俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
レイは、二枚目の黒パンにだけバターを塗る。
最初の一枚は、何もつけずに半分まで食べる。豆の煮込みを三口。水を一口。その後でようやく、バターへ手を伸ばす。
これは七百回目の朝食だった。
正確には、朝食まで辿り着けなかった回もある。
彼が目覚める前に白塔が襲われた時。鎮静の聖刻が強すぎて、昼まで意識が戻らなかった時。私の顔を見た瞬間、窓へ走った時。私が説明を急ぎすぎて、彼が自分の舌を噛んだ時。
だから、同じ食卓へ座れた回数を数えるなら七百ではない。
私は失敗の回数で数えている。
レイが生きていれば成功。
死ねば失敗。
それより分かりやすい基準を、私は知らない。
朝食の準備は三時から始めた。
黒パンは昨日焼いた物。柔らかすぎるパンを彼は信用しない。卵は黄身を完全に固める。第八十六回、半熟卵で腹を壊した。あれは死因ではなかったけれど、腹痛で予定が一時間遅れ、代わりに通った路地で刺された。
豆は塩を二つまみ。三つでは水を多く飲む。水差しへ手を伸ばす回数が増えれば、窓を見る時間が変わる。
林檎は四分の一。皮を残す。皮を剥いた時、毒を疑われた回が二度ある。
バターは半量。
皿の位置は、彼の右手が届く範囲から少し外す。食器を武器にするなら、右手で取る。距離が一掌増えれば、立ち上がる前に聖刻を置ける。
銀の小刀は先が丸い物。
磁器の杯は、割れても刃になりにくい厚手。
椅子は床へ固定しない。固定されていると知った時、彼は自分が家畜になったと言った。次の朝、座らなかった。
どれも、彼を傷つけないために選んだ。
どれも、彼が私から逃げられないための選択でもある。
二つを分けられなくなったのが、いつからかは覚えていない。
白塔の部屋に鎖はない。
足枷も、鉄格子の扉もない。彼が望めば窓へ行ける。暖炉を調べられる。本を読み、手紙を書き、私へ罵声を浴びせることもできる。
ただし、外へは出られない。
私はそれを、自由を残した保護だと考えている。
第五百十二回のレイなら、言葉の順番を変えただけの監禁だと言うだろう。
分かっている。
それでも鎖を使わないことで、まだ戻れる場所を残したかった。何から戻るのか。監禁者からか、聖女からか、彼を愛していた少女からか。その答えは考えない。
考えれば、手が止まる。
手が止まれば、彼が死ぬ。
午前四時に南窓の銅板を確認した。留め釘は十二本。一本ずつ聖刻で固定。雨樋までの距離は以前より二十七寸遠い。
暖炉の格子は二重。煤が新しいことに彼は気づく。気づいて構わない。古く見せるために火を焚けば、一酸化炭素の危険が増える。
伝声管には紙を詰めた。完全に塞げば、異常だと判断して管そのものを外す。笛の音だけ返るよう隙間を残した。
扉の空間聖刻は三層。第一層が彼の生命反応、第二層が私の許可、第三層が暁鐘との距離を読む。どれかを壊されても、外廊下ではなく部屋へ戻る。
寝台の金具は外せるようにしてある。
外せないと彼は別の物を壊す。外せれば、四本の金具と木枠を使って扉へ挑む。扉は壊れない。疲れた後、水を飲む。
知っている行動へ誘導する。
安全な失敗を選ばせる。
それが今回の方針だった。
正しいとは思わない。
成功率が一番高いだけだ。
午前五時二十分、眠っているレイの脈を測った。
一分に五十八。鎮静聖刻の抜けは正常。呼吸十四回。瞳孔も左右差なし。右の手袋は机へ置いた。最初から着けておけば、目覚めた瞬間の混乱で私へ残響術を使う可能性がある。
頬には触れなかった。
触れたのは髪だけ。
額へ落ちていた一房を戻した。必要のない行為。一度だけ、と決めて、三度触れた。
目覚める直前、彼の右手が動いた。
誰かを探すように、シーツの上を掴む。
手を重ねたかった。
代わりに水差しを持った。
起きた時、私の手に触れていたら、彼はその事実を利用されたと感じる。正しい。眠っている人の同意は取れない。
同意を取れないから触れない、という程度の理性は残っている。
その同じ朝に、私は彼の同意なく塔へ閉じ込めた。
矛盾ではない。
触れなくても生存率は変わらない。閉じ込めなければ死ぬ。
私は、いつでもそうやって説明できる。
説明できることが、正しいこととは限らない。
それでも朝食を運んだ。
「バターは食べません」
彼が言った。
嘘。
声の高さは平静。視線は私でなく、小皿の左端。右手の親指が人差し指の第一関節を押している。相手の返答を待ちながら、自分の仮説を忘れないためにする癖。
私が彼を知っているか、試している。
嬉しい、と思った。
そんな資格がないことは、すぐ後で考えた。
