俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
青い紐は、俺がミレーユを縛った物だった。
比喩ではない。
十二歳の俺が、彼女の手首と自分の手首を結んだ。
「崖から落ちた時、離れないように」
残響の中で、少年の俺が言う。
場所は東鐘修道院の裏山。
鐘楼の夜より三日前。
青血糸の第一結び目から漏れた前段の記憶を、遺品保管庫から持ち出した青い紐が拾った。
俺とミレーユは墓所で全員へ残響を映す。直接触れるのは俺。ミレーユ、ニナ、オスカー、エドガーは鐘鏡越し。
永昼の拍動ごとに、場面が十五秒で途切れる。
そのたび現在へ戻り、全員の記録を合わせ、次へ入る。
過去を一気に飲まない。
十五秒ずつ読む。
少年の俺は西の葬院へ引き取られる前、修道院の裏山で薬草を集めていた。ニナは熱を出し、寝ている。ミレーユは一人で鐘草を探していた。
「聖女の試験に要る」
「なりたいのか」
「ならないと、ここに置いてもらえない」
「なったら大聖堂へ行く」
「行かない」
「どうする」
「試験には受かる。迎えが来たら逃げる」
矛盾している。
子供の選択だ。
力がなければ居場所を失う。力を示せば別の場所へ連れていかれる。
どちらも嫌で、両方を満たす道を探す。
俺たちは崖の鐘草を見つけた。
青い花。岩の隙間。
ミレーユが身を乗り出す。
岩が崩れる。
俺が腕を掴む。
二人とも斜面へ落ちる。
途中の木へ引っかかった。
下は深い谷。
俺は腰の荷紐を外し、二人の手首を結ぶ。
青い染料。荷物を見分けるため、ニナが染めた紐。
「痛い」
少女のミレーユが言う。
「緩めたら落ちる」
「レイも痛い?」
「痛い」
「なら同じ」
嬉しそうに言う。
危うい。
痛みが同じなら、繋がっている証拠だと思っている。
現在のミレーユを見る。
彼女は鐘鏡の向こうで、自分の手首を押さえている。
「覚えてる?」
「今、見た分だけ」
「痛いのが同じなら嬉しい?」
「当時は」
「今は」
「レイが私と同じ痛みを持つことを望みません」
「俺だけ痛いのは」
「もっと嫌です」
「自分だけなら?」
「隠したいです」
変わりきってはいない。
痛みを分ける代わりに、自分へ集める。
それも相手の選択を奪う場合がある。
「隠す前に言え」
「はい」
残響へ戻る。
木の枝は細い。
二人分を支えられない。
少年の俺は上へ登ろうとする。少女を先に押す。青い紐が食い込む。
「先に行け」
「一緒」
「枝が折れる」
「一緒に落ちる」
「落ちるな!」
少年が怒鳴る。
少女は固まる。
「一緒に死ぬのは、助けるって言わない」
最初の俺も同じことを言った。
「上へ行け。俺は後から行く」
「約束?」
「約束」
少女が登る。
少年が押す。
上へ届く。
その瞬間、枝が折れた。
少年の身体が落ちる。
青い紐が手首を引く。
少女が両手で地面へしがみつく。
一人では支えられない。
修道女アデルが来る。
二人を引き上げる。
助かった。
この日は、死ななかった。
引き上げられた後、アデルは二人を叱った。
「鐘草一株のために命を二つ落とす気かい」
少年の俺は、ミレーユが崖へ出たから、と言い訳する。
少女は、レイが押したから、と言う。
互いを庇っているつもりで、相手の責任を増やしている。
アデルは青い紐をほどいた。
二人の手首に同じ赤い跡。
「同じ傷なら仲良しに見えるかい?」
少女が頷く。
「傷がなくても友達だ。痛みを証拠にするんじゃない」
今の俺は、その言葉を覚えていなかった。
ミレーユも。
紐だけが残していた。
「アデルへ、この残響を見せる」
俺は言う。
「永昼解除後に」
「はい」
「本人の言葉か確認する」
生活残響は断片だ。俺たちが今欲しい教訓に合わせ、アデルの台詞を整えた可能性もある。現物の証人がいるなら照合する。
いい言葉ほど、疑う。
信じたくなるから。
残響の中で、アデルは薬を塗る。
少年は痛いと言う。
少女は言わない。
「ミレイ、痛い時は?」
「平気」
「それは状態じゃない。痛いか、痛くないか」
「痛い」
「なら先にそう言いな」
十三歳より前から、彼女は痛みを隠した。
聖女になったからではない。
でも、聖女の役目はその癖を褒めた。痛くても治せる。疲れても祈れる。自分の傷より他人を先に。
やがて俺の傷だけを先に。
「今、手首は」
俺が訊く。
「青血糸を開いた影響で、三百十二番目から三百二十番目まで熱があります」
「なぜ先に言わない」
「処置が必要な痛みでは」
「必要かじゃない」
「痛いです」
言い直す。
ニナの赤札へ症状を書く。十五秒の彼女が読み、鐘鏡越しに診断する。
《術式熱。冷却。治癒不要》
