俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
兄を消した女と、兄を忘れた妹を同じ部屋へ残す気にはなれなかった。
だからといって、俺が間へ立てば何か解決するわけでもない。
ニナは空の皿を置くと決めた。ミレーユはユアンの記録へ署名した。次に必要なのは、白くなる仕組みを知っている人間だ。
大司教グレゴール・ヴァイス。
ダリオへ渡した私印に《一一二》と刻んだ男。
「大聖堂へ行く」
俺が言うと、ミレーユは反対しなかった。
その代わり、危険を四十三項目読み上げた。
「正面階段で転落が六回。西回廊で狙撃が十一回。告解室で毒が三回。鐘塔の索が切れた回が――」
「待て。紙へ書け」
「もうあります」
差し出された紙は三枚あった。
用意がいい。
俺が大聖堂へ行くことも、たぶん彼女には予定内だ。共同捜査になっても、ミレーユが七百回の先回りをやめるわけではない。
「潜入します」
ニナが薬箱を背負いながら言った。
「お前も来るのか」
「同行者条項、足すんでしょ。兄を消す仕組みなら当事者」
「危険です」
ミレーユがまた言う。
ニナは契約書を指さした。
「具体的に」
覚えが早い。
ミレーユは三枚目を渡した。ニナが読み、薬箱から止血布、解毒薬、固定具を追加する。
「これで全部には対応できない。でも、怪我を前提に準備はできます」
ミレーユの顔が僅かに強張る。
怪我を前提にする。
この人には難しい。彼女が欲しいのは怪我を治せる状態ではなく、怪我そのものが起きない結果だ。
「ニナは葬院に残って、証拠の複写をオスカー院長へ送ってくれ」
俺は言った。
ニナが睨む。
「危険だから?」
「三人で記録庫へ入ったら、三人まとめて証拠を失う。外に一人いる」
理由を言う。
彼女は少し考え、頷いた。
「正午までに連絡がなかったら、院長と騎士団へ全部渡す」
「それでいい」
ミレーユは不満そうだった。俺と二人で大聖堂へ入ることではない。自分の知らないところへ証拠が増えることに。
だが反対はしない。
三人で役割を決める。それだけのことが、彼女にとっては七百回にない道らしい。
大聖堂は王都の中央にある。
白い尖塔が七本。中央の鐘塔だけ黒い屋根。正午前の礼拝客が石段を上っていた。
俺たちは正面から入らない。
潜入と言ったのはミレーユだ。聖女が正面門を通れば全員が頭を下げ、大司教へ知らせが届く。西の施療所から地下洗濯場へ入り、鐘守の保守通路を使う。
「道を知ってるのか」
「第百二十回から第百三十三回まで、ここへ住んでいました」
「聖女だから?」
「大司教が、あなたから距離を置くよう命じたからです」
「従ったんだな」
「十四回だけ」
十五回目から従わなかった、と数字が続く声だった。
洗濯場は湯気で白い。作業女たちは聖女を見つけても騒がなかった。ミレーユが指を唇へ当てると、一斉に背を向ける。
権力がある人間の潜入は、潜んでいない。
地下の鉄扉に、鐘を三つ重ねた印がある。
鍵穴はない。
ミレーユが左手を当てる。
「待って」
「危険か」
「私の権限を使うと、大司教へ通知されます」
「別の入り方は?」
「鐘守の血、または錨の残響」
錨。
初めて聞く単語なのに、胸の奥が嫌な音を立てた。
「俺のことか」
「はい」
「契約書へ書いてない」
「あなたに関係する記録を開示するため、ここへ来ました」
筋は通る。
気に入らない。
「どう使う」
「手袋を外し、扉へ触れます。痛みがあればすぐ離してください」
右手を出す。
ミレーユが先に扉の周囲へ防護聖刻を置く。俺は手袋を外した。
掌が鉄へ触れる。
鐘が鳴った。
実際の音ではない。
骨の中。背骨を上がり、頭蓋の内側を叩く。扉の向こうに巨大な空洞があり、その底から俺の名を呼ぶ。
《錨、確認》
古い声。
《還暁残数、二百九十九》
手を離す。
「今のを聞いたか」
「何を?」
ミレーユには聞こえていない。
「残数二百九十九」
彼女の顔色が変わる。
「千回から引いている」
七百一回鳴らした。
残り二百九十九。
計算は合う。
「千回で何が起きる」
「知りません」
今回は反応が早い。本当に知らない可能性が高い。
扉が内側へ開く。
保守通路は狭く、壁の中を上へ巻いている。中央に鐘塔の太い柱。柱へ無数の名前が彫られていた。
鐘守の名だ。
年代順に並び、最後は二年前。
《鐘守長エドガー・リム。後任なし》
「死んだ?」
「行方不明です」
「白化か」
「当時は、裏切って逃げたと大司教から聞きました」
柱の名へ触れない。残響は強そうだ。先に現物を見る。
通路の途中に小部屋がある。寝台。机。鐘の模型。埃が薄い。
「誰か使ってる」
茶の杯が濡れている。
ミレーユが杖を構える。
「エドガー?」
