俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
自分の遺品を拾う経験は、葬院の仕事にも含まれていない。
死人が自分で歩いてくれれば、人手は減る。身元確認も早い。だが本人の精神状態まで労働規約へ入れる必要が出るから、院長は嫌がるだろう。
俺も、できれば遠慮したかった。
白塔へ来て二日目の朝。
目の前の机には、黒革の手袋が六つ並んでいた。
「私物を返せと言ったはずです」
「はい」
「手は左右で二本しかない」
「右手用です」
「見れば分かります」
全部、俺の右手用だった。
親指の縫い目が二重の物。手首の留め紐を短く切った物。薬品で人差し指だけ白く抜けた物。掌に細い裂け目のある物。見覚えがあるのは、昨日から着けている一つだけだ。
残り五つは新品ではない。
使い込まれ、俺の手の形へ曲がっている。
「どれが俺の私物です?」
「すべて」
「俺の箪笥には、予備を含めて二つしかなかった」
ミレーユは立ったまま、手袋を見ない。俺の右手を見ている。
昨日、自分の遺した警告を見つけてから、この視線が気になり始めた。裸の手だけではない。俺が何かへ触れるたび、彼女の呼吸が浅くなる。
残響術を警戒している。
なら、この五つには読まれたくないものが残っている。
「古い物は処分したと思っていました」
「誰が?」
「私が」
「処分する前は、どこにあった」
「答えられません」
二日目になって、返事の種類が分かってきた。
知らない時、彼女は質問の意味を確かめる。言いたくない時は別の説明を探す。答えれば俺が危険へ近づく時だけ、はっきり答えられないと言う。
少なくとも本人は、沈黙を保護だと考えている。
その分類が正しいなら、古い手袋は危険に近い。
「一つ選んでいいですか」
「昨日お渡しした物を使ってください」
「洗い替えが要る」
「毎日、私が洗います」
「結婚生活の誘いにしては、手袋の数が不吉ですね」
ミレーユは頬を染めなかった。
冗談を聞き流したのでもない。言葉の意味を一度胸へ入れ、痛い箇所がないか確かめてから返すような間があった。
「結婚すれば、外へ出ないでいただけますか」
今度は俺が黙った。
「……冗談です」
「遅い。いまの間はかなり遅い」
「では、忘れてください」
「俺の記憶は、頼まれて消せるほど便利じゃない」
彼女の左手が、また袖口へ隠れた。
昨日の紙片は、寝台の底へ隠してある。手袋の内側では、着脱のたび落とす危険があった。文は一行。《彼女の優しさを信用するな》。筆跡は俺。
それでも、目の前の彼女が俺を傷つけたいようには見えない。
それが警告の意味なのだろう。害意が見える相手なら、わざわざ優しさを疑えとは書かない。
「今日も朝食を食べてください」
ミレーユは手袋を一つだけ残し、五つを重ねた。
「待ってください」
俺が掌の裂けた物へ手を伸ばすと、彼女は初めて強く引いた。重ねた革が机の縁から落ちる。
一つが床を滑り、俺の靴先へ来た。
黒革ではない。白い布袋だ。
手袋の間に挟まっていたらしい。小さく、口を青い紐で結ばれている。
「触らないで」
声が変わった。
昨日までの柔らかさが消えたわけじゃない。柔らかくする余裕がなくなった。俺は屈むのを止めた。彼女も動かない。
袋まで半歩。
ミレーユは机の向こう。彼女が先に取れる。なのに手を伸ばさないのは、俺が急に掴むと思っているからだろう。
「中身は?」
「不要な物です」
「質問への答えになっていない」
「あなたの歯です」
思わず舌で奥歯をなぞった。
全部ある。右の奥から二本目に詰め物。左は健康。前歯も欠けていない。
「俺は生え替わりの歯を保存する趣味がない」
「知っています」
「では、どの歯です?」
「右の犬歯」
舌で触る。ある。
「抜いた時期は」
「答えられません」
また、危険の箱だ。
俺は足先で袋を押さえた。ミレーユの目が俺の靴へ落ちる。
「残響を読むつもりですか」
「死者の物なら」
「死者の物です」
認めた。
「誰の?」
答えは来ない。
来ないことが、答えになった。
俺は生きている。歯もある。だが袋の中身は、死んだ俺の物だと彼女は知っている。
時間を戻した仮説が、机の上まで降りてきた。
「見せてください」
「嫌です」
初めての、個人的な拒絶だった。
危険だから駄目でも、話せないでもない。嫌だ、と彼女自身の感情で止める。
「俺の物なんでしょう」
「だからです」
「意味が分からない」
「分からなくていいんです」
彼女は机を回り、袋へ手を伸ばした。
俺も動く。
足で袋を後ろへ蹴り、寝台の下へ滑らせた。聖女相手に力で勝てるとは思わない。必要なのは、彼女の目を一度そちらへ向けることだった。
落ちた手袋を拾う。
掌に裂け目のある一つ。
黒革手袋を着けた右手で触れても、残響は薄い。布や革は石や金属より記憶を留めにくい。それでも死者が最期まで身につけた物なら、何かは残る。
右手が冷えた。
来る。
「レイ!」
ミレーユの声が遠くなる。
最初に入ってきたのは、石の冷たさだった。
背中。肩。後頭部。
身体が濡れた床へ横たわっている。血か水かは分からない。目を開けても、景色の縁が暗い。
これは俺の知覚じゃない。
死者の最期だ。
白い衣が見える。誰かが胸を押している。
一、二、三。
数える声が震える。治癒の光が皮膚を焼く。息をしろ、と言われる。俺は応じたいのに、胸が動かない。
ミレーユ。
彼女の顔が近い。
いま目の前にいる彼女より、少し髪が短い。頬に返り血。青白い瞳だけが、同じ色をしている。
――お願い。もう一度だけ。
誰に頼んでいる?
