俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
第五百十二回目のレイは、私に鐘を鳴らさないでほしいと頼んだ。
私は約束した。
守るつもりだった。
嘘ではない。
約束した瞬間の私は、本当に守れると思っていた。
だからこそ、その約束は私の善意を信用してはいけない証拠になった。
白い墓所で、現在のレイが私の左手を握っている。ニナ、オスカー院長、エドガーが輪になり、三つの記録を開いている。第五百十二回目の手袋は木の根元。
誰も私を急かさない。
急かされないことが怖い。
待っていれば、私は安全な順番を選ぶ。先にレイが苦しんだ理由。次に私が努力したこと。最後に、仕方なかった結果。
今回は逆から話す。
「私は、約束を破って鐘を鳴らしました」
現在のレイが頷く。
驚かない。
「その結果、五百十二回目のレイが生きた二十九日と十九時間を消しました」
記録する音がする。
「理由は、彼が死んだからです」
「死因は」
「私です」
レイの手が止まる。
握る力は変わらない。
私は記憶へ入る。
第五百十二回目。
起点の朝、レイは白塔にいなかった。
当時の私は監禁をやめていた。第四百九十八回から十四回、塔へ閉じ込めるほど彼が早く死ぬ結果が続いたから。
自由を認めたのではない。
生存率を上げるため、外へ置いた。
靴、外套、手袋、葬院手帳へ追跡聖刻。食事を作る店へ毒見役。通る道へ騎士。話す人間を記録。本人には知らせない。
レイは五日目に気づいた。
「監禁を街の大きさにしただけだな」
そう言った。
私は否定した。
扉へ鍵をかけていない。会う人を禁止していない。仕事も続けている。
レイは葬院手帳を開いた。頁の間から、私の追跡聖刻を一本ずつ抜いた。
「鍵が見えなければ自由だと思ってる?」
答えられなかった。
彼は怒った。
それでも白塔へ来なくなることはなかった。
毎夕、仕事の後に来た。私が何を隠しているか調べるため。私が誰を危険へ分類したか記録するため。
七日目、彼は夕食を作った。
豆の煮込み。
塩が多かった。
私は全部食べた。
「無理するな」
「好きです」
「昨日は薄味が好きって言った」
私は嘘をついた。
レイが作ったものを残せなかった。
彼は私の皿へ水を足した。
「好きなら、次も作る。今日の失敗まで好きなふりするな」
その言葉を、私は還暁後に忘れた。
今は手袋の残響から聞こえる。
九日目、二人で青鈴花を買った。
私が好きだと記録にあったから、レイが花屋へ連れて行った。
「なぜ好きなんだ」
「母が」
そこで言葉が止まった。
母と青鈴花の記憶は、すでに半分失っていた。
レイは理由を聞かなかった。
青い花を一輪買い、私の祈祷暦へ挟んだ。
「理由を思い出すまで預ける」
私は今も思い出せない。
七百一回目の代価で、残っていた《好きだった》まで薄れた。
祈祷暦には花だけある。
十五日目、レイは大司教の実験台帳へ辿り着いた。
その前の六日間、私たちは約束の練習をした。
レイがそう呼んだ。
「大きな約束を急に守れると思うな。小さい選択を返せ」
十日目、彼は一人で葬院へ行くと言った。
私は同行を要求した。
彼は拒否した。
危険は三件。西通りの看板、南橋の荷車、大司教の監視役。私は場所と時刻を説明した。
レイは西通りを避け、南橋では荷車が通るまで待ち、監視役には自分から声をかけた。
生きて帰った。
私は三時間二十分、追跡聖刻を見ていた。
彼が塔へ戻ると、最初に脈を測った。
「俺が選んだ対策で足りた?」
「はい」
その一語を言うまで、私は八秒かかった。
十一日目、私は彼の夕食へ苦い解毒草を入れようとした。本人に知らせず常用すれば、七種類の毒を防げる。
鍋へ入れる前に、手が止まった。
「苦くなるけど、入れていいですか」
レイは驚いた。
それから半量なら、と答えた。
私は嬉しかった。
許可を取ったからではない。
彼が私の作った食事を食べると分かったから。
動機は変わっていなかった。
それでも、訊いたことで彼は量を選べた。
十二日目、追跡聖刻を一時間切った。
五分で再接続した。
レイは怒った。
私は謝り、五分しか耐えられなかったと記録した。
十三日目、三十分切った。
十四日目、一時間。
十五日目には、葬院へいる四時間のうち、定時確認を二回だけにした。
守れた小さい約束を、私は成功として数えた。
だから大きな約束も守れると思った。
違う。
小さい約束は、破ってもレイがその日のうちに帰る。やり直さなくても、謝る相手が目の前にいる。
死の約束は一度破れば、約束した相手そのものが消える。
私は違いを分かっていなかった。
