俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した   作:朝を数えない人

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七百本の傷

殺し屋の死体を前に、ミレーユは俺へ服を脱げと言った。

 

言い方へ問題がある。

 

本人も気づいたらしく、白い顔がほんの少し赤くなった。

 

「毒が付着していないか確認します。上着だけで構いません」

「最初から後半を付けてください」

 

寝室の床には、ダリオ・セルンが横たわっている。

 

目は俺が閉じた。ミレーユが右手の診察を終え、毒がないと判断してから、ようやく許可された。死者へ触れるのに許可が要る職場は初めてだ。

 

ダリオの遺体は教会騎士が運び出す予定になっている。予定、という言葉が不安になるのは、白塔へ来てからの悪い変化だ。

 

「騎士は何人来ます」

「三人です」

「内通者の候補が四人いる」

「その三人は候補に含まれません」

「前の記録では?」

「一人は二度、あなたを逃がそうとしました。一人は命令に背いて私を助けています。もう一人は、あなたと会った記録がありません」

「安全だと」

「比較的には」

 

比較的。

 

絶対と言わなくなったのは進歩かもしれない。七百回分の遅刻だとしても、ないよりはましだ。

 

俺は上着を脱いだ。

 

ミレーユが受け取らず、床へ白布を広げる。そこへ置けということらしい。袖、襟、背中。光を薄く走らせ、灰鐘毒の反応を探す。

 

「親指の痛みは」

「もうありません」

「しびれ、熱、冷え」

「右手はいつも冷たい」

「いつもより」

「変わらない」

 

答えるたびに、彼女の肩が少しずつ下がる。

 

安全を確認している。嘘ではない。

同時に、質問を続ける限り俺をこの部屋へ置いておける。こちらも嘘ではない。

 

「次はあなたです」

 

ミレーユの手が止まった。

 

「私は襲われていません」

「空間を飛んだでしょう。保管庫から寝室まで、一瞬で」

「移動聖刻です」

「代価は」

「わずかです」

 

わずか、という単位は市葬院の帳面にない。

 

俺は彼女の左手を見る。

 

さっきから袖口を右手で押さえている。ダリオの死体を避けた時ではない。空間聖刻を使った直後からだ。

 

「見せてください」

「必要ありません」

「こちらの上着まで調べておいて?」

「あなたと私は違います」

「そうですね。あなたは治療できる側で、俺はできない側だ。だから隠して悪化されると困る」

 

正論だけでは足りない。

 

「ダリオの姉を治すんでしょう。術者が倒れたら約束を守れない」

 

ミレーユの視線が床の死者へ落ちた。

 

効いた。

 

効かせ方が卑怯なのは分かっている。死者を交渉札にするのは嫌いだ。それでも、本人の身体を本人より軽く扱う人間には、別の重しが要る。

 

「……左手だけです」

 

彼女は袖をまくった。

 

空間聖刻の火傷を探していた。

 

実際、手首の中央には新しい赤い線がある。だが最初に見えたのは、それではなかった。

 

白い皮膚へ、細い傷が並んでいる。

 

横線ではない。

小さな円環だ。

 

針先ほどの輪が、手首の内側から肘へ向かって連なっている。古いものは白く沈み、新しいものは薄い桃色。その上を、今朝の赤い火傷が斜めに横切っていた。

 

「これが、還暁の傷ですか」

 

言葉を選ぶ必要はなかった。

 

彼女が墓所で隠した腕。七百枚の銀板。三十日の中を前後する死。

 

答えはもう並んでいる。

 

ミレーユは袖を戻そうとした。

 

俺は手首を掴んだ。

 

力は入れていない。それでも彼女の身体が固まる。

 

「数えていいですか」

「数えなくても」

「自分で確認したい」

 

人の傷を勝手に記録する権利はない。

だから聞いた。

 

ミレーユは拒まなかった。

 

寝台へ座らせ、窓から入る光へ手首を向ける。傷は一列ではない。細い枝のように五列へ分かれ、古い円環の上へ新しい円環が重なっている。

 

