俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
暁鐘が壊れてから、私はレイの脈を三回確認した。
一回目は、大聖堂を出た直後。
胸痛が八へ上がり、顔色が落ちた。ニナが診察し、私にも観察を許可した。手首へ二本指を当て、七十二と記録した。
二回目は、午前三時四十分。
彼が施療天幕で眠った後。呼吸が浅く見えたため、ニナを起こした。ニナが脈と呼吸を確認し、薬の影響だと判断した。
私は自分でも触れたいと申し出た。
許可された。
六十八。
三回目は、午前四時二十分。
レイが悪夢で目を覚ました。死痕の扉が閉じる音を聞いたと言い、自分から脈を確認してほしいと頼んだ。
七十九。
現在、午前四時四十七分。
レイは眠っている。
呼吸、十二。
顔色、先ほどと同じ。
胸の包帯に新しい出血なし。
指先の色、正常。
脈を確認する医学的な変化はない。
それでも、四回目を触りたい。
暁鐘がない。
彼が死んでも戻せない。
知っている。
だから確認回数を増やせば死を防げる、と身体が考えている。
誤りだ。
脈を一分ごとに数えても、死は消えない。むしろ彼を眠らせず、私の不安を彼の身体で処理することになる。
手を伸ばす。
途中で止める。
私は自分の手首を触る。
七百一本の傷。
増えていない。
数えない。
包帯の端を直す必要もない。毛布もずれていない。水差しは届く位置。呼び鈴もある。
することがない。
しないことが、今の役割だ。
私は椅子から立つ。
天幕を出る。
入口の記録板へ書く。
《午前四時四十七分。脈確認欲求あり。医学的変化なしのため接触せず》
こんな記録を誰が読むのか。
後の私と、レイ。
成功したことだけ残さない。触れずにいられた時、その前に触れたかった事実も残す。
外はまだ暗い。
大聖堂の瓦礫から、紙片を回収する灯りが動いている。
白冠のない夜。
聖女杖は折れた。
広域治癒を試したが、発動しなかった。個人治癒は残っている。追跡聖刻は契約環へ移り、私はレイの位置を常時感じなくなった。
今、彼が天幕の中にいると分かるのは、私が自分の足で出て、入口を見ているからだ。
離れれば分からない。
怖い。
同時に、静かだ。
頭の中へ流れ続けていた生命反応がない。レイの脈、距離、方向を意識の端で監視しなくてよい。
安心している。
その安心を、愛が薄れた証拠だと誤解しそうになる。
違う。
私は疲れていた。
監視する側も、監視によって削られる。それを被害者のように語る資格はない。追跡されたレイの被害と同じではない。
ただ、自分の損耗も事実として認める。認めなければ、いつか《あなたのために疲れた》と彼へ請求する。
請求しないため、休む。
市議会の仮庁舎へ向かう。
夜明け前に提出するものがある。
白い冊子、七冊。
私が七百一回で行った加害の記録。
還暁。
監禁。
追跡。
記憶封印。
他者排除。
医療介入。
記録改変。
最初の冊子には、監禁場所を記した。
白塔だけではない。
王城の客室。北部の修道院。移動馬車。結界を張った森。傷を治すという名目で出入口を閉じた施療室。
私が監禁と思っていなかった場所も含めた。
鍵をかけていなくても、追跡聖刻を示して《逃げても分かる》と言えば、退出は自由ではない。食事と寝具を用意しても、監禁ではなくならない。
レイが自分から残った回もある。
それも書いた。
自発滞在の前に私が情報を隠したか。離脱した場合の不利益を告げたか。後から意思を変える機会があったか。
同じ《残った》でも分ける。
二冊目の追跡記録には、位置確認の回数。
正確な総数は不明。
