俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した   作:朝を数えない人

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左窓から来る殺し屋

《聖女》

 

死因欄に刻まれた二文字を、見間違いでは片づけられなかった。

 

銀板は冷たい。右手には手袋を戻しているから残響は流れ込まない。文字の溝に黒い粉が残り、刻んでからそれほど日が経っていないことだけが分かる。

 

日付は、存在しない初夏月三十一日。

死因は、聖女。

 

この二つを並べれば、仮説は三つ作れる。

 

一つ。ミレーユが俺を殺す。

二つ。聖女の術が事故で俺を殺す。

三つ。俺の死を聖女のせいに見せたい誰かが、この板を置いた。

 

三つ目なら少し気が楽になる。証拠を置いた人間の顔を一発殴れば済むからだ。ただし、板を隠していたのはミレーユで、彼女はいま俺の背後にいる。

 

「これを刻んだのは、あなたですか」

 

返事がない。

 

振り返る。ミレーユは階段の下から三段目で止まっていた。俺と祭壇の距離を見ている。正確には、俺の右手と銀板の距離だろう。

 

「触れません。いま七百回分を読んだら、質問する前に倒れる」

「板を置いてください」

「答えが先です」

「置いてから答えます」

 

順番の争いになった。

 

俺が板を持っている限り、彼女は答える。彼女が答えない限り、俺は板を置かない。互いの信用が床へ落ちている時は、物を人質にしたほうが話が早い。

 

「あなたが刻んだ?」

「はい」

 

認めた。

 

心臓が一度、強く鳴る。死因を読んだ時より、否定されなかった今のほうが身体は正直だった。

 

「俺を殺す予定がある」

「ありません」

「では誤記ですか」

「違います」

「予定はない。誤記でもない。筋が通りません」

 

ミレーユは唇を結んだ。言えない理由を探しているというより、言った後の俺の行動を過去から選んでいる顔だ。

 

「未来のあなたが望んだ場合だけ、必要になります」

「何を」

「いまは話せません」

 

またそれだ。

 

話せば俺が動く。動けば死ぬ。だから黙る。

彼女の説明はいつも同じ場所へ戻る。白塔の廊下よりよくできている。

 

「未来の俺が、あなたに殺してくれと頼む?」

「その言い方は正確ではありません」

「正確な言い方をください」

 

ミレーユが一段下りた。

 

その時、塔の上で金属が裂けた。

 

鐘ではない。高く短い音が三度。少し遅れて石壁の内側を光が走り、礼拝堂の燭台が一斉に青く燃えた。

 

ミレーユの顔が変わる。

 

驚かなかった。

 

俺の手から板を奪うのでも、階段の上を見上げるのでもない。彼女は一段飛ばしで下りると、俺の肩を抱いて祭壇の陰へ押した。

 

「南窓です。ここから動かないでください」

「何が来た」

「一人。窓枠へ鉤。右袖に針。口の中に毒です」

 

答えが具体的すぎた。

 

警戒聖刻が教えるのは侵入場所と生命反応だけのはずだ。袖と口の中までは読めない。

 

「前にも来た?」

「はい」

 

ミレーユは隠さなかった。隠す時間が惜しいらしい。

 

「何回」

「三回。ここへ到達したのは一回です」

「生け捕りにしてください」

「できません」

「試す前から?」

「試したからです」

 

会話を打ち切り、彼女は階段へ向かう。

 

俺は未来板を祭壇へ戻した。伏せず、文字を上にしたままにする。次に来た時、誰かが裏返していれば分かる。

 

「待ってください」

「待てません」

「外から来た人間です。俺が死ぬ理由を知っているかもしれない」

「知っていても、あなたへ話すために来たのではありません」

「殺すためでしょう。だから捕まえる」

 

ミレーユが振り返る。

 

「捕らえた回で、あなたはその人の降伏を信じました」

 

静かな声だった。

 

「右袖の針を抜かれ、首へ受けました。毒は十七秒で心臓へ届きました。治癒を始めた時には、あなたは私の名前を呼べませんでした」

 

目の前の俺ではなく、その死体を見ている。

 

俺は何も言えなくなりかけた。

 

