俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
大聖堂の地下墓所へ降りる階段は、途中から昨日になった。
最初に変わったのは空気だ。
正午の湿った石の匂いが消え、朝の冷気が鼻へ入る。次に壁の灯火。俺たちが通る前から点いていた青火が、一本ずつ蝋へ戻っていく。
「止まってください」
ミレーユが俺の肩を掴む。
「危険の種類」
「時刻の断層です。踏み越えると、戻れない可能性があります」
「ニナとオスカーは向こうだ」
追跡聖刻の青い線は階段の下へ続いている。
エドガーが壁の鐘印を調べた。
「白骸が墓所の刻印を食った。捨てた時間が漏れてる」
「戻る方法は」
「同じ時刻の名を刻む。誰が、いつ、ここにいるか三か所へ残せ」
俺は手帳へ書く。
《七百二回目。初夏月二日、正午十二分。レイ、ミレーユ、エドガー。大聖堂地下階段》
ミレーユは契約書の裏へ。エドガーは石壁へ鐘鍵で刻む。
三つ。
今という時刻を、一人の記憶へ預けない。
ニナとオスカーの位置も追記する。二人は墓所側、時刻は十一時五十八分。俺たちより十四分前にいる。
「同じ場所なのに時刻が違う?」
「階段が二人の後ろでずれた」
エドガーが灯火の蝋を削る。断面に年輪のような線があった。
「還暁のたび、同じ階段を同じ形へ戻した。その層が剥がれている。下りる者が何を強く覚えているかで、踏む昨日が変わる」
「俺なら死んだ日へ寄る」
「聖女なら、死なせた日へ」
ミレーユの手が俺の袖へ触れた。
まだ握ってはいない。俺が拒むか確認している。
「二人で入ったら?」
「綱引きだ。片方が放せば、もう片方の昨日へ落ちる」
だから手を離すなと言ったのか。
彼女の管理だけではない。現物の危険だ。
「先に説明しろ」
「説明している間に断層が広がりました」
「次は一文で言え。手を離すと別の過去へ落ちる、で足りる」
「分かりました」
契約書にない状況は、歩きながら増える。そのたび全部を紙へ戻ることはできない。必要なのは、条文を盾に会話を止めることではなく、選べる最低限の情報だ。
階段を下りる。
一段ごとに朝が古くなる。正午。十一時。九時。明け方。初夏月一日の夜。
途中、壁の向こうに別の俺が見えた。
石の中を歩いている。
血まみれの葬院服。首へ縄。手には青い紐。俺たちと逆向きに階段を上がり、すれ違う時に口を動かした。
音はない。
《右へ行くな》
読めた気がした。
次の踊り場で道が左右へ分かれる。右から朝日。左から夜の風。
「右は?」
「第六百四回の崩落です」
ミレーユは即答する。
「左は」
「知りません」
知っている危険と、知らない道。
以前なら彼女は右を選ぶかもしれない。崩落の時刻も場所も知っているから、対策できる。俺も同じ理屈を使いかけた。
だが、壁の俺が右を止めた。
残響を証拠として扱うなら、理由を探す。
右の床へ小石を投げる。朝日の中で石が七つに増え、別々の方向へ落ちた。六つは途中で消え、一つだけ戻ってくる。
「人間なら?」
エドガーが答える。
「どの一人が戻るか分からん」
左へ行く。
知らない道でも、試して危険を比べられる。過去を知ることと、過去どおりに進むことは違う。
身体は若返らない。腹も減ったまま。時刻だけが墓所の壁へ積層している。
「手を離さないでください」
ミレーユが言う。
「追跡聖刻があるだろ」
「ここでは、あなたが複数に見えます」
青い線が枝分かれしていた。
階段の下へ一本。壁の中へ四本。天井へ二本。俺の背後にも、死んだ俺の脈が重なっているらしい。
左手を出す。
ミレーユが握る。
強い。
「骨を折るな」
少し緩む。
右手は空ける。手袋の死痕と手帳を使うためだ。
墓所の入口で、オスカー院長が待っていた。
四十六歳。灰色の外套。葬院の鍵束。二日前の記憶どおりの顔だが、目の下の隈が深い。
隣にニナがいる。
生きている。
確認した瞬間、胸から力が抜けた。
「遅い」
ニナが言う。
「大司教に会って、六人消えて、白い骨と戦ってた」
「遅れた理由が重い」
「そっちはなぜ墓所に」
オスカーが封書を見せた。
俺の字だった。
《白骸が出たら、墓所の外へ来い。鐘守と聖女を連れろ》
「いつ届いた」
「十一時五十分。葬院の古い死亡箱から出てきた」
「俺は書いてない」
「今のお前はな」
院長は驚いていない。
過去周回の俺から暗号化した墓誌を受け取っている人だ。俺が知らない俺の字にも慣れている。
「墓所の外、って何だ」
「死者を埋める内側ではなく、時から埋められた外側だ」
分からない。
説明を待つより現物を見る。