推定で一日百二十から三百。眠っている間も自動確認。心拍低下で警報。接近者の生命反応まで取得した時期がある。
私は彼の思考は読んでいない。
それを被害軽減欄へ書きかけ、削除した。読めなかっただけだ。読まないことを選んだ証拠ではない。
三冊目、他者排除。
殺害した者。傷つけた者。職を奪った者。レイから遠ざけた者。
悪意があった相手も、彼を助けようとした相手もいる。
ニナの項目は長い。
ユアンの項目は、空白が多い。私が忘れたからだ。
空白をゼロ件と扱わず、《記憶欠落により不明》と書いた。被害者数を確定できない事実も、被害の一部だ。
四冊目、医療介入。
同意のない治癒。鎮静。記憶封印。痛みを減らすためという理由で、傷の由来まで消した処置。
四分十二秒の治癒光も入れた。結果的に届かなかった、で除外しない。行為未遂として、ニナの制止と並べる。
残り三冊は、まだ完成していない。
完成を待って提出すれば、私だけが保管する時間が延びる。暫定版として出し、追記履歴も公開する。
自分に不利な事実が後から出た時、初版を上書きしない。訂正前の記録も残す。
一冊にまとめると、また《愛ゆえの過ち》という一つの物語になる。行為ごと、被害対象ごと、関与者ごとに分けた。
私の動機も書いた。
レイを失いたくなかった。
世界を守りたかった。
自分が正しい聖女でいたかった。
彼に必要とされたかった。
彼が私以外を選ぶのが嫌だった。
動機は免責欄ではない。
被害と別の頁に置く。
仮庁舎の窓口には、市議会長と記録官二人。被害者側の閲覧委員としてエマと、名前非公開の市民がいる。
「提出します」
冊子を置く。
「公開範囲は」
「原則公開。医療情報、性的情報、被害者が非公開を希望した部分は制限。私の名は隠しません」
匿名で《ある聖女》とする案もあった。
匿名にすれば、将来の聖女制度の検証資料として使いやすい。私個人への報復を減らせる。レイとの生活も守りやすい。
反対に、被害者は誰がしたか知る権利を失う。
私が名を出すことは、公開処刑を望む行為にもなり得る。
罰される自分を見せ、反省したと認めてもらう。レイへ《これほど償った》と示す。
その欲求もある。
だから公開方法を私一人で決めない。
「私の実名公開は希望します。ただし、被害者情報との組み合わせは委員会判断に従います」
エマが一冊目を開く。
「訂正を要求できますか」
「事実誤認は。評価の削除は要求しません」
「あなたを怪物と書いても?」
胸が縮む。
「評価として記録します。公的な判定欄とは分けてください」
「レイが公開を嫌がったら」
「彼の被害情報は彼が決めます。私の行為記録は、彼一人に決定を負わせません」
レイの許可だけを取れば、彼が許したように見える。
彼が非公開を選べば、私を庇った責任まで負う。
彼を唯一の裁判官にしない。
「提出受理」
市議会長が印を押す。
軽くならない。
当然だ。
冊子を出したから加害が減るわけではない。
しかし、私だけが鍵を持つ記録ではなくなった。
窓口を出る。
次は白塔。
正門まで、歩いて十五分。
以前なら転移した。今は広域術が使えない。個人転移も不安定。
歩く。
王都は夜明けを待ちながら動いている。
崩れた大聖堂から負傷者を運ぶ人。
白冠紙片を乾かす人。
壊れた街灯を直す人。
夜食を配る人。
泣く人。
眠る人。
白冠破壊を後悔していると叫ぶ人。
現在を取り戻したと笑う人。
同じ朝を待っているのに、感情は一つではない。
通りの角で、女性が私を見つける。
「聖女様」
反射的に止まる。
彼女は近づかない。
「白冠を壊したせいで、夫の記録が戻らなくなりました」
私は返事を探す。
