俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
永昼を解除する瞬間、王都中の人間が十五秒だけ自由になった。
ニナが薬箱を掴む。
市議会長が解除鍵を回す。
エドガーが鐘鍵を逆に三回。
俺が正門の鍵を地面の円へ差す。
「解除」
今度は白冠拍動と同時。
現在意思が一周前へ戻る隙間はない。
四つの鍵が光る。
ミレーユは大聖堂から離れた南門で、自分へ拘束聖刻をかけている。杖はニナ。鐘へ走れない。
太陽が沈む。
夕方六時一分。
王都に夜が来る。
暗い。
当たり前のことなのに、胸の奥が変な音を立てた。
永昼のあいだ、俺は夜を待っていた。明日が来ないことを恐れていた。なのに実際に太陽が沈むと、視界の端に朝のない墓所が重なる。七百回、俺の意識が途切れたあとも、ミレーユだけが見ていた暗さだ。
夜は救いではない。死でもない。ただ今日の次にある時間だ。
その普通さが、今はひどく遠い。
街灯へ火が移される。点火役の少年は、一度目を丸くしてから油差しを掲げた。自分が何をしていたか忘れていない。火は一本、二本、路地の向こうへ伸びていく。
俺は数えかけ、やめた。
何本ついたかは、街灯係が記録する。俺の仕事まで増やして安心しようとするな。役割を配った意味がなくなる。
正門の鍵から手を離す。掌に歯形が残っていた。握りすぎだ。成功したのに、身体は次の失敗を待っている。
安心は証拠じゃない。不安も予言じゃない。
確認する。正門円は消えた。鍵はただの鉄へ戻った。俺の右手の死痕も、朝の方向へ引かれていない。
永昼は終わった。
人々が十五秒の続きを動く。
林檎が地面へ落ち、転がる。
子供が母へ抱きつく。
夫婦の喧嘩で、次の言葉が出る。
「ごめん」
聞こえた。
明日へ進む音。
解除の反動は一秒遅れて来た。
壁へ書いた生活記録が一斉に剥がれる。永昼の中で増えた水、燃やした薪、食べた豆。外の時間との差分が白い風になり、空へ吸われる。
「記録を押さえろ!」
市議会の人々が紙を掴む。
名前が消えかけた人へ、隣の人が生活痕を読む。
「サラ。靴職人。辛い豆」
「ハロルド。妻と意見が違う。同じ家へ帰る」
「名前不明。左利き。犬二匹」
白い風の中で、言葉が杭になる。
ニナの左腕が透ける。
俺は椅子の残響を呼ぶ。
三本脚の輪郭。
ユアンの手。
工房章四七二。
「ニナ・ベル。薬師見習い。兄ユアン。俺の幼なじみ。平手が痛い」
「最後いらない!」
ニナが怒鳴る。
声がある。
左腕へ色が戻る。
全部ではない。指先はまだ透けている。それでも十五秒へ戻らない。
「記憶は」
「水を何回も飲んだ。あんたが豆を食べさせた。椅子が消えた」
永昼の中で一文字ずつ出した記憶が繋がっている。
解除成功。
市議会長も、エドガーも現在を覚えている。
ミレーユの拘束は南門で維持。
ここまでは計画どおり。
だからこそ、次が来る。
その直後、白冠が起きた。
大聖堂の七本の尖塔が白くなる。
白冠の下で、王都の夜が昼へ戻ろうとする。
月が出る。
消える。
また出る。
空そのものが結果を選びきれず、明滅する。
「住民を地下へ!」
市議会長が各区へ命じる。
「白塔へ集めるな」
俺が言う。
一か所へ集めれば、白冠が一度に器へする。各区の記録所、施療院、工房地下へ分散。相互に鐘線を繋ぐ。
二十八万人が一つの群衆ではなく、各場所で自分の名を持つように。
オスカーが墓誌を配る。
エドガーは鐘塔の時刻を現実の夜へ固定する。
ニナは白化した人の診察。