かけただけだ。

 

過去の俺が降伏を信じたことと、今の俺が同じ失敗をすることは別になる。彼女自身が七百回証明している。俺は塞がれた道を見れば、別の道を探す。

 

「では、右袖を切り落としてから捕まえる」

「口に毒があります」

「吐かせない。顎を固定する」

「奥歯を噛むだけです」

「布を入れる」

「間に合いません」

 

質問へ一つずつ答えながら、彼女は階段を上がっていく。

 

俺も続いた。

 

「来ないでください」

「嫌です」

「個人的な拒絶ですか」

「そうです」

 

さっきの言葉を返すと、ミレーユは足を止めなかった。

 

「私には、あなたを従わせる必要があります」

「俺には、外部証言を一人確保する必要がある」

「証言より命が先です」

「俺の命を理由に、証人を消さないでくれ」

 

階段を上り切ったところで、彼女の歩幅がわずかに乱れた。

 

乱れは一歩だけだった。

 

保管庫へ戻る。開いたままの小箱、床の鉄棒、青い紐。侵入警報の青い光が棚を横切るたび、遺品の金具が冷たく光った。

 

ミレーユは扉脇の壁へ指を置く。聖刻が開き、塔の見取り図が薄い光で浮かんだ。

 

生命反応は二つ。

 

俺とミレーユを除けば、一つだけだ。

 

上階の寝室。南窓。

 

題名をつけるなら、左窓から来る殺し屋というところだ。寝台へ横になった俺から見れば左側。ミレーユが第一話で口を滑らせた窓でもある。

 

「俺があそこから逃げた回と同じ道を使った?」

「外の雨樋に、以前の鉤傷が残っています。教会内部の人間なら場所を知れます」

「内部の人間」

 

ミレーユは答えず、杖を取る。

 

俺は床の鉄棒を拾った。武器としては短い。首を打てば殺しかねない。腕と膝だけを狙う。

 

「置いてください」

「顎を固定するのに使います」

「あなたが近づく前提を捨ててください」

「そちらこそ、殺す前提を捨ててくれ」

 

二人とも譲らないまま、保守通路へ出た。

 

ミレーユが俺の腰へ光帯を巻こうとする。予想していたから、鉄棒で床の継ぎ目を叩いた。残響を読むためではない。硬い音が狭い通路へ響き、聖刻の言葉を一音だけ乱す。

 

光帯が俺の左腕をかすめて消えた。

 

「次は縛ります」

「次を言う人は、今回を諦めた人です」

 

走る。

 

扉まで十九歩。右へ曲がり、壁裏の梯子を上がる。昨日見つけた保守経路がそのまま寝室の戸棚へ通じていることは確認済みだ。

 

上で硝子が割れた。

 

四段飛ばしで上がりたいが、梯子では無理だ。手、足、手。焦れば靴底が滑る。後ろからミレーユの足音はしない。杖の光だけが壁を越えて先へ走った。

 

俺より早い。

 

寝室へ出た時、南窓の鉄格子が一本だけ外れていた。

 

黒い外套の男が、窓枠へ片膝をついている。年は三十前後。左手に鉤縄。右手は袖へ隠れ、顔の下半分を灰色の布で覆っていた。

 

俺を見つける。

 

目が細くなった。

 

驚きではない。標的を確認した目だ。

 

男の右肘が動く。

 

俺は横へ飛んだ。

 

遅い。

 

袖から銀の針が滑り出る。長さは指一本。男の手首が返り、俺の首へ向く。

 

間へ白い光が落ちた。

 

音がなかった。

 

男の右袖だけが、肩から床へ落ちる。

 

腕は残っている。布と、その中に仕込まれた針を光の刃が切り離した。切り口は焦げ、血も出ていない。

 

殺してはいない。

 

ミレーユが俺と男の間に立っていた。

 

いつ保管庫から移動したのか分からない。空間聖刻を使ったなら代価があるはずだ。彼女は呼吸を乱さず、男の口元だけを見ている。

 

「噛まないで」

 

男の顎が動いた。

 

ミレーユの左手が伸びる。

 

白い針のような聖刻が、男の顎の付け根へ刺さった。

 

