俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
青血糸が切れた。
音は小さい。
七百一回の死を束ねたものが切れるなら、鐘塔くらい崩れると思っていた。実際には、濡れた髪を一本ちぎったような音だけだった。
右手が冷える。
違う。
右手だけじゃない。胸へ刺さった白い刃を中心に、身体の内側が順番に遠くなる。
暁鐘、四つ目。
鳴らない。
鐘槌が鐘の手前で止まっている。エドガーの鍵が索へ食い込み、オスカーが墓銘板の生活記録を読み上げ、市議会長が大聖堂の扉を開け放つ。
三人とも、俺を見ていない。
それでいい。俺の死にかけた顔を見守る役なんて、誰にも割り振っていない。
ミレーユは切った糸を両手で持っている。
青い血が彼女の指を伝う。
「第一結節、切断」
声が平らだ。
平らにしている。分かる。喉の動きがいつもより一回多い。視線が俺の胸とニナの手を往復する。自分で触れない代わりに、見落としを探している。
俺はそれを愛情だと決めつけない。
今は観察結果だけでいい。
床の墓銘板が一斉に震えた。
死因の文字から白い光が抜け、裏側の生活記録へ移る。俺がどう死んだかではなく、死ぬ前にどう生きたか。錨の荷重先が変わっている。
一枚目は、崖から落ちた俺。
《落下前、ミレーユへ青い紐の結び方を教えた》
二枚目は、鐘蝕で死んだ俺。
《薬が苦くて、ニナの見ていない所で水を三杯飲んだ》
三枚目。
《喧嘩したまま眠り、翌朝に謝るつもりだった》
読み上げるオスカーの声が震える。彼は俺を七百人の英雄として扱わない。一人目、二人目と、患者の記録みたいに淡々と進める。
それが助かる。
死因を並べられたら、俺はたぶん耐えられなかった。七百通りの苦痛を想像して、今の痛みまで大きくする。生活の失敗なら、自分のことなのに少し笑える。
「四枚目。パンの中身を弟へ譲り、嫌いだったと嘘をついた」
弟。
今の俺にはいない。過去のどこかで、家族の形まで違ったらしい。
知りたい。
怖い。
知れば今の俺が薄くなる気もする。知らないままなら、その弟を二度目に捨てる気もする。
判断を保留する。
今は生還が先だ。記録は消えないよう、オスカーと市議会へ預けた。
俺一人で全部を背負わないとは、こういう時に知らない事実を知らないまま置けることでもある。
「脈、落ちる。刃を固定」
ニナが俺の胸へ膝を当てる。乱暴に見えるが、白い刃を動かさないためだ。痛いはずなのに、もう圧しか分からない。
「二本目は」
「死痕側です」
ミレーユが右手首の糸へ鐘鍵を差す。
俺の死を覚えている手。
そこを切れば、七百回の痕跡から俺の現在が外れる。理屈ではそうだ。実感としては、冬の川へ右腕だけ突っ込んだみたいに何も分からない。
「レイ。確認します」
ミレーユが俺を見る。
「第二結節を切断すると、あなたの意識が死痕記録へ落ちる可能性があります。帰還方法は不明です」
今さら聞くな、と言いかける。
違う。
事前同意と現在同意を分けたのは俺だ。意識がある限り、選択を更新する。
「切ってくれ」
「理由を」
面倒だ。
呼吸一つが高い。胸の中で血が泡立つ。理由を説明している間にも成功率は落ちる。
だからこそ、短くする。
「戻らず、生きるため」
自分の声が他人のものみたいに聞こえる。
ミレーユはすぐには切らなかった。
鐘鍵の先を一度止め、ニナを見る。ニナは俺の瞳孔を確かめ、胸へ耳を当て、砂時計をひっくり返す。誰も俺の返事だけを証拠にしない。
一秒が長い。
早くしろ、と叫びたい。けれど早さを理由に確認を省けば、俺たちはまた同じ穴へ落ちる。
市議会長が処置記録へ時刻を書く。
エドガーが暁鐘の鐘槌へ二本目の固定索をかける。
オスカーが七百一枚目の墓銘板を俺の足元へ置く。
未来の死因だけが書かれた、俺の板。
《死因:聖女》
文字は変わらない。
未来予知が絶対なら、ミレーユが切る。未来予知が可能性なら、今の選択で意味を変える。
どちらでも手順は同じだ。
「現在同意、確認」
市議会長の声。
「第三者確認」
ニナ。
「鐘の停止、継続」
エドガー。
「記録、継続」
オスカー。
俺とミレーユの間に、他人の声が四つある。
昔なら邪魔だと思ったかもしれない。二人の問題へ口を出すな、と。
今は違う。
二人だけで完結する愛は、片方が倒れた時に世界を食う。
助けてくれる他人がいる方がいい。
ミレーユの指が動く。
二本目が切れた。
世界から音が消えた。
正確には、耳が音を運ばなくなった。ニナの口が開く。ミレーユが何か言う。エドガーの肩へ索が食い込む。全部見えるのに、薄い硝子の向こうだ。
