俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
昨日の空は、青くなかった。
白い。
雲でも霧でもない。書く前の紙みたいな白さが、上下左右へ続いている。足元には薄い石板が何千枚も浮かび、その一枚ずつへ日付と名前が刻まれていた。
墓所の外。
捨てられた時間の墓地だ。
「足を置く前に文字を見ろ」
先を歩く骨が言う。
もう顎を動かさず、声が直接頭へ来る。
「なぜ」
《自分の死へ乗ると引かれる》
足元を見る。
《第八十九回。レイ・クロード。鉄扉落下》
危ない。
右へずれる。そこは《名なし。南市場火災》だ。
「名なしなら平気か」
《その名を知っているなら駄目だ》
基準が文字ではなく記憶らしい。
俺はミレーユの左手を握ったまま進む。彼女は足元より俺を見ている。
「前を見ろ」
「見ています」
「俺の顔をだろ」
「視界に入れています」
「足場を多めに入れろ」
ニナが後ろで溜息をつく。
「二人とも落ちたら助けられないんだから、ちゃんと歩いて」
彼女とオスカー、エドガーは一本の鐘索で腰を繋いでいる。ミレーユは俺と物理的な索を結ぶことを嫌がった。絡まれば俺が転ぶ可能性がある、と。
代わりに手を握る。
合理性は半分だ。
残り半分を今は追及しない。
石板の間を歩く。
初夏月三日。二十日。冬至月。翌年。存在しない三十一日。日付は順番ではない。捨てられた時が、覚えている人間の近くへ寄ってくる。
ミレーユの周囲には俺の名が多い。
ニナの近くには名なしの板と、ユアンの生活残響が点滅する板。
エドガーの周りには戦争と疫病。
オスカーの足元だけ、名前の読めない墓誌が道になっていた。
一枚が裏返る。
下から王都の街路が見えた。
人々が走っている。空は赤い。北門の外に軍勢。俺たちの足元なのに、声は遠い。
《第二百七十一回。北方戦役、王都侵入》
「この戦争は起きてない」
「起きた」
エドガーが答える。
「三日で二万人死んだ。大司教が錨を殺し、次の回で和平使節を一日前に通した。今の王都史では、戦争は国境で終わったことになっている」
石板の中で、知らない人間が死んでいく。
叫びは聞こえない。映像だけだ。その無音が、かえって見ていられない。
「あの人たちは白骸にいる?」
ニナが訊く。
「名を失えば」
「名が残ってたら?」
「墓所の外で、自分の時を抱えている」
オスカーが膝をつき、板の縁へ触れずに名を写す。三人。五人。頁をめくる。
「全部は無理だ」
俺が言う。
「分かってる」
院長は手を止めない。
「全部書けないから一人も書かない、は葬院の理屈じゃない」
俺も手帳を出す。
今は五人だけ。
次に来る時は紙と人手を持ってくる。戻れれば、だが。
ミレーユは戦争の板を見ていた。
「覚えていますか」
エドガーが訊く。
「終わった後だけ。レイの死体を北門から運んだこと。和平使節を通したこと。戦争中に治した人の顔は、ほとんど」
彼女が言葉を切る。
「覚えていません」
二万人の死より、俺一人の死が残った。
それを愛と呼ぶのは簡単だ。呪いと呼ぶのも簡単だ。
どちらで呼んでも、足元の名は戻らない。
「五人、写せ」
俺は自分の手帳を半分開ける。
ミレーユが見る。
「俺の頁だけ使うな。お前の字でも残す」
彼女は契約書の余白へ五人の名を書く。
知っている俺の死ではなく、知らなかった人の名を。
書き終えると、戦争の板が静かに表へ戻った。
道の端へ、新しい黒い線が一本できる。
記録すると、帰り道が増える。
「院長はここを知ってた?」
「完全には。夢で見る」
「何回」
「お前が死んだ翌朝に、墓誌を暗号化した回数だけ」
院長も記憶を持ち越してはいない。だが、死者の名を記録し続けた手が、起点へ戻っても同じ暗号を選ぶ。癖が時を越えた。
「第五百十二回目の俺は、どこにいる」
骨が白い地平を指す。
遠くに木が一本ある。
葉はない。枝に黒い手袋が吊られている。
歩くほど距離が延びた。
「近づいてない」
エドガーが鐘鍵を鳴らす。
音が白い空へ輪を作る。石板の文字が一斉に浮かび、俺たちの周囲へ道ができた。
《同じ後悔を持つ者だけ通す》
空に文字が出る。
「誰の仕掛けだ」
オスカーが俺の字の封書を出した。
「五百十二回のお前だろう」
同じ後悔。
俺は何を後悔している。
七百一回目の俺を止められなかったこと? ユアンを知らなかったこと? ミレーユを信用しかけたこと?
