俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
大司教の笑みが消えた直後、通路の両端で鍵が鳴った。
前にグレゴール。後ろに閉じた鉄扉。右は鐘塔の空洞。左は石壁。
逃げ道はない。
最初から、逃がす気もないらしい。
「エドガー、台帳を」
俺が言う。
老人は原本を上着へ入れ、壁の隠し戸へ下がった。グレゴールは止めない。余裕なのか、別に写しがあるのか。
頭上で百十二回目の鐘が鳴り終わる。
代わりに、靴音が六つ近づいた。
白い鎧の教会騎士。
三人は正面。三人は後ろの扉から入る。全員、剣を抜いていない。両手を見える位置へ置いている。
降伏の形だ。
「聖女様」
先頭の男が膝をつく。
「抵抗しません。大司教猊下の命令ではなく、あなたの拘束に従います」
ミレーユの杖先が、グレゴールから男へ移った。
速すぎる。
「待て」
「その人は第九十六回で、降伏後にあなたの胸を刺しました」
契約第六条どおり、根拠は言った。
だから殺していい、とは書いていない。
「今は剣を抜いてない」
「袖に鋼糸。右奥歯に起爆聖刻。膝当ての内側へ毒針」
男の顔色が変わる。
持っている。
ミレーユの記憶は正しい。
彼女が杖を振る前に、俺は男へ言う。
「両腕を前へ。口を開けろ。膝当てを外せ」
男は従った。
袖から細い鋼糸。奥歯に赤い刻印。毒針。
全部出る。
「ほら」
ミレーユが言う。
「何が、ほらだ。隠し武器を出させた。次は封じる」
「第九十六回も、彼は口を開けました」
「その時の俺は何を見落とした」
「舌の裏の第二刻印」
「じゃあ見せろ」
男が自分で舌を上げる。
黒い点がある。
ミレーユの光が走り、二つの刻印を同時に封じた。続けて鋼糸を焼き、毒針を石箱へ入れる。
「ほかは」
「左靴底に刃」
外させる。
「ほか」
「髪留めが発煙筒」
外させる。
「ほか」
ミレーユは男を見た。
「ありません」
「なら拘束」
エドガーの鐘索で両手を縛る。残り五人も同じ手順で武器を出した。現在の危険は減った。
過去の罪は消えていない。
だが、まだ犯していない罪まで過去の記録だけで処刑すれば、俺たちはグレゴールと同じだ。
「名前」
「マルク・ヘイル」
先頭の男が答える。
「大司教の命令は」
「聖女様がここへ入った場合、錨を殺せ。ただし、あなたが白冠へ協力するなら従え」
「今、なぜ降伏した」
「百十二回の鐘を聞いたからです。猊下は、成功時だけ鳴らすと」
「成功って何だと聞いていた」
「錨が死を越えて記憶を持つこと。そうなれば、失敗を聖女様だけの記憶へ預けずに済むと」
言い方だけなら正しい。
ミレーユ一人が全失敗を抱え、俺は毎回忘れる。その偏りを壊す方法は必要だった。だが、本人へ説明して死痕を試す道を、グレゴールは選ばなかった。
「俺が断ると思った?」
大司教へ訊く。
「君は断る。自分の死より、彼女がまた鐘を鳴らすことを嫌うからな」
「断ると分かって、殺した」
「断る者へ許可を求めていては、進歩しない」
マルクの肩が揺れた。
「私は、鐘蝕だとは知らされていません。聖女様を止めるための鎮静針だと」
「ダリオは知ってた」
「彼には、姉の治療と引き換えに」
証言がつながる。
大司教は実行役へ真の目的を全部渡さない。娘、姉、忠誠。本人が断りにくい欄だけ使う。
「百十二回のうち、命令へ従ったのは何人だ」
マルクは首を振った。
「名簿は白冠庫です。鐘守通路の下層。私たちは番号しか知りません」
