俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
監禁二時間目、聖女は俺へ予定表を渡した。
初夏月二日。
六時、起床。六時半、朝食。七時、診察。八時から読書。十時に軽い運動。昼食後は昼寝をして、午後三時に茶。入浴は夕食前。九時消灯。
家畜の飼育記録でも、もう少し本人の都合を聞く。
「読書の後に脱獄を入れてください」
「何時までかかりますか」
「そこを相談されるとは思わなかった」
ミレーユは冗談として笑わなかった。机の向こうで予定表を見つめ、空いている箇所を本気で探している。
「十時の運動では、足りませんか」
「運動と逃走は使う筋肉より目的が違う」
「では、運動をなくしましょう。逃走される時間を決めるのは、少し違うと思いますので」
少しどころか、かなり違う。
問題を理解したのか、理解した上で別の箇所だけ直したのか。顔では分からない。彼女は予定表の「軽い運動」へ細い線を引き、余白に「自由」と書いた。
自由。
白塔の一室で、扉を開ければ同じ部屋へ戻される男の予定に置かれた二文字だ。葬儀記録の死因欄へ「健康」と書くくらい役に立たない。
俺は紙を裏返した。
何もない。透かしても暗号は見えない。筆跡はミレーユのものだろう。細く整い、行頭が一枚の板みたいに揃っている。俺なら三日で窮屈になって、四日目には余白へくだらない絵を描く。
三十日分の予定表が同じ書式で積まれていた。
本気らしい。
「俺が昼寝をするって、誰から聞きました?」
「眠れない夜の翌日は、食後に少し」
「昨夜の俺が眠れなかった根拠は」
ミレーユの視線が、俺の目の下へ向かう。見れば分かる、と言いたいのかもしれない。だが青い瞳はすぐ左へ逃げた。
「予防です。眠くなければ、起きていて構いません」
「では昨夜、俺はどんな夢を見た?」
彼女の指が止まった。
夢なんて覚えていない。最後の記憶は路地の鐘だ。眠らされた後に何か見たとしても、それを答えられるのは俺の頭の中を読んだ人間だけになる。
試験としては雑だが、結果は早い。
「水の底です」
今度は、俺のほうが黙った。
「冷たい水の中で、鐘が鳴る夢。息ができなくなって、右手を伸ばす。でも、誰にも届かない」
細部まで言う。
昨夜の夢じゃない。子供の頃から何度か見た悪夢だ。市葬院で水死体を扱った夜には戻ってくる。昨夜の死体は水路から上がった。夢を見た可能性は高い。
だからといって、彼女が知れる理由はない。
「誰から聞いたんです」
「あなたから」
「いつ」
「それは――」
言葉が途切れた。
俺は机を指で二度叩いた。嘘を急かすためじゃない。頭の中で項目を分けるためだ。
一つ。ミレーユは未来を知っているように話す。
二つ。実際には、すでに起きた俺の行動を知っている。
三つ。俺には彼女へ話した記憶がない。
予言なら、一と二は説明できる。記憶操作なら二と三。時間を戻した、と考えれば全部がつながるが、そんな術は葬院の禁術目録にもない。
知らない術がない証明にはならない。だが最も大きな仮説を、最初から正解として扱うのも危険だ。
「保留にします」
「何をですか」
「あなたの返事と、俺の機嫌を」
予定表を横へ押し、朝食の盆を見る。
黒パン、卵、豆の煮込み、薄切りの林檎。白い小皿には黄色いバターが載っている。
「バターは食べません」
ミレーユの眉が動いた。
嘘だ。高いから自分で買わないだけで、出されれば食べる。味に罪はない。金額には少しある。
「以前は、パン一枚に半分だけ塗っていました」
「最近やめました」
「いつから?」
「昨日から」
彼女は小皿を下げなかった。
代わりに、銀の小刀でバターを半分に切り、片方だけ別皿へ移す。
「では、残りは置いておきます。気が変わった時に」
俺は黒パンをちぎった。切られた半分へバターを塗る。
「食べないのでは?」
「気が変わりました」
ミレーユは責めず、小さく息を吐いた。安堵か呆れかは決められない。ただ、俺が食べること自体を確認しているのは分かる。
彼女の知識は古い。
昨夜の俺が何を決めたかは知らない。だが、何度か繰り返した習慣や、過去に口へしたことは知っている。
なら、俺より俺を知っているわけじゃない。
彼女が知っているのは、いまの俺ではなく、俺だった誰かだ。
その区別は大きい。少なくとも、考えた瞬間にすべて対策されるわけではない。
「市葬院へ連絡させてください」
食事が半分ほど減ったところで言った。
「すでに休暇届を出しました」
「誰の名で?」
「あなたです」
「署名を偽造した?」
ミレーユは食卓の下から封筒を出した。開封済み。中には、見慣れた汚い字で休暇届が入っていた。
《私事により初夏月末まで休暇を願います。引き継ぎは第三棚の赤い帳面を参照。レイ・クロード》
署名だけではない。文章の癖も、赤い帳面の場所も合っている。
ただし一つ、間違いがあった。
「院長は受け取りましたか」
「はい。今朝、使いの者が届けました」
嘘だ。
オスカー院長は、初夏月の初日から三日まで墓地管理局との会議で王都南区へ出ている。今朝、市葬院にいない。昨夜の仕事を終えたら三日休めと命じたのも、その留守中に面倒を起こすなという意味だった。