動きが止まる。

 

俺は鉄棒を捨て、背後から男の両腕を取った。右袖の内側には細い筒が縫い込まれている。予告どおりだ。左手の鉤縄も蹴り離す。

 

「布を」

 

机の上のナプキンを掴み、男の口へ入れようとする。

 

男が笑った。

 

顎は動いていない。

喉だけが鳴った。

 

口布の下から黒い血が流れる。

 

「離れて!」

 

ミレーユに胸を押され、二歩下がった。

 

男は倒れなかった。窓枠へもたれたまま、左手の指をゆっくり開く。

 

掌に指輪があった。

 

金の円に、昇る太陽と三本の鐘索。

 

曙光教会の暁日印。

 

大司教だけが勅使へ持たせる印だ。慰霊式で一度見たことがある。模造なら、内側の祈祷番号まで刻まない。男の指輪には小さく《一一二》とある。

 

「ベルナール大司教の命令ですか」

 

男の瞳が俺へ動いた。

 

返事の代わりに、口元から泡が落ちた。

 

「灰鐘毒です」

 

ミレーユが言う。

 

まだ匂いも嗅いでいない。

 

「奥歯の空洞に硝子球。噛んでから四十二秒。最初に喉が焼け、次に四肢が止まり、心臓が――」

 

男の膝が折れた。

 

ミレーユは受け止めない。

 

杖を向けたまま、死ぬ順番を読み上げる。治癒を試す手も動かさない。

 

「解毒は」

「ありません」

「治癒は」

「毒を血ごと焼けば、肺が先に崩れます」

「やってみたことがある?」

 

答えはなかった。

 

男の左手が床を掻く。指輪が外れ、俺の靴へ当たる。

 

拾おうと腰を落とした時、ミレーユの杖が俺の手を止めた。

 

「触らないで」

「証拠です」

「毒がついています」

「なぜ分かる」

 

彼女の目が、俺の手袋へ落ちる。

 

「前は、触れたからです」

 

前の俺が。

 

その後を聞く必要はなかった。

 

俺は机から火箸を取り、指輪を挟んだ。証拠袋がないから、空の水差しへ落とす。男の袖針はナプキンごと磁器の皿へ。鉤縄の先には白い石粉がついている。窓枠の聖刻を消すための物だろう。

 

まだ四十二秒は終わっていない。

 

男の呼吸は浅い。皮膚はもう灰色へ変わり始めている。助ける手順がないなら、残り時間で聞けることを選ぶ。

 

「あなたの名前は」

 

ミレーユが俺を見た。

 

命令者より先に名前を聞いたことが意外らしい。俺には順番がある。死体になった後、身元不明者一号と帳面へ書くのは簡単だ。簡単だから、できるうちに避ける。

 

男の唇が動く。

 

音にならない。

 

俺は耳を近づけようとし、杖で肩を押し戻された。

 

「毒の息にも触れないで」

「では、あなたが聞いてください」

 

ミレーユは動かなかった。

 

「この人の名前を知っている?」

「ダリオ・セルン」

 

やはり知っている。

 

「元教会騎士。三年前に異端審問局へ移籍。家族は西州に姉が一人。今回の命令書には、任務後に姉の治療を約束すると書かれています」

「命令書まで見た?」

「前に」

 

男――ダリオの目が、初めてミレーユへ向いた。

 

敵意ではなかった。

驚きに近い。自分しか知らない条件を、聖女が読み上げたからだ。

 

「姉の病気は」

「肺灰症です」

「治せる?」

 

ミレーユが一度だけ瞬く。

 

「治せます」

 

ダリオの喉から、空気が漏れた。

 

笑ったのか、怒ったのかは分からない。だが左手が床を探り、ミレーユの聖衣へ伸びた。彼女は避けられた。それでも避けず、指先が裾へ触れるのを許した。

 

「治します」

 

約束への返事はない。

 

四十二秒が終わる。

 

ダリオの胸が動かなくなった。

 

俺は頭の中へ名前を書いた。

 

ダリオ・セルン。元教会騎士。姉が一人。大司教の命令で白塔へ侵入。灰鐘毒で死亡。

 