地下墓所は円形だった。王都で身元のない死者を一時安置する場所。壁の棚に骨箱。中央に大きな記名台。
その記名台の下から、白い指が出ている。
「近づくな」
オスカーが止める。
床へ鐘索が張ってある。白い指は線を越えられず、石を掻いていた。
一本。
二本。
三本。
指の数が増える。
白骸が下から押し上げている。
「さっきの怪物か」
「同じものではない」
エドガーが膝をつく。
「これは一人分だ」
白い頭蓋が床を抜ける。
顔はない。
それでも俺だと分かった。
右の鎖骨が一度折れて治った形。十二歳の時、修道院の屋根から落ちた傷だ。左の小指が少し曲がっている。葬院で棺を挟んだ。
俺の骨。
なのに、俺は死んでいない。
ここに立っている。
ニナが骨の右鎖骨と俺を見比べる。
「同じ古傷。でも、骨年齢は六十以上」
「見ただけで分かる?」
「関節の摩耗。歯の残り方。あんたが急に老けても、今朝の身体からこうはならない」
「何年分だ」
「最低でも四十年。もっとかも」
ミレーユが一歩下がった。
四十年。
俺を安全な一日へ閉じ込め、四十年以上生かした可能性。それは彼女にとって成功に近いのか、失敗なのか。
「脈は」
「ありません」
「死痕は」
「ありません」
死んでいないのに、脈がない。
生きた結果だけを失い、骨の形へ圧縮された。白骸が捨てられた死なら、これは捨てられた生だ。
そう仮説を立てる。
まだ書かない。本人に訊く。
「どの回だ」
ミレーユの手が震える。
「分かりません。死因の傷がない」
死痕がない骨。
死んだ俺ではない。
では、何の骨だ。
頭蓋の顎が動く。
《戻すな》
俺の声。
白塔で毒死した時の声より、低い。歳を取った声だ。
《俺は、死ななかった》
骨が鐘索へ手を置く。
白い火が走る。封印線が一本切れた。
ミレーユが俺を後ろへ押し、防壁を張る。
「攻撃するな」
「二本目が切れれば出ます」
「三秒」
「五秒まで」
前より増えた。
俺は手袋を外す。
「触るつもり?」
ニナが右腕を掴む。
「残響を読む」
「死痕がないなら、何が入るか分からない」
「だから知る」
「知らない毒を舐める薬師はいない」
正論だ。
「じゃあ布越し。触れる時間を数えてくれ」
ニナが止血布を三重に巻く。ミレーユの防護聖刻を外側へ置く。エドガーが残りの鐘索を補強する。
一人で触らない。
準備に四人分の判断を使う。
白い骨が二本目へ指をかけた。
俺は布越しに、その手首を掴む。
視界が黒くなる。
朝が来る。
初夏月三十一日。
存在しない日付。
俺は白塔の寝台で目を覚ます。ミレーユはいない。扉は開いている。王都に音がない。
歩く。
街の人々は食卓、道、職場で止まっている。生きている。だが同じ動きを繰り返す。
パンを切る。
戻す。
また切る。
鐘は鳴らない。
太陽が動かない。
俺だけが歳を取る。
一日。
十日。
一年。
ミレーユを探す。
鐘塔の最上部で見つける。彼女は暁鐘へ両手を埋め、王都全体を同じ日へ縫い止めている。
《あなたは死なない》
《これは生きてるって言わない》
《私には同じです》
俺は塔を下りる。
死のうとする。
刃が皮膚へ入らない。塔から飛べば地面の前で戻る。毒を飲めば杯へ戻る。
死ねない。
歳だけを取る。
髪が白くなる。歯が抜ける。脚が動かなくなる。それでも心臓は止まらない。
最後に、俺は自分の墓を掘る。
死なない身体を土へ横たえる。
《戻すな》
誰に言う。
ミレーユへ。
今の俺へ。
未来の墓を見つける誰かへ。
時間が白くなる。
「離して!」
ニナの声。
右腕が引かれる。
墓所へ戻る。
俺は床へ倒れていた。口の中に血の味。舌を噛んだらしい。ニナが瞳孔を見ている。ミレーユは俺の胸へ手を置いているが、治癒は流していない。
「何秒」
「四秒。呼吸が止まったのは二秒」
ニナが指を二本立て、俺の目で追わせる。
右。左。上。
「名前」
「レイ・クロード」
「今日」
「初夏月二日。七百二回目」
「今いる人」
「ニナ、ミレーユ、オスカー、エドガー。あと、歳を取りすぎた俺の骨」
「冗談が言えるなら意識は清明」
冗談ではないが、診断は通った。
ミレーユの手はまだ俺の胸にある。脈を数え終えたはずなのに離れない。
「治癒は要らない」
「使っていません」
「手は」
「呼吸がまた止まった時のためです」
具体的な理由がある。
だから今だけ認める。胸の上に彼女の掌があることを、保護とも監禁とも呼ばず、二度目の呼吸停止へ備えた手として数える。
「三十秒後に離せ」
「一分」
「四十五秒」
「はい」
ニナが呆れた顔をする。
「診察中に値切らないで」
「時間を増やしたのは向こうだ」
会話を続けながら、俺は自分の記憶を確認する。白塔。契約。空皿。大司教。マルク。どれもある。