新しい場所。
エドガーを見る。
老人の眉が寄る。
「そんな庫は私の時代にはない」
「二年前、猊下が造らせました」
エドガーが消されたことになった時期と同じだ。
「入口は」
「猊下の暁日印と、錨の血」
また俺だ。
俺を殺す仕組みの扉が、俺の身体でしか開かない。この教会は人を鍵にするのが好きらしい。
「場所を図にしろ」
マルクは縛られた手で、俺の手帳へ線を引く。中央柱から下へ三層。廃棄された鐘索を二本越え、白い扉。
線は迷わない。
現在の彼は証言者として役に立つ。
ミレーユが先に殺していれば、この地図も娘の名も出なかった。
俺の死痕が成功した合図。
つまり騎士たちも、自分たちが周回実験の道具だと知らされた。
「前にも俺を殺した記憶は?」
「ありません」
当然だ。
ミレーユだけが覚えている。マルクにとっては、今が最初の降伏だ。
「聖女様」
マルクが彼女を見る。
「私は本当に、その後で刺したのですか」
「はい」
先に殺す代わりに、彼女は今の俺と同じ道を選んだ。
三秒ではなく、この周回の続きで確かめる道を。
「なぜ」
「大司教が、あなたの娘の死因を私のせいだと告げたからです」
「娘は生きています」
「その周回では、三日前に亡くなりました」
マルクの顔が崩れる。
今の娘は生きている。彼には喪失の記憶がない。だが、自分がそうなりうることだけ知らされた。
「私はまた、刺しますか」
「分かりません」
ミレーユは答えた。
以前なら「刺す」と断定したはずだ。
杖先はまだ男の胸を向いている。それでも光は消えていた。
「娘の名と居場所を書け。ニナへ生存確認を頼む。お前は証人として拘束する」
マルクが頷く。
グレゴールが拍手した。
「美しい。失敗を知る者が、失敗を知らない者へ選択を返す。だが、その選択が同じ結果へ至った時、誰が責任を負う?」
「今選んだ本人だ」
「聖女が予見していたのに?」
「予見した側は、説明と対策の責任を負う。選択まで奪う権利じゃない」
「理想論だ」
「お前の実験よりは血が少ない」
グレゴールが右手を上げる。
マルクの顔から色が消えた。
比喩ではない。
肌が白くなる。髪も、鎧も、縛った鐘索も。紙へ書いた娘の名から、インクが消えていく。
「何をした!」
ミレーユの杖が大司教へ向く。
「私は何も。彼はすでに捨てた時間へ深く触れすぎた」
マルクが自分の手を見る。
指の輪郭が薄い。
「娘の名は」
俺は紙を掴む。
消える前に読む。
《エマ・ヘイル》
手帳へ写す。
エマ。
二度書く。
マルクが笑った。
「覚えていて、ください」
「自分で言え。娘に何を伝える」
「父は――」
声が途切れた。
人間の形が白い粉へ崩れる。
床へ落ちるはずの粉は、下へ行かなかった。逆に舞い上がり、鐘塔の空洞へ集まる。
残り五人の騎士も白くなる。
「名前を!」
俺が叫ぶ。
一人ずつ名乗る。
リュカ。アンネ。セドリック。ハンナ。ヨエル。
手帳へ書く。ミレーユも予定表の裏へ書く。エドガーが柱へ刻む。
三人で残す。
それでも輪郭は消える。
六人分の白い粉が空洞へ落ち、暗闇の底で何かが息をした。
「下がってください」
ミレーユが俺の前へ立つ。
今回は拒まない。
見えない危険ではない。鐘塔の底から、捨てた時間が上がってくる。
最初に白い指。
次に腕。
骨だけの形なのに、表面へ無数の顔が浮かぶ。マルク。知らない女。老人。子供。俺。
全部が同じ口で叫んだ。
《戻すな》
白い腕が通路へ突き刺さる。
