俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
ユアン・ベルを、私は殺していない。
その言葉を最初に考えた時点で、もう答えは出ていた。
殺していない、と先に言いたくなることをした。
ニナの家で七本の還暁傷が光る。左手首の中央、古い傷。三百十八から三百二十四まで。
私は番号を覚えている。
誰の傷かは覚えていなかった。
《ユアン》
レイが名前を呼ぶたび、傷の内側で木が折れる。
油の匂い。朝の市場。車輪。白い足場。レイの脈が消える時刻。
断片だけが戻る。
記憶ではない。記憶を失った後に残った、傷の癖だ。
私は空の皿を持っていた。
男の声が《ニナを頼む》と言う。
その声に、私は覚えがない。
それでも嫌いだと思った。
レイへ頼み事をする。他の誰かのために、レイの未来を使う。私の知らない男が、私の知らない関係を当然のものとして彼へ渡す。
違う。
嫌いなのは、その理由ではない。
そう説明すれば、私はただ嫉妬したことになる。嫉妬なら個人的な感情だ。人を消した原因としては小さく、分かりやすく、謝りやすい。
本当はもっと悪い。
私は彼を危険として処理した。
皿を卓へ置く。ニナは組合章を握り、レイは写真の余白を調べている。二人は昔からの話し方をする。短い言葉で相手が何をするか分かっている。
私は知らない。
七百一回のレイを知っていても、この家で平手を受ける時に避けない彼を知らなかった。
胸が痛い。
痛みを理由に、ニナを危険へ分類してはいけない。
先に記録する。
《ニナ・ベル。二十一歳。薬師見習い。レイの幼なじみ。四号室居住。兄の可能性、ユアン・ベル》
文字は消えない。
今は。
私は七本の傷へ指を当てた。
レイが気づく。
「読むなら、先に危険を言え」
契約の条文。
私が作ったのではない言葉が、私を止める。
「強い落下死の残響があります。触れれば、あなたにも流れる可能性があります」
「お前だけで読めるか」
「私の記憶なので」
「一人で抱えるな」
命令ではない。
心配されている。
そう判断した瞬間、私は嬉しくなった。自分がしたことを思い出す場面で、レイから向けられた注意を喜んだ。
私はいつも順番を間違える。
「ニナさんも、ここにいてください」
彼女は驚いた。
私も驚いた。
七本の傷が彼女の兄に関係するなら、彼女には知る権利がある。契約には同行者の条項がまだない。だから今までの私なら、危険を理由に別室へ移した。
「途中で止めてほしい時は言ってください」
ニナが言う。
薬師の声だった。
私を患者として扱っている。
敵でも、聖女でもなく。
そのことが怖い。
私は袖を上げた。
七百一の円環傷が露出する。ニナが息を呑む。レイはもう見たことがある。それでも、視線が一瞬だけ私の顔へ来た。
三百十八番目へ触れる。
朝になる。
初夏月九日。午前八時二分。
鐘職人通りではなく、南市場。
レイは白塔にいない。
あの周回の私は、まだ彼を閉じ込めていなかった。追跡聖刻だけを靴へ隠し、危険が近づいた時に転移できる距離を保っていた。
自由にしていた。
そう記録していた。
靴へ無断で追跡聖刻を置き、一日に二十四回、脈を確認していた。それでも扉へ鍵をかけていないから自由だと考えた。
レイは市場で、崩れかけた足場を見上げていた。
私は白塔の礼拝室から位置を確認している。
安全。
南市場、石工区画。第317回まで大きな事故なし。気温二十二度。風は西から二。混雑は通常。レイの脈、一分に六十四。
危険なし。
その判定から四秒後、足場が崩れた。
上にいた職人が落ちる。
レイが走る。
私は転移聖刻を起動する。
距離が遠い。
間に合わない。
荷車を押していた青年が先に着いた。
大きな手。黒い油。青年は落ちた職人を受け止めようとしたのではない。足場の支柱を押し、倒れる向きを変えようとした。
正しい判断だった。
支柱が右へ動けば、職人は布屋の天幕へ落ちる。下の子供にも当たらない。
ただ、車輪止めが一つ外れていた。
荷車が後ろへ下がる。
青年の足を払う。
支柱が左へ傾く。
レイが青年を引く。
二人の下で、白い足場板が割れる。
地下貯蔵庫まで十一腕。
転落。
私は一秒後に着いた。
一秒。
たった一秒。
レイの頭は石へ当たっていた。青年は下敷きになりながら、レイの首を支えていた。自分の脚が折れているのに、彼の気道を確保していた。
善人だった。
「先に、こいつを」
青年が言った。
私はレイへ治癒をかける。
出血。頭蓋。頸椎。肺。順番を決める。三つ同時。魔力が足りない。鐘を鳴らせば戻せる。今はできるだけ治す。