使者が職員へ渡した可能性はある。だが「院長が受け取った」と確認したなら、届け先の報告が間違っている。
現在の事情までは知らない。
「なら、もう一通書きます。急に一月も消えれば、担当した死者の記録が止まる」
「必要な引き継ぎは済んでいます」
「俺が必要かどうかを、俺抜きで決めないでください」
言葉が少し強くなった。
ミレーユは目を伏せたが、謝らない。謝れば紙と筆を渡すことになると分かっているのだろう。
「手紙は検めます。それでもよければ」
思ったより早く譲った。
「検閲する、と先に言う監禁者は珍しいですね」
「隠して、あとで嫌われるよりは」
すでに好かれている前提か、これ以上嫌われないためか。どちらにも聞こえる。
彼女は便箋、封筒、黒インク、羽根筆を机へ並べた。葬院印はない。封蝋は教会の太陽印。手紙の中身を隠す手段は与えないということだ。
俺は院長宛てに短く書いた。
《体調不良で北白塔に滞在する。水死体の青蝋は、七番棚の鐘屋名簿と照合してほしい。休暇届は受け取った人間の名を記録してくれ》
助けてくれ、とは書かない。
北白塔にいると伝われば十分だ。青蝋と鐘屋名簿は昨夜の仕事の続き。最後の一文は院長なら異常と読む。俺は誰かへ書類を渡した時、必ず受領者の名を自分の控えへ残す。すでに届いた休暇届にその記載がなければ、偽造を疑う。
ミレーユは俺の隣で全文を読んだ。
近い。
髪から花の油に似た匂いがした。甘くない。慰霊式で焚く香にも少し似ている。俺は無意識に身を引き、彼女も同じだけ離れた。
「このまま届けます」
「最後の一文を消せとは言わない?」
「オスカー院長は、どのみち気づきます」
また、院長を知っている。
だが不在は知らなかった。人柄や過去の行動は知り、今日の居場所を外す。仮説と合う。
ミレーユは封をせずに手紙を持ち、扉へ向かった。
「どのくらいで戻ります?」
「十分ほどです」
「監視役は?」
「必要ありません」
扉の向こうへ出た彼女は、同じ部屋へ戻らなかった。
廊下の先で足音が遠ざかる。
空間の折り畳みは、塔そのものではなく俺にだけ働く。確認済みだったが、彼女が出るところを見られたのは大きい。
そして十分は、短いようで長い。
最初に南窓へ行った。
鉄格子は指二本分の太さ。壁へ深く埋め込まれ、鋸もない。過去の俺がここから逃げたなら、格子以外の方法だ。
窓枠を押す。引く。上の留め具を外す。開く幅は掌一枚。外壁を見下ろすと、雨樋がある。だが窓のすぐ下だけ、新しい銅板で覆われていた。足も指もかからない。
対策済み。
次に暖炉。
灰は新しく、火は消えている。煙道の幅は肩が通るかどうか。鉄の火掻き棒で上を探ると、腕一本の高さに格子があった。煤の付き方が違う。最近設置されたものだ。
二つ目。
寝台脇の壁には、使用人を呼ぶ伝声管がある。真鍮の蓋を開けて息を吹く。管は生きている。どこか遠くで、低い笛の音がした。
「こちら北白塔、三階」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
しばらくして、管の向こうで何かがこすれた。人の呼吸ではなく、紙を詰めた音だ。火掻き棒の先を入れると、三寸ほどで止まる。
三つ目。
俺が選びそうな出口は塞がれている。
順番まで知られているかは試せない。だが南窓、暖炉、伝声管は、道具なしで部屋から使える数少ない経路だ。過去の俺でなくても調べる。彼女が監禁を計画した時、普通に塞いだだけかもしれない。
だから、四つ目は出口にしない。
部屋そのものを調べる。
壁紙の継ぎ目、床板の浮き、家具の移動痕。机は昨日置かれたように脚の周囲だけ埃が薄い。戸棚は長く同じ場所。寝台は床へ固定されている。予定表の入った本棚だけ、背板と壁の間へ指一本の隙間があった。
本を抜く。
詩集、聖人伝、薬草図鑑、墓地年代記。俺が暇なら手に取る順に並んでいる。趣味まで調べた証拠だが、いまは後回し。
棚の奥を叩く。右は硬い。左下だけ音が軽い。
釘を探した。見える場所にはない。指を這わせると、板の端に小さな欠けがある。黒革手袋の縫い目が引っかかった。
俺なら、ここへ薄い刃を差す。
刃は没収されている。
代わりに予定表の紙を四度折り、端を差し込む。板がわずかに浮いた。爪をかけて引く。
背板の裏から、細く畳まれた紙が落ちた。
廊下の向こうでは、まだ足音がしない。
紙は黄ばんでいた。塔へ来てから書かれた物ではない。黒インクが湿気で滲み、端に茶色い染みがある。血か錆かは分からない。
開く。
文字を見た瞬間、読むより先に右手が冷えた。
俺の字だ。
似ている、ではない。レイ・クロードが急いで記録を残す時の字。縦棒を左へ傾け、数字の三だけ上を大きく書く。葬院で死者名を仮記録する時に使う略記まで混じっている。
《彼女の優しさを信用するな》
一行だけ。
下には紙を裂いた跡があり、続きが失われていた。
誰かが筆跡を真似た可能性はある。休暇届を偽造できるなら、この紙も作れる。俺をミレーユから疑わせる罠かもしれない。
では、誰が仕掛けた?