問いを並べても道は開かない。
確認する。
木の枝に、もう一つ何かがある。切れた紙片。
《彼女の優しさを信用するな》
第五百十二回の警告。
あの俺の後悔は、警告を書いたことではない。
ミレーユが二行目を切ると予想できなかったことでもない。
約束を信じたこと。
違う。
「約束を、彼女一人に預けた」
声に出す。
足元の板が光る。
道が一歩延びた。
ミレーユの手が固くなる。
彼女も同じ後悔を持っている。
「俺は、書面を二つにしなかった。院長にも鐘守にも渡さなかった。お前が破った時、止める人を作らなかった」
道が木まで続く。
過去の俺を責めるつもりはない。死ぬ直前だったかもしれない。余裕がなかったかもしれない。
でも今の俺は、同じ失敗を避けられる。
「行こう」
ミレーユが動かない。
「どうした」
「私は同じ後悔ではありません」
「何を後悔してる」
「約束したことです」
空が軋んだ。
道の半分が白く消える。
彼女は約束を破ったことではなく、約束したことを後悔している。
破れない約束なら、最初からしなければよかった。そう考えている。
契約第五条へ署名しなかった理由が、過去から繋がる。
腹が立つ。
同時に、正直だ。
「それも持って来い」
「道が閉じます」
「同じ後悔だけ通すなら、違う後悔を隠して進んでも意味がない」
木の下にいる第五百十二回目は、ミレーユを連れて来いと書いた。彼女が何を後悔するかも知っているはずだ。
「俺は、約束を一人に預けたことを後悔してる。お前は、守れない約束をしたことを後悔してる。違う。それでも同じ場所へ行く」
白い道へ二本の色が走る。
俺側は黒。
ミレーユ側は青。
混ざらないまま、並んで木へ届いた。
「同じになる必要はないらしい」
ミレーユが道を見る。
「並んでいれば」
それ以上は言わない。
木の下へ着く。
黒い手袋は右手用。俺のものより古い。内張りに《512》と刻まれている。
触れる前に周囲を調べる。
木の根元に墓穴。中は空。枝へ青い紐。紙片の切られた二行目は見当たらない。
墓穴の底へ下りる。
深さは腰まで。土ではなく、細かい紙片が積もっていた。拾う。
《朝、ミレーユは右の窓を開けた》
別の一枚。
《昼、二人で青鈴花を買った》
《夕方、オスカーへ手紙を出した》
《レイは豆を残した》
死因でも、危険でもない。
一日の記録だ。
五百十二回目の俺は、何を食べ、どこを歩き、誰と話したかを細かく残した。ミレーユが失うと知っていたから。
紙片は千枚以上ある。どれも途中で白くなっている。最初は一日分。次は半日。後半へ進むほど、記録されるのは俺の脈、体温、負傷だけになっていた。
書いた俺が変わったのか。
記録を保管したミレーユが、危険と関係ない紙を捨てたのか。
底に一枚だけ、彼女の字がある。
《レイは今日、私の知らない歌を歌った。題名を聞き忘れた》
ミレーユへ渡す。
彼女は読む。
「歌を覚えてる?」
「いいえ」
「俺が歌ったことは」
「この文字を見るまで」
彼女の指が紙の端を押さえる。
「覚えていませんでした」
死んだ時の顔だけ覚えている。
過去の俺が言う前から、墓穴が証明している。
ミレーユは紙片を契約書へ挟んだ。
「危険と関係のない記憶も、開示対象へ加えます」
「それを全部、俺へ返すためじゃない」
「では、なぜ」
「お前が俺を死因だけで見るのをやめるため」
彼女は返事をしない。
でも紙片を捨てなかった。
「危険性」
ミレーユへ訊く。
「第五百十二回目のあなたは、右手の残響を自分の血で封じました。触れれば人格に近い量が流れます」
「俺を上書きする?」
「可能性があります」
ニナが割り込む。
「直接は駄目。さっき四秒で呼吸止まったでしょ」
「方法は」
エドガーが手袋の上へ鐘鍵をかざす。
「外から声だけ起こす。中へ入るのは、その後選べ」
全員が一歩離れる。
鐘鍵が一度鳴った。
古い手袋の指が動く。
人の手が入っているように曲がり、木から落ちた。
地面へ立つ。
白い霧が腕、肩、頭を作る。
俺が現れた。
少し痩せている。髪が長い。右頬に傷。目は俺と同じ色だが、こちらを見る時に先にミレーユの位置を確認した。
「やっと来たか」
声も俺だった。
「五百十二回目?」
「そう呼ばれてた」
「本名と日付を言え」
「レイ・クロード。王暦四一二年、晩夏月十八日。第五百十二回目の二十九日目」
今から四か月近く先の日付だ。
「その回は三十日続いた?」
「二十九日と十九時間」
「死因」
「後で聞け。先に、お前が誰か確かめる」
過去の俺が質問を返す。
「朝、珈琲をどちらへ置く」
「左」
「葬院の西扉、三番目の蝶番は」
「雨の日だけ鳴る」
「ミレーユが嘘をつく時、最初に動くのは」
「左袖。たぶん傷を押さえる」
