俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
青鈴花は、朝に咲いて夕方には閉じる。
花屋の知識としては、それだけで足りる。
ミレーユがなぜ好きだったかを知るには、まるで足りない。
「母親が好きだったんじゃないのか」
俺は祈祷暦の記録を読む。
《母エレナ。七歳の冬に死去。形見、青鈴花の押し花》
その下は白い。
「そう書いてあります」
ミレーユは他人の帳簿を読む声で答える。
「顔は?」
「覚えていません」
「声」
「覚えていません」
「好きだったことは」
「青鈴花の欄を読むまで、分かりませんでした」
質問するたび、失った欄を指でなぞらせている気分になる。
やめるのは簡単だ。
だが、聞かないことと、傷つけないことは同じではない。空白を安全のために閉じれば、俺が彼女へしていることも監禁に近づく。
「調べたい?」
「必要ですか」
「必要かじゃない。お前が知りたいか」
ミレーユは押し花を見る。
「分かりません」
「それも答えだ」
知りたいふりをしない。母を忘れた娘なら悲しむべきだと、俺が感情を指定しない。
「俺は調べたい。錨の鍵と関係がなくても。お前が嫌なら記録だけ集めて、読むのは後にする」
「一緒に行きます」
「理由は」
「自分の記憶だからです」
今の彼女が選んだ。
東鐘修道院は王都の東端にある。
俺とニナが育った場所でもある。ミレーユは俺たちより前にそこで暮らし、聖女に選ばれて大聖堂へ移った。
一行は三人。
俺、ミレーユ、ニナ。オスカーとエドガーは青血糸と墓銘板の調査へ残る。
安全指針は十二項目。ミレーユが紙へ書き、俺とニナで対策を選んだ。馬車は使わない。東門まで人通りの多い道を歩く。過去に三回落ちた鐘楼の下は迂回。
一歩後ろだったミレーユは、今日は横へいる。
俺がそう決めた。
好意を認めたからではない。道幅と護衛効率だ。
そう考えた直後、自分への言い訳だと分かる。
横にいてほしかった。
それだけで契約を変える必要はない。
修道院の門は低い。石壁に青鈴花が這っていた。
季節は初夏。
青い鐘形の花が風で揺れる。
ミレーユは止まった。
「何か思い出した?」
「いいえ」
「身体は」
「脈が上がっています」
「俺のじゃなく?」
「私のです」
自分の脈を数えたことに驚く。
「一分に八十四」
「普段は」
「五十六」
感情の名は出ない。花を見た刺激と、身体の反応だけ。
それでいい。
門番の老修道女がミレーユを見て、手の籠を落とした。
「ミレイ?」
聖女ではない呼び方。
ミレーユの目が細くなる。
「私はミレーユ・アルノーです」
「そう、そうだったね」
老女は拾おうと屈む。ニナが先に籠を取る。
「シスター・アデルです」
老女が名乗る。
ミレーユは反応しない。
「覚えていません」
「いいんだよ。前にもそう言った」
前にも。
還暁後ではない。現周回の起点以前から、アデルを忘れていた。
「何回来た」
俺が訊く。
「聖女様になってからは十年で三度。毎回、最初は私を知らない顔だった」
「三度とも記録は」
アデルが修道院へ招く。
資料室には、古い日誌が積まれていた。
ミレーユの訪問記録。
一度目。《母エレナの祈祷記録を閲覧。青鈴花の押し花を見て泣く》
二度目。《同記録を閲覧。涙なし。母の筆跡を確認》
三度目。《母の名を知らず。聖女記録から照合》
来るたび失っている。
「前の私は、なぜ来たのですか」
ミレーユがアデルへ訊く。
「一度目は、お母さんの夢を見たから。二度目は、一度目に来たことを忘れたと気づいたから。三度目は……」
老女が俺を見る。
「レイが死んだ後だった」
アデルは三度目の日誌を最初から読んだ。
その日のミレーユは、門をくぐる前に青鈴花を全部刈るよう命じたらしい。
《花粉がレイの呼吸器へ入る可能性。茎へ転倒。蜂が寄る危険》
「刈ったのか」
「一本だけ」
老女は窓の外を指す。
花壇の端に、背の低い株がある。
「聖女様は自分で鎌を持った。最初の一株を刈って、根元に青い布が結んであるのを見つけた」
「布?」
俺たちで花壇へ行く。
青鈴花の葉を分けると、古い紐が土に半分埋まっていた。遺品保管庫で拾った青い紐とは編み方が違う。子供の指で結んだ、不揃いな輪。
ミレーユが触れる前に、アデルが説明する。
「子供の頃のあんたが結んだ。お母さんの花って印」
「母は嫌いだったのでは」
「嫌いだから抜こうとした。あんたが泣いて、自分で世話するって言った。それからエレナは一株だけ残した」
好きか嫌いかだけではない。
嫌いな花を、娘が選んだから残した。