警戒できるレイは、生きている。質問を組み立て、私の言葉の穴を探し、逃げ道を数えている。胸に刃も矢も入っていない。呼吸は一分に十五回。右手の体温は低いが、残響を読んだ後の冷えではない。
怒っていても、生きている。
私は小皿のバターを半分に切った。
「では、残りは置いておきます。気が変わった時に」
彼は食べた。
この小さな勝敗を、顔に出してはいけない。私が正しかったと喜べば、彼は食事そのものを次の試験に使う。前に一度、そうなった。
食べないと言った彼へ、私は「本当は好きでしょう」と答えた。
レイは二日間、水以外を口にしなかった。三日目の朝、立ち上がった時に倒れ、机の角でこめかみを切った。傷は浅かったが、血を見た私が取り乱して治癒を重ね、彼の記憶を半日分焼いた。
間違いは一つだった。
結果は一つでは済まなかった。
だから今回は、切った半分を残す。
選ぶのは彼だ。
少なくとも、二つに一つまでは。
「市葬院へ連絡させてください」
来た。
食事を始めてから八分。前回は六分、前々回は十一分。質問が多かった分だけ遅い。許容範囲。
休暇届は用意してある。署名も文章も、第二百九十六回の彼が書いたものを写した。あの時は自分から休むことを選んだ。白塔ではなく、西区の宿へ隠れた。二十二日目、宿の火事で亡くなった。
休暇届に罪はない。
「すでに休暇届を出しました」
彼の目が細くなる。
怒りは予想どおり。問題は次の問い。
「誰の名で?」
私が偽造したとすぐ気づく。彼は自分の署名を権利だと考える。正しい。分かっている。
分かっていて使った。
許可を求めれば、彼は拒む。拒まれてから眠らせれば、今より深く傷つける。なら先に済ませ、したことを隠さない。そのほうが損傷は小さい。
私は準備した休暇届を見せた。
「院長は受け取りましたか」
「はい。今朝、使いの者が届けました」
言った後で、彼の瞳に答えが浮かんだ。
失敗した。
オスカー院長の行動予定が変わっている。
前回まで、この三日間は葬院にいた。今回は何かが違う。レイが水死体を担当したからか。青い蝋。昨夜の鐘。私が塔へ運ぶまでに変えた出来事は五つ。そのどれかが院長を動かした。
今すぐ確認したい。
しかしレイの前で予定表へ書けば、彼は私が未来ではなく過去を参照していると確定する。
もう気づいているかもしれない。
気づいてもいい。
知れば危険へ近づく。それでも、知らないまま私を信じるよりはいい。
そう考えた自分に、少し驚いた。
私はレイに信じてほしい。
彼の口から名前を呼ばれたい。食卓で向かいに座り、毒を疑わず水を飲んでほしい。夜に扉を確かめる音を聞かず眠りたい。
でも、私を信じたレイは死ぬ。
第百九回、私が安全だと言った避難路を選び、教会騎士の矢を受けた。
第二百七十四回、私の治癒を信じて負傷を隠し、夜中に内出血で亡くなった。
第五百十二回、私がもう鐘を鳴らさないという約束を信じて、私の腕の中で目を閉じた。
私は、全部を破った。
信頼は彼を無防備にする。
疑いは彼を歩かせる。
だから、いまは嫌われているほうが安全だ。
「手紙は検めます。それでもよければ」
彼は皮肉を言った。
私は全文を読む。北白塔、青蝋、鐘屋名簿、休暇届の受領者。どこまで暗号か考える。
最後の一文は院長への警告。
消すべきか。
消せば、レイは別の方法で伝える。もっと危険で、私の知らない方法を選ぶ。
届ければ院長が塔へ来る。院長は第六百四十一回でレイを逃がし、代わりに喉を切られた。彼を塔へ近づけたくない。
選択肢は二つ。
手紙を届けず、届けたと嘘をつく。
届けた上で、院長が来る前に安全な連絡方法を作る。
後者。
嘘を一つ増やすと、それを守るための嘘が三つ要る。私はすでに多すぎる嘘を持っている。
「このまま届けます」
レイが少し意外そうに私を見る。
見られると、呼吸を数えたくなる。胸の上下は安定している。目の焦点も合っている。けれど、視線を胸へ落とせば彼は気づく。
顔を見る。
目の下に薄い隈。右の眉尻に古い傷。昨夜、運ぶ時に髪を整えたから寝癖はない。私はやりすぎたかもしれない。髪まで触る必要はなかった。
必要はなかったけれど、触れたかった。
それも記録しない。
廊下へ出る。
扉を閉める前に、部屋を一度見る。南窓。暖炉。伝声管。次に本棚。
レイはまだ食卓にいる。
十分。
使者への指示に四分。聖刻の確認に二分。戻りに二分。残り二分あれば、彼は窓、煙道、伝声管まで試す。
本棚へ届くかもしれない。
私は扉を閉めた。
使者は下階で待機している。手紙を渡し、オスカー院長本人以外へは見せないよう告げる。院長が南区にいるなら、返事は日暮れになる。
予定との差を、頭の中で修正する。