申し訳ありません。必要な決断でした。市議会の投票です。
どれも先に出せば、彼女の言葉を終わらせる。
「お名前を伺ってもよいですか」
「教えません」
「分かりました」
「あなたが鐘を持っていれば、いつか戻せた」
「可能性はありました」
「壊して、安心したでしょう」
胸の奥を見られた気がする。
「はい」
否定しない。
「還暁権限を失い、安心した部分があります」
女性の顔が怒りで歪む。
「夫を諦めて?」
「あなたの夫を諦めたことへ安心した、とは言えません。私はお名前も、夫の方のお名前も知りません。ただ、力を持ち続けずに済んだことへ安心しました」
「同じよ」
「あなたには同じと感じられることを、記録してよいですか」
「勝手にすれば」
女性は去る。
追いかけない。謝罪を受け取らせるために追えば、また私の処理へ相手を使う。
私は今すぐ記録したい。
しかし女性は《勝手にすれば》と言っただけで、公開へ同意していない。匿名でも、状況から本人が分かるかもしれない。
自分の手帳へ、私の発言と反応だけを書く。女性の情報は委員会へ相談する。
安心した事実を隠さない。
彼女の夫を私の成長の材料にもしない。
私は露店で温かい豆汁を買う。
代金を払う。
聖女へ無料で、と店主は言わない。
今夜から私は、聖女ではないのかもしれない。
個人治癒は残る。肩書は市議会が検討する。教会の聖女制度は停止された。
何者か分からない。
未定。
豆汁は塩が強い。
以前の私なら、レイが飲める濃さへ水を足す。今は自分で飲む。
彼の分は買わない。
起きた時に欲しいか訊く。
白塔の正門は開いている。
折り返し廊下はない。
中へ入る。
私室の鍵を使う。
机の引き出しに、古い鍵束がある。
監禁に使った鍵。
レイの寝室。
窓。
浴室。
食料庫。
外周門。
地下墓所。
今は錠そのものが外された場所も多い。
私は鍵を一本ずつ台帳へ照合する。
廃棄できる鍵。
証拠として保存する鍵。
現在も使う鍵。
全部を溶かせば、過去を断ち切った象徴になる。
しかし証拠まで消える。
全部を残せば、また使える。
委員会の封印箱へ、監禁用の原鍵を入れる。
レイの寝室鍵だけ、手元に残った。
以前、彼へ渡した鍵とは別の、複製鍵。
存在しないと伝えていた。
嘘だった。
鍵を返した夜、私はこの一本を捨てられなかった。緊急時のため。彼が中で倒れた時。白冠が襲った時。
理由はいくらでも作れた。
本当は、入ろうと思えば入れる状態を失うのが怖かった。
複製鍵を握る。
今、レイは白塔にいない。
この鍵で部屋を開け、先に何かを置くこともできる。
手紙。
朝食。
贈り物。
優しい侵入。
しない。
廊下から、レイの部屋の扉を見る。
鍵穴の外側へ鍵を差し、回さず抜く。
中へ置くには、扉を開けなければならない。
題名のように《内側へ鍵を返す》ことを優先すれば、無断で一度入る。
矛盾している。
私はニナから借りた伝話石を使う。
レイは眠っている。
起こさない。
記録板へ連絡を残す。
《複製鍵一本を未申告で保持。本人許可なく使用せず、白塔正門の公開保管箱へ一時預託。起床後、処分方法を相談希望》
鍵を正門へ戻す。
公開保管箱の内側へ置く。
私の手元ではない。
レイの部屋の内側でもない。
話し合うまでの場所。
以前の私は、正しい返却の形まで一人で決めた。
今は未決定を残す。
正門の公開保管箱には、ほかの鍵もある。
市議会長の外周鍵。ニナの非常扉鍵。オスカーの墓所鍵。エドガーの鐘室鍵は、鐘室が崩れたため封印袋へ入っている。
鍵の横に、使用記録票。
誰が、いつ、何のために借り、誰が承認したか。
以前の鍵束は、私の腰にあるだけで全扉を開けた。