ミレーユの手首へ冷たい布を巻く。
俺が触れていいか訊く。
彼女が頷く。
七百一の傷の上へ、青い跡を隠さず包帯を巻く。
痛みを共有するためではない。
彼女だけで処理しないためだ。
「最初の救助は、三人だった」
俺が記録する。
ミレーユでも俺でもない。アデルがいなければ二人とも落ちた。
青い紐は二人を繋いだが、救ったのは外から伸びた別の手だ。
「なぜ、この記憶が錨へ」
エドガーが紐を調べる。
「鐘楼の血の前に、二人は同じ形を作っていた。落ちる一人と、繋ぎ止める一人」
還暁の原型。
俺が死ぬ。
ミレーユが鐘で引く。
青い紐が手首へ食い込むように、彼女へ傷が残る。
「紐を切れば、俺だけ落ちる」
「はい」
「切らなければ、お前も引かれる」
「はい」
「第三の手が要る」
ニナ、オスカー、エドガー、市議会。今はいる。
錨を切る時、二人だけで支えない。
青い紐の構造を図にする。
片方が落ちる。
片方が引く。
第三者が地面へ固定する。
還暁では、俺が落ちる。ミレーユが鐘で引く。地面がない。だから彼女の手首と記憶が重さを全部受ける。
「墓銘板を地面にする」
俺は七百枚を見る。
「各死痕を対応する板へ戻す。青血糸を一本の索にして、ニナたちが現在側へ固定する」
「板が白冠へ落ちる可能性」
エドガー。
「生活記録を板の裏へ置く。死因だけじゃなく、その回の俺が生きたことを支柱にする」
問題は、七百一回分の生活記録がないこと。
ミレーユの記憶も死に偏っている。
オスカーの墓誌。手袋の残響。遺品。青い紐。豆の味。歌の題名。細部を集める。
「全部は無理です」
ミレーユが言う。
「全部じゃなくていい。一人につき死以外を一つ」
好いた俺。
嫌った俺。
彼女を知らなかった俺。
全員を同じ人格にはしない。
《第318回。ユアンへ手を伸ばした》
《第409回。修道院の子供を助けた》
《第512回。豆へ塩を入れすぎた》
《第701回。手袋へ隠すなと刻んだ》
死因の裏に、選択を一つ。
「これなら白冠が七百の俺を一人へまとめるのを止められる」
「人格器を作れない」
ミレーユが図を読む。
「はい。レイは同じではないから」
彼女自身が言った。
胸の中で何かがほどける。
過去の俺を同じ相手として扱ってきた女が、七百の違いを術式へ使う。
「記録作業に何時間」
「現在ある資料で八時間。永昼解除まで」
「間に合う」
白冠起動まで二日。
まず永昼を十二時間で解除する。その後、二日で錨を切る。
手順が見えた。
成功保証ではない。
それでも、青い紐は心中の証拠ではなく、第三の手を呼ぶ設計図になった。
残響の次。
鐘楼の夜。
青血糸で見た場面の続き――ではなく、初めて見る角度だ。
今度は少女ミレーユの目ではない。
青い紐そのものに残った感触。
二人の血が鐘欠片へ入る。
床が崩れる。
少年が少女を突き飛ばし、鐘楼の縁から落ちる。
青い紐は二人の手首にない。
少女の腰袋に入っている。
繋げない。
手を伸ばす。
届かない。
少年は地面へ落ちる。
一回目の死。
少女が階段を駆け下りる。
血。曲がった脚。呼吸なし。
「レイ」
返事はない。
「約束した」
後から行く、と約束した。
今度会ったら一緒に逃げる、と約束した。
少女は青い紐で二人の手首を結ぶ。
死者と生者。
「次は離れない」
先代聖女が止める。
「鐘を鳴らせば、何を失うか分からない」
「レイは戻る?」
「戻る可能性はある」
「なら鳴らす」
「世界全体が」
「レイは戻る?」
同じ問い。
世界の説明を聞かない。
十二歳の少女に、世界と一人を比べろと言っても無理だ。
先代聖女は鐘索を隠す。
ミレーユは自分の手首を切る。
血で鐘を鳴らす。
「もう一度、会いたい」
最初の還暁。
世界が戻る。
少女は鐘楼で目を開ける。
床が崩れる前。
少年の俺がいる。
生きている。
ミレーユは抱きつく。
少年は何が起きたか知らない。
「痛い」
「生きてる」
「どうした」
「なんでもない」
最初の嘘。
少女は生き返った少年を離さない。
先代聖女が二人を引き離す。
「戻った時間では、この子は死んでいない。あなたが見た死は夢です」
「夢じゃない」
「誰にも言ってはいけません。鐘の力を知れば、王も教会も使います」
「レイには」
「言えば、この子も狙われます」
少女は少年を見る。
何が起きたか知らず、心配そうにしている。
「なんでもない」
もう一度、嘘を選ぶ。
大切な相手を守るため、情報を隠す。
先代聖女が教えた。
グレゴール以前から、教会は秘密と保護を同じ箱へ入れていた。
「先代の名は」
エドガーが答える。
「マティルダ・ロウ。当時五十二歳。七年後に死亡」
「還暁は何回」
「記録上四十九。実数は不明」