ミレーユの記憶記録は《母の好きな花》へ簡単にまとめていた。理由を失った後、関係を一行へ圧縮した結果だ。
「三度目の私は、これを見て?」
「鎌を置いた。花は危険だから全部抜くと言ってたのに、一株も抜かなかった」
身体が覚えていた、で済ませたくない。
彼女は布という証拠を見て、判断を変えた。理由を思い出さなくても、過去の自分が残した選択を現物から読み直した。
「その後、レイの死亡時刻を書いた?」
「そう。花壇で一時間座ってから」
ミレーユは青い紐へ触れない。
「残響があるかもしれません」
「読みたい?」
「はい」
今度はすぐ答えた。
危険を調べる。紐は生活残響。死痕なし。ミレーユ本人の物なら、俺より彼女が読むほうが混線は少ない。ニナが脈と呼吸を測り、俺が記録する。
彼女が紐を取る。
青い光が指へ入った。
ミレーユの瞳が遠くなる。
「何が見える」
「子供の手。土。母の声」
「言葉は」
「《朝なんか来なくていい》」
予想と逆だった。
母に起きてほしくて花を置いたのではないのか。
「続きは」
「私が、《朝になればお母さんが仕事へ行く。夜のままなら一緒にいられる》と」
ミレーユの呼吸が速くなる。
「離せ」
彼女は紐から手を離した。
ニナが水を渡す。
「記憶は戻った?」
「断片だけです。母は肺熱になる前、毎朝鐘を鳴らしに行きました。私は夜、寝なければ朝が来ないと思っていた」
朝を来させたい願いだけではない。
朝を止めたい願いもあった。
還暁と永昼。
二つとも子供の頃の彼女が持っていた。大切な人を起こしたい。大切な人を行かせたくない。
それを運命の原因にはしない。子供の願いだけで暁鐘は動かない。大司教、白冠、錨の術、七百回の選択がある。
だが、ミレーユにとって「朝」は最初から救いだけではなかった。
「永昼を考えた時、この記憶は?」
「ありませんでした」
「なくても同じ形を選んだ」
「はい」
彼女は青い紐を土へ戻さない。証拠袋へ入れ、アデルへ訊く。
「持ち出してもよいですか」
「あんたの物だよ」
「ここで残した物です。修道院の記録でもあります」
アデルが少し笑う。
「じゃあ貸す。返す日は決めなくていい」
所有を一人へ決めず、貸出記録を作る。
小さなことだ。
でも、過去の物だから自動的に今の自分の物だと扱わない点で、契約第四条と同じだった。
また俺だ。
「三度目の彼女は何をした」
「お母さんの頁へ、あなたの死亡時刻を書いた」
祈祷暦を開く。
母エレナの頁。
白いと思っていた下段へ、聖光を当てる。消えた字が浮いた。
《冬至月十一日、午前四時十七分》
「俺の死?」
ミレーユは傷を数える。
「第四百九回です」
「死因」
「東鐘修道院の火災」
ニナが顔を上げる。
「ここで?」
「はい。子供を助けに入り、梁が落ちました」
その回の俺は、修道院の火事で死んだ。
ミレーユは戻した。
起点へ戻った後、母の記憶を失った。そして母の頁へ、俺の死亡時刻を書いた。
「間違えたのか」
「記録した時の私は、正しいと思っていました」
「母親が死んだ時刻として?」
「分かりません」
アデルが別の日誌を出す。
三度目の訪問時、ミレーユが言った言葉。
《この人を思い出そうとすると、レイの焼けた手が見える。なら同じ頁へ置けば忘れない》
母の顔が、俺の死に置換された。
記憶の代価は、単に一つ消えるのではない。空いた場所へ、錨の死が入り込む。
だから彼女は俺だけを覚えている。
覚えることを選んだだけではない。
失うたび、俺の死が別の人の場所を奪った。
胃が重くなる。
俺が悪いわけではない。
そう切り分けても、身体は簡単に納得しない。
「レイ」
ミレーユが呼ぶ。
「罪悪感を持たないでください」
「俺の内心を決めるな」
「顔に」
「顔は監視項目じゃない」
言い返し、息を吐く。
「罪悪感はある。でも、それで俺の選択を値引く気はない。お前の母親を忘れさせた責任まで背負うとも言わない」
「はい」
「ただ、俺の死が入り込んだ仕組みは止める」
母の頁を写す。
死亡時刻は消さない。誤りとして線を引き、横へ書く。
《これはレイ・クロード第四百九回の死亡時刻。エレナ・アルノーの死亡時刻ではない》
次に、エレナの本当の記録を探す。
修道院の死亡簿。
《王暦三九一年、冬至月十四日、夕刻。肺熱》
ミレーユの記録と三日違う。
「顔の記録は」
アデルが肖像箱を持ってくる。
木板へ描いた修道女たちの集合画。若いエレナがいる。銀髪ではない。濃い茶色の髪。笑うと左の頬に窪み。
ミレーユは長く見る。
泣かない。
「どう思う?」
「私に似ていません」
「最初がそれか」
「髪も目も違います。頬の形は少し」