その時点では、グレゴールが関与した死は八十六回。白冠の名も、還暁が千回で満ちることも知った。
彼は私へ全部見せた。
私は大司教を殺そうとした。
レイが止めた。
「今殺せば、俺が死んだ時に戻る。次のあいつは、殺された理由を知らない。お前だけが一回分、殺した記憶を増やす」
「では拘束します」
「証拠を分ける。先にそれだ」
第五百十二回目の彼も、今と同じ答えを出した。
同じ人だからではない。
同じ仕事をし、同じ証拠を見て、記録を一人へ預けないという同じ基準を持っていたから。
私は従った。
十八日目、台帳の複写をオスカー院長へ渡した。
十九日目、エドガーへ。
二十日目、教会騎士六人へ。
二十一日目、六人の名が記録から消えた。
白化した。
当時の私たちは白骸を知らなかった。グレゴールが殺したと考えた。
レイは調査を続けた。
私は止めた。
「証拠へ近づくほど、関係者が消えます」
「俺たちが止まれば、消えたことも誰も知らない」
「あなたまで消えます」
「だから一人で決めるな」
二十三日目、私たちは約束した。
場所は白塔の食堂。
外は雨。
卓に青鈴花。塩を減らした豆の煮込み。レイは手紙を二通書いていた。
「次に俺が死んでも、戻すな」
「できません」
「今すぐ答えるな。条件を聞け」
彼は三つ挙げた。
大司教の白冠が還暁そのものを餌にしていること。
戻すたび誰かが白化すること。
次の死が、鐘を止めるため本人の選んだ死であること。
三つが揃った場合、鳴らさない。
「それ以外なら?」
「お前が判断しろ」
私は三条件を確認した。
曖昧ではない。
彼の判断力が保たれ、代替策がなく、鐘を鳴らせば白冠が進む場合。
「約束します」
私は言った。
レイは同じ文を紙へ書いた。
一通をオスカー院長へ。
一通をエドガーへ。
「もう一通は?」
「お前に渡す」
私は受け取った。
その場で燃やさなかった。
祈祷暦の青鈴花の下へ隠した。
二行目の警告と一緒に。
二十四日目、オスカー院長への手紙が白紙になった。
二十五日目、エドガーが消えたことになった。
私の祈祷暦だけが残った。
一人へ預けない約束は、白冠によって一人へ戻された。
レイはそれでも調査をやめなかった。
二十七日目、白冠庫の入口を見つけた。
二十八日目、錨の血で開けた。
中には、七百ではなく五百十一の王都が重なっていた。
戦争。疫病。火災。事故。救えた人。救えなかった人。死んだレイ。生きて私を嫌ったレイ。すべて白い模型になっていた。
中央に鐘があった。
暁鐘の小型模型。
白冠は、私が次に鳴らす瞬間を待っていた。
グレゴールが現れた。
「錨が自分で来た。条件は揃った」
彼はレイを殺そうとしなかった。
私を操ろうともしなかった。
ただ、白冠庫の扉を閉めた。
内部の時刻が崩れた。
レイの身体へ五百十一回分の死痕が流れ込んだ。
私は治癒をかけた。
治らない。
傷ではなく、錨そのものが重くなっている。
レイは立っていた。
「ミレーユ、鐘へ行け」
「鳴らしません」
「違う。鐘を壊せ」
白冠庫と暁鐘は、錨の血で繋がっていた。レイが内部へ残り、私が外から鐘索を切れば、還暁を止められる。
ただし彼は死ぬ。
三条件。
白冠が還暁を餌にしている。
戻せば誰かが白化する。
本人が鐘を止めるために選ぶ死。
全部揃った。
「約束しただろ」
レイが言う。
「はい」
「なら行け」
私は白冠庫を出た。
彼を置いて。
暁鐘へ走った。
鐘索を切る聖刻を準備した。
その時、追跡聖刻が彼の脈を伝えた。
一分に百四十。
百二十。
九十。
五十。
私は鐘索へ刃を当てた。
切れば終わる。
レイは死ぬ。
次はない。
彼が自分で選んだ。
約束した。
四十。
三十。
二十。
私は考えた。
彼は白冠庫で五百十一の死を一度に受けている。判断力が保たれていると言えるか。
いいえ。
扉へ入る前から決めていた。
代替策はないか。
本当にないと、誰が確認した。
レイと私だけ。
白冠が進むか。
次で別の方法を探せばいい。
三条件を、一つずつ崩した。
事実が変わったのではない。
言葉の意味を、守らなくて済む形へ変えた。
脈が止まった。
私は鐘索を切る刃を消した。
暁鐘を鳴らした。
五百十二回目が消えた。
起点へ戻った私は、白塔の台所にいた。
豆を煮る前。
青鈴花は祈祷暦にない。
手紙もない。
エドガーは行方不明。
オスカー院長は約束を知らない。
私だけが覚えていた。
私は祈祷暦を開いた。
なぜか、押し花が一輪あった。
起点には存在しなかったはずの花。
残響として持ち越した。
花の下に、紙が二枚。
一枚は約束。
一枚は警告文の二行目。
私は一行目だけを別の場所へ残した。