殺し屋という役割だけなら、窓の外へ捨てられる。名前を知れば、姉の治療という未完了が残る。死者の記録は重しだ。便利な敵役にして片づけることを許さない。

 

「前の時も、姉を治したんですか」

 

ミレーユはダリオの指先を見下ろした。

 

「治療へ向かう前に、あなたが亡くなりました」

「戻したから、約束も消えた」

「はい」

「今回は守ってください」

 

すぐには答えない。

 

彼女の予定表に、ダリオの姉は入っていなかったのだろう。俺の生存へ直接つながらない治療。むしろ塔を離れる時間が増える。彼女の天秤なら軽い。

 

「俺をここへ置いていくのが危険なら、連れていけばいい」

「外出は認められません」

「では教会の治癒師を送る。方法は一つじゃない」

 

ミレーユの視線が俺の右手、窓、ダリオの死体を順に動く。

 

危険を数えている。

 

「治療させます」

 

ようやく答えた。

 

俺が頼んだからではない、と考えたい。目の前で約束を消された男の指を見て、彼女自身が選び直したのだと。

 

ただ、それは証拠じゃない。

 

いま確認できるのは、彼女が一つ予定を変えたことだけだ。

 

窓へ近づき、鉤縄の掛かっていた位置を見る。外の雨樋には新しい傷の下へ、古い傷が三本あった。ミレーユの言った侵入回数と合う。ただし鉄格子の留め釘は、内側から半分抜かれている。

 

「外から鉤を掛けただけでは、これを外せない」

 

釘の頭に油が塗られていた。朝、ミレーユが十二本を確認したはずだ。窓枠の下には黒い糸が一本。侵入者が外から通した物ではなく、部屋の内側へ結ばれている。

 

「協力者が塔の中にいます」

 

ミレーユは否定しない。

 

「誰です」

「候補は四人」

「名前を」

「いま伝えれば、あなたは会いに行きます」

「一人死んだ直後でも、まだそれを言うんですか」

 

青白い瞳が細くなる。

 

「一人死んだ直後だからです」

 

筋は通る。

 

俺の欲しい筋ではない。

 

男はもう動かなかった。

 

死者の目を閉じるのは仕事の一つだ。

 

近づくと、ミレーユが杖を横へ出した。

 

「やめてください」

「残響は読まない」

「触れないで」

「目を閉じるだけです」

 

彼女は杖を退けない。

 

死体を見ていなかった。

 

最初から、ずっと俺だけを見ている。男が毒を噛んだ後も、心臓が止まった後も。俺の首、胸、両手。血が飛んでいないか、針が触れていないかを探している。

 

「右手を見せて」

「先に彼を」

「レイ」

 

声が短くなった。

 

俺は手袋を上げる。袖針を避けた時、銀の先が親指の縫い目をこすっていた。革に一本、白い線がある。穴は開いていない。

 

ミレーユは手袋を外そうとした。

 

俺は引いた。

 

「自分で外します」

 

縫い目をつまみ、左手でゆっくり抜く。皮膚に傷なし。血もない。指を曲げても痛みはない。

 

「無傷です」

 

ミレーユは俺の言葉を採用しなかった。

 

手首を取り、脈を数える。指先へ光を当て、爪の色を見る。瞳孔、舌、首。男の死体の横で、俺だけを検める。

 

助かった安堵より先に、寒気が来た。

 

この人は俺を守る。

 

たぶん、自分以外の全員を床へ並べても。

 

「灰鐘毒だと、どうして分かった」

 

診察の途中で聞く。

 

ミレーユの指が止まった。

 

「見たことがあるからです」

「何回」

 

視線が、男の指輪へ動く。

 

《一一二》

 

大司教の印に刻まれた番号。

 

偶然かもしれない。

偶然は一つなら偶然だ。二つ並べば記録する。

 

大司教の殺し屋。

死ぬ手順を知る聖女。

そして、俺の死因を《聖女》と刻んだ未来板。

 

「何回、この男に俺を殺された」

 

ミレーユは答えなかった。

 

代わりに、俺の裸の右手へ新しい布を巻いた。

 

その白い布の下で、傷一つない親指が、遅れて一度だけ疼いた。

 

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