返事は壁の向こうから来た。
「その名を覚えている者が、まだいたか」
石壁の一部が開く。
痩せた老人が出てきた。灰色の髭。右目に白濁。腰へ鐘鍵を何十本も下げている。
ミレーユの杖が下がらない。
「あなたは二年前に」
「消されたことになった。半分は正しい」
老人は俺を見る。
視線が胸の中央で止まる。
「錨が自分で来るとはな」
「その呼び方を説明しろ」
「鐘を戻すため、世界へ打ち込まれた杭だ。お前が死ぬと、暁鐘は時をほどける状態になる。聖女が索を引けば、起点まで巻き上がる」
「俺が死ななければ」
「鳴らしても普通の鐘だ」
ミレーユが一歩、俺の前へ出る。
「なぜ、その仕組みを大司教が」
「歴代の大司教と鐘守は知る。お前さんは錨を守る役、大司教は鐘を管理する役。そう決めたのは初代の聖女だ」
守る役。
ミレーユの顔を見なくても、その言葉をどう受け取ったか想像できる。
「残数二百九十九。千回で何が起きる」
エドガーの白い目が細くなる。
「白冠が満ちる」
「白冠」
「捨てた時を集める器だ。還暁は時間を消さない。現実の外へ押し出す。千の失敗を重ねれば、器が一つの意志を持つ」
ユアン。
空の皿。
名簿の白い欄。
消えたのではなく、外へ押し出された。
「戻せるのか」
「白くなった者を?」
「ユアン・ベル」
エドガーは名前を反芻した。
「名が残っているなら、完全ではない。だが、引き戻せば捨てた時間も口を開ける。七百の死者、七百の災害、選ばれなかった戦争までな」
「全部戻す必要はない。一人だけ」
「時は墓から骨一本だけ選ばせてくれん」
葬院らしい比喩だ。
理解したくないのに、分かってしまう。
墓を掘り返せば一人分の土だけでは済まない。隣の棺も、地下水も、根も動く。
「大司教は白冠を起こす気か」
「あの男は失敗のない朝を欲しがっている」
老人が机の下から台帳を出す。
表紙に、暁日印。
同じ太陽。三本の索。
頁を開く。
数字と死因が並んでいた。
《十二・橋梁崩落誘導》
《二十七・鐘蝕試験》
《五十一・北門騒乱》
《百十二・錨刺殺、ダリオ・セルン》
手袋の内側に残した数字。
《百十二》は命令書の番号ではない。
大司教が俺を殺した回数の、最新番号だ。
「この台帳は本物か」
「私が鐘守印を押した。押さなければ、どの死で還暁したか追えなかった」
「お前も協力した」
「最初の四十六回は」
エドガーは言い訳をしなかった。
「戦争を止めた。疫病の薬を選んだ。王が死なない道を探した。失った結果より、残った命を数えた。正しいと思った」
「四十七回目からは?」
「錨が人間だと気づいた」
遅い。
だが、俺だって空の皿を見るまで、事故が消えた王都をいい結果だと数えかけた。
「大司教は、俺を殺して世界の結果を選んだ」
「百十二回、記録上は」
「記録外は」
「分からん」
ミレーユが台帳へ手を伸ばす。
「見せてください」
エドガーは閉じた。
「聖女、お前には渡せん」
「なぜ」
「読めば、すぐ錨を塔へ戻す。大司教を殺し、鐘を封じ、外へ出さない。それで安全になると思う」
反論できない。
俺にも、その未来が見える。
ミレーユの杖へ光が集まる。
「契約違反だ」
俺は言う。
彼女の光が止まる。
「まだ何もしていません」
「今からする顔だった」
「顔は監視項目に入れないと言ったのはあなたです」
こんな時だけ契約を使うな。
エドガーが喉を鳴らした。笑ったらしい。
「変わったな、聖女」
「あなたに評価されたくありません」
「錨に止められて止まるようになった」
「レイが望んだからです」
「それを変わってないって言うんだよ」
老人の指摘は正しい。
彼女は俺の言葉だから止まった。他の人間が同じことを言っても止まるかは分からない。
「台帳は俺が持つ」
「危険です」
二人が同時に言った。
「気が合うな」
「合いません」
これも同時だった。
「複写する。原本はエドガー。写しを俺、ミレーユ、ニナ、オスカー院長へ分ける」
「大司教に見つかる」
「一冊だから奪われる。五冊なら全員は消せない」
エドガーが俺を見た。
「お前は、過去にも同じことを言った」
「何回目」
「五百十二回目」
警告文を書いた俺。
《彼女の優しさを信用するな》
「そいつは何を知った」
「私に、鐘を鳴らさないと約束させた」
ミレーユが言う。
声から温度が消えていた。
「そして?」
「私は破りました」
エドガーが台帳を開き、五百十二の頁を見せる。
死因の欄は白い。
その下に、鐘守の字で一行。
《錨の願いにより記録封鎖。聖女、誓約を破り還暁》
「何があった」
ミレーユは答えない。
答えられない顔ではない。
答えたくない顔だ。
契約書へ手を置く。
「開示対象だ」
「記録庫へ行けば、残響があります」
「ここじゃ言えない?」