院長不在。
水死体の青い蝋。
レイは珈琲を左へ置く。
最後の一つが最も怖い。
彼は右利きだ。けれど残響を拾う右手を濡らさないため、飲み物を左へ置く。私は知っていた。第一回から百八十三回までは、ずっと左だった。
百八十四回、右腕を骨折した。
治った後も、彼は杯を右へ置くようになった。私はその後のレイを長く見すぎて、最初の癖を忘れていた。
いまの彼には、まだ骨折の経験がない。
同じ人ではない。
同じ顔。同じ声。同じ記憶の始まり。同じように他人の死を放っておけず、同じように私の嘘を嫌う。
それでも、私が積み重ねたレイのすべてが、目の前の一人へ入っているわけではない。
分かっている。
分かっていたはずだった。
私は、右手のない人へ右手用の手袋を渡そうとしているのかもしれない。
考えるほど足が止まりそうになる。
止まれば、彼は予定より先へ進む。南窓の銅板に指をかけて怪我をする可能性が二割。暖炉の格子を火掻き棒で突き、煤を吸う可能性が三割。伝声管から救助を呼べないと理解し、食器を使う可能性が――。
戻る。
扉を開ける。
レイは立っていた。暖炉の灰が乱れ、伝声管の蓋がずれている。怪我はない。食器も割れていない。
「三つ試したんですね」
言ってから、また失敗したと気づく。
数を言う必要はなかった。
レイが尋ねる。
「窓、煙道、伝声管」
「順番も?」
答えない選択は、もう使えない。
私は彼がこれまで試した逃走と負傷を話した。
右肩。左の掌。足首。喉。
事実だけなら言えると思った。実際に口へすると、傷ついた箇所が自分の身体へ戻ってくる。左の掌が熱い。足首に落下の衝撃がある。煙を吸った喉が閉じる。
彼が「もういい」と止めた。
優しい。
そう思った自分を、すぐ訂正する。
彼は必要な情報を得たから止めただけ。私のためではない。そうでなければ困る。私へ同情すれば、彼は逃げるより先に私を助けようとする。
第六百二十回と同じになる。
あの時、彼は私の手首の傷を見て、鐘を壊そうとした。
鐘楼の階段で死んだ。
「俺が同じ順番で動くと思った?」
人は変わる、と彼は言った。
私は知っている。
変化するから、七百回守れなかった。
同じ道なら塞げる。同じ毒なら解毒剤を用意できる。同じ敵なら先に捕らえられる。
でもレイは、私が塞ぐたび別の道を選ぶ。守る人数を増やす。危険を知るほど、自分が行く理由にする。
彼の長所は、私にとって最大の危険だ。
それを嫌いになれれば、楽だった。
「信じます。確認してから」
私は答えた。
彼は、それを信頼とは呼ばない顔をした。
正しい。
それでも、生きてから訂正してもらえばいい。
彼の視線が本棚を通り過ぎる。
二冊の本が逆になっていた。
見つけた。
私は見ないふりをした。
本棚の背板へ紙を入れたのは、私だ。
正確には、書いたのは第五百十二回のレイだった。
《彼女の優しさを信用するな。彼女は約束より、お前の脈を選ぶ》
あの時の紙には、そう書いてあった。
彼は自分の死を戻さないよう私に頼み、未来の自分へ警告を残した。私は約束した。彼は安心して目を閉じた。
鐘が鳴るまで、十三秒あった。
十三秒の間に、私は約束を守ることができた。
守らなかった。
世界を戻した後、紙を燃やすつもりだった。
けれど、最後まで燃やせなかった。二行目だけを切り取り、一行目を壁へ戻した。
彼が私を疑えば、私の言葉だけで危険へ飛び込まない。
彼が紙を書いた自分まで疑えば、過去の自分へ生き方を決めさせない。
都合のいい部分だけ残した。
これを選択を返したとは呼べない。
それでも私は、彼に私を信じてほしくなかった。
私を信じた彼を、私は一度殺しているから。
レイは予定表の「自由」へ線を引き、その下へ書いた。
《俺を調べる》
私は文字を見つめる。
どうぞ、と心の中で答えた。
私が何をしたか知って、それでも三十日後に生きているなら、嫌われても構わない。
嘘だ。
嫌われるのは怖い。
死なれるより、少しだけ軽いだけだ。
本棚の裏には、保守通路を開く金具も残してある。
紙を見つけた彼なら、遅くても明日の朝までに気づく。通路の先には、処分できなかった遺品がある。私が七百回近く隠してきた死を、彼自身の残響術なら読める。
見せたくない。
見せなければ、私はまた安全を理由に彼の過去を奪う。
だから金具は壊さなかった。
扉の錠も、彼が部屋にある道具で開けられる物を選んだ。
選択を返したのではない。
行き先を二つに減らし、危険の少ないほうへ誘導しただけ。
それでも今の私には、それが精いっぱいだった。
レイが私を調べる。
その結果、逃げようとするなら、また止める。
嫌われる覚悟と、自由にする覚悟は、同じものではない。