彼女自身なら、自分への警告を残す理由が要る。第三者なら、空間を折られた塔の部屋へ入り、本棚の裏へ隠す手段が要る。
一番簡単なのは、俺が書いたという答えだ。
記憶にない俺が。
廊下で足音がした。
紙を手袋の内側へ入れる。背板を戻し、本を二冊だけ逆の順に差した。元の並びを完全には再現しない。彼女が気づくか確かめるためだ。
扉が開く。
ミレーユは空の手で戻ってきた。
「手紙は?」
「使いの者へ渡しました。日暮れまでに返事を」
視線が俺の顔、胸、右手、窓へ動く。暖炉の灰が乱れている。伝声管の蓋も少し曲がった。隠すつもりはない。
「三つ試したんですね」
数まで合った。
「窓、煙道、伝声管」
「順番も?」
「いつも窓からです。その次は、煙道」
「伝声管の次は?」
ミレーユの視線が初めて迷った。
知らないなら、それでいい。知らないふりなら、何を隠したいかを見る。
「洗濯物の搬入口です。その後は寝台の金具を外して、扉を壊そうとします」
「壊せた?」
「いいえ。右肩を痛めました」
「次は」
「食器を割って、聖刻を削ろうと」
「怪我は」
「左の掌を七針。腱は無事でした」
診療記録を読む口調だった。
それでも、七針と言った時だけ彼女の左手が閉じた。俺の掌ではなく、自分の手を握る。そこへ同じ傷があるみたいに。
「ほかには?」
「寝具を結んで窓から降り、四階の庇で結び目が解けました。足首を骨折。暖炉の火を強くして救援を呼んだ時は、煙を吸って三日間声が出ませんでした。食事を拒んだ時は――」
「もういい」
止めたのは、聞く価値がなくなったからじゃない。
彼女の声が平らすぎたからだ。一つずつが他人の怪我とは思えないほど細かいのに、感情を乗せれば崩れると知っている者の読み方だった。
同情するな。
手袋の内側にある俺の字が、触れなくてもそう言っている。
ただし、同情しないことと観察をやめることは別だ。
「俺が同じ順番で動くと思った?」
「大きくは変わりません」
「人は変わりますよ」
「はい。だから困るんです」
返答が噛み合わない。
普通なら、変化は希望か、少なくとも未知だ。彼女にとっては危険が増えることらしい。俺が知らない行動を選ぶほど、過去の安全策が使えなくなる。
「もし俺が、今日は一度も逃げないと言ったら?」
「昨日までのあなたと違う理由を探します」
「信じる選択肢は?」
ミレーユはすぐ答えなかった。
「信じます。確認してから」
それは信じるとは言わない。
だが彼女の中では矛盾していないのだろう。俺が何を選んでも、先に危険がないと確かめる。安全な結果だけを残してから、選択したことにする。
「右肩、左の掌、足首、喉。俺の怪我をよく覚えている」
「忘れたくても、忘れません」
「なら、今までで一番ひどかった傷は?」
青白い瞳が俺の胸へ落ちた。
視線だけで、そこに穴を開けられたような錯覚がした。
彼女は答えない。
それで十分だった。最悪の傷は、口にすれば現在へ戻ってくるとでも思っている。俺が死んだという過去形と、胸を確かめる癖がつながった。
何度かではない。
彼女は、俺が傷つく過程を一冊の帳面にできるほど見ている。
彼女は本棚を見なかった。
本当に気づいていないのか。気づかないふりか。
手袋の内側で、古い紙の角が手首へ刺さる。残響は来ない。死者の物ではないからか、それとも古すぎるからか。
俺は予定表を拾い、十時の欄に書かれた「自由」へ線を引いた。
「何を?」
「訂正です」
その下へ書く。
《俺を調べる》
ミレーユは、俺の手元だけを見ていた。
俺より俺を知る彼女と、彼女を信用するなと書いた俺。
先に疑うべきなのがどちらなのか、まだ証拠が足りない。
だから両方とも疑うことにした。