俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
大司教の白冠庫へ入るには、俺の血が要る。
「嫌な鍵だな」
俺は親指へ針を当てる。
「私が」
ミレーユの手が動く。
「俺の血だろ」
「傷を作る必要があります」
「一滴だ」
「一滴でも傷です」
「契約第三条。俺が同意して、自分でやる」
彼女は止まる。
納得はしていない。だが針を奪わない。
ニナが横から消毒液を出した。
「針を貸して。馬鹿二人が揉めてる間に雑菌が入る」
「一滴で腐灰症になる回が」
「過去の話は聞いた。だから消毒する」
ニナが針を火へ通す。俺が刺す。血を一滴、白い扉の中央へ落とす。
暁日印が開いた。
場所は大聖堂鐘守通路の下層。マルクが白骸になる前に残した地図どおりだ。
今回の一行は四人。
俺、ミレーユ、ニナ、エドガー。オスカー院長は証拠公開の準備をしている。正午までに戻らなければ、鐘守台帳とユアン記録を市議会へ出す。
大司教は逃げた。
だから庫は罠だと考える。
扉の向こうへ鏡を差し出す。白い床。棚。人影なし。ニナが薬を塗った糸を投げ、空気の毒を調べる。エドガーが鐘鍵で時刻の乱れを測る。ミレーユが生命反応だけを見る。
全部、異常なし。
異常がないことが一番怪しい。
「入る順番」
「私が先」
ミレーユ。
「錨の血へ反応する罠なら俺が先」
「怪我人を運べる私が二番」
ニナ。
「時刻罠なら鐘守が先だ」
エドガー。
全員が先へ行きたがる。
「横一列で入れる幅だ」
俺が言う。
四人で敷居を越えた。
何も起きない。
一歩目は。
二歩目で扉が閉まる。
三歩目、棚の記録が一斉に声を出した。
《北州飢饉、死者一万八千》
《還暁後、穀倉開放。死者三百二》
《差引救命、一万七千六百九十八》
別の棚。
《王太子暗殺。内戦七年》
《還暁後、暗殺者先行拘束。内戦回避》
数字と結果。
成功例だけが明るく光る。
「耳を塞げ」
エドガーが叫ぶ。
「白冠は、選ばれた結果を正当化する!」
耳を塞いでも声は頭へ入る。
救えた人数。
避けた戦争。
治った病。
全部、良い結果だ。
そのたび俺が死んだ。
「記録を探す。百十二番」
俺は棚の番号を見る。
一から百十二までではない。棚は七百一。各周回ごとに、起きた結果と捨てた結果が分かれている。
第十二回。
橋梁崩落。
俺の死後、橋を事前閉鎖。三百人が助かった。
第六十七回。
疫病薬の失敗。
俺の死後、別の薬を選び、子供八百人が助かった。
第百九回。
王宮政変。
俺の死後、首謀者を先に捕らえ、処刑十二人で収束。
「処刑された十二人は、最初の結果では何をした」
ニナが記録を読む。
「一人は武器を運んだ。一人は食事を作った。五人は計画を知らない。残りは空白」
結果を知った大司教が、関係者を先に殺した。
ミレーユがユアンへしたことと同じだ。
規模と理由が違っても、過去の結果で現在の人間を処理する。
「全部持ち出す」
「量が多すぎる」
ニナが棚を見る。
七百一周回。王都全体。紙なら荷車十台でも足りない。
「原本じゃない。記録核を探す」
棚の声には同じ癖がある。冒頭に事件名。次に死者。最後に差引。帳簿なら、集計元がある。
中央の白い鐘模型を見る。
千個の鐘のうち、七百一個が黒い。
残り二百九十九は白。
「あれだ」
近づくと、ミレーユが腕を掴む。
「生命反応があります」
「誰の」
「レイです」
俺はここにいる。
鐘模型にも俺がいる。
