俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
死んだ回数を知りたいと思った。
遺品保管庫に入るまでは。
黒革の手袋。抜けた犬歯。焦げた靴。血を吸った包帯。最大で六百九十八まである番号札。
数えれば答えへ近づける。市葬院で身元不明者を扱う時と同じだ。遺体を一人、所持品を七点、傷を十二。分けて記録すれば、理解できる形になる。
ただし今回は、分けた先が全部俺だった。
青い紐から指を離しても、腹の傷が消えない。
実際の皮膚には何もない。服をめくれば、鎮静術をかけられた時についたらしい薄い痣だけ。刃も血もない。
それでも身体は息を浅くする。
残響の死に引っ張られている。
現在地を確認する。
白塔北側の保管庫。初夏月三日。朝七時を少し過ぎた頃。手袋は床。右手は裸。扉の下に鉄棒。ミレーユは廊下の向こう。
俺は生きている。
三度繰り返す前にやめた。言葉を増やしても現在は強くならない。必要なのは、ここから出て、誰かと日付を共有することだ。
青い紐を小箱へ戻す。
その時、廊下で靴音がした。
速い。
昨日までの静かな歩幅ではない。扉まで六歩。錠を開ける時間を考えれば、逃げ道を探す余裕は五秒もない。
扉の下の鉄棒を引き抜く。
保管庫の内側を見回した。
窓なし。通気口は天井。入ってきた保守通路以外に扉は一つ。隠れるなら大箱の後ろだが、見つかった後の説明が悪くなる。
俺は逃げず、机へ手をついた。
鍵が回った。
ミレーユが入ってくる。
最初に俺の顔。次に胸。腹。右手。床の手袋。開いた小箱。
残響を読んだことを、質問する前に理解した。
「どれに触れました」
「俺の物に」
「どれですか」
「青い紐」
彼女が息を止めた。
「腹を刺されていた。あなたが抱いていた。治癒は間に合わなかった」
一つ言うたび、ミレーユの顔から表情が消える。泣きそうになるのではない。泣く場所を全部閉じ、必要な処置だけ残す顔だ。
「吐き気は。手足のしびれはありますか」
「ありません」
「胸の痛み」
「俺の質問を先に」
「いまはあなたの身体が先です」
迷いがない。
昨日の紙片を思い出す。《彼女の優しさを信用するな》。たしかに、優しい。残響の反動を診る手順も正しい。そして正しい手順を使えば、俺の問いを後へ回せる。
「俺は何回死んだ」
ミレーユの右手が伸びる。
触れられる前に下がった。机の角が腰へ当たる。逃げ場はない。
「診察が先です」
「数を言うだけだ」
「その数を聞いた後、あなたは自分の残響をもっと読もうとします」
「もう読んだ」
「一つだけです」
一つだけ。
言葉の底に、数える意味がなくなるほどの続きがある。
「六百九十八より多い?」
彼女の目が棚の番号札へ動いた。
「札の番号は死亡回数ではありません」
「では何の番号です」
「対策の記録です」
「焦げた靴への対策。抜けた歯への対策。腹を刺された時の対策」
「はい」
「何のために残した」
「次は、同じ死に方をさせないためです」
残響の彼女も言っていた。
次は間に合わせる。
俺は棚を見る。
対策の数が六百九十八まである。すべてが死ではないとしても、同じ人間の負傷をこれだけ分類した者がいる。
気味が悪い。
そう思う一方で、箱を一つずつ作った時間まで想像してしまう。血を落とし、乾かし、番号を書き、次の方法を考える。朝になれば俺だけが忘れ、彼女は作業の続きをする。
同情すれば、警告どおりになる。
恐怖だけを選べば、目の前の事実を半分捨てる。
どちらも保留した。
「診察は受けます。その後、全部話してください」
「全部は話せません」
「では、話せる範囲を俺が決める」
ミレーユの眉がわずかに寄る。
「ここにある物の一覧。札の規則。鐘が鳴った後に何が起きたか。俺の記憶がない理由。あなたが覚えている理由。それから――」
手袋を指す。
「あの俺の死因」
「無理です」
「なぜ」
「あなたは知れば、止めに行くから」
誰を、とは言わなかった。
俺は知れば動く。彼女の予想はそこだけなら正しい。ただ、理由を知らずに閉じ込められれば、もっと悪い方向へ動くことを理解していない。
いや、理解している。
暖炉も窓も伝声管も塞いだ。俺が動くことを前提に、動ける範囲を狭めている。
彼女に必要なのは、納得した俺ではない。
三十日後に呼吸している俺だ。
「俺が生きていれば、ほかはどうでもいい?」
質問が口から出た瞬間、卑怯だと思った。
答えられない場所を狙った。彼女が肯定すれば責められる。否定すれば、隠した死者を並べられる。
ミレーユは逃げなかった。
「どうでもよくはありません」
そこで一度切る。
