俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
西区へ向かう途中、ミレーユは俺を三回止めた。
一回目は、魚屋の軒先から氷が落ちるから。
二回目は、路地を曲がった荷車の車輪が外れるから。
三回目は、屋根の鳩が驚いて飛び立つから。
「鳩で死んだのか、俺」
「糞が目に入り、よろけた先へ刃物屋の看板が落ちました」
「事故の組み合わせが悪意を持ってないか?」
鳩は悪くない。看板もたぶん悪くない。刃物屋は留め金を直すべきだが、俺を狙ったわけではない。
なのに結果だけ並べると、王都全体が俺を殺す仕掛けに見える。
ミレーユが鳩へ視線を向ける。
鳩は屋根の上で首を傾げた。
「鳥を消すなよ」
「消しません」
返事が一拍遅い。
「今、選択肢に入れただろ」
「捕獲して郊外へ放すことを考えました」
「それを消すって言うんだ」
「鳥にとって郊外のほうが安全かもしれません」
「鳩へ契約書を読ませて同意を取れ」
ミレーユは冗談と受け取らなかったらしく、本当に鳩を見上げて考え込んだ。
まずい。聖女なら鳥の言葉を聞く聖刻くらい持っていそうだ。
「今のは皮肉だ。行くぞ」
一歩先へ出る。
彼女も一歩でついてくる。
王都は初夏の朝で、人が多かった。焼きたてのパン。濡れた石畳。呼び込みの声。鐘楼から七時の鐘。白塔の窓越しに見ていた街は平らだったが、中へ入れば匂いも音も傾斜もある。
自由だ、とはまだ思えない。
俺が歩く前に、ミレーユの記憶が道を掃除している。鳩の羽ばたきさえ、彼女の許可待ちに見える。
それでも足を動かすのは俺だ。
青煉瓦の共同住宅は、鐘職人通りの端にあった。
三階建て。窓が十二。煙突が四本。入口の上に古い歯車を半分に切った飾り。四号室は一階の奥、裏庭側だ。
建物の前でミレーユが止まる。
「ここから先の危険を、私は知りません」
「契約どおりだな」
「戻りましょう」
「契約の使い方が違う」
「具体的な危険を説明できないため、安全を確認できません」
「分からないなら調べる。分からないから閉じるんじゃない」
「あなたが調べる必要は」
「俺が関係する欠落だ。第二条」
内ポケットの契約書を叩く。
紙一枚で彼女の魔法に勝てるわけではない。だが、ミレーユは口を閉じた。嫌でも、署名した欄を無視しない。それだけで紙代の元は取れている。
入口の扉を開ける。
煮豆の匂いがした。
廊下の突き当たり、四号室の扉は青く塗られている。表札はない。呼び鈴の紐が二本垂れていた。一本は新しく、もう一本は色が抜けている。
古い紐を見た瞬間、胸の奥へ小さな痛みが刺さった。
知っている。
この扉を、俺は前にも叩いた。
今朝ではない。手袋の死痕でもない。もっと古い、普通の記憶だ。
「ニナ?」
名前を口にしてから、思い出す。
ニナ・ベル。
同じ東鐘修道院の裏で育った幼なじみ。俺より一つ下。喧嘩でできた傷へ泥を塗ろうとした俺を殴り、薬草を貼った女。二年前から王都の施療院で薬師見習いをしている。
なぜ住所を忘れていた。
彼女へ会いに来たこともある。扉の色も、煮豆の匂いも覚えている。なのに四号室が名簿から抜けた時、すぐニナへ結びつかなかった。
何かが名前と場所の間を薄くしている。
「知り合いですか」
ミレーユの声が硬い。
「幼なじみ。薬師見習い。俺が王都へ来た時、安宿を紹介してくれた」
「私は、その人を知りません」
「七百回とも?」
「記憶にありません」
そんなはずがない。
俺の生活を珈琲の置き方まで覚えた女が、王都にいる幼なじみを一度も知らない。俺が一度も話さなかった可能性はある。だが、この扉を訪ねた記憶がある以上、過去周回でも同じ行動をしたはずだ。
断定はできない。
だから呼び鈴を引く。
中で椅子が鳴った。
足音。
扉が指一本分だけ開く。
茶色い目が俺を見る。
一秒後、扉が勢いよく開いた。
「レイ!?」
額へ平手が飛んできた。
避けられない距離ではない。だが、身体が「受けろ」と判断した。乾いた音が廊下へ響く。
痛い。
「二日も消えて、休暇届だけって何考えてんの! 病院にも宿にもいないし、葬院の爺さんは聖女様がって濁すし!」
「俺も今朝知った」
「何を?」
「三十日休むことを」
ニナの視線が俺の後ろへ動く。
ミレーユを見つけた途端、顔から怒りが半分消え、礼儀が無理やり入ってきた。
「還暁の聖女様……?」
「ミレーユ・アルノーです」
「それは知ってます」
ニナは俺へ視線を戻した。
「何したの」
「俺が?」
「聖女様に連行されるようなこと」
「された側だ」
「それはそれで何したの」
昔から、俺への信用が妙な方向に低い。