《彼女の優しさを信用するな》
二行目は祈祷暦へ戻した。
約束も一緒に隠した。
次のレイに見つけてほしかったのか。
見つけてほしくなかったのか。
両方。
私は、私の中でさえ一つを選ばなかった。
白い墓所へ戻る。
現在のレイは黙っている。
記録する音だけが続く。
オスカー院長が先に質問する。
「私への手紙が白紙になった時、なぜ口頭で確認しなかった」
「あなたの周囲に白化が始まっていました。接触すれば院長まで消えると考えました」
「その判断を私へ伝えたか」
「いいえ」
「なら、私が危険を引き受ける選択も消したな」
「はい」
エドガーが次に訊く。
「私が行方不明になった後、探したか」
「三日間。その後、大司教から国外逃亡の証拠を見せられ、打ち切りました」
「証拠を残響で確かめたか」
「いいえ。レイの死が近く、優先順位を下げました」
「私は、また錨の後回しか」
「はい」
胸が狭くなる。
苦しいからといって、質問を止めてほしいとは言わない。
ニナが三番目に訊く。
「五百十二回目には、兄はいましたか」
記憶を探す。
空の皿。
青煉瓦の家。
ユアンという名。
「覚えていません」
「記録は?」
「レイ以外の記録は、白冠庫へ入る前に別の保管箱へ移しました。その箱の所在も」
「忘れた」
「はい」
ニナは空の掌を握る。
「兄を探す鍵も、祈祷暦にあるかもしれない」
「可能性があります」
「なら、絶対に一人で開けないで」
「はい」
最後に、現在のレイが訊く。
「俺を置いて白冠庫を出た時、何を考えた」
「鐘を壊すことだけです」
「脈が下がるまで」
「約束を守れると思っていました」
「止まった瞬間は」
答えるのが怖い。
だから先に、何が怖いかを言う。
「答えれば、あなたが私を怪物だと思うことが怖いです」
「答えろ」
「安心しました」
誰も動かない。
「レイの脈が止まり、死が確定した瞬間、鐘を鳴らせると思って安心しました。苦しんでいる途中は、約束と救命の間で選び続けなければならなかった。止まれば、私の中では救命だけが残ったから」
これが一番、隠したかった事実だ。
私は彼の死を悲しんだ。
同時に、選ばなくてよくなったことへ安堵した。
相反する感情を、悲しみだけへ書き換えた。
現在のレイは、握っていた手を離した。
身体が追いかけようとする。
止める。
離すのは彼の選択だ。
代わりに自分の手を膝へ置く。
「その安心まで記録しろ」
「はい」
私は自分で書く。
《第五百十二回目の心停止時、選択から解放されたことに安堵。還暁を救命と再定義》
書き終わると、レイが紙を読む。
手は戻らない。
それでいい。
いい、と私が決めてはいけない。
耐える。
「これが、あなたが頼んだことです」
私は左手を開く。
「私は条件が揃っていると知りながら、言葉の解釈を変えました。あなたを助けたのではありません。次のあなたへ置き換えました」
「五百十二回目の俺を、今の俺で値引くな」
「はい」
「でも、今の俺に謝るだけでも違う」
「はい」
謝る相手は、もう残響しかない。
私は手袋へ向く。
「ごめんなさい」
第五百十二回目は現れない。
返事を期待してはいけない。
「祈祷暦を開く」
現在のレイが言う。
「塔へ戻ったら、全員の前で」
「はい」
「そこに鐘を止める鍵がある」
「はい」
「見つけても、俺一人へ使い方を決めさせるな」
私は顔を上げる。
彼は過去の自分と同じ約束をしようとしていない。
今度は、誰か一人へ預けない仕組みを作ろうとしている。
「分かりました」
「それと」
レイの声が少し低くなる。
「お前が約束したことを後悔してるのは聞いた。でも俺は、頼んだことを後悔しない」
胸が痛む。
嬉しいと感じそうになる。
違う。
これは許しではない。
彼が自分の判断を過去の失敗ごと引き受けた言葉だ。
「はい」
私はそれだけ答える。
今度こそ、都合のよい意味を足さない。
レイは立ち上がり、木から第五百十二回目の手袋を外す。私には渡さない。自分の手にもはめない。オスカー院長が用意した証拠箱へ入れ、三人で封印する。
正しい。
私へ預ければ、また私が安全を理由に場所を変えるかもしれない。彼が持てば、残響に引かれるかもしれない。
封印鍵はレイ、ニナ、院長が一本ずつ持つ。
私にはない。
胸が痛む。
その痛みを、不信に傷つけられた痛みとは呼ばない。
私が信頼を使い切った結果だ。
「帰りましょう」
レイが言う。
私へではなく、全員へ。
それでも私は同じ道を歩ける。
隣ではない。今は一歩後ろ。
その距離を、自分で詰めない。
彼が選び直せる距離として、覚えておく。
数字ではなく、足幅として。
今度は忘れない。