死んだ七百一人分の生命反応。
死者なのに脈がある。白冠は俺の死を保存し、次の還暁を待っている。
「触れずに開く」
エドガーが鐘鍵を三本、模型の周囲へ置く。ニナが絶縁布を巻いた鉗子を出す。俺が位置を指示し、ミレーユが防壁を張る。
模型の底板を外す。
中に黒い冊子があった。
表紙。
《白冠統合計画・グレゴール・ヴァイス》
持ち上げた瞬間、棚の声が止まる。
代わりに大司教の声がした。
《これを読む頃、君は自分がどれほど還暁の恩恵を受けたか知る》
冊子が勝手に開く。
最初の頁は俺の経歴だった。
七歳。東鐘修道院の火災。
本来の結果では死亡。
還暁後、火災を事前消火。生存。
十歳。肺熱。
本来の結果では死亡。
還暁後、治療薬変更。生存。
十二歳。鐘楼転落。
本来の結果では死亡。
還暁後、手摺補強。生存。
今の俺が一回目の俺だと思っていた記憶より前に、戻された結果がある。
「どういうことだ」
ミレーユの顔を見る。
彼女も驚いている。
「私は、その時まだ暁鐘を」
エドガーが呻く。
「先代聖女だ」
ミレーユの前にも還暁はあった。
俺は最初から、選ばれた結果の中で育った。
葬院で働いたこと。ニナと出会ったこと。ミレーユと鐘楼で会ったこと。どれも、誰かが別の死を捨てた後に残った道かもしれない。
グレゴールの声が続く。
《君は還暁を否定できない。それがなければ、七歳で存在しない》
正しい。
腹が立つほど。
「存在してる俺が、使い方を批判するのは矛盾か?」
冊子は答えない。
俺が自分で答える。
「違う」
助かった恩恵を受けた人間は、その方法の被害へ黙る義務がある?
そんなわけがない。
薬で助かった患者が、人体実験を正当化しなければならないわけではない。橋を渡れた人間が、建設時の犠牲を記録することもできる。
「俺が生きてる結果は返せない。でも、次の死を選ばせないことはできる」
ミレーユが俺を見る。
「レイがいなかった結果を選びますか」
「選ばない」
即答する。
自分の生を無価値にして償う気はない。
それも大司教の二択に乗ることになる。還暁を肯定するか、自分の存在を否定するか。
どちらも選ばない。
冊子の後半。
百十二回の実験目的。
一、聖女の服従限界。
二、錨の死因耐性。
三、政治結果の分岐数。
四、白冠への死痕蓄積。
各回に大司教の署名がある。
俺を殺した手段も、得た結果も、切り捨てた人数も。
百十二件を、番号だけで終わらせない。
十二番。
橋梁崩落誘導。
大司教は橋の亀裂を知りながら閉鎖せず、俺が通る時刻へ荷車を増やした。崩落で俺と三十七人が死亡。ミレーユが還暁。次は橋を閉じ、三百人を救った。
記録上の評価は《成功》
「三十七人は戻ったから、死者ゼロとしてる」
ニナが言う。
「捨てた時間では白骸かもしれない」
《差引三百人救命》の横へ、《捨てた三十七名の白化状態未確認》と書く。
二十七番。
鐘蝕の初期試験。
俺ではなく、死刑囚三人へ投与。死痕が錨でないため還暁を起こさないと確認。その後、俺へ使った。
死刑囚の罪状を見る。
一人は殺人。
一人は窃盗。
一人は大司教批判。
刑罰の正当性と、無断の毒実験は別だ。罪があるから何をしてもいいとはならない。
「名を複写する」
「公開は?」
ニナが訊く。
「遺族確認まで封印。実験人数と罪状の不均衡は公開」
五十一番。
北門騒乱。
食糧配給へ集まった民衆の中に、大司教が偽の襲撃者を置いた。俺が止めに入り死亡。還暁後、配給方法を変え、騒乱を回避。