「中で話す。名簿のことで訊きたい」
ニナが扉を広く開ける。
ミレーユは敷居の前で止まった。
「入らないのか」
「内部が確認できません」
「じゃあ俺が先に見る」
一歩入る。居間。右に台所。左に小さな寝室が二つ。窓は裏庭へ一枚。武器になりそうなものは台所の包丁と火掻き棒。床下収納。天井裏への蓋。普通の家だ。
普通すぎて、名簿の白さが気持ち悪い。
「安全」
「私が確認します」
ミレーユも入り、杖へ光を集める。
「家ごと壊すなよ」
「調べるだけです」
壁、床、天井、窓、食器棚。青い光が撫でていく。
ニナは口を開けて見ていたが、俺の額の赤い跡を思い出したらしく薬箱を持ってきた。
「座って」
「平手で薬を使うな」
「私が痛めたから私が治す。聖女様に頼んだら大げさになりそう」
ミレーユの光が止まった。
ニナは気づかず、俺の額へ冷たい布を当てる。
「骨は平気。瞳孔も問題なし。吐き気は?」
「ない」
「記憶は?」
「お前に殴られたことなら一生覚えてる」
「その減らず口なら平気ね」
診察が短い。
触れる前に声をかける。必要な場所だけ触る。終わったら離れる。
普通の治療だ。
ミレーユを見ると、彼女は食器棚を見ていた。
棚には皿が三枚並んでいる。
大きい深皿が二枚、小さい平皿が一枚。
「一人暮らしだよな」
「そうだけど」
「食器が多い」
「客用」
答えはすぐ返った。
だが、台所の卓には椅子が二脚ある。片方はニナが使っていた。もう片方の前には、空の深皿が置かれている。
客用の食器を、朝食の卓へ毎日出すか?
「それは」
ニナが空皿を見る。
顔が曇った。
「分かんない」
「今朝置いた?」
「たぶん。癖で」
「誰の癖だ」
「だから分かんないって」
ニナは苛立った声を出し、すぐ自分で戸惑う。
「変なの。いつも片づけようと思うのに、朝になると出してる。豆も二人分煮るし、パンも二つ切る。でも余るから昼に食べる。食費が無駄で、ほんと馬鹿みたい」
皿の内側には細い傷がある。
匙が同じ場所を何度も擦った跡。客用ではない。誰かが長く使っていた。
「触っていいか」
ニナへ訊く。
「皿を? いいけど」
右の手袋を外す。
ミレーユが一歩詰めた。
「残響を読むなら、危険性を」
「食器の生活残響だ。死痕ほど強くない。気分が悪くなったら離す」
契約の言葉で返す。
彼女は止めない。
皿の縁へ親指を置いた。
最初に来たのは笑い声だった。
男の声。
若い。俺より少し上。
《ニナ、塩》
《自分で取って》
《腕が油だらけなんだよ》
《皿には触ってるでしょ!》
視界が狭い台所へ変わる。今と同じ卓。ニナが鍋を睨んでいる。向かいに大きな手。指へ黒い車軸油。顔は見えない。
場面が飛ぶ。
《レイ、持て!》
同じ男の声。
軋む木材。誰かが俺の腕を掴む。足元が抜ける。
白い空。
声が名前を叫ぶ。
《ユアン!》
皿が手から滑った。
床へ落ちる前にミレーユが受け止める。
俺は卓へ両手をついた。胃が持ち上がる。右手の冷えではない。落下の残響が脚から残っている。膝が、まだ地面を探していた。
「レイ」
ニナが肩へ触れる。
「平気。落ちた感じがしただけだ」
「それを平気って言わない」
ニナは椅子を引き、俺を座らせる。ミレーユは皿を持ったまま動かない。
「ユアン」
俺は名前を口にする。
空気が一瞬、薄くなった。
ニナが眉を寄せる。
「誰?」
「男。ここで飯を食ってた。手に車軸油。お前を知ってる。俺も知ってる」
「荷車工房の人?」
「たぶん」
皿の裏を見る。焼き印がある。
《Y・B》
王都の字なら、ユアン・ベル。
「ほかに、誰かの物はないか」
ニナは首を傾げた。
「一人暮らしなんだから、ないよ」
言いながら、台所の壁に掛かった前掛けを二枚見た。一枚は小柄なニナ用。もう一枚は胸当てが広く、裾に黒い油染みがある。
「それは」
「工房で薬箱を運ぶ時に使った……のかな」
「丈が合わない」
大きい前掛けを外す。肩紐の位置がニナより指二本ぶん広い。胸元の裏へ、糸で《Y》と縫ってある。
寝室は二つ。
右はニナの部屋。薬草の束、教本、畳んだ服。左は物置だと彼女が言った。扉を開けると、木箱が三つと壊れた椅子。床の奥だけ埃が薄い。
寝台の脚が四本あった形に、四角い跡が残っている。
壁の釘は二列。低い列にニナの外套。高い列は空。窓辺には、乾いた車軸油の瓶。
「物置にしたのはいつ」
「ずっと前。王都へ越してきた時から」
「寝台の跡がある」
「前の住人でしょ」
「この家に越してから床板を張り替えたって、さっき管理人が言ってた」
ニナが黙る。
俺は床へ膝をつき、埃を払った。板の隙間から薄い金属片が見える。針で引き出すと、荷車工房の組合章だった。
