俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
白冠庫から出た時、王都の西区が半分消えていた。
建物が崩れたわけではない。
白い。
窓も壁も人も形はある。色と名前と音だけが抜けている。
通りのパン屋へ入る。店主が立っている。口を動かしているのに声が出ない。棚のパンは温かい。値札だけ空白。
「名前を」
俺が店主へ訊く。
男は答えようとする。
声がない。
紙と炭を渡す。
書いた文字が白く消える。
「生活痕を取る」
ニナが店の物を調べる。左手の火傷。結婚指輪。腰の鍵。帳場の下に子供の絵。
絵には《とうさん》とある。名前はない。
店主を番号にしたくない。
でも今は名を取れない。
《西区パン屋。左手火傷。銀指輪。子供の絵。生存》
特徴を三人で書く。
紙から消えない。
名が白くても、生活はまだ残る。
通りへ出る。
白化は鐘職人通りへ伸びている。
ニナが走る。
「四号室!」
止めない。
俺とミレーユが追う。エドガーは記録核をオスカーへ運ぶ。
青煉瓦の共同住宅。
四号室の扉はある。
青い色が薄い。
中へ入る。
空の皿。
写真の余白。
組合章。
全部ある。
ニナの椅子だけ、輪郭が透けていた。
「私が白化してる?」
自分の腕を見る。色はある。声も出る。
だが、壁の名札へ彼女が《ニナ》と書くと、最初の一画から消えた。
ユアンの縁にいた人間へ広がっている。
「塔へ戻る」
ミレーユが言う。
「理由」
「白冠がレイの関係者から器を広げています。ニナさんも、オスカー院長も、このままでは」
「塔へ戻って何をする」
答えがない。
ある。
言いたくないだけだ。
「戻すのか」
ニナがミレーユを見る。
「還暁すれば、白化が始まる前へ戻ります」
「兄は?」
「今より前の状態です」
空の皿だけ残る状態。
「私は白化しない。でも兄は戻らない」
「はい」
「それで、また誰かが消える」
「可能性があります」
還暁は目の前の被害を戻す。
同時に、新しい捨てた時間を白冠へ足す。
戻せば助かる。
戻すほど消える。
グレゴールが作った選択肢だ。
「俺が死ななければ、還暁できない」
「白冠が九回分を模倣しました。錨の死亡なしで起動する可能性があります」
「お前が鐘を鳴らさなければ」
「自動化が進んでいます」
ミレーユの顔が白い。
「だから永昼?」
彼女は答えない。
一日を終わらせなければ、還暁も次の白化も起きない。初夏月二日へ王都を固定する。
老いた骨の未来。
大司教の次の実験。
「それも駄目」
ニナが言う。
「兄を戻せなくても、私が消えても、同じ日に閉じ込められたくない」
「消えれば選ぶこともできません」
「だからって、消える前の私の選択を無視しないで」
ミレーユが黙る。
俺は契約書を出す。
永昼検討時、開示する。
彼女は開示した。
次は共同で代替策を探す。
「白化の速度」
「この区画は一時間で完全に無名化。王都全体は推定二日」
「白冠起動は」
「九回模倣の速度が続けば、三日以内」
二日。
猶予は二日しかない。
「選択肢を全部書く」
四号室の卓へ紙を広げる。
一、還暁。
利点、現在の白化を戻す。
欠点、俺の死または自動起動。新しい白化。大司教だけが記憶を持ち越す可能性。
二、永昼。
利点、白化と白冠起動を停止。俺を含む現在の人々を固定。
欠点、明日が来ない。自由な変化を奪う。老いた骨の未来。都市全体が白冠の器になる。
三、何もしない。
利点、選択を奪わない。
欠点、二日で王都白化。
四、白冠を二日以内に破壊。
利点、還暁も永昼も不要。
欠点、方法不明。大司教逃亡。錨切断は未試験。
五、王都から避難。
書き足す。
利点、白冠の都市器から住民を離せる可能性。
欠点、白化が人に付随するなら拡大。二日で数十万人を移動できない。門と街道に過去事故。
「試す」
ニナが自分を指す。
「私が東門の外へ出る。椅子の白化が止まるか見る」
「危険です」
「具体的に」
「王都結界を出た瞬間、白化した縁が切れて全身が消える可能性」
「戻れる綱をつける」
「身体が消えれば綱だけ戻ります」
「薬師の人形で先に試す」
ニナが鞄から毛髪を入れた診察人形を出す。患者の離れた場所で脈を測る道具だ。彼女の生活残響を少し持つ。
三人で東門へ行く。
門の内側では人が押し合っていた。白化から逃げようとする者、家族を待つ者、外へ出れば悪化すると叫ぶ騎士。
「実験をする。人はまだ出すな」
診察人形へ鐘索を結び、門外へ投げる。
一歩。
変化なし。
十歩。
人形の顔が白くなる。
百歩。
鐘索まで透明になった。
引き戻す。
門内へ入ると色が半分戻る。完全ではない。