俺の右手から黒い文字が浮く。
《一》
《二》
《三》
死んだ回数が皮膚を遡る。
数字の間に、知らない映像が挟まる。
雪原で、ミレーユを背負って歩く俺。
王城の玉座へ座り、誰かの処刑へ署名する俺。
左腕を失って笑う俺。
ミレーユの頬を打つ俺。
彼女に頬を打たれ、安堵する俺。
どれも一息より短い。それでも、見なかったことにはできない。
七百回、俺がいつも被害者だったわけじゃない。
傷つけられた俺もいる。傷つけた俺もいる。彼女を愛した俺も、憎んだ俺も、利用した俺も。
数字へまとめれば、そこが消える。
七百回殺された、という一文は便利すぎる。
便利な一文に逃げるな。
戻れたら、一人ずつ記録を見る。許すためでも裁くためでもなく、今の俺が知らないまま七百人を自分の意見へ使わないために。
七百まで行く前に目を閉じた。
逃げたわけじゃない。瞼を上げておく力がなくなっただけだ。
たぶん。
最後まで格好をつける余裕もない。
暗くなる直前、ミレーユの唇が読めた。
生きて。
命令ではなかった。
俺は返事をしようとした。
できなかった。
心臓が止まった。
死ぬ瞬間には、鐘が聞こえると思っていた。
なかった。
痛みもなかった。
ただ、次の思考が来なかった。
――ここまでが、身体の側の俺だ。
次に目を開けた時、俺は白い地面へ立っていた。
胸に刃はない。服にも血はついていない。右手の手袋だけがある。握る。冷たくない。
まず出口。
前後左右、白。
上も白い。ただし空ではない。薄い紙を何千枚も重ねたような天井があり、文字の影が透けている。
次に証拠。
足元へ靴跡がある。
俺のものだ。
一歩目は目の前。二歩目はその先。俺が来る前から、俺が歩いた跡だけ続いている。
嫌な場所だ。
白冠の内部か、死痕の記録層か。心停止した脳が見せている夢という可能性もある。夢なら出口探しに意味はないが、夢かどうか確認する方法もない。
なら、夢ではない場合に有効な行動をする。
歩く。
靴跡を逆へ辿る。先へ行くより、発生点を探す。
一歩。
景色が変わる。
修道院の薬草棚。ニナが苦根草の鉢を落とし、幼い俺が笑っている。
二歩。
王都の橋。ミレーユが青い紐を俺の手首へ巻いている。崖の記憶とは場所が違う。
三歩。
知らない宿。俺が知らない女へ剣を渡している。
四歩。
処刑台。俺が自分から首を差し出す。
どれも俺の記憶ではない。
七百人の記録だ。
足を止める。
止めた瞬間、胸が一度だけ締まった。
身体の痛みではない。遠くで誰かが俺の胸を押している。
通常蘇生が始まった。
ニナの圧迫なら、一分に百回前後。ここでの一歩が何秒か分からない。八分以内に帰還経路を見つけなければ、身体が戻っても俺の意識が記録へ残る可能性がある。
急ぐ。
いや、待て。
急いで先へ進むのは、白冠が一番予測しやすい俺だ。
右手の手袋を外す。
掌に死痕がない。
手袋の内側へ、青い文字が浮いている。
《外から八分。内側の経過は不定》
俺の字ではない。
ミレーユの字でもない。
ユアンだ。
あいつはここへ来た。
白く消される前、自分の生活記録を死痕へ隠した。ニナの椅子を残したのと同じやり方だ。
文字の下に、細い矢印。
靴跡とは逆を指している。
罠かもしれない。
ユアンの名を使えば俺が従うと、白冠は知っている。だが白冠なら、俺の字を使う方が早い。今の俺は過去の自分を疑う。ユアンなら、疑われる前提で他人の字を残す。
決め手にならない。
もう一つ必要だ。
手袋を嗅ぐ。
薬草の匂い。
苦根草と、青錆止め。
ニナとユアンの工房で使っていたものだ。記憶の再現なら匂いまで作れる。それでも、白冠が見落としやすい生活痕ではある。
矢印へ進む。
靴跡のない白を踏む。
地面が沈んだ。
紙の層を何枚も抜ける。
落ちながら、声が聞こえる。
「一分」
ニナ。
外の声だ。
「脈なし。圧迫継続」
「交代します」
ミレーユ。
「駄目。あんたは糸を持ってて。結節が戻る」
「承知しています」
声が近い。
戻れる。
そう思った瞬間、落下が止まった。
目の前に扉がある。
七百一枚。
いや、七百枚だ。
墓銘板と同じ数の扉が、円形の壁へ並んでいる。全部に俺の名。取っ手の形だけが違う。
剣の柄。
青い紐。
鐘鍵。
パン切り包丁。
処刑索。
扉の向こうから、同じ声がする。
助けろ。
殺せ。
戻せ。
戻るな。
ミレーユを許せ。
ミレーユから逃げろ。
七百の俺が別々の答えを叫んでいる。
頭が痛い。
胸の圧迫と声の数が重なる。外で何回押されたか数えようとして、すぐ諦める。数えたところで時間には換算できない。
帰還扉を探す。
七百一枚目がないなら、新しく作るしかない。