一つ、二つ、と指で追うのは早々に諦めた。

 

百ごとに聖歌の節を変えるため、わずかに間が空いている。彼女が教えてくれた。傷を残す仕組みにまで教会の作法があることへ腹が立つ。

 

「一節に百」

「はい」

「七節ある」

 

返事はない。

 

七百。

 

墓銘板と同じ数。

 

「一回戻るたび、一つ増える」

「はい」

「戻る、というのは比喩じゃない。世界そのものを?」

 

ミレーユは右手を膝へ置いた。逃げる動作ではない。話す順番を決める時の姿勢だ。

 

「暁鐘には、災厄の前へ世界を戻す力があります。最大で三十日。鐘を鳴らした者だけが、戻る前を覚えています」

「誰でも使える?」

「いいえ。聖女と、錨が必要です」

「錨」

 

嫌な単語だった。

 

船をその場へ留める物。沈んでも、船が流れないための重し。

 

「俺ですか」

 

ミレーユは頷いた。

 

「あなたの死が、還暁を起こせる状態にします。私が鐘を鳴らせば、起点へ戻る」

「鳴らさなければ」

「時間は進みます」

「俺は死んだまま」

「はい」

 

彼女の声が細くなる。

 

制度の説明をしている間は整っていた。俺が死んだまま、と言葉にした瞬間だけ、傷のある手が震えた。

 

「最初の起点は、いつです」

「あなたが十一歳の冬です」

「墓所の最古の板。鐘楼崩落」

「はい」

「それから七百回、俺が死ぬたび戻した」

 

確認ではない。

 

言ってみても、数が身体へ入ってこない。

 

七百食の朝食なら想像できる。七百枚の帳面も積める。七百回の死は、一つずつ自分の終わりだ。積み上げた瞬間に、数えた人間のほうが壊れる。

 

「全部、同じ起点へ?」

「起点は少しずつ移しました。最初は数日しか戻せませんでした。いまは初夏月二日の朝に固定しています」

「俺の記憶がないのは、鐘を鳴らしていないから」

「錨には残りません。普通なら」

「残響術の死痕は普通ではなかった」

 

筋が通る。

 

筋が通ったことを喜べない。

 

俺は手首を離した。

 

触れていた指先が冷たい。残響は読んでいない。生きた人間の傷からは、死者のような像は来ない。それでも七百の円環を見た後では、自分の死が皮膚へ移ったように感じる。

 

違う。

 

感じる、ではない。

 

右手の奥へ、鐘が鳴っている。

 

一度。

 

冬の石畳。仰向けになった俺の頬へ雪が落ちる。視界の端で、幼い金髪の少女が瓦礫を掻いている。爪が剥がれても、こちらへ手を伸ばしている。

 

二度。

 

夏の川。水の下から太陽が揺れる。喉へ水が入り、岸で誰かが俺の名を叫ぶ。声は今のミレーユより高い。

 

三度。

 

暗い馬車。胸に矢。俺は彼女へ逃げろと言い、彼女は首を振る。

 

四度、五度、六度。

 

像が重なる。

 

焼ける髪の匂い。折れた脚。黒い雨。握ったはずの手が血で滑る。ミレーユの顔は少女から今の顔へ近づき、また幼く戻る。俺の声も違う。怒鳴る。笑う。謝る。彼女を知らないと問い返す。

 

全部、俺だ。

 

全部、今の俺ではない。

 

「レイ!」

 

頬を叩かれた。

 

痛みは軽い。それでも現在へ戻るには足りた。

 

寝室。初夏月三日。窓が割れている。床にダリオ。目の前にミレーユ。右手は彼女の左手首を、まだ掴んでいる。

 

離したつもりだった。

 

指が動いていなかった。

 

「手を開いて」

 

命令へ従う。

 

ミレーユが俺の右手を両手で包む。親指から小指まで一本ずつ曲げ、爪を押し、感覚を確かめる。

 

「何を見ました」

「六つ、いや、もっと」

「名前は」

「全部俺です」

「今のあなたは」

 