「白冠の範囲は王都の壁より広い」
ニナが人形の目を調べる。
「離れるほど進む。でも戻っても全部は治らない」
避難は一律の答えにならない。
それでも、まだ白化していない者なら出られる可能性がある。門を閉じるのではなく、検査所を作る。本人へ危険を説明し、出るか残るか選ばせる。
ミレーユは反対した。
「外で発症すれば治療できません」
「ここでも治せない」
「記録はできます」
「記録されるために残る義務はない」
ニナが言う。
門前の人々へ、実験結果を見せる。
半分が残った。
半分が外へ出た。
家族で意見が割れ、泣く人もいる。どちらかを正解にはできない。
六、白化した縁を切る。
大司教はレイの関係者から器を広げている。なら、俺との関係記録を消せば止まる可能性。
「却下」
ミレーユが即答する。
「まだ書いただけだ」
「レイを全員の記憶から消す案です」
「俺の名を伏せた記録で試す。関係を消すんじゃない」
葬院の死亡簿から、俺の名を一枚だけ封印する。ニナとの幼少記録は残す。ミレーユの追跡聖刻を十分だけ外す。
白化速度を測る。
変わらない。
むしろ、名を隠した死亡簿の周囲が白くなった。
記録を消すほど白冠へ近づく。
六は却下。
七、名前と生活痕を増やす。
白化と逆の行動。王都中で互いの名、仕事、選択を記録する。
「治療になる保証は」
「ない。でもパン屋の生活痕は消えなかった」
鐘放送で方法を伝える。
名前だけでなく、今日選んだこと。好きな味。嫌いな花。明日する予定。
街の壁が文字で埋まる。
《サラ。靴職人。辛い豆が好き。明日、娘の靴を直す》
《名前を言えない。左手で字を書く。犬が二匹いる》
《ハロルド。還暁を望む。妻は望まない。それでも同じ家へ帰る》
白化は止まらない。
だが速度がわずかに落ちる。
一時間で一区画だったものが、一時間十五分。
記録は完全な治療ではない。
十五分を作る。
「七は全案と並行する」
俺が書く。
選択肢は四つではなく七つになった。どれも完全ではない。組み合わせれば時間が増えるものもある。
「四を選ぶ」
俺が言う。
「成功率は」
「分からない」
ミレーユの指が一と二の間を動く。
「失敗すれば、全員が消えます」
「成功率が分からないから、選べない?」
「過去に成功例がありません」
「過去にやった?」
「第五百十二回。失敗しました」
「あれは二人でやった。今は違う」
ニナ。オスカー。エドガー。アデル。市議会。放送を聞いた王都の人々。
人数が増えたから成功するとは限らない。
でも、失敗の意味を一人で決めない。
「私は一を選びます」
ミレーユが言う。
「反対」
「レイが死なずに自動起動させる方法を探します」
「それで戻った俺は、今日の契約もユアンも忘れる。お前だけが、また全部持つ」
「記録を死痕へ残します」
「白冠がそれを待ってる」
「では二」
「反対」
「あなたは死にません」
「生きるだけが条件じゃない」
声が大きくなる。
ミレーユも立ち上がる。
「死ねば選択もありません!」
「生きてても同じ日しか選べないなら、選択じゃない!」
ニナが卓を叩いた。
「二人とも座って!」
反射的に座る。
薬師見習いに怒鳴られて、聖女と錨が従う。
少し冷静になる。
ニナは自分の椅子を見る。輪郭がさっきより薄い。
「私の時間を使って喧嘩しないで。二日しかないなら、私も決める」
「何を」
「四。白冠を壊す。失敗した時の次善策は、王都の人へ聞く」
「時間がありません」
ミレーユ。
「だから今すぐ鐘で放送する。還暁、永昼、白化。全部説明して、市議会と各区から代表を出す」
「混乱します」
「もう混乱してる」
窓の外で人々が名前を呼び合っている。消える前に紙へ書き、腕へ書き、壁へ刻む。
王都はすでに選択の中にいる。
塔へ戻る途中、白化した人々を記録する。
名前が言える者は名前。
言えない者は生活痕。
ミレーユは治癒を使わない。白化は傷ではない。代わりに声を聞き、紙へ書く。
一人の老婆が彼女の袖を掴んだ。
「戻してください」
隣の青年が言う。
「戻すな。妻が妊娠したのは今朝だ。戻ったら、また同じ子になる保証はない」
別の男。
「日を止めてくれ。娘の名が消える」
女。
「止めないで。娘は明日、王都を出る予定だった」
答えは割れる。
全員が同じ正解を望んでいない。
ミレーユの足が遅くなる。
「七百回、私は一つを選びました」
「知ってる」
「今も、誰かを見捨てなければ選べません」
「だから一人で選ぶな」
「選ばなければ、時間が過ぎます」
「選ばないことと、決めるまで何もしないことは違う。今は記録して、白冠を調べて、避難させる」
行動を出す。