表に交差した車輪。裏に番号。
《四七二・ユ》
姓名まではない。だが、空皿、焼き印、前掛け、寝台、油瓶、組合章。もう残響だけの話ではなかった。
ニナは組合章を掌へ載せた。
指が自然に縁の欠けた場所を撫でる。
「これ、知ってる」
「誰の?」
「分からない。でも、小さい頃に紐を通して遊んで、怒られた。油が服につくって」
記憶の相手だけがいない。
叱られた声も、手の大きさも、名前の場所から白く剥がれている。
「私、本当に一人だった?」
ニナが訊く。
俺へではない。
空だった寝室へ。
答えは返らない。
その代わり、窓の外を荷車が通った。車輪の軋みを聞いたニナが、無意識に二回、指で卓を叩く。
さっき皿から聞いた男も、同じ間隔で匙を鳴らしていた。
人が消えても、暮らしは簡単には一人分へ戻らない。
癖、食事の量、釘の高さ、床の跡。世界が名を消しても、生活の端が計算違いを起こし続ける。
葬院の人口が一人合わなかったように。
「お前の家族に、その名は?」
ニナは首を振る。
「母さんは私が五歳で死んだ。父さんはその次の冬。一人で修道院へ行って、そこであんたと会った」
「家族写真は」
彼女が寝室の棚から小さな額を持ってくる。
褪せた写真板。父親らしい男。母親らしい女。幼いニナ。
その左に、不自然な余白がある。
写真師なら中央へ寄せるはずの三人が、右半分に固まっている。左側だけ、誰か一人立てる幅で白い。
縁には手形のような色の差が残っていた。
「昔からこう?」
「そう。端が焼けたんだと思ってた」
「焼け跡はない」
ミレーユが初めて口を開いた。
ニナは聖女を見る。
「じゃあ、なんですか」
ミレーユは答えない。
写真ではなく、皿の焼き印を見ている。
「ミレーユ」
呼ぶ。
彼女の左手が袖の下で震えた。
「その名前を知ってるな」
「知りません」
「今朝の俺みたいな言い方だな」
「記憶にありません」
「でも、反応した」
「名前を聞いた時、還暁傷が痛みました」
俺の右手と同じ。
記憶はなくても、傷が覚えている。
「何本」
ミレーユは袖を押さえたまま数える。
「七本」
一人の名に、七本の傷が反応した。
「見せろ」
「危険です」
「俺に?」
「私が、何をしたか分からないから」
その答えだけで、部屋が寒くなった。
ニナは何も知らない。空の皿を毎朝出し、二人分の豆を煮る。兄がいたと告げられても、悲しむ記憶すらない。
ここで全部話せば、彼女へ失ったものの形を押しつけることになる。
だが隠せば、ミレーユと同じだ。
「ニナ」
「なに」
「この皿と写真を調べたい。お前に兄がいた可能性がある。名前はユアン」
ニナは空の椅子を見る。
すぐには泣かなかった。
代わりに、自分の指を一本ずつ握った。薬師が震えを確認するやり方だ。
「可能性って、どれくらい」
「皿の声だけなら仮説。焼き印と名簿と写真を合わせれば、無視できない」
「聖女様は?」
「記憶がない。ただ、傷が七回反応した」
ニナはミレーユを見る。
「兄を知ってたんですか」
「分かりません」
「忘れた?」
「私が忘れたのか、世界から薄れたのか、それも分かりません」
ミレーユがここまで「分からない」を続けるのは初めてだった。
強い女が弱く見えた、とは思わない。
分からないまま鍵を握っていることが、前より怖く見えた。
「傷を読む」
俺は言う。
「今すぐ?」
ニナが訊く。
「現物を揃えてから。皿、写真、名簿、工房記録、出生簿。先に外の証拠を固める」
残響は断片だ。見たい答えが混ざる。ユアンという声を拾った俺は、次の証拠もユアンへ寄せて読むかもしれない。
だから先に、触れずに読める紙を集める。
ニナが頷いた。
「私も行く」
「危険です」
ミレーユが即座に言った。
ニナの目が細くなる。
「私の兄かもしれないんですよね」
「あなたにとって危険な残響があります」
「なら危険の内容を説明してください」
俺を見る。
「さっき、そういう契約だって言ってたでしょ」
聞かれていたらしい。
ミレーユは黙る。
自分で署名した言葉を、初対面の女にまで使われるとは思わなかった顔だ。
「同行者にも適用する条項を足そう」
「増やすのですか」
「紙は国費だろ」
「だから増やさないでください」
ニナが、場違いに吹き出した。
その笑い声へ、空の皿がかすかに鳴った。
右手を置いていない。
風もない。
皿の底から、男の声がもう一度だけ聞こえた。
《ニナを頼む、レイ》
ミレーユの手の中で、七本の傷が青く光った。
消された名前が、傷の側から返事をした。
聞き間違いでは済ませられない返事だった。