「あなたより先に選べないだけです」
きれいな答えではない。
俺を選ぶと言いながら、善人の顔を保つ言葉でもない。少なくとも彼女は、自分の天秤が壊れていることを隠さなかった。
「診察を」
もう一度言われる。
俺は右手を差し出した。
ミレーユの指が手首へ触れる。温かい。脈を数えながら、彼女は目を閉じる。数える必要があるのか疑いたくなるほど、いつもの位置へ正確に指が置かれた。
一分。
「脈は六十四。欠落なし。右手の冷えは中等度。いま、他人の記憶と混ざっている感覚は?」
「腹の傷だけ」
「誰の傷ですか」
「俺の」
「今のあなたの?」
違う。
過去の俺。死んだ俺。別の時間の俺。
「……今の俺ではない」
「よくできました」
褒められて腹が立った。
同時に、腹の奥へ残っていた刃の感覚が少し薄れた。それにも腹が立つ。彼女の処置が正しいほど、拒む理由と頼る理由が同時に増える。
「水を飲んで、部屋へ戻りましょう」
「その前に保管庫を見ます」
「駄目です」
「診察を受けた」
「見せるとは約束していません」
約束の穴を正しく使う。
監禁者として筋がいい。褒める気にはならない。
俺は棚の端へ目を向けた。
さっき調べた七段の棚。その奥に、白い布が下がっている。保管庫へ入った時は遺品を優先し、布の向こうまで見なかった。
床に跡がある。
ミレーユの白い靴跡が、棚の前で終わらず布の下へ続いていた。
「戻ります」
彼女の声が硬くなる。
視線に気づいた。
なら、布の先にも隠したい物がある。
「水をください」
急に従うと、ミレーユは警戒した。
俺は両手を見せる。右手は裸。左手にも何もない。
「残響の後は水が必要なんでしょう」
「はい」
彼女が腰の小瓶を取る。
封は教会印。昨日と違い、葬院印ではない。
受け取らず、指で瓶の下を示した。
「その封は信用しないと言いました」
ミレーユが瓶へ目を落とした。
ほんの一瞬。
俺は白布へ走った。
「レイ!」
布を掴み、横へ引く。
後ろには石段があった。下へ続いている。
一段目へ足を置く前に、腰へ光の帯が巻きついた。強く引かれ、背中から床へ倒れる。後頭部を打つ前にミレーユの腕が入った。
「離してください」
「嫌です」
「また個人的な拒絶ですか」
「そうです」
光の帯は痛くない。ただ、腰と両腕を床へ固定する。暴れれば締まる仕組みではないらしい。
ミレーユが俺の上へ膝をつく。胸を押さえる形になり、二人とも気づいた。
残響と同じだ。
血まみれの俺へ蘇生術を使っていた彼女。
ミレーユは焼けたように手を離した。光の帯も薄くなる。
俺はその隙に抜け、石段へ転がり込んだ。
「待って!」
待たない。
今の彼女は、力を使えば残響を再現する。俺を止めるより、その恐怖のほうが一瞬だけ強い。
階段を下りる。
幅は一人分。左へ螺旋を描き、十七段で踊り場。壁の燭台は消えているが、上の保管庫から光が入る。
二十四段。
二十五。
足元の石が白く変わる。
三十三段で、礼拝堂へ出た。
天井の低い円形の部屋。正面に祭壇。椅子はない。壁一面に、小さな銀色の板が並んでいる。
墓銘板だ。
墓地へ遺体を埋められない時、名だけを残すために使う。戦場、火災、水難。死体がなくても、その人間が死んだことを共同体が忘れないための板。
俺は葬院で何百枚も刻んだ。
ここにある板の名前は、全部同じだった。
《レイ・クロード》
最初の列へ近づく。
名の下に日付。初夏月十一日。死因、転落。
隣。初夏月二十六日。刺創。
その隣。初夏月十九日。水死。
病死。毒。焼死。圧死。失血。窒息。
時には《不明》もある。
年月は刻まれていない。同じ一月の中で、日だけが前後する。
壁は二十列、三十五段。
二十かける三十五。
七百。
数え間違いを疑い、もう一度見る。二十列。三十五段。空白なし。
七百枚の墓銘板。
全部、俺の墓だ。
「見ないでほしかった」
階段の下で、ミレーユが言った。
追いついている。息は乱れていない。けれど一段目から先へ入らず、両手を胸の前で握っていた。
「七百」
自分の声が、他人のものみたいに反響する。
「俺は七百回死んだ?」
ミレーユは否定しなかった。
「あなたは何回見た」
「全部です」
短い答えだった。
七百という数を説明する言葉は、それ以上増やせないのかもしれない。
「最初から、あなたは俺のそばにいた?」
「いいえ」
「では、死んだ後に来たこともある」
「はい」
「間に合わないのに、毎回?」
「あなたが死んだと知ったまま、次の朝を迎えられなかったので」
ミレーユは事実のように言う。
愛しているとも、苦しかったとも言わない。鐘を鳴らす理由がほかに存在しないみたいに。