俺は白冠。
ミレーユは拘束の中で真偽判定。
役割を一人へ集めない。
空へ溶け、巨大な冠を作る。中央から人の形が降りる。
俺の顔。
「レイ」
ミレーユが拘束の向こうで呼ぶ。
反応するな、と言う代わりに、彼女はニナを見る。
一人で真偽判定しない。
ニナが封蝋の質問紙を俺へ渡す。
俺も内容を知らない合言葉。
《修道院の薬草棚で、ニナが最初に枯らした草は?》
「銀葉草」
正解はニナだけが知る。
「違う。苦根草」
俺は外れた。
記憶違いか。
白冠の俺が笑う。
「青い舌の銀葉草だ。ニナが鉢を落とした」
正解を言った。
白冠は七百の俺を持つ。どこかの俺が覚えていた。
合言葉だけでは足りない。
二つ目、手袋の死痕。
右手が冷える。
白冠へ向ける。死痕が反応するが、方向が逆だ。俺の手から白冠へ流れるのではない。白冠が俺の記憶を吸う。
「偽物」
ニナが言う。
三つ目、診察。
生命糸を白冠へ投げる。
脈が千ある。
一つの身体に千の時刻。
人間ではない。
「照合、不一致」
三項目のうち二つ。
ミレーユが拘束を解かない。
白冠の俺が手を伸ばす。
「助けて、ミレーユ」
声は俺だ。
胸が痛む。
彼女はもっと痛いはずだ。
それでもニナへ訊く。
「生命危機は?」
「人間の生命反応じゃない。救命対象にしない」
「はい」
ミレーユは白冠へ行かない。
グレゴールの狙いを一つ外した。
白冠の顔が崩れ、大司教の顔になる。
「不便な愛になったな」
「あなたの便利さのために愛したのではありません」
ミレーユの返事。
「レイは君を選んだと聞いた」
グレゴールが彼女へ言う。
「なら、なぜ拘束されている。愛した男が死ぬ時、鍵を他人へ渡したのか」
「はい」
「信用されていない」
「はい」
ミレーユは否定しない。
「信用を使い切ったためです。それでも、レイは私を好きだと言いました」
「哀れみだ」
俺が答える。
「俺の好意の意味を、お前が決めるな」
「七百の君は、彼女を恐れた」
「今の俺も恐れてる」
「愛ではない」
「両方だ」
白冠は一つの答えしか扱えない。
成功か失敗。
救命か損失。
愛か恐怖。
矛盾を一つへ統合する神。
俺たちは矛盾したまま立つ。
白冠が指を鳴らす。
王都の一部が十五秒戻る。
解除した永昼の残骸を使っている。
騎士が走り、戻る。壁が崩れ、戻る。人々の現在意思が細切れになる。
「支柱を壊す」
俺たちの計画は三つ。
白冠も計画を読んでいる。
七百の俺の記憶を持つなら、俺が出口と証拠を先に見ることも知っている。だから見える支柱を囮にする。
「記録核の前に、周囲の床」
ニナが薬瓶を投げる。
白い床から針が百本出た。
直接触れていれば全員を貫いた。
「助かった」
「過去のあんたなら真っ先に触った」
「今の俺は学習した」
白冠の顔が一瞬、歪む。
七百の過去にない選択。
複数人へ先に任せる。
それが予測から外れる。
大聖堂の記録核。
暁鐘。
俺の錨刻印。
一つ目は、白冠庫から持ち出した黒い針。エドガーが鐘鍵で固定している。
二つ目は大聖堂。
三つ目は俺。
「記録核から」
ニナが針へ薬を落とす。
白冠の記録を個別名へ分解する薬。ユアンの生活痕、マルクの娘、エレナの花。集計された数字へ名前を戻す。
針が割れる。
白冠の左腕から顔が落ちた。
戦争の兵士。
橋の三十七人。
死刑囚。
白い影が地面へ戻り、自分の名を探す。
「全部は救えない!」
グレゴールが叫ぶ。
「知ってる!」
俺も叫ぶ。
「だから一人ずつ、戻れるところまでだ!」