「私が話せば、私に都合のよい順番になります」
昨日までなら、都合のいい順番で話しただろう。
今は証拠へ連れていこうとしている。
信用したいと思う。
その気持ちを、証拠の代わりにはしない。
「大司教はどこにいる」
エドガーが天井を見る。
「上だ」
頭上で、正午の大鐘が鳴り始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
十二まで鳴るはずの鐘が、百十二回鳴った。
通路の奥の扉が開く。
白い法衣の男が、護衛も連れずに立っていた。
六十前。痩せた顔。額に太陽の聖印。俺を見ても驚かない。
「ようやく自分で鐘の下へ来たか、レイ」
大司教グレゴール・ヴァイス。
俺を百十二回殺した男。
「ダリオは失敗した」
「成功したとも。君は一度死に、残響を次へ渡した。錨の性能は上がった」
人の死を試験結果として話す声だった。
ミレーユの杖が彼の喉へ向く。
グレゴールは笑う。
「殺すのかね。次の私には、同じ間違いをしないよう教えてくれるだろう?」
彼女の手が震える。
鐘を鳴らせば、大司教も戻る。
殺しても勝てない。彼女だけが殺した記憶を持ち、次の彼は罪を犯す前へ戻る。
「百十二は、何の数だ」
俺が訊く。
グレゴールは俺だけを見る。
「彼女が鐘を鳴らした七百回のうち、百十二回は私が君を殺した」
謝罪はなかった。
誇りもない。
必要な実験の回数を報告するだけだった。
「何のために」
「結果を比べるためだ」
「人を殺した理由としては短いな」
「長く説明すれば納得するのかね」
「しない。けど記録には要る」
手帳を出す。
右手が震えている。怒りだと認める。認めた上で、字を読める大きさに保つ。ここで殴っても、俺の拳が痛むだけだ。ミレーユが先にこの男を殺すかもしれない。それも困る。
「一回目」
グレゴールは答えない。
「百十二回のうち、最初に俺を殺した理由」
「西州の疫病だ。三つの治療法のどれが最も死者を減らすか、時間が足りなかった」
「俺を三回殺せば試せる」
「五回だ。薬の副作用、輸送遅延、民衆の拒絶まで比較した」
「選ばなかった四つは」
「起きなかった」
「違う。起きて、捨てた」
エドガーの話を使う。
グレゴールは老人を見た。
「まだその比喩を教えているのか。現実は一つだ。残らなかった結果へ責任を負えば、為政者は何も選べん」
「残らなかった人間を白くしたのは、その考えか」
「白化は副作用だ」
「ユアン・ベル」
名前を言う。
大司教の目が一瞬だけ左へ動いた。
知っている。
「荷車職人。第318回から三百二十四回。ミレーユが接点を閉じて消した」
「なら聖女へ訊けばいい」
「お前は白化を知っていた」
「鐘守の報告で」
「止めなかった」
「彼女が一人を消し、君を生かすことを選んだ。それは彼女の選択だ」
都合がいい。
自分が俺を殺した時は国のため。ミレーユが誰かを消した時は彼女個人の選択。責任の置き場を、その時だけ動かす。
「お前は、ミレーユが俺のためなら何をするか知っていた」
「七回目には」
「それ以降も、危険を作った」
「私は命じていない。事故が起きうる場所へ君を導き、彼女が鐘を鳴らすか観察した」
「それを殺したと言う」
「記録上は、な」
グレゴールが一歩近づく。
ミレーユの杖先が喉へ触れそうになる。
俺は杖の前へ手を出した。彼女を庇うためではない。今殺させないためだ。
「第百十二回は鐘蝕。俺が残響を持ち越すか試した」
「そして成功した。君は過去の死を資産にできる」
「資産?」
「同じ失敗をしない知識だ。聖女が独占していたものを、錨自身が持てる。喜ばしい進歩ではないか」
手袋の内側が冷える。
昨日の俺が喉を焼かれ、息を数え、死ぬ直前まで線を刻んだ。それを、この男は成功と呼ぶ。
だが、死痕がなければ俺は今日も手袋を知らず、ユアンも大司教の百十二も知らなかった。
恩恵がある。
だから殺していい、にはならない。
そこを混ぜれば、この男と同じになる。
「結果が役に立っても、お前が選んだ死は殺人だ」
一文字ずつ手帳へ書く。
《百十二。鐘蝕。目的、錨への記憶持越し試験。本人同意なし》
グレゴールは書く手を見ていた。
「それを誰へ見せる」
「五人」
「少ないな」
「最初は。次は五十。お前が一人消す間に増やす」
ミレーユが俺を見る。
その視線の意味を決めつけない。
ただ、彼女の杖が大司教の喉から指一本ぶん離れた。
「残り五百八十八回を無駄にしたのは、彼女だ」
隣で、ミレーユの息が止まる。
俺は大司教から目を逸らさない。
こいつの狙いは分かる。
俺とミレーユの帳簿を分け、自分の百十二を小さく見せる。
「殺した借金を、別の人間の借金で値引くな」
グレゴールの笑みが、初めて消えた。