は二十七の頁に分かれている。宿、家族、住み込み職人、施療院。頁ごとの小計を比較する。
一頁目、同じ。
二頁目、同じ。
七頁目で、一人減っている。
《鐘職人通り・共同住宅》
昨日は四十八名。今朝は四十七名。
個別名を指で追う。
全員、昨日と同じに見える。
「部屋番号で見る」
ボリスが別紙を出した。
一号室、二名。
二号室、三名。
三号室、一名。
四号室がない。
五号室、四名。
建物図には四号室がある。だが名簿では、昨日も今朝も飛ばされている。
「空き部屋?」
「なら空室と書く」
ミレーユが紙へ近づく。
今まで俺の斜め後ろ、一歩を守っていた彼女が、初めて距離を忘れた。
「住所は」
声が硬い。
「西区鐘職人通り、青煉瓦の共同住宅」
「そこへは行けません」
「危険の種類」
「分かりません」
「根拠」
「その部屋を、私は知りません」
ミレーユが知らない。
七百回の王都を覚え、釘一本の落ちる床まで知っている女が、存在する部屋を知らない。
右手の冷えが、肘まで上がる。
「四号室の住人は?」
ボリスが入居台帳をめくった。
紙の端に、家族人数だけが残っていた。
《二名。兄妹》
名前の欄は白い。
昨日の紙を光へ透かす。削った跡はない。筆圧もない。今朝の紙も同じだ。さらに一月前の入居台帳を出す。
四号室は二名。
兄妹。
名前だけ白い。
三か月前も、半年前も同じだった。人数は記録され、家賃は納められ、水の配給札も二枚。生活の輪郭だけある。人間の名だけが抜けている。
「家賃を受け取った管理人なら覚えてる」
ボリスが言い、使いを走らせる。
戻ってきた答えは妙だった。
管理人は四号室へ毎月行く。扉が開き、硬貨を受け取り、受領印を押す。だが、誰から受け取ったか思い出せない。顔も声も性別も分からない。それなのに空室ではないと断言した。
「兄妹と書いたのは誰だ」
「初回の夜警だ。名は……」
その夜警の名も、担当表から消えていた。
一人の欠落ではない。
欠けた人を覚えていた人まで、縁から白くなっている。
消し跡も、破れもない。
最初から、そこだけ人の名を書くことを世界が忘れたように白かった。
死亡届がないのは、生きている証拠じゃない。
名簿に名前がないのも、最初からいなかった証拠にはならない。
葬院で働く俺は、その二つだけは間違えない。
白い欄も、死者と同じように調べる価値がある。
そこに誰かの暮らしが残っているなら、なおさらだ。