青年が自分の上の板を押し上げた。
さらに出血する。
「動かないでください」
「あいつ、息が」
「私が見ています」
「あんた、聖女か」
「はい」
「ならよかった」
青年は笑った。
レイは死んだ。
午前八時七分四十一秒。
青年の名を、私はその時に聞いた。
「ユアン」
彼自身が答えたのではない。
地上から駆け下りてきたニナが叫んだ。
「兄さん!」
その声を、今の私は覚えていない。
傷の中でだけ聞こえる。
私は暁鐘を鳴らした。
三百十九回目。
起点へ戻り、足場を修理した。
石工組合へ命令し、車輪止めを交換し、地下貯蔵庫を閉鎖した。完璧だった。
初夏月九日、午前八時二分。
事故は起きない。
レイは南市場を通る。
ユアン・ベルも荷車を押して通る。
二人は、事故がなくても立ち止まった。
荷車の車輪が鳴ったからだ。
レイは葬院で使う車台の相談をした。ユアンは仕事の話が好きだった。五分話し、工房を教え、翌日会う約束をした。
初夏月十日。
レイは工房へ行く途中、鐘楼から落ちた石で死んだ。
ユアンが呼び止めなければ、二分前に通り過ぎていた場所だった。
私は戻した。
三百二十回目。
南市場で二人が会わないよう、ユアンの工房へ早朝の注文を入れた。
ユアンは北区へ向かった。
そこで暴走馬の手綱を取り、子供を助けた。
その話を聞いたレイが葬院から施療院へ行き、帰り道で大司教の騎士に刺された。
私は戻した。
三百二十一回目。
暴走馬を止めた。子供の通学路を変えた。ユアンの注文を別の日にした。
レイとユアンは教会の炊き出しで会った。
ニナが二人を呼んだから。
その夜、レイはユアンと酒を飲み、白塔へ来なかった。私は追跡聖刻で居場所を知っていた。危険はない。脈も正常。
午前零時十二分、宿屋が火事になった。
ユアンはレイを窓から押し出した。
自分も飛んだ。
レイだけ、落ちた樽へ首を打った。
私は戻した。
三百二十二回目。
炊き出しを中止した。
ニナを施療院の夜番へ変えた。
ユアンの工房へ監査を入れた。
レイは彼と会わなかった。
七日目、荷車の修繕依頼が葬院へ届いた。ユアンが来た。二人は意気投合した。
私はその周回で、初めてユアン本人へ警告した。
《レイへ近づかないでください》
理由は説明しなかった。
ユアンは私を疑った。
当然だ。
彼はレイへ、聖女に監視されていると知らせた。二人で追跡聖刻を外そうとした。聖刻が逆流し、レイの心臓を止めた。
私の術が殺した。
私は戻した。
三百二十三回目。
ユアンを拘束した。
罪はない。だから教会の保護房へ入れた。ニナの安全を理由にすれば、彼は従った。
レイはニナから兄が消えたと相談され、彼を探した。
保護房の場所を突き止めた。
大司教が待っていた。
レイは死んだ。
私は戻した。
三百二十四回目。
ユアンを拘束しなかった。
工房へ注文も出さない。道も変えない。ニナの勤務も変えない。
ただ、彼がレイと会う七つの経路へ、それぞれ人を置いた。
南市場。北区。炊き出し。葬院。ニナの家。酒場。教会。
近づけば、理由を作って遠ざけた。
ユアンは何度も別の道を選んだ。
善意で。
困っている人を見れば手を貸す。壊れた荷車があれば直す。葬院の車台が軋めば、自分から見に来る。妹の幼なじみが妙な聖女に追われていれば、話を聞く。
どの道もレイへ繋がった。
私は七本目を閉じた。
その朝、ユアンは工房へ来なかった。
ニナは一人で朝食を食べた。
空の皿を向かいへ置いたまま。
工房の名簿から一人減っていた。
私は成功したと思った。
レイはユアンへ会わない。
事故も起きない。
七日目まで生きた。
八日目も生きた。
九日目、レイは葬院から白塔へ来た。私が呼んだからではない。返却する本があったから。
彼は焼き菓子を二つ持っていた。
「三つ買った気がするんだけどな」
包み紙には、三個分の油染みがあった。二つしかない。彼は道で食べたのだろうと笑い、私へ一つくれた。
私は半分に割って食べた。
甘かった。
レイが十日生きた味だと思った。
その日、ニナは薬を届けに来た。籠へ同じ軟膏が二瓶入っていた。
「注文は一瓶です」
私が言うと、彼女は首を傾げた。
「誰かに渡すつもりだったような……。間違えました」
一瓶を持ち帰った。
私は止めなかった。
十一日目、葬院の車台に新しい部品が付いていた。修繕記録はない。職人印もない。レイは前からこうだったと言った。
十二日目、鐘職人通りの四号室で家賃が一人分多く払われた。管理人は計算違いとして返金袋を扉へ置いた。翌朝、袋は消えていた。
