俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
白塔へ戻るまで、ミレーユは一歩後ろを歩いた。
水路の舟でも、階段でも、廊下でも。
俺が止まれば止まる。振り返れば目が合う。手は伸ばさない。
距離を守っている。
そのことへ安心する自分と、少し物足りない自分がいる。
後者は黙らせる。
境界を守った相手へ、寂しそうだから近づけなんて要求したら、何のための契約か分からない。
白塔の食堂へ五人で入る。
ニナ、オスカー院長、エドガー、ミレーユ、俺。
机の中央に三つ置いた。
押し花の祈祷暦。
第五百十二回目の黒手袋を入れた証拠箱。
契約書。
「先に祈祷暦」
俺が言う。
ミレーユは鍵束から小さな鍵を外した。祈祷暦には錠などない。それでも表紙の聖印へ差し込むと、見えなかった留め具が開いた。
「そんな仕掛け、いつから?」
「覚えていません」
便利な答えだ。
だが今は、実際に失った記憶がある。疑うことと、嘘だと決めることを混ぜない。
「記録には」
「鍵の存在だけ。用途は空白です」
祈祷暦を机へ置く。
ミレーユは開かない。
俺を見る。
「お前が開けろ」
「私の物です」
「だからだ」
彼女の指が表紙へ触れる。
一頁目。母エレナの名。二頁目、東鐘修道院の祈り。三頁目からは還暁後の記憶確認欄。
頁をめくるたび、空白が増える。
好きな歌。
最初に治した子供。
母の声。
青鈴花の匂い。
知識ではなく、本人にしか持てない欄が白い。
中央に押し花がある。
青い花弁は乾いて薄い。それでも色が残っていた。
ミレーユが花を持ち上げる。
紙片が二枚。
一枚目は約束。
《白冠が還暁を餌とし、還暁が他者を白化させ、錨本人が判断力を保って鐘停止のため死を選ぶ場合、ミレーユは暁鐘を鳴らさない》
俺と彼女の署名。
二枚目は警告文の続き。
《彼女は約束より、お前の脈を選ぶ》
第512回の俺の字。
その下に、さらに小さな字があった。
《だから脈のない場所へ鍵を隠す》
「脈のない場所」
ニナが呟く。
全員が証拠箱を見る。
黒手袋の中には人格に近い残響。生きていない。脈もない。
「開ける」
三本の鍵を使う。
俺、ニナ、オスカー。
封印が外れる。
黒手袋を机へ置いたまま、エドガーが鐘鍵を鳴らす。
五百十二回目の俺が霧になって立った。
「全員いるな」
「お前が指定した」
「前は二人、先に消えた。今度は五人か」
過去の俺が順に見る。
ニナで目を止めた。
「久しぶり」
「私は覚えてない」
「知ってる。兄貴は?」
ニナの顔が硬くなる。
「ユアンを知ってるのか」
「俺の回では、名前だけ探してた。空の皿をお前が割った」
第512回でも、ユアンはすでに白化していた。
「兄を戻す方法は」
「鍵の一部にある。ただし、一人だけ戻す鍵じゃない」
「墓所で聞いた」
俺は先を促す。
「脈のない場所へ何を隠した」
過去の俺が右手を上げる。
黒手袋の親指。その内側に、青い糸が一本縫い込まれている。
現在の手袋にある死痕とは違う。物理的な糸だ。
ミレーユが見つけなかったのか。
「それは?」
「ミレーユが失った記憶を、一つだけ封じた」
「何の記憶」
「俺たちが錨の刻印を作った夜」
部屋が静かになる。
一回目。少年だった俺とミレーユが、また会うため血を鐘へ与えた夜。
「一回目の記憶なら、なぜ五百十二回目のお前が持ってる」
「白冠庫で見つけた。ミレーユから最初に失われた記憶として保存されてた」
「鍵はそこにある?」
「錨を作ったなら、外す方法も同じ記憶にある」
今ここで開ければ、鐘を止められるかもしれない。
「糸へ触れずに調べられるか」
ニナが拡大硝子を出す。エドガーは鐘鍵を横へ置き、オスカーが記録用の紙を分ける。ミレーユは聖刻を使おうとして止まった。
「何が危険だ」
俺が訊く。
「私の聖刻は一回目の記憶へ反応します。勝手に封印を開く可能性があります」
「なら使わない」
彼女は杖を机の下へ置く。
自分が最も強い道具を持っているから使う、ではなく、危険なら他人へ任せる。ニナが硝子越しに青糸を見る。
「糸じゃない。細く固めた血」
「誰の」
「二色ある。たぶん二人分」
赤黒い芯と、青白い外側。俺とミレーユ。
「切る場所は?」
過去の俺が答える。
「三つの結び目。最初は錨の記憶だけ開く。二つ目で聖女。三つ目で刻印そのもの」
「順番に試せる?」
「一度切れば血が流れ、残りもほどけ始める。止めるには別の錨が要る」
「別の俺を用意しろって?」
「人でなくていい。同じ死痕を持つ器」
黒革手袋。
七百一回目の俺が残した現在の手袋を見る。すでに死痕を一つ持ち越した。残りの死を分散できる可能性がある。