今の鍵は遅い。
緊急時に間に合わない可能性がある。
だからニナの非常鍵には、生命危機時の事後承認条項がある。使用すれば自動で市議会と本人記録へ通知される。
安全と許可を二択にしないための、不完全な仕組み。
私は複製鍵の記録票へ書く。
《未申告保持。使用履歴なし。処分権者レイ。複製者ミレーユ》
最後の欄は《希望》。空欄にすれば中立を装うことになる。
《将来、本人が望む場合のみ、緊急鍵の共同規則を相談したい。現時点では返却を求めない》
希望と要求を分ける。
箱を閉じる。
自分の私室鍵だけを持つ。
白塔を出る。
空が少し青い。
午前五時十二分。
暁鐘は鳴らない。
太陽はまだ見えない。
施療天幕へ戻る。
入口でニナに会う。
「レイは」
訊きかける。
「自分で見て、必要なら本人へ確認して」
ニナが言う。
医療情報を渡さないのではない。私が不安を一言で処理しようとしたためだ。
天幕へ入る。
レイは起きている。
水を自分で飲んでいる。少しこぼしている。
手を貸したい。
「おはよう」
彼が言う。
「まだ太陽は」
「知ってる。言ってみたかった」
「おはようございます」
今度は訂正しない。
彼の顔色を見る。
脈を確認したい。
四回目。
医学的変化はあるか。
起床。飲水。会話可能。胸痛は本人へ訊ける。
「痛みはいくつですか」
「五。吐き気三。息苦しさ二」
必要な情報は得た。
触れる理由はない。
「手を握っていい?」
脈ではなく、接触として訊く。
レイは少し考える。
「今はいい」
右手を出す。
私は握る。
脈を数えない。
温度と、握り返す強さだけを感じる。
「複製鍵を持っていました」
先に言う。
レイの手が少し固くなる。
「どこの」
「あなたの部屋です。未申告でした。使っていません。公開保管箱へ預けました」
「いつから」
「鍵を返した時から」
「捨てられなかった?」
「はい」
彼は手を離す。
終了。
私は追わない。
「怒ってる」
「はい」
「お前が今言ったことと、使わなかったことは別に記録する」
「はい」
「処分は後で決める」
「はい」
「もう一つ」
レイが言う。
私は顔を上げる。
「鍵を隠してたことで、お前が今まで言ったことを全部嘘とは決めない」
胸が緩む。
喜びかける。
「でも、正直に言ったから信用が戻ったとも決めない」
「はい」
緩んだ胸が少し痛む。
二つとも受け取る。
「俺は、いつか同じ家で暮らしたいと思ってる」
息が止まる。
未来が一気に形を持つ。
同じ食卓。同じ夜。彼の寝息。鍵。
危険な順番だ。
「今ではありませんね」
「今じゃない。いつか、も約束じゃない」
「はい」
「別の部屋。互いの鍵は持たない。嫌になったら出る」
「はい」
「条件はその時また決める」
「はい」
同じ返事を繰り返している。
理解ではなく、失いたくないために同意していないか。
自分へ訊く。
別室は寂しい。鍵を持てないのは不安。出ていける条件は怖い。
それでも同じ家を望む。
「訂正します」
レイが身構える。
「別室には賛成です。互いの鍵を持たないことも。嫌になったら出る、には、荷物や医療や安全の連絡手順を相談したいです。出ること自体を止める意味ではありません」
レイの肩が少し下がる。
「分かった。相談する」
未来の約束ではない。
未来に相談する約束。
それなら、今の私にも持てる。
彼は水を飲む。
私は二歩離れた椅子へ座る。
太陽の端が、破壊された大聖堂の向こうへ出る。
鐘は鳴らない。
誰も朝を命じない。
レイの手へ戻りたい。
今は座る。
光が天幕へ入る。
七百二回目の朝、と数えかける。
やめる。
これは、回数のついていない朝だ。