過去の俺は目を細める。
「最後は変わってない」
「お前の俺と同じとは限らない」
「その答えなら、少なくとも今の俺より先へ進んでる」
採点される筋合いはない。
腹は立つ。だが、偽物が俺を試すなら、もっと感傷的な問いを選ぶ。ミレーユを愛しているか、信じるか。こいつは蝶番を訊いた。
俺の観察の仕方を知っている。
「俺を呼んだのは」
「お前が俺と同じ間違いをする前に、鍵を渡すため」
「何の鍵」
「ミレーユを止める鍵」
過去の俺は彼女を見る。
表情が柔らかい。
警告文を書いた相手を見る顔ではない。
「久しぶり、ミレーユ」
彼女は答えない。
唇が震えている。
「俺を覚えてる?」
「はい」
「嘘だ」
空気が止まる。
「お前が覚えてるのは、俺が死んだ時の顔だけだ」
過去の俺は自分の胸を指す。
「ここへ来るまでの三十日。何を食べた。何を話した。何に怒った。どの花を選んだ。もう答えられない」
ミレーユの手が離れかける。
俺は握り直した。
慰めではない。
今の時刻から落とさないためだ。
「鍵は、彼女が失った記憶にある」
五百十二回目が言う。
「失ったものを探せ。俺たちは、死だけ残して生きた時間を忘れられた。その空白へ、鐘を止める方法を隠した」
「なぜ今の俺へ直接残さなかった」
「ミレーユが見つければ消すから」
「俺はここにいます」
彼女が初めて声を出す。
「そうだな」
過去の俺は笑う。
「今のお前なら、消さないかもしれない」
決めつけない言い方だった。
希望でも信用でもない。
可能性。
「約束の内容を話せ」
俺が言う。
五百十二回目は、首を横へ振った。
「俺から聞けば、また過去の俺に今を決められる。ミレーユから聞け」
「都合よく変えるかもしれない」
「だから全員の前で話させろ。オスカーもエドガーもいる。俺の残響が嘘なら反応する」
過去の俺が俺へ近づく。
「ただし、先に一つ決めろ」
「何を」
「彼女が約束を破った理由を知っても、今のお前が同じ答えを出す義務はない」
「契約書にも書いた」
「なら大丈夫だ」
霧の手が俺の右肩へ触れる。
冷たくない。
自分の手だからかもしれない。
「俺は、ミレーユを愛してた」
隣の手が強くなる。
「警告を書いたのに?」
「愛してたから書いた。優しさを信用するな。あいつは愛した相手の自由を、優しさの顔で奪う」
「二行目を切られると思った?」
「思った。だから一行目にも意味が残るようにした」
「なら、切られた二行目はどこだ」
「ミレーユの祈祷暦。押し花の下」
彼女が息を止める。
「知っていた?」
「いいえ」
「お前が隠したんだろ」
過去の俺が訊く。
「隠した後、その場所を忘れたのだと思います」
青鈴花を好きだった理由も失った。押し花の祈祷暦は母の形見。そこへ二行目を隠したなら、失った記憶が重なっている。
「二行目には何を書いた」
「今は言わない」
「また過去から誘導する気か」
「現物がある。俺の声より、そっちを読め。お前はもう、証拠の順番を知ってる」
腹立たしい。
同時に、正しい。
こいつは俺だから、俺が反論しづらい言い方を選ぶ。
「祈祷暦をミレーユが燃やしたら?」
過去の俺は彼女を見る。
「燃やす?」
「燃やしません」
「約束じゃない。今の選択として?」
「はい。レイと、ニナさんと、オスカー院長の前で開きます」
「なら、俺の時とは違う」
過去の俺の顔から、初めて警戒が少し抜けた。
それを見て、俺まで安心しかける。
やめろ。
過去の自分のお墨付きも、現在の証拠ではない。
「違うかどうかは、開いてから決める」
「そうしろ」
過去の俺はミレーユを見る。
「でも、今のお前は俺の続きをしなくていい」
霧が薄くなる。
「待て。約束を聞いてない」
「次はミレーユから聞け」
「何だそれ」
過去の俺は少し笑った。
「俺の側から話せば、あいつがなぜ破ったかを俺の推測で決めることになる。あいつの側からしか話せないこともある」
手袋が地面へ落ちる。
霧は消えた。
黒い内張りに、新しい一文が浮かぶ。
《あなたが頼んだことを、彼女は破った》
俺は手袋を拾わない。
先にミレーユを見る。
「話してくれ」
白い空の下で、彼女は五百十二回目の朝を語り始めた。
俺たちは輪になって座る。
証人は四人。記録は三つ。過去の俺の手袋が一つ。
五百十二回目にはなかった数だ。
ミレーユの話が途中で都合のいい形へ変わっても、誰かが空白を指摘できる。彼女が言葉を失っても、別の手が続きを書ける。
約束を守れると信じるためではない。
破った時に、破られた事実まで消さないための配置だった。
その中心で、ミレーユは一度だけ深く息を吸った。
誰も、その呼吸を答えの代わりには数えなかった。
言葉になるまで、同じ時刻で待った。
全員で。