橋の三十七人から、一人が名乗る。
「イヴァン。御者」
オスカーが書く。
次。
「セラ。巡礼」
次。
声にならない影は、持っていた物を出す。割れた笛。赤い靴。市場札。
全部に名は戻らない。
それでも白冠の《三十七》から、一人、一人、生活へ戻る。
集計が崩れ、左腕が落ちる。
地面へ落ちた白い腕は、三十七の影へ分かれ、墓所の外へ帰る。
白冠の集計が崩れる。
次は鐘。
ミレーユが拘束を解除する条件は、ニナと市議会長の二人承認。白冠が人間でないと確認済み。
二人が鍵を回す。
ミレーユが自由になる。
杖は受け取らない。
代わりにエドガーの鐘鍵を一本借りる。
「聖女杖は?」
「白冠が私の権限を使います。鐘守の鍵で行きます」
自分の最強の道具を使わない。
暁鐘へ向かう。
俺も行く。
「一歩」
彼女が言う。
「今は並ぶ」
二人で走る。
大聖堂の階段は白骸で埋まっている。
倒すのではなく、名前を呼ぶ。
マルク。リュカ。アンネ。セドリック。ハンナ。ヨエル。
六人の顔が白骸から離れる。
道が一本開く。
鐘塔へ。
グレゴールが先にいる。
人間の身体。
白冠から伸びた糸が背へ入っている。
「百十二回目の続きをしよう」
袖から針。
同じ鐘蝕。
今度は見えている。
避ける。
ミレーユが先制しようとする。
「生け捕り」
俺が言う。
「白冠との接続を切ります」
鐘鍵が糸へ入る。
グレゴールの糸は七本。
大聖堂の尖塔と同じ数。
一本目、王権。
二本目、教会。
三本目、鐘守。
四本目、聖女。
五本目、錨。
六本目、捨てた時間。
七本目、大司教自身の記憶。
七本を見た瞬間、妙な納得があった。
グレゴールは徹底していた。他人の命を数字へ変え、失敗を白く塗り、正しい結果だけを白冠へ食わせた。そんな男が、自分自身だけ接続の外へ置くはずがない。自分の判断まで神へ預けて、責任の所在を消す。それでいて、自分が選んだつもりでいる。
俺にも覚えがある。
過去の俺へ答えを預けた。墓銘へ死に方を預けた。ミレーユの未来へ、自分の生存を預けかけた。
同じではない、と言い切るには材料が足りない。違うのは、預けたものを取り戻す機会が今あることだけだ。
なら、使う。
「最後を先に切れ」
俺が言う。
「なぜ」
ミレーユ。
「自分の失敗を白冠へ隠してる。そこが判断核だ」
鐘鍵が七本目へ向く。
グレゴールが初めて避けた。
当たり。
彼は人々の失敗を記録した。自分の失敗だけ、白冠の正しい選択へ溶かした。
グレゴールは避けず、俺へ走る。
右手に針。
左手に白い冠の欠片。
出口は後ろ。ミレーユは右。鐘は上。
俺は左へ回る。
針を手袋で受ける。
革が焼ける。
毒は入らない。
冠の欠片が胸へ向く。
避けきれない。
白い刃が胸へ入った。
冷たい。
痛みは遅い。
最初に考えたのは、刃の角度。
右胸から左背。心臓を斜めに通る。抜けば出血が増える。冠の欠片なら聖刻汚染。ニナへ位置を伝える。
次に出口。
鐘塔階段まで十二歩。担架は入らない。転移は錨を刺激する。
次にミレーユ。
彼女の足が動く。
止める。
感情より先に手順を出す。
「来るな。ニナの指示を聞け」
声が掠れる。
痛みが来る。
熱い。
冷たいと思ったのは刃だけだった。身体は穴を焼くように痛む。
怖い。
死にたくない。
頭の中で、その一文が何度も壁に当たる。
死にたくない。死にたくない。だから戻せ、ではない。だから誰かを消せ、でもない。
この痛みをなかったことにしたい。傷を負う前へ戻りたい。成功率六十一なんて低すぎる。ミレーユなら確実に治せる。そういう声が、俺の声で次々に湧く。