十三日目、工房の親方が昼食を四つ買い、職人は三人しかいないと気づいた。余ったパンを犬へやった。
十四日目、ニナが空の皿を割った。
泣いた。
理由を訊いても、分からないと言った。
私はすべて見ていた。
追跡聖刻と事故報告と王都の安全記録を照合するために、毎日見ていた。
白化という言葉は、当時の記録にもある。大司教が研究報告へ使っていた。《反復改変によって因果接点を失った対象は、起点の現実から白化する》。私はその一文を読んだ。
意味も理解した。
それでも、ユアンという名前を記録しなかった。
名前を書けば、レイとの接点になると考えたから。
墓誌へ残せばレイが読む。教会記録へ残せば調べる。ニナへ話せば探す。だから安全のため、私の記憶だけに置いた。
三百二十五回目の還暁は、ユアンと関係のない死だった。
鐘を鳴らした後、私は彼の名を思い出せなくなった。
記録していなかったから、失ったことも分からなかった。
空の皿だけが残った。
私は、あの時に彼を消したのではない。
七つの道を閉じるたび、少しずつ消した。記録しないと決めた時、もう一度消した。忘れた後、空の皿を調べなかったことで、最後まで消し続けた。
だから、ユアンが消えたことを調べなかった。
危険を排除した結果として記録した。
今、傷から指を離す。
ニナの家へ戻る。
床がある。落ちない。
レイが私の肩を支えていた。
「何を見た」
私は彼の手を数える。右手。左手。温かい。脈は測らない。
「第318回、ユアンさんは崩落からあなたを助けようとしました。二人で転落し、あなたが亡くなりました」
ニナが息を止める。
「兄は」
「脚を折りました。生きていました。私が戻したので、その負傷も消えました」
「その後は」
言わなければならない。
契約があるからではない。
彼女の兄だから。
「私は七回、ユアンさんとレイが会う経路を変えました。事故を止め、仕事を変え、あなたの勤務を変え、彼を拘束し、最後には七つの接点をすべて塞ぎました」
「それで、兄が消えた?」
「はい」
「殺したんですか」
最初に考えた言葉が戻る。
殺していない。
口にしてはいけない。
「私が消しました」
ニナの平手が頬へ当たる。
避けられた。
止められた。
私は受けた。
痛みは一秒で治せる。
治さない。
ニナの手も震えている。先ほどレイを打った時より強く。彼女には兄を愛した記憶がない。怒る根拠を、空の皿と知らない名前しか持っていない。
それでも私を打った。
「返してください」
「方法を探します」
「返せるんですか」
答えられない。
「分かりません」
ニナの目に涙が溜まる。
彼女は泣かなかった。
「分からないなら、最初から消さないで」
正しい。
私は結果を知っていた。
レイが死ぬ結果。
知らなかったのは、危険を消し続けた先で、人そのものが世界から白くなること。いいえ、三百二十四回目には気づけた。名簿が減り、皿が余った。
気づかなかったのではない。
レイが生きていたから、確認しなかった。
私は頬の痛みを記録する。
罰としてではない。
事実として。
《ユアン・ベル。荷車職人。ニナ・ベルの兄。第318回にレイを救助しようとし転落。第319~324回、私が接触経路を排除。現実から白化。ニナの生活習慣と物品に残響あり》
最後に書く。
《敵ではなかった》
文字が滲んだ。
涙ではない。
私の手が震え、インクが一滴落ちた。
レイが布を差し出す。
受け取る。
彼は慰めない。
許さない。
それでも隣にいる。
ニナは空の皿を自分の前へ引き寄せた。
「これ、片づけません」
「はい」
「兄が戻るまで、とも言いません。戻るか分からないから。でも、いた証拠として置きます」
「はい」
返事しかできない。
「聖女様」
「ミレーユで構いません」
「じゃあミレーユ。兄を探す時、レイを危険だからって閉じ込めたら、今度は平手じゃ済ませません」
脅しとしては具体性がない。
私なら、危険の種類、距離、手段、成功率を確認する。
確認しない。
「分かりました」
「分かってない顔です」
「分かろうとします」
その答えなら、嘘ではない。
レイが私の記録へ、日付と時刻を書き足した。ユアンを消した過去だけでなく、今日ニナへ話した事実まで残すため。
私は紙の端へ署名する。
今度は、自分だけの記憶へ閉じ込めない。
記録は人を返さない。
それでも、次の私が忘れた時に、空の皿をただの無駄だと決めずに済む。
忘れる前の私より、忘れた後の私を信用しないために、書く。
そのことを、私は許しと読み違えないようにする。
許されなくても、次の選択は変えられる。
変えた結果を、また私一人の正しさにしない。