俺じゃない。俺は答えられない。
遠くで鐘が鳴った。
朝の鐘より低い。耳で聞く音ではなく、骨の内側から全部を揺らす音。
景色が白く割れる。
俺は手袋を放した。
白塔の床へ膝をつく。息が浅い。胸に傷はない。それでも心臓が、止まっていた時間を思い出したように一拍抜けた。
ミレーユが俺の肩を掴んでいた。
「吐いて。見たものを、全部外へ出して」
「残響は食べ物じゃない」
「私を見てください。ここは白塔です。初夏月二日。あなたは生きています」
現在地、日付、状態。
残響から戻す手順として正しい。葬院の訓練と同じだ。
「何回、俺へこれをした?」
ミレーユの唇が止まった。
「胸を押して、治癒術を使って、それでも戻らなかった俺を何回見た」
「一度です」
嘘だ。
言葉より先に、俺を支える指へ力が入った。
「いま見た手袋は一つ。でも机には六つある」
「全部が死んだ時の物ではありません」
「では、生きている俺の歯は?」
返事はない。
残響の混乱が薄れ、代わりに腹の底が冷たくなる。
時間を戻す。
死んだ俺の物だけが、何らかの理由で残る。ミレーユだけが出来事を覚え、俺は同じ身体で何も知らずに始める。
まだ仮説だ。
だが、これ以上簡単に説明できるものがない。
「鐘が鳴った」
ミレーユの顔色が変わった。
「残響の最後に。あなたは俺へ蘇生術を使っていた。その後、鐘が鳴って全部が白くなった」
「それ以上、読まないでください」
「理由を話せば」
「話せません」
「なら読みます」
言い切ると、彼女の手が離れた。
自由にしたわけじゃない。次に俺がどの遺品へ触れるか見ている。
強く止めれば、俺がもっと危険な方法を選ぶと知っている顔だった。
彼女は床の布袋を拾った。青い紐を手首へ巻き、袋そのものは袖へ隠す。手袋五つも集め、胸へ抱える。
「保管庫へ戻します」
「保管庫があるんですね」
また言葉を滑らせた。
ミレーユは目を閉じた。自分を責めるように一度息を止め、吐く。
「見つけないでください」
「場所を聞いて、はいと言うと思います?」
「思いません」
その答えだけは速かった。
彼女は扉を開けた。俺が一歩近づくと、床に金色の線が走る。聖刻の壁。触れれば痛むと、右手の冷えが教えてくる。
ミレーユが廊下へ出る。
金の線が消える前に、俺は彼女の足音を数えた。
十歩。曲がらない。
十五歩で一度止まる。
金属の擦れる音。階段ではない。鍵だ。
二十二歩で扉が閉まった。
距離と方向を頭へ入れる。
白塔の北側、同じ階。俺が廊下へ出れば空間が折れるが、壁の中まで同じとは限らない。
寝台の下から、自筆の紙片を取り出した。
《彼女の優しさを信用するな》
続きが切られた下端を、光へ透かす。紙の繊維に、もう一行の上だけが残っていた。文字にはならない。だが右端に、葬院で使う保管庫の略号がある。
俺が書いたなら、警告だけで終えるとは思えない。
疑えと言うなら、何を確かめればいいかも残す。
本棚の背板をもう一度外した。
空洞の奥へ腕を入れる。昨日は紙が落ちたところで止めた。その先に冷たい金具がある。
引く。
壁の一部が、音もなく内側へ開いた。
人一人が横向きに通れる隙間。その先に細い保守通路が伸びている。床の埃には、白い靴の跡が一組。
ミレーユは、この通路を使って保管庫へ行った。
俺が見つける可能性も、知っていたはずだ。
ではなぜ紙を残し、金具を壊さなかった?