どれも間違っていない。身体は確実な救命を求める。七百回死んだ記録が、今回は例外でいいと囁く。
けれど例外を一度許せば、次も同じ理由を作れる。
俺が重傷だから。王都が危険だから。白冠が残っているから。二人で幸せになるには必要だから。
正しい理由はいくらでも生える。
だから、痛くない時に決めた手順を、痛い今の俺がもう一度選ぶ。
選ばないこともできる。ミレーユに頼めば、彼女はきっと手を伸ばす。頼まないのは、彼女を試すためじゃない。愛を証明するためでもない。
俺が、俺の生存方法を選ぶためだ。
ミレーユのためでも、世界のためでもない。
俺が生きたい。
その欲求を処置同意の中心へ置く。
俺の背中から刃が出る。
ミレーユが息を止める。
「来るな!」
言う。
彼女の足が止まる。
グレゴールの腕を掴む。
逃がさない。
「これで錨が死ぬ」
「まだ生きてる」
胸から血が出る。
一息ごとに床へ落ちる。
「ミレーユ、糸を切れ」
彼女はグレゴールの背の白糸へ鐘鍵を入れる。
一本。
二本。
三本。
大司教と白冠が切れる。
グレゴールが倒れる。
俺も膝をつく。
ニナが来る。
胸へ布。刃は抜かない。呼吸路。脈。
「致命傷。心臓の右。あと二分」
ミレーユの手が俺へ伸びる。
止まる。
「治癒は?」
ニナへ訊く。
「聖女治癒を入れたら錨が完成して、自動還暁が起きる」
「普通治療は」
「ここでは無理」
暁鐘が鳴り始める。
誰も索を引いていない。
俺の死を検知し、自動で。
一つ目の音。
世界が白くなる。
「錨を切る」
俺は言う。
青血糸の残り二つを、今ここで。
成功率六十一パーセント。
心停止七十八パーセント。
普通蘇生八分。
「準備場所へ運ぶ!」
ニナが叫ぶ。
墓銘板は白塔地下。
間に合わない。
「白冠拍動で、ここへ呼ぶ」
俺は手袋を床へ押しつける。
七百一枚の墓銘板が大聖堂へ現れる。
石が床へ落ちる音はしなかった。
一枚ずつ、最初からそこにあったように白骸のあいだへ立つ。正面には死因。裏には、永昼のあいだ皆で見つけた、生きていた時の選択。
甘いパンを半分残した。
雨の日に遠回りした。
ミレーユへ嘘をついた。
逃げた。戻った。鍵を隠した。花の名前を間違えた。
英雄の記録じゃない。
だから使える。俺たちが今からするのは、英雄の奇跡ではなく、七百一人分の不完全な生活に支えてもらう処置だ。
未来墓銘板だけ、まだ裏が白い。
当然だ。そこへ何を書くかは、これからの俺にしか決められない。
死因の裏に、生活の一文。
第三の手が揃う。
暁鐘、二つ目の音。
ミレーユが俺の横へ膝をつく。
触れない。
「レイ」
「同意する。錨を切れ」
「死ぬためではありませんね」
ミレーユが確認する。
「生きるためだ」
「還暁を止めるだけでは」
「その後、戻す。ニナたちが」
「私ではなく」
「お前もいる。でも治癒じゃなく、第三の手」
言葉が続かない。
呼吸が浅い。
ニナが代わりに確認する。
「処置同意。錨切断。予測心停止。通常蘇生。聖女治癒と暁鐘は禁止」
俺は頷く。
記録へ血の指で印を押す。
事前合意だけではない。
今の俺が、今の状態で選んだ。
「はい」
未来墓銘板が光る。
《死因:聖女》
予告の意味が、ようやく分かる。
彼女が俺を殺すのではない。
生き返らせるため、俺を錨から切る。その処置で心臓が止まる。
記録上の死因は、聖女。
暁鐘、三つ目。
次で世界が戻る。
「今だ」
ミレーユが青血糸へ手をかけた。