《統治手順改善》
「最初から配給方法を変えるために、人を死なせた」
「事故を起こさないと改善できない、と考えた」
エドガーが低く言う。
「私も最初は同意した。結果を見ずに制度を変えれば、別の失敗が出る。なら一度起こして確かめるほうが正確だと」
「今は?」
「失敗を見なければ想像できない統治者は、失敗した人間の上へ立つ資格がない」
老人は自分の名を協力者欄へ書いた。
ミレーユも書く。
「私は鐘を鳴らしました」
「鳴らさなければ俺は死んだままだった」
「はい」
二つの事実を同じ頁へ置く。
大司教だけを悪にして終えれば簡単だ。だが、仕組みはミレーユの執着と鐘守の協力と、選ばれた結果に安心した王都で動いた。
俺も今、生きている結果を手放さない。
責任は同じ量ではない。
だから関与を一つの言葉へまとめない。設計、命令、実行、還暁、恩恵。欄を分ける。
八十六番。
第五百十二回の白冠庫。
《錨、自己選択により残留。聖女、誓約違反で還暁。白冠蓄積成功》
ミレーユの指が止まる。
「読めるか」
「はい」
「無理なら俺が」
「無理ではありません。読んだ後、鐘へ向かわないよう、ニナさんが杖を持っていてください」
自分で危険を申告し、道具を他人へ渡す。
ニナが杖を受け取る。
「重い」
「落とさないでください」
「こういう時まで杖の心配?」
「母の形見ではありませんが、二十年使っています」
危険と関係ない物への執着がある。
それも記録したくなるが、今は冊子だ。
ミレーユが八十六番を最後まで読み上げる。
声は平ら。脈はニナが測っている。一分九十二。普段より速い。
読み終え、彼女は鐘へ走らない。
一つの過去を知っても、同じ動作を繰り返さない。
百十二番。
昨日の鐘蝕。
《死痕持越し成功。錨の自律記憶を確認。聖女の情報独占を崩し、白冠統合時の人格器として利用可能》
「人格器」
嫌な単語だ。
グレゴールは俺へ記憶を返すために実験したのではない。七百人の俺を一つへまとめ、白冠の意志を入れる器にするつもりだ。
「白冠は神になるんじゃない」
「レイの形を取ります」
ミレーユが冊子の図を見る。
千の鐘の中央に、人型。
顔は空白。
錨の死痕が入れば、俺の顔になる。
彼女が壊せなくなるように。
「大司教は、お前の執着まで安全装置に使う」
「分かっています」
ミレーユの手が震える。
「白冠がレイの声で助けてと言えば、私は止まるかもしれません」
「かもしれない、じゃない顔だな」
「止まります」
正直だ。
「なら今から手順を決める。白冠が俺の形を取った時、お前一人で真偽を判定しない。手袋の死痕、俺の合言葉、ニナの診察、三つで照合」
「合言葉は」
「今決めると冊子に拾われる」
ニナが小さな紙へ書き、薬瓶の蝋で封じた。俺も内容を見ない。白冠出現時、質問だけ俺へ渡す。
俺自身も知らない答えなら、過去の俺を集めた白冠は真似できない。
「複写できる?」
ニナが薬紙を冊子へ重ねる。
文字が転写される。
一頁。
二頁。
三頁目で紙が白く燃えた。
「外へ出させない封印」
エドガーが鐘模型を調べる。
「原本を外せば、庫ごと白化する」
「なら、ここから公開する」
ミレーユが杖を上げる。
「大聖堂の礼拝鐘へ接続します。王都全体に記録を読み上げる」
「待て」
彼女が止まる。
「個人の病歴、犯罪被害、死に方まで全部流すな。公開範囲を分ける」
エレナの記録で決めたばかりだ。
被害を証明するためでも、他人の人生を勝手に晒さない。