罠かもしれない。
過去の俺が用意した逃げ道かもしれない。
どちらでも、進まなければ記録は増えない。
通路へ入る。
十二歩で、外廊下と同じ方向。十五歩目、床が一段下がる。二十二歩目に扉。さっきの音と合う。
鍵穴は内側にもあった。
錠前を調べる。新しい。だが扉と枠の間に紙一枚の隙間がある。予定表を差し込んでも掛け金には届かない。
周囲を見る。
壁に清掃用の細い鉄棒が立ててある。先端を曲げ、隙間へ通す。手探りで掛け金を押す。
三度目で外れた。
扉の向こうは、窓のない小部屋だった。
棚が七段。
白い布袋、革手袋、衣服、割れた杯、曲がった匙、血の黒ずんだ包帯。すべて番号札をつけられ、同じ大きさの箱へ分けられている。
遺品保管庫。
ただし、名札は一つしかなかった。
《レイ・クロード》
棚の端から端まで、全部に俺の名が書かれている。
背後の扉が閉じた。
振り返る。
ミレーユはいない。風もない。錠前が勝手に戻っただけだ。
出る手段を先に確保する。
鉄棒を扉の下へ挟み、掛け金が完全には落ちないようにした。床の溝は浅い。強く押されれば外れるが、何もないよりはいい。
次に棚を数える。
七段、横に十二区画。八十四箱。机の下に大箱が三つ。全部が満杯ではない。箱の番号は一、四、九、十一と飛び、最大で六百九十八。抜けている数字のほうが多い。
六百九十八。
手首の内側へ数字を書きたいところだが、筆もない。忘れる数じゃないので、頭へ置く。
一番近い箱を開けた。
灰色の上着。俺が普段着ている物と同じ型だが、背中が縦に裂けている。布の端が硬い。乾いた血。番号札は四十一。
次は革帯。中央で切れ、金具が外側へ曲がっている。百七。
焦げた靴。二百二十六。
片方だけの袖。三百十三。
細かい穴が無数に開いた外套。四百九十。
事故の種類が違う。
同じ事件を何度もやり直したのではない。少なくとも、落下、火、刃物、何かの散弾。それぞれ別の死へ向かっている。
俺は箱を閉じた。
葬院では、遺品を死因の順に並べない。人間を死に方だけで整理すると、その前に生きていた時間が消えるからだ。財布、鍵、手紙、仕事道具。本人が何を持っていたかを先に記録し、血や破損は後から書く。
この部屋には日用品が少なすぎる。
死へ直接つながった物だけが残されている。
記念品ではない。
失敗の記録だ。
机の引き出しを開ける。帳面が一冊あった。表紙に題はない。最初の数頁は切り取られ、残った紙にも文字を削った跡がある。横から光を当てると、筆圧だけが浮かんだ。
《初夏月二十八日》
次の頁も同じ日付。
その次は二十七日。二十九日。三十日。一日。
年月がない。
一月の範囲だけが、何度も現れる。
偶然同じ月に死んだ者の遺品を集めた可能性はある。だが死者名は一人。年齢も体格も同じ。手袋の形まで俺の右手に合う。
俺は昨日、時間を戻すという大きすぎる仮説を保留した。
もう保留箱が壊れかけている。
布袋が並ぶ区画へ移る。
触れず、青い紐を鉄棒の先でほどいた。
歯が一つ。
右の犬歯。根元が斜めに割れている。俺の口には同じ歯がある。
隣の袋には、短く切った髪。灰茶色。
次は爪。次は血を吸った綿。小さな硝子片。焼けた皮膚らしい黒い欠片まである。
胃が縮んだ。
死体には慣れている。傷も骨も、仕事なら見られる。だが自分の一部が番号をつけられ、誰かの手で洗われ、乾かされ、袋へ戻されている光景は別だった。
これをしたのはミレーユだ。
治療のためか、記録のためか、捨てられなかっただけか。理由は断定できない。それでも彼女が一人で拾った場面は想像できる。想像したくないのに、手順まで分かってしまう。
血を拭き、死因に関係する物を分ける。次は防げるよう番号を振る。自分の失敗として棚へ置く。
彼女は俺を覚えている。
俺は、覚えられている回数すら知らない。
胸の奥に生まれたものを、同情とは呼ばない。恐怖だけでもない。名をつければ、その感情へ従う理由にしてしまいそうだった。
だから事実へ戻る。
最大番号六百九十八。手袋六つ。同じ一月の日付。死因の異なる俺の遺品。聖女だけが知る過去。
机の天板に、薄い引っかき傷があった。
六本ずつの縦線を横棒で束ねる、葬院の簡易計数。数えると二十三束。端に半端が四本。
百四十二。
何を数えた数字かは分からない。死亡回数かもしれないし、遺品箱の数かもしれない。最大番号とも合わない。
一つだけ確かなのは、数えた誰かが途中でやめなければならないほど多かったことだ。
暗くなる前に、机上の小箱へ手を伸ばす。
中には青い紐が入っていた。さっきの袋を結んでいたものとは別だ。古く、ところどころ色が抜けている。
右手の手袋を外す。
読めば危険だ。
読まなければ、死んだ自分の記録を彼女一人へ預けることになる。
指先で紐へ触れた。
今度の残響は、血の温かさから始まった。
腹に刃がある。
息をするたび、内側が裂ける。誰かの膝へ頭を載せられている。頬を濡らすものが、俺の血か彼女の涙か分からない。
ミレーユの声。
「次は」
胸へ治癒の光が入る。遅い。身体のほうが分かっている。
「次は、間に合わせるから」
彼女は血まみれの俺を抱いたまま、泣いていなかった。
泣くことすら、もう予定に入っていない顔だった。