知らない記憶が一つだけ混ざっていた。
五十四年目の朝、俺が墓穴の底へ《512》と刻む場面。
骨の未来と、第五百十二回目が繋がっている。
「記録」
オスカーが答える。
「全部書いた」
骨を見る。
まだ鐘索の内側にいる。
《見たか》
「見た」
声が掠れる。
「お前は、未来の俺か」
《選ばれなかった俺だ》
「死んでない」
《だから骨だけになった》
「何年いた」
《数えたのは二万日まで》
五十四年以上。
ニナの見立てと合う。
「食事は」
《食べる動作だけ戻る。腹は減らない》
「眠った?」
《夢だけ昨日へ戻った》
「街の人間は」
《同じ一日を繰り返す。声をかければ答える。次の瞬間には忘れる》
それを五十四年。
俺だけが覚え、周囲は同じ返事を返す。ミレーユが七百回経験したものを、一つの日へ薄めて押しつけられたような時間だ。
同情した瞬間、警戒する。
こいつは俺の形をしている。俺の孤独を見せれば、俺が何を選ぶかも知っている。
「どうやってここへ来た」
《白冠が未来を試した。聖女が世界を止める結果。使われなかったから、ここへ落ちた》
「大司教が作った可能性か」
《あいつは種を置いた。選んだのはミレーユだ》
骨が彼女を名で呼ぶ。
ミレーユの指が杖へ触れた。
「私の知るレイは、私をあなたの前で責める時も《あいつ》とは言いません」
骨の顎が止まる。
「こいつは俺だけじゃない」
《俺だ》
「白冠の声も混ざってる」
《それでも見た未来は本物だ》
「可能性としては」
事実と誘導を分ける。
永昼の未来はありうる。ミレーユも考えた。だが、骨が語る結論まで今の俺たちの義務にはならない。
意味を分ける。
還暁は死んだ未来を捨てる。だが、永遠に死ねない未来も捨てられる。肉体が生き続けても、時間から外されれば、残るのは可能性の骨だ。
「初夏月三十一日」
ミレーユが小さく言う。
未来墓銘板の日付。
死因、聖女。
彼女はこの未来を知っているのか。
「見たことがある?」
「ありません」
「作ろうとした?」
沈黙。
契約書へ手を伸ばす。
ミレーユは先に答えた。
「考えたことはあります。あなたを殺すものが世界に多すぎるなら、世界の時間を止めればいいと」
「何回」
「数えていません」
彼女が数字を持たない。
つまり、考えるたび記録するほど特別な案ではなかった。日常の選択肢だった。
背中が冷える。
「実行は」
「していません」
白い骨が笑った。肉がないのに、顎の動きで分かる。
《まだ》
ミレーユの杖へ光が集まる。
俺はその前へ立つ。
「こいつは可能性だ。今のお前を断定してない」
「私を誘導しています」
「お前も七百回、同じことをした」
杖の光が揺れる。
言い過ぎではない。
過去の死を見せ、今の俺へ安全な道を選ばせようとした。骨も同じだ。最悪の未来を見せ、ミレーユを拒めと言っている。
だから、どちらの結論も借りない。
「永昼にはしない」
俺はミレーユを見る。
「今ここで約束しろ、とは言わない。契約へ、考えた時点で開示する条項を足す」
「実行しない約束は?」
「お前が署名できるなら」
彼女は骨を見る。
未来の彼女が何をしたかではなく、今の自分が何を選ぶか。
「署名します」
白い骨が鐘索から手を離した。
《それでも、あいつは破る》
「知ってる。だから俺も鍵を探す」
《殺す鍵を》
「止める鍵だ」
骨の眼窩に白い光が点る。
《なら墓所の外へ来い。第五百十二回目が待っている》
中央の記名台が横へ動いた。
下に階段がある。
石でも土でもない、昨日の空へ降りる階段。
骨は俺の腕を離し、先に暗闇へ下りた。
「罠です」
ミレーユが言う。
「可能性は高い」
「行くのですか」
「第五百十二回目の俺が、お前に何を約束させたか確認する」
俺は今の時刻を書いた三つの記録を確認する。
手帳。契約書。石壁。
帰る場所は、一人の記憶ではなく三か所にある。
ニナが薬箱を背負い直す。オスカーが死亡箱の鍵を持つ。エドガーが鐘鍵を抜く。
ミレーユは反対しなかった。
代わりに、俺の左手を握る。
一歩。
今度は俺が先に、昨日の空へ足を下ろした。
足場はない。
それでも落ちなかった。
靴底の下へ、誰かが生きられなかった朝が一枚ずつ重なる。硬くはない。沈む。冷たい。
俺の左手を、ミレーユが握り直す。
骨になった俺は振り返らない。
俺も振り返らず、現在の日付だけを胸の中でもう一度読んだ。
初夏月二日。
まだ、存在する日付だ。
存在するうちに帰る道を作る。それが、骨の未来から借りる唯一の結論だった。
結論以外の恐怖は、骨へ返さず持っていく。
それも今の俺の記憶だからだ。