大司教の署名、実験目的、集計、制度。個人名は本人か遺族の同意があるもの。白化して確認できない者は仮番号と生活痕。
四人で頁を選ぶ。
時間がかかる。
白冠の鐘が一つずつ鳴り始めた。
七百二。
黒い鐘が増える。
「還暁してないぞ」
「大司教が、捨てた時間から回数を模倣しています」
エドガーが叫ぶ。
七百三。
七百四。
残数が減っていく。
白冠計画は、もう始動している。
「全部選ぶ時間はない」
ニナが言う。
「制度の頁だけ先に送る。個人記録は封印を維持」
俺が決める。
ミレーユが礼拝鐘へ接続する。青い光が天井へ走る。
王都中の鐘から、大司教の署名と百十二回の集計が流れた。
最初の反応は、怒号ではなかった。
沈黙。
市場の呼び声が止まり、工房の槌が止まり、礼拝の祈りが止まる。庫の聴音窓から王都の音が消える。
次に、一人の女が叫んだ。
《飢饉で助かったのは事実だ!》
別の声。
《うちの父は橋で死んだ記憶がない!》
《聖女様を責めるな!》
《大司教を出せ!》
《嘘だ!》
意見は割れる。
当然だ。
捨てた時間の痛みを覚えていない人へ、今ある平和は偽物だと言っても、生活は消えない。家族が生き、店が開き、今日の食事がある。
「放送を止めますか」
ミレーユが訊く。
「続ける。混乱したから隠すなら、今までと同じだ」
ただし、煽る言葉は足さない。百十二回の記録と現在の白冠進行だけを読む。
判断は街へ返す。
《錨殺害。本人同意なし。結果選別および白冠蓄積を目的》
グレゴールの声が、その上へ重なる。
《それでも君たちは、選ばれた平和の中にいる》
王都の人々が聞いている。
答えは今すぐ出ない。
怒る者も、感謝する者も、信じない者もいる。
それでいい。
一人の聖女と一人の大司教だけで、結果の意味を決めるよりいい。
鐘模型は七百十で止まった。
九回。
還暁なしで、白冠が九回分進んだ。
残り二百九十。
冊子の最終頁に、新しい文字が浮く。
《次の実験。聖女が一日を終わらせない場合、白冠は都市全体を器にする》
初夏月三十一日。
永昼。
大司教は、ミレーユが選ぶ未来まで実験に入れている。
白い扉が開く。
罠の解除ではない。庫が俺たちを吐き出そうとしている。棚の端から白化が始まり、個人記録の文字が薄れる。
「原本を置けば止まる」
エドガーが言う。
「持ち出せないんじゃなかったのか」
「庫ごと白化する。だが置けば、また大司教が使う」
選ぶ時間は短い。
原本を持てば、未公開の個人記録が消えるかもしれない。置けば白冠計画の核を残す。
「記録核だけ外す。冊子の個人頁は棚へ戻す」
冊子の背を調べる。中央に黒い針。大司教の署名と計画式が集まっている。
俺は触れない。ニナの鉗子で抜く。ミレーユの防壁へ包み、エドガーの鐘箱へ入れる。
冊子本体は棚へ戻す。
白化が止まった。
完全勝利ではない。
人々の記録は敵の庫に残る。計画核だけ持ち出した。戻って公開範囲を決め、本人へ返す手順を作る必要がある。
扉の外へ四人で出る。
誰も欠けていない。
俺の親指から出た血はもう止まっていた。ニナが包帯を巻く。ミレーユは横で見ているだけだ。
「治癒しないのか」
「ニナさんの処置で足ります」
奇跡で一瞬に消さなくても、傷は治る。
その時間を待つ選択が、白冠庫の外には残っていた。
待つ間も、記録核は四人の視界から外さなかった。
次の一人だけが結果を決めないよう、持つ手も順番に替えた。
最後まで。
誰も一人にしない。