石が砕ける。
ミレーユの防壁が受け止め、青い火花が散った。
「白骸です」
エドガーが隠し戸から鐘鍵を投げる。
「捨てた死が形を取った!」
グレゴールは動かない。
これも実験だ。
俺たちがどう対処するか見ている。
「倒し方は」
「聖刻で砕けば一時は戻る!」
一時。
倒すではない。
白骸の胸へ、六人の騎士の顔が浮かぶ。今消えた者だけではない。何百という声が重なる。
ミレーユの杖へ光が集まった。
「待て。中に人がいる」
「残響です」
「名前を呼べば反応する」
「あなたへ触れれば、過去の死が流れ込みます」
「だからお前が砕く?」
「はい」
まただ。
危険を先に消す。中身を調べる前に。
今回は、相手がすでに怪物に見える。石を砕き、俺たちを殺そうとしている。ミレーユの判断は間違いとは言い切れない。
それでも、マルクは一分前まで話していた。
「十秒くれ」
「長すぎます」
「五秒」
「三秒」
「分かった」
交渉している場合ではないが、三秒を取った。
白骸の左腕が壁を掴む。五本の指が別々の方向へ曲がり、石へ顔を押し出した。子供が泣き、兵士が命令し、老人が祈る。口は動いていないのに、声だけが通路を埋める。
《薬を変えろ》
《橋を落とせ》
《北門を閉じろ》
《レイを殺せ》
大司教が試した結果の声だ。
選ばれなかった治療。落とした橋。閉じた門。俺の死。白骸は恨みだけで動いていない。命令と服従と救助と失敗が、順番を失って重なっている。
右の顔が俺を見る。
俺の顔。
喉に刺し傷。額に陥没。唇が青い。複数の死因が一つへ縫われている。
手袋の内側から冷気が噴き出した。
視界へ死が流れる。
橋から落ちる。
鐘蝕で焼ける。
騎士の剣が胸へ入る。
ミレーユの腕の中で息を止める。
全部、俺。
全部、俺ではない。
膝が折れかける。
ミレーユの左手が俺の背を支えた。右手の杖は白骸へ向いたまま。片手で防壁を維持し、俺へ治癒は流さない。残響は傷ではないと、契約後の彼女は区別した。
「時間です」
三秒。
長い。
七百の死を通れば、三秒でも一生分になる。
それでも俺は、今の名を探す。
白骸へ手袋をはめた右手を向ける。
「マルク・ヘイル!」
胸の顔が動く。
《エマ》
一語。
残っている。
「娘は生きてる。今のお前は降伏した。そこを忘れるな!」
白い腕が止まった。
一秒。
二秒。
三秒目に、背後の顔がマルクを呑んだ。
呑まれる直前、マルクの顔が右を向いた。
白骸の肋骨に、細い光が走る。
地図。
さっき手帳へ描いた白冠庫までの線と同じ形だった。
「胸の右、三本目!」
俺が叫ぶ。
ミレーユの杖先が修正される。白骸全体ではなく、地図の線を避けて左胸を撃つ。
光が貫く。
マルクの残響が、壊す場所を選んだ。
一秒前までの証言が、怪物の中でも続いている。
別の声が出る。
《殺せ》
腕が振り下ろされる。
ミレーユの光が白骸を貫いた。
胸から上が砕ける。白い破片が鐘塔へ降る。
下半身は残った。
「今です!」
エドガーが鐘鍵を床へ刺す。
通路に封鎖線が走り、白骸を空洞へ押し戻す。底で何百もの手が伸びる。落ちた破片を受け取り、また別の形へ組み直していく。
扉を閉じる。
静かになる。
俺の手帳には六人の名が残った。
マルクの横へ《降伏。娘エマ》と書いてある。
「殺さずに済んだと思った」
ミレーユが言う。
杖を握る手は白い。
「あの時、先に殺していれば、白骸にはならなかったかもしれません」
「それは分からない」