どうやって。
自問の答えは早い。
扉は死に方ではなく、選択で分かれている。なら、七百人のどれとも違う選択をここですればいい。
問題は、違うかどうかを俺が知らないことだ。
七百人全員の記録を読む時間はない。
「二分」
ニナの声。
外では二分。
残り六分。
俺は一番近い扉へ手をかける。
処刑索の取っ手。
中から声がする。
「開けるな」
俺の声だ。
「お前はミレーユを殺す」
手を離す。
隣、青い紐。
「開けてくれ。彼女を一人にするな」
その隣、剣。
「全部忘れろ。そうすれば愛せる」
どれも切実だ。
どれも正しそうで、どれも俺を目的へ使おうとする。
俺は円の中央へ戻る。
扉を選ばない。
床へ座る。
七百の声がさらに大きくなる。
急げ。
時間がない。
彼女が待っている。
世界が戻る。
分かってる。
それでも、今すぐ一つを正解にしない。
白冠のやり方を、俺の死の中で繰り返すな。
俺は手袋を床へ置いた。
青い文字が増える。
《扉に入るな。扉から出せ》
ユアン。
なるほど。
俺が七百人から正しい一人を選ぶ必要はない。
全員を同じ現在へ出して、話を聞けばいい。
取っ手のない壁を拳で叩く。
「俺を助けたいなら、勝手な答えを叫ぶな」
声が少し止む。
「名前と、死んだ時の状況と、その時お前が選んだことを一つだけ言え」
沈黙。
最初の扉が開いた。
俺が出てくる。
十六歳くらい。右目がなく、青い紐を首へ巻いている。
次の扉。
四十歳を越えた俺。左脚が木の義足だ。
次。
髪が白い俺。
次。
俺より背の低い俺。
過去は一列ではなかった。
七百人が、円の中央へ出てくる。
全員が同じ顔ではない。
顔だけじゃない。
俺を見る目が違う。
敵を見る目。救助を待つ目。恥じる目。もう何も期待していない目。
一番若い俺が口を開く。
「十七回目。崖。ミレーユの手を振りほどいた。二人で落ちると思ったから」
首へ青い紐を巻いた俺が続く。
「八十三回目。鐘塔。彼女を殺そうとして、できなかった。俺が鐘を鳴らした」
義足の俺。
「二百六回目。戦争。十三年生きた。彼女と別の国で暮らした。最後は病死だ」
十三年。
七百回がすべて短かったわけではない。
ミレーユと暮らした時間がある。それでも巻き戻したなら、その理由は何だ。
訊きたい。
だが一人一問にすれば時間が消える。
「選択を一つだけ」
俺は繰り返す。
義足の俺は不満そうに口を閉じた。
次は白髪の俺。
「三百十一回目。七十二歳。彼女より先に老衰した。戻すなと言った」
空気が止まる。
七十二歳まで生きた。
なのに、今の世界にはその時間がない。
胸の奥に怒りが出る。ミレーユへ。約束を破った彼女へ。七十二年を現在から消した彼女へ。
同時に、七十二年を一緒に過ごしたらしい彼女を想像して、知らない寂しさが混ざる。
感情を結論にしない。
白髪の俺が何を思ったかは、白髪の俺のものだ。
「次」
「四百回目。俺が彼女へ還暁を命じた。戦で負け、勝ちたかった」
「四百一回目。勝った。代わりにニナが消えた。俺はもう一度を頼んだ」
喉が詰まる。
ミレーユだけが巻き戻しを望んだのではない。
俺も使った。
たぶん、一度ではない。
責任を半分ずつ、と単純には割れない。回ごとに選んだ人間も、状況も違う。だから一つの判決へ急ぐな。
五百回目。
六百回目。
声が重なる前に、俺は手を上げる。
順番に。
全員が従うわけではない。怒鳴る俺がいる。泣き出す俺がいる。ミレーユの名だけ繰り返す俺がいる。
俺はそいつの前へ行く。
両肩を掴もうとして、手がすり抜けた。
記録だ。
触れられない。
「何回目だ」
「分からない」
「死んだ場所は」
「彼女の部屋」
「選んだことは」
「眠った。起きたら、また彼女がいた」
答えになっていない。
いや、これが残った全部なのだ。
俺は番号をつけるのをやめる。
「名前はレイでいいか」
そいつが俺を見る。
少しだけ、泣き声が止まる。
七百人に別の名前をつける必要はない。同じ名でも、同じ答えである必要はない。
記録の俺たちが、円の中でばらばらに立つ。
整列させない。
白冠の集計へ戻さない。
俺は立ち上がる。
外からニナの声がした。
「三分」
残り五分。
七百人の俺と話すには、短すぎる。
あまりにも。
生き返るには、それしかない。
七百人の視線が俺へ集まる。
代表者を決める気はない。多数決もしない。死者の数で現在の俺を押し潰させないし、現在の俺一人で死者を黙らせもしない。
必要なのは、帰るための答えだけだ。
その答えが全員で違うなら、違うまま持って帰る。
俺は息を吸った。
身体がないのに、吸えた気がした。
「最初から聞く」