「俺は、あなたに戻してくれと頼んだ?」
沈黙。
「七百回のうち、一度でも」
「最初は、頼む時間がありませんでした」
「二度目からは?」
ミレーユが階段をもう一段下りる。
答えへ近づいたのではない。俺との距離を測っている。祭壇まで十二歩。彼女なら一息で届く。
「知らなかった回が多いです。知った時は、止めようとしました」
「俺が?」
「はい」
「なら、なぜ七百枚ある」
「止められなかったからです」
主語を隠した。
俺が彼女を止められなかった。彼女が俺の死を止められなかった。どちらにも読める。
たぶん、両方だ。
七百という数を聞けば、普通は借りを感じる。七百回助けられた。七百回、自分のために苦しませた。彼女の要求を一つくらい受け入れるべきだと考える。
いま、俺もそう考えかけた。
危ない。
俺は彼女に頼んでいない。少なくとも、現在の俺にはその記憶がない。過去の俺が頼んだとしても、その一人の同意を七百回へ引き延ばすことはできない。
それでも、彼女が勝手にしたのだから関係ない、と切り捨てるのも違う。
頼まれずに死者を記録することは、俺も毎日している。死者は礼を言わない。それでも名を残す。自分がそうせずにいられないからだ。
似ている。
だからこそ、間違う場所も分かる。
記録することと、生き方を決めることは別だ。
「七百回の俺は、全員あなたを知っていた?」
「いいえ」
「あなたを好きだった?」
その問いだけ、口へした後に重さが増した。
好奇心で聞くには、ミレーユの顔が近すぎる。
彼女は答えを選ばなかった。
「私を嫌っていたあなたもいました」
「質問を変えないでください」
「好きだと言ってくれたあなたもいました」
声がかすかに震えた。
「何も言わずに亡くなったあなたのほうが、多いです」
七百の俺が、同じ答えを持っていたわけではない。
彼女を知らない俺。嫌う俺。好く俺。助けを求める俺。止める俺。
それを全部覚えている人間が、目の前の俺にも続きだと求めている。
「いまの俺は、その誰でもない」
言った瞬間、ミレーユの目が揺れた。
傷つけるためではない。線を引くためだ。過去の俺が何を約束しても、現在の俺へ勝手に請求されては困る。
彼女は否定しなかった。
「分かっています」
「分かっていて、閉じ込めた」
「はい」
矛盾を認めた上で、行動を変えない。
謝罪より厄介だった。
「では、俺がここを出たいと言ったら」
「止めます」
「嫌われても?」
「嫌われても」
「俺が二度と口を利かなくても」
ミレーユの指が強く組まれた。
「生きていてくださるなら」
そこだけは、七百回でも削れなかった答えらしい。
胸が重くなる。
愛情と呼べば、監禁まできれいに見える。執着と呼べば、七百回墓銘板を刻んだ手の傷を無視できる。
いまは名をつけない。
名づける前に、記録を見る。
壁を見る。
一枚目を探す。並びは日付順でも死因順でもない。左上の板だけ、他より古く黒ずんでいる。
《レイ・クロード》
《冬終月三十日》
《鐘楼崩落》
いまから十年以上前の日付。
俺が子供だった頃だ。
最後の板は右下。銀が新しい。初夏月三十日。死因、白冠。
今日から二十七日後。
「未来の日付がある」
「前の未来です」
過去と未来を同じ言葉で扱う。
俺には意味が分からない。彼女には七百回分の意味がある。
七百枚を全部読むのは無理だ。右手で触れれば、七百の死が入ってくる。自分が誰かを区別できなくなる。
その危険を、ミレーユも知っている。
だから保管庫の奥へ隠した。
「これは弔いですか。記録ですか」
「忘れないためです」
「俺が?」
「私が」
七百回も覚えている人間が、さらに銀板へ刻む。
忘れられないのではなく、忘れることを許さなかったのだろう。自分が見落とした一つを次の俺へ近づけないために。
祭壇へ目を向ける。
銀板が一枚、伏せて置かれていた。
壁の七百枚には含まれていない。
「それは何です」
ミレーユが階段を一段下りた。
初めて、明確に止めようとしている。
俺は祭壇へ先に着いた。
板を裏返す。
名前は同じ。
《レイ・クロード》
日付は、初夏月三十一日。
この国の暦に、初夏月三十一日はない。
存在しない未来。
書き間違いなら、数字を削って直せばいい。銀板にはその跡がない。刻んだ者は、三十日の次に来るはずのない一日を承知で選んでいる。
時間を戻す者が、暦の外側へ用意した墓。
背後でミレーユの靴が一歩だけ鳴った。
振り返らない。
彼女の顔を先に見れば、刻まれた文字より表情の意味を選んでしまう。記録官なら、まず読め。判断はその後だ。
その下の死因だけが、細い字で刻まれていた。
《聖女》