「過去では、私が殺した後に還暁したため、白化しませんでした」
「死んで戻ったから、見えなかっただけかもしれない」
白骸の底には、七百回分がいる。
見えなかったものは、なかったものではない。
グレゴールが階段の上から俺たちを見る。
「選択を返した結果、六人を失った。次も同じ理想を守れるかね」
右手が冷える。
怒りで飛びかかりたい。
だが、こいつを殺せば答えになるように誘導されている。
「六人を失ったのは、お前が捨てた時間を道具にしたからだ」
「聖女が先に殺していれば助かった」
「それを助かったとは書かない」
「そして、お前はここで拘束する」
俺が言うと、エドガーが隠し戸から二本目の鐘索を投げた。
ミレーユが受け取り、グレゴールの左右へ封印を走らせる。今回は喉を焼く光ではない。足と手を止める拘束聖刻。契約がなければ、彼女は最初からこれを選んだだろうか。
考えるのは後だ。
大司教は逃げない。
両手を広げ、鐘索が巻きつくのを見ている。
「罪状は?」
「殺人百十二件。殺人教唆。鐘蝕の違法製造。白冠実験。ユアンたち白化被害の隠蔽」
「現実に死体があるのは、今消えた六人だけだ」
「名がある。証言がある。台帳がある」
「台帳は反逆した鐘守の私記録。証言者は白骸。錨は聖女に監禁され、判断を誘導されている」
裁判になった時の言葉を、もう用意している。
「だから複写する。ニナとオスカーへ渡す」
「正午までに戻らなければ、だったか」
背中が冷える。
なぜ知っている。
グレゴールの指先で、赤い印が点った。
暁日印。
「離れて!」
ミレーユが俺を引く。
次の瞬間、鐘索の内側だけが白く燃えた。熱はない。光が消えた後、大司教の身体が半透明になっている。
「白化を自分へ使った?」
エドガーが呻く。
「七百の私のうち、どれが現実かね」
グレゴールの輪郭が階段の石へ溶ける。
ミレーユが追跡聖刻を放つ。青い線は彼の胸を通り抜け、鐘塔の底へ落ちた。
「待て!」
俺は腕を掴もうとする。
手袋が触れた瞬間、残響が一つ入った。
白い部屋。
壁一面の王都模型。
中央に千個の鐘。
グレゴールが誰かへ言う。
《次は、聖女が先に殺さない世界を試そう》
そこで腕が消えた。
床には暁日印の焼け跡だけが残る。
逃げられた。
悔しい。
だが、触れた残響と白冠庫の地図がある。拘束に失敗したことと、証拠を得たことは別々に記録する。
「ニナが危ない」
大司教は正午の条件を知っていた。葬院側へ人を置いている。
「追跡します」
「俺じゃなくニナを」
ミレーユの目が一瞬、俺へ残る。
それから杖を葬院の方角へ向けた。
「生きています。脈は速い。移動中。オスカー院長と一緒です」
「場所」
「地下墓所へ向かっています」
なぜ墓所へ。
その答えを待つように、足元で白い指が封鎖扉を掻いた。
手帳へ新しい欄を作る。
《現在の選択:降伏》
過去のマルクが刺したことも消さない。
現在のマルクが武器を出し、娘の名を託したことも、同じ頁へ書く。
人は一行では決まらない。
白骸の底から、また声がした。
今度は六人ではない。
俺自身の声だった。
《墓所へ来い》
命令かもしれない。
罠かもしれない。
それでも、今の声は白骸の《殺せ》と違った。誰かに言わされた音ではなく、俺が自分で選んだ時の声だった。
「行く」
ミレーユが反対を口にする前に、契約書を開く。
「危険は分かってる。お前と、エドガーと、外にいるニナへ記録を分けて行く。一人では行かない」
彼女は三秒だけ黙った。
「はい」