彼女は自分の頬へ触れる。
「知っている感じは?」
「ありません」
正直な答え。
肖像を見れば愛情が蘇る、なんて都合のいい奇跡はない。
「私が泣かなければ、冷たい娘に見えますか」
ミレーユが訊く。
「誰に」
「レイに」
「見えない」
即答してから、理由を考える。
「泣けば母親を愛していて、泣かなければ愛してない、って話じゃない。お前は判断するための記憶を失ってる。今、肖像を見て何も湧かないのも被害の一部だ」
「悲しいと思いますか」
「俺が?」
「私が」
他人の感情を訊く変な質問だ。
だが、彼女自身が分からないから、外からの答えを求めている。
「悲しそうには見える。でも、お前が悲しいと決めるのは俺じゃない」
「胸が冷たいです」
「身体の記録として書け」
ミレーユは祈祷暦へ書く。
《母エレナの肖像を見ても人物記憶なし。涙なし。胸部に冷感》
感情名を無理に足さない。
それでも空白ではない。
アデルが青鈴花を一輪、窓辺から摘む。
「エレナは、この花が嫌いだったよ」
全員が老女を見る。
「祈りの鐘と形が似てるから、仕事を思い出すって。好きだったのはミレイ。お母さんが嫌がる花を、毎朝枕元へ置いた」
ミレーユが花を見る。
「なぜ」
「起きてほしかったから。肺熱で寝ている間も、朝になれば鐘を鳴らしに起きると思っていた。青鈴花は朝に開くから」
母が好きだった花ではない。
母に起きてほしくて、娘が選んだ花。
「エレナが亡くなった朝も?」
「枕元に置いた。花は開いた。お母さんは起きなかった」
還暁の原型が見えた気がした。
朝を呼べば、大切な人が起きる。
子供の頃の願い。
後に暁鐘と俺の死へ繋がったとしても、今すぐ因果を一本にするな。
記録する。
《青鈴花。母が好きだったのではない。七歳のミレーユが、母が朝に起きることを願って枕元へ置いた》
ミレーユへペンを渡す。
彼女は自分の字で同じ文を書く。
「思い出しましたか」
アデルが訊く。
「いいえ」
「それでもいいよ」
「よいのでしょうか」
「覚えてなくても、あんたが置いた花は本当にあった」
存在は、記憶だけに預けなくていい。
ユアンの空皿と同じだ。
ミレーユが青鈴花を受け取る。
今度は祈祷暦へ挟まない。
水の入った小瓶へ差した。
「押し花にしないのか」
「今日は、まだ咲いています」
夕方には閉じる。
それでも今日の間は、生きた花として置く。
帰る前、俺は母エレナの頁をもう一度見た。
誤った死亡時刻へ引いた線の下から、別の文字が浮かぶ。
《レイが死ぬたび、この人の顔が遠くなる》
ミレーユの字。
彼女は読んでも表情を変えない。
変えないのではない。
何を失ったか、感情まで思い出せない。
俺は頁を閉じない。
「ここも公開記録にする」
「母のことまで?」
「お前の許可があるなら。白冠被害が命や戦争だけじゃなく、人の顔と花の理由まで奪った証拠だ」
ミレーユは肖像のエレナを見る。
「母の名を、レイの死因の付録にしたくありません」
「ならエレナを主語に書く」
《エレナ・アルノー。茶髪。左頬に窪み。青鈴花は嫌い。娘が毎朝置く花へ文句を言いながら、捨てなかった》
アデルが笑う。
「そういう人だった」
ミレーユも署名する。
アデルは原本を修道院へ残し、写しを三部作った。
一部はミレーユ。
一部は修道院。
一部は王都の公開出生・死亡庫。
「公開していいのか」
「私の記憶被害は公開します。ただし、母の病状と私との会話は修道院記録に留めます」
全部を開示する契約でも、他人の私生活まで勝手に公開する権利はない。エレナは被害の証拠である前に、一人の人間だ。
ミレーユは公開範囲を自分で選んだ。
俺はその選択を記録する。
門を出る時、アデルが小瓶の花へ声をかけた。
「夕方には閉じるよ」
「知っています」
「閉じても捨てるんじゃないよ。朝になればまた開く」
ミレーユの足が止まる。
「開かなかった場合は?」
「種を取る。次の花を育てる」
戻す、でも止める、でもない。
同じ花を永遠に開かせるのではなく、閉じることを受け入れて次を育てる。
ミレーユはその答えを祈祷暦へ書かなかった。
小瓶を両手で持ち、今の花を見る。
聞いた言葉をすぐ教訓へ変えないところまで、今日は記録しておく。
母の顔は戻らない。
だが頁の上で、俺の死亡時刻の下から一人の女が出てきた。
俺はそれを、鍵より先に持ち帰った。
鐘を止める方法だけを人間の価値にしないために、茶色い髪と左頬の窪みを、別の頁へ残した。
青鈴花の理由も、俺の死因欄ではなくミレーユ自身の記録へ戻した。
花の頁は、彼女の名前から始めた。
誰かの死ではなく。
今。