墓所で口にしたのと同じ問いだ。

 

残響の後、自分を分けるための質問。

 

「レイ・クロード。二十歳。市葬院の残響記録官補」

「日付」

「初夏月三日」

「最後に自分で選んだことは」

 

上着を脱いだ。違う、それは選ばされた。

 

ダリオの姉を治療させると決めた。

 

「死者の約束を、今度は残す」

 

ミレーユの手から力が抜ける。

 

「戻っています」

「あなたの傷から残響が来た」

 

生きた人間からは読めないはずだ。

 

「還暁傷は、あなたの死を鐘へ渡した跡です。死痕とつながっています」

「知っていた?」

「直接触れたのは初めてです」

 

初めて。

 

七百回会って、傷を見せ、俺が素手で触れたのは今回が初めて。

 

その事実が、妙に近い場所へ落ちた。

 

ミレーユは俺の手を離そうとしない。残響の冷えを治めるためだろう。彼女の手は温かい。脈も触れる。俺の脈を数える指ではなく、今度は俺が彼女の脈を感じていた。

 

速い。

 

表情は整っているのに、心臓はごまかせない。

 

「今の中に、あなたが俺を殺した場面はありませんでした」

 

未来板を思い出して言う。

 

「六つ見て、なかっただけです」

 

ミレーユは手を引いた。

 

否定しない。

 

残響で近づいた距離が、その一言で元へ戻る。

 

「未来板は、還暁と関係がある?」

「あります」

「俺を殺すためでなく、死と鐘のつながりを切るため?」

 

彼女の瞳が揺れた。

 

当たりに近い。

 

「いま答えれば、あなたは自分で試します」

「自分で死ぬと?」

「あなたは必要だと思えば、自分の身体を道具にします」

「誰から覚えたんでしょうね」

 

七百の傷へ視線を落とす。

 

ミレーユは袖を下ろした。

 

互いに、自分の身体を勘定から外す。

 

似ていると認めたくない部分ほど、よく似ていた。

 

「痛かったですか」

 

何を聞いているんだ、俺は。

 

七百回、俺が死んだ。その後に彼女が鐘を鳴らした。聞くべきは理由や仕組みで、痛みではない。

 

ミレーユは少し考えた。

 

「最初の百回までは」

 

過去形だった。

 

「今は?」

「鳴らす時は、ほとんど感じません」

 

慣れたのではない。

感じる部分をどこかへ置いてきた答えだ。

 

胸の奥に、借金の額を見せられたような重さが生まれる。

 

七百回、俺のために傷を負った。

 

だから一度くらい言うことを聞け。

だから外へ出るな。

だから彼女を責めるな。

 

誰も口にしていない請求書を、自分で作りかける。

 

破った。

 

「これは俺の借りではありません」

 

ミレーユの目が上がる。

 

「俺は頼んでいない。少なくとも今の俺は。あなたが傷ついたことへ何も感じないわけじゃない。でも、その痛みを理由に俺の選択を渡すことはできない」

 

言いながら、自分が残酷に聞こえた。

 

七百回、死体を抱いた人間へ、勝手にしたことだと言っている。

 

違う。

 

勝手にしたことだから関係ない、ではない。彼女が苦しんだ事実と、俺に従う義務が生まれないことは両立する。混ぜれば、どちらかを嘘にする。

 

「分かっています」

 

ミレーユは静かに言った。

 

「分かっていないから監禁した、と言いたいですか」

「はい」

「そうですね」

 

認める。

 

認めて、やめない。

 

それが一番怖い。

 

「七百回のうち、俺が戻してくれと頼んだ回は」

「三回です」

 

少ない。

 

「止めた回は」

 

ミレーユは答えなかった。

 

「数えられないほど?」

「……はい」

「約束したことも」

 

本棚の紙片を思い出す。

 

《彼女は約束より、お前の脈を選ぶ》

 

「あります」

「破った」

「はい」

 

彼女は言い訳をしない。

 