ミレーユ以前にも、捨てた時間がある。
白冠の千回は彼女の七百一だけではない。先代四十九、その前。総数なら、もう千を超えている可能性がある。
「なぜ残数が二百九十あった」
「白冠は現錨へ結び直してから数えた。先代分は土台だ」
エドガーの顔が苦い。
大司教の二日という期限は、急に作った偽表示ではない。土台が満ち、現錨の人格器が完成に近づいた結果。
「マティルダは、俺の最初の死を覚えてた?」
「聖女が鳴らしたのではなく、ミレーユが血で鳴らした。記憶保持は起動者へ移った。先代は戻った事実だけを術式反動で知ったはずだ」
「だから秘密にした」
「そして大司教へ報告した」
保護と管理。
彼女もミレーユを守るつもりだったのかもしれない。結果として、グレゴールへ錨を渡した。
「マティルダの記録も探す」
「責めるため?」
ミレーユが訊く。
「何を知り、誰へ渡し、何を選んだか分けるため」
死者を善意か悪意の一行にしない。
俺の仕事だ。
また会いたい、から世界を戻した。
愛という言葉より前。
監禁より前。
一人で死を覚え、一人で生き返った相手を見る朝。
その朝、少女は少年の手首へ青い紐を結び直す。
少年が嫌がる。
「もう崖じゃない」
「なくすから」
「何を」
「紐を」
死の記憶とは言えない。
少女は紐を理由に、少年と繋がる。
少年は一時間だけ許し、作業の邪魔だと外す。
少女は不満そうでも、外した。
最初の朝には、終わりと言われて終われていた。
いつから終われなくなったのか。
一回ではない。
また死ぬ。戻す。隠す。対策する。次はもっと強く繋ぐ。
七百回の中で少しずつ。
「最初のミレーユへ戻る必要はない」
俺は言う。
「はい」
「でも、外せた事実は使える」
「今も、終了と言われれば外します」
抱擁の記録。
「鍵も?」
彼女は答えない。
まだそこだけ外せない。
「二日」
急かすためではない。
期限を確認する。
ミレーユが頷く。
「二日で選びます」
返す、とはまだ言わない。
それでも、選ばないまま持ち続けるとは言わなくなった。
「お前は、最初から説明しなかった」
現在へ戻り、俺は言う。
「はい」
「俺が怖がるから?」
「嫌われると思いました」
「十二歳なら、そうかもな」
責めない、ではない。
子供の選択として理解する。
その後七百回、同じ隠し方を続けた責任は別だ。
「最初の還暁を、今の罪の免責にはしない」
「はい」
「でも、最初のお前へ今の基準で全部背負わせもしない」
ミレーユが青い紐を見る。
「この紐を返してもらえますか」
遺品保管庫から俺が持っていた。
「なぜ」
「持っていたいです」
「危険と関係なく?」
「はい」
彼女自身の記憶の品。
渡そうとして、止める。
「共有保管。二人の物だった」
「では、白塔の食堂へ」
「鍵のかからない額に入れる」
「はい」
青い紐を透明な額へ入れる。
手首を縛らない。
壁へ飾る。
最初の約束は、一緒に死ぬことではなかった。
先に登った一人を、後から追うこと。
第三の手に助けを求めること。
「次は一人で引くな」
俺が言う。
「はい」
「俺も、一人で落ちない」
青い紐の下へ、五本の封印鍵を並べた。
作業を始める。
十五秒のニナへ一枚ずつ墓銘板を見せ、医療記録から死以外の事実を取る。オスカーは墓誌暗号。エドガーは還暁時刻。俺は残響。ミレーユは自分の記憶。
第百回まで進んだ時、彼女の字が止まった。
「何も思い出せません」
「遺品は」
「割れた匙だけ」
触れる。
残響。
俺が匙を曲げ、食堂の子供へ見せて笑わせている。
《第百回。曲げた匙で子供を笑わせた》
書く。
死因より小さい。
だからいい。
二百。三百。四百。
作業は遅い。
壁の残り時間が減る。
それでも一枚ごとに、墓銘板が少し軽くなる。
七百枚目まで、死だけではない俺を戻す。
最初の青い紐は、額の中で揺れなかった。
もう誰の手首も縛っていない。
「作業が終わったら、この額はどこへ置く?」
俺が訊く。
「食堂」
ミレーユが答える。
「二人の家だから?」
「はい。ただし、レイが塔を出た後も置くかは、二人で決めます」
少し先を言えるようになった。
俺が戻ると決めつけず、戻らない場合に捨てるとも言わない。
「俺が持って出るかもしれない」
「その時は、額の所有を相談します」
「半分に切る?」
「紐を切らないでください」
反応が速い。
「冗談だ」
「レイは証拠を分割します」
「これは分けない。共有保管」
額の裏へ二人で署名する。
所有者ではなく、保管者として。
青い紐を、再会の義務にも別れの脅しにも使わない。
今は同じ壁へ置く。
外す時も、二人で決められる壁へ。
結び目のない形で。
今ここに。