悩むだけでは二日が減る。
白塔へ戻ると、オスカーとエドガーが待っていた。
市議会の代表も七人。
放送を聞いた騎士と工房長と施療院長。
食堂に入りきらない。
議論の最初、市議会長は還暁を求めた。
「二日前へ戻れば、今日の白化は消える。大司教を先に拘束すればよい」
「大司教は記憶を持つ可能性があります」
ミレーユが答える。
「聖女様も持つ」
「私と彼だけが持つ戦いになります。レイ、ニナさん、皆さんは今日の決議を忘れます」
「記録を残せば」
「死痕を白冠が取り込みます」
工房長は永昼を求めた。
「一日だけ止め、全員を避難させる」
「止めた中で人々が自由に動ける保証はない」
老いた俺の骨が見た未来を説明する。繰り返す動作。俺だけが歳を取る日。都市全体が器になる記録。
施療院長は破壊を求める。
「錨を外せばいい」
「外す途中で心停止する可能性があります」
ニナが言う。
「蘇生は?」
「八分前後。成功保証なし。還暁を使わないなら、普通の医療で戻す必要がある」
全員がミレーユを見る。
聖女の奇跡を期待する視線。
彼女は答える。
「錨を切る処置では、私の治癒が還暁を起動する危険があります。私以外の医療者へ預ける必要があります」
自分が最適ではないと公の場で認めた。
ニナの顔が硬くなる。
その役目が自分へ来ると分かったから。
「準備します」
逃げずに答えた。
意見は三時間まとまらなかった。
怒号。投票。再説明。白化の速報。
時間だけが減る。
それでも、ミレーユ一人が三秒で決めるより長くていい。
扉を開け、廊下まで使う。
監禁の塔が、会議の場所になった。
俺は四つの選択肢を読む。
意見が飛ぶ。
還暁。
永昼。
破壊。
避難。
白化した家族を先に保護。
王都の外へ出れば逃げられるか。
記録核を別の街へ運ぶか。
ミレーユは中央で聞いている。
反論せず、数字を出す。
白化速度。避難可能人数。結界範囲。治癒資源。
一時間後、暫定決議ができた。
二十四時間、還暁しない。
二十四時間、永昼を起動しない。
その間に白冠破壊と避難を同時実行。
二十四時間後、全代表で再判断。
「署名を」
市議会長が言う。
全員が署名する。
最後にミレーユ。
彼女は紙を長く見た。
「これを守れば、レイが死ぬ可能性があります」
「ある」
「ニナさんが消える可能性も」
「ある」
「私が戻せば助かるかもしれません」
「それでも今は戻さない」
俺だけの言葉ではない。
廊下の人々が待っている。
ミレーユが署名した。
「二十四時間、戻しません」
次の一文で、手が止まる。
永昼を起動しない。
彼女は窓の外を見る。
太陽は傾いている。
今日が終わろうとしている。
「ミレーユ」
呼ぶ。
彼女は俺ではなく、署名した全員を見る。
「二十四時間、今日を終わらせません」
違う。
紙と逆だ。
「何を――」
杖が床へ触れる。
青い光が塔から王都へ広がった。
太陽が止まる。
影が止まる。
鐘の針が、夕方六時を指したまま動かない。
廊下の人々は動いている。
老いた骨の未来と完全には同じではない。今はまだ、誰も同じ動作を繰り返していない。窓の外で鳥が羽ばたき、途中で止まらず屋根へ降りる。
「局所永昼」
エドガーが杖の光を見る。
「人の時は流し、空と日付だけを固定した」
「何が違う」
「腹は減る。傷も進む。人は歳を取る。だが夜と翌日が来ない」
一日という器の中で、人間だけが先へ進む。
食料は減る。眠ることはできても、目覚める日付は同じ。二十四時間後に結界を解かなければ、王都は暦から外れる。
市議会長が署名書を持ち上げる。
「今、永昼を起動しないと決めた!」
「はい」
ミレーユは否定しない。
「違反記録を」
俺が言う。
声が震えた。
怒りだけではない。分かっていた。彼女は俺やニナが消える時、署名より脈を選ぶ。第512回を聞いた今日でも。
だからこそ、守ると期待した自分にも腹が立つ。
「目的、範囲、解除条件。全部、自分で書け」
ミレーユは杖を床へ置いたまま、空いた手で紙を取る。
《違反。全代表の同意なく王都へ局所永昼。目的、白化猶予二十四時間。解除条件、白冠破壊または二十四時間経過。責任者、ミレーユ・アルノー》
署名する。
違反を記録しても、結界は消えない。
紙は魔法の鍵ではない。
それでも彼女が《救命》とだけ書かなかったことを、今は同じ紙へ残す。
ミレーユは還暁を選ばなかった。
明日も選ばなかった。
「一日だけです」
彼女の声は静かだった。
「二十四時間だけ、終わらない今日を作ります。その間に白冠を壊してください」
永昼は起動しないと署名した直後に。
また、約束を破った。
今度は、二十八万人が見ていた。