言い訳がないのではない。レイが生きている。それだけで全部を上書きできると、まだどこかで信じている。

 

「戻した後、ほかの人はどうなります」

 

初めて、ミレーユの視線が外れた。

 

窓ではない。

ダリオの死体でもない。

床の、何もない場所。

 

「起点の状態へ戻ります」

「記憶は」

「私以外、残りません」

「死んだ人は生き返る」

「はい」

「生きていた人は?」

 

質問の意味が分からないふりはできる。

 

彼女はしなかった。

 

「戻った先で、生きます」

 

答えが少しずれた。

 

俺が聞いたのは、捨てられた三十日を生きた人間のことだ。戻った先の同じ顔ではない。

 

「その三十日で生まれた子供は」

「レイ」

「結ばれた人。助かった人。別の道を選んだ人。全部、なかったことになる?」

 

ミレーユの指が、袖口を握る。

 

「あなたが死ななければ、その未来は残ります」

 

また俺へ戻した。

 

答えではない。

 

「俺の死が悪いと?」

「違います!」

 

声が大きくなる。

 

初めてだった。

 

ミレーユ自身が驚き、すぐ唇を閉じる。

 

「違います。あなたは悪くない。だから、私が止めます」

 

違うと言いながら、結論は同じだ。

 

俺が死ぬから世界を捨てる。

俺が死ななければ捨てずに済む。

だから俺を閉じ込める。

 

墓銘板七百枚の外側に、名前のない三十日が七百個ある。

 

「全部覚えているんですか」

「必要なことは」

 

その言い方。

 

俺の水の温度、靴の履き方、逃げ道。必要なこととして覚えている。

 

「必要でない人は?」

 

ミレーユは答えない。

 

そこへ扉が叩かれた。

 

三回、間を置いて二回。教会騎士の合図だ。

 

ミレーユはすぐに袖を下ろした。七百本の傷が白布の下へ消える。

 

「遺体を運ばせます。あなたは寝台から離れないで」

「ダリオの姉の件を忘れないでください」

「忘れません」

 

扉へ向かう。

 

「本当に?」

 

足が止まった。

 

責めたかったわけじゃない。

 

彼女の返事が、妙に速かったからだ。

 

ミレーユは振り返らない。

 

「紙へ書きます」

 

それから机へ戻り、予定表を開いた。初夏月三日の欄。俺の食事、診察、窓の修復、その下へ新しい一行を足す。

 

《ダリオ・セルンの姉を治療する》

 

文字を書き終えて、さらに名前を囲む。

 

忘れないための印だ。

 

俺は予定表を引き寄せ、余白へ時刻を書いた。

 

《初夏月三日、午前七時四十一分。ダリオ・セルン死亡。大司教の暁日印、一一二。南窓に内側から抜かれた釘。協力者候補四名》

 

ミレーユは止めなかった。

 

「この帳面を隠しますか」

「隠しても、あなたは別の紙へ書きます」

「破る?」

「書いたことを覚えて、紙がない理由を調べます」

「よく分かってる」

「ええ」

 

彼女はそこで笑わなかった。

 

知っていることを喜べば、また俺が食事をやめると思ったのかもしれない。あるいは、七百回知っても今の俺を外したことが怖いのか。

 

どちらかは決めない。

 

予定表を机の中央へ置く。彼女側でも俺側でもない場所だ。

 

共同の記録と呼ぶには、まだ信用が足りない。

それでも、片方だけが持つよりはましだった。

 

彼女は七百回を覚えている。

 

なのに、一人の名前を忘れないためには紙が要る。

 

俺はその矛盾を記録した。

 

いまは問い詰めない。

 

答えを急げば、彼女はまた安全な部分だけを渡す。

 

代わりに、七百本の傷を見た自分が何を選ぶか決める。

 

逃げる。

 

ただし、彼女を置き去りにはしない。

 

同情したから従うのでも、怖いから切り捨てるのでもない。

 

この人が七百一回目を鳴らす前に、鐘から引き離す。

 

まだ方法はない。

 

方法がないなら、まず鐘を見る。

 

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