「手袋を七百枚作ればいい?」
「数だけなら。だが死痕は同じ死を二つに写せない」
エドガーが口を挟む。
「墓銘板がある。七百枚、それぞれの死を刻んだ板」
白塔地下の墓所。
ミレーユが全死を刻んだ。
墓標は執着の証拠であると同時に、錨を外す器になるかもしれない。
「未来板は」
存在しない三十一日。死因、聖女。
「まだ起きていない死を受ける器だ」
過去の俺の声が低くなる。
「そこへ最後の結び目を逃がせば、今のレイは生きたまま錨から外れられる可能性がある」
「未来板が代わりに死ぬ?」
「板は死なない。死の条件だけを受ける」
「その結果、永昼の俺が出るかもしれない」
「だから俺は試せなかった」
技術はある。
安全性はない。
鍵と呼んでも、開く先が出口とは限らない。
「墓銘板、青糸、現在の死痕、暁鐘。四つを別々に調べる。一か所へ集めない」
俺は役割を決める。
墓銘板はオスカーとニナ。青糸はエドガー。現在の死痕は俺。暁鐘はミレーユ――と言いかける。
「鐘をミレーユ一人へ預けない」
自分で訂正する。
「私には触れる権限があります」
「だからエドガーと二人。操作記録をニナへ毎日渡す」
「レイは?」
「俺は鐘へ近づくと錨として反応する。調査日は全員が揃う時だけ」
過去の俺が腕を組む。
「慎重すぎて間に合わないかもしれない」
「急いで失敗したお前に言われたくない」
「俺は二十九日しかなかった」
「今の俺は、白冠起動まで二十八日だ」
一日少ない。
言ってから気づく。
だが人数は多い。証拠もある。大司教の目的も、残数も知っている。
過去より時間が短いから、過去と同じ方法を急いでなぞる必要はない。
「糸を切ると?」
「記憶がミレーユへ戻る。たぶん」
「たぶん?」
「俺は試す前に死んだ」
過去の俺は自分の胸へ触れる。
「白冠庫で、な」
「危険は」
「記憶が戻る時、失った理由も戻る。錨の刻印が反応し、還暁が自動起動する可能性がある」
今は切れない。
レイの死が引き金とはいえ、白冠が錨を重くし、鐘が勝手に鳴る仕組みへ近づいている。準備なしに触れば、また誰かの時間を捨てる。
「鍵を保管する。使う条件は五人で決める」
俺が言う。
「お前自身の記憶だぞ」
過去の俺がミレーユへ向く。
「返してほしい?」
「分かりません」
「一回目の俺に会いたいとは」
彼女の指が祈祷暦を押さえる。
「思います」
「なら切りたい?」
「切れば、今のレイを危険にします」
予想した答え。
俺の安全が最初に来る。
過去の俺は笑わない。
「今のレイが、切れと言ったら?」
「条件と代替策を確認します」
「前はすぐ従った」
「前の私ではありません」
過去の俺の顔が少し歪む。
傷ついたのかもしれない。
今の俺には断定できない。
ただ、ミレーユは過去の彼女を継ぐ義務もない。契約第四条は俺だけのためではない。
「お前もだ」
俺は五百十二回目へ言う。
「今のミレーユに、過去のお前を続けさせるな」
「俺は、あいつが一回目を思い出せば戻ると思ってた」
「何に」
「人の話を聞けた頃に」
「記憶一つで人間を直そうとするな」
言葉が強くなる。
過去の俺は黙った。
「お前も、今の彼女を見ずに、昔の彼女を鍵にしようとしてる。ミレーユが過去の俺を今の俺へ重ねるのと同じだ」
自分へ言うのは変な気分だ。
だが、相手は過去の俺で、俺ではない。
「一回目の記憶は、錨を外す技術として使う。彼女を昔へ戻すためには使わない」
「お前は、ミレーユを止めたいんじゃないのか」
「止める。けど、お前の望む形へ直すんじゃない」
「あいつがまた破ったら」
「記録する。止める人を増やす。鍵を分ける。それでも破るなら、今の俺が離れる」
ミレーユの呼吸が小さく変わる。
見ない。
彼女を怖がらせるために言ったのではない。
現在の選択として言った。
「離れられると思う?」
過去の俺が訊く。
「塔の鍵は、まだあいつが持ってる」
「だから取り戻す」
「愛しても?」
「それを今決めさせるな」
「俺は愛した」
「知ってる」
「お前も同じだ」
胸が反応する。
ミレーユの姿を探す。脈を数える手。手袋を燃やさなかった朝。俺が作った契約へ署名した字。ユアンを消したと認めた声。
好意はある。
恐怖もある。
どちらかだけを本物にしなくていい。
「同じでも、答えは俺が出す」
「なら訊き方を変える」
過去の俺が一歩近づく。
「ミレーユを好きになることが怖い?」
答えは早い。
「怖い」
隣で彼女の息が止まる。
「好きだと認めたら、監禁も嘘もユアンも、俺が受け入れたことにされそうで怖い。お前の約束まで継ぐと思われるのも嫌だ」
「誰に?」
「ミレーユに。過去の俺に。自分に」
「好きじゃなければ離れられる?」
「簡単になる」
「本当に?」
過去の俺は俺だから、逃げ道を知っている。
好意がなくても、七百回の傷を見たら置いていけない。ユアンを消した記録を開示した彼女が、次に何を選ぶか見届けたい。大司教を止める利害もある。
「簡単にはならない」
「なら、好意を判決に使うな」
「どういう意味だ」
「好きだから許す。怖いから有罪。どっちも証拠じゃない」
過去の俺が言う。
それは今の俺が、何度も自分へ言ったことだ。
「お前は俺の答えを継がなくていい。でも、俺の失敗を全部捨てる必要もない」
命令として受け取らない。
自分の基準と照合する。
合っている。
「そこだけ借りる」
「利息は高いぞ」
「死者から取り立てるな」
二人で少し笑った。
過去の俺の霧が揺れる。
怒るかと思った。
笑った。
「それを言えるなら、俺の続きをしなくていい」
「最初からそのつもりだ」
「鍵を頼む」
「頼まれなくても調べる」
過去の俺はニナを見る。
「ユアンを見つけたら、俺が酒代を借りたままだったと伝えて」
「兄のほうが貸したの?」
「たぶん」
「そこ曖昧なの?」
「白化すると、都合のいい記憶だけ残る」
ニナが初めて少し笑った。
次にオスカー。
「院長、俺の墓誌を暗号にしすぎ。今の俺が読めない」
「お前が毎回暗号を変えろと言う」
「次は一覧を付けて」
「次はない」
院長の返事に、過去の俺が目を細める。
「そうだな」
エドガーへ。
「最初の四十六回、協力したことを隠すな」
「もう話した」
「ならいい」
最後にミレーユ。
二人は長く見合う。
「約束を破ったこと、許さない」
「はい」
「でも、約束したことは後悔しない」
「現在のレイも、同じことを言いました」
「そこは同じか」
「はい」
過去の俺が手を伸ばす。
頬へ触れる前に止めた。
「触っていい?」
ミレーユの目が大きくなる。
「はい」
霧の指が頬へ触れる。
温度はない。
それでも彼女は目を閉じた。
俺の胸が痛む。
嫉妬かもしれない。
過去の自分に嫉妬するなんて、帳簿の分類に困る感情だ。
今は欄外へ置く。
「さよなら、ミレーユ」
「さよなら、レイ」
霧が黒手袋へ戻る。
今度は消えない。
残響として眠る。
俺は青い糸を切らず、透明な封印筒へ入れた。鍵は五つ作る。俺、ミレーユ、ニナ、オスカー、エドガー。
「私にも?」
ミレーユが訊く。
「お前の記憶だ。一人で開けられないだけで、締め出しはしない」
彼女は鍵を受け取る。
握り込まず、机へ置いた。
「次は青鈴花の理由を探す」
俺は祈祷暦を見る。
「鐘を止める技術だけじゃない。お前が失ったものを、使える鍵かどうかで選別しない」
「危険でなくても?」
「危険と関係ないから残すんだ」
死亡記録だけでは、人が生きたことにならない。
過去の俺が残した答えを、俺はそのまま継がない。
だが、死以外を記録しろという空白は受け取る。
それは命令ではなく、今の俺の基準にも合っていた。
会議が終わったのは夕方だった。
窓の外で、王都の鐘が六つ鳴る。
百十二ではない。普通の時刻の鐘。
ニナとオスカーは墓銘板の写しを取りに地下へ向かう。エドガーは青糸を封印筒ごと鐘守室へ運ぶ。どちらも一人では行かない。
食堂に俺とミレーユが残る。
彼女は一歩後ろではなく、机の向かいにいた。
「聞きたいことがあります」
「何だ」
「五百十二回目のレイへ、嫉妬しましたか」
飲みかけた水が気管へ入った。
咳く。
ミレーユが立ち上がる。手は伸ばさず、俺が合図するまで待つ。
大丈夫だと手を上げる。
「なぜそう思う」
「彼が私へ触れた時、あなたの脈が上がりました」
「監視したな?」
「ニナさんが診察のため置いた測脈石が机に」
石を見る。
片づけ忘れたニナを、明日問い詰める。
「答える義務は」
「ありません」
ミレーユは座り直す。
追及しない。
だから俺の中で、答えが余計に大きくなる。
「少しだけ」
彼女の目が見開かれる。
「喜ぶな」
「まだ何も」
「顔が喜んでる」
「顔は監視項目ではありません」
契約の言葉をまた使う。
俺は呆れ、少し笑った。
「好意があっても、契約は変わらない。ユアンの記録も、大司教の百十二も、消えない」
「はい」
「お前がまた鍵をかけたら、俺は出る」
「はい」
「それでも、今は向かいにいていい」
ミレーユは机の下で両手を握った。
俺へ伸ばさないためかもしれない。
今の彼女が選んだ距離を、今の俺も選ぶ。
五百十二回目と同じ答えではない。
まだ名前のつかない、七百二回目の答えだった。
名前より先に、次の朝まで残すべき答えだ。