俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した   作:朝を数えない人

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世界が戻る音

毒に気づいたのは、珈琲をこぼしたからだった。

 

初夏月四日。朝六時四十分。

 

白塔へ来て三度目の朝食で、俺は杯を左へ置いた。昨日と同じ。ミレーユも間違えず、最初から左側へ用意していた。

 

一つ教えれば、次から直す。

 

そこだけ見れば、監禁者より優秀な同居人だ。

 

「ダリオの姉は」

「治療師が到着しました。肺の灰を抜くのに三日。私も昼に遠隔聖刻をつなぎます」

「約束を守った」

「まだです。治療が終わっていません」

 

訂正も正しい。

 

俺は珈琲を飲もうとした。

 

指が杯を通り過ぎた。

 

見えている位置と、右手の位置が合わない。指先が取っ手の一寸手前を掴み、空振りしたまま机へ落ちる。

 

杯へ当たった。

 

黒い液体が予定表へ広がる。

 

「熱っ」

 

反射で立つ。

 

右脚が動かなかった。

 

膝から床へ落ちる。机の角が肩へ当たり、食器が鳴った。

 

ミレーユの椅子が倒れる。

 

俺より先に床へ膝をつき、右手首を取る。脈を数える前に瞳孔を見る。俺の顎を上げ、舌を出させる。いつもの診察より速い。

 

速すぎる。

 

「昨日は無傷だと言った」

「喋らないで」

「毒ですか」

 

返事がない。

 

右手は冷たい。残響の後とは違う。冷えが指先から肘、肩へ上がってくる。痛みはない。代わりに、身体の右半分が帳面から一行ずつ消されていく。

 

ミレーユが俺の上着を裂いた。

 

胸へ掌を当て、光を流す。温かさが皮膚を通り、心臓の周りで弾かれた。

 

彼女の顔から血の気が引く。

 

「何の毒です」

「鐘蝕」

 

初めて聞く名だ。

 

「灰鐘毒では」

「あれはダリオが自分に使ったもの。袖針には別の毒が塗ってあった」

「針は刺さらなかった」

「革油に溶けるよう作られています。手袋へ触れれば、縫い糸を伝って皮膚へ入る」

 

親指の縫い目。

 

白い擦れ。

 

傷がなかったから、無傷だと判断した。

俺も。ミレーユも。

 

前と違う死に方を選んだのは、俺だけではない。

 

「発症まで」

「三十時間から四十八時間。体温と聖刻量で変わります」

「解毒は」

 

質問した時、彼女はもう薬箱を開いていた。

 

赤、青、透明。三本の瓶を同時に割り、左手の聖刻へ流す。混ぜる順番に迷いがない。知らなかった毒ではない。

 

「あります」

 

答えは速い。

 

嘘だ。

 

あるなら、彼女はあの顔をしない。

 

泣く場所を全部閉じ、処置だけを残す顔。青い紐の残響で見た顔と同じだ。

 

「成功率は」

「黙って」

「記録に要る」

「今は要りません」

「俺には要る」

 

ミレーユが薬液を俺の右腕へ押し当てる。

 

皮膚を切っていないのに、青い光が血管へ入った。冷えが一瞬止まり、次に倍の速さで胸へ近づく。

 

「成功率を」

「二割」

 

言わせた。

 

「前に試した?」

「三回」

「助かった回は」

 

答えがない。

 

二割は計算ではなく、希望へ数字の服を着せただけらしい。

 

「三回とも死んだ」

「今回は違います」

「何を変えた」

「解毒剤を一つ増やしました。発症も七分早く見つけた。あなたの体温は前より高い。朝食を全部食べている。条件は違う」

 

言葉が長くなる。

 

失敗例と変更点を一息で並べる。危機の時の彼女は、黙るのではなく説明を増やす。増やせば、今回だけは違うと自分へ言えるからだ。

 

「記録します」

 

左手で予定表を引き寄せる。

 

珈琲に濡れた紙は使えない。次の頁を開き、金属筆を握る。字は書ける。左手だから曲がるが、読めればいい。

 

《六時四十分、右手の距離感覚消失。右脚麻痺。痛みなし》

 

「やめて」

「六時四十二分。冷えが肩へ到達」

「私を見て」

「見ています。解毒聖刻一回目、効果なし」

 

ミレーユが俺の右上腕へ光の輪を置く。血流を止める輪ではない。毒だけを引き寄せ、一か所へ集める術だろう。

 

黒い線が皮膚の下へ浮かぶ。

 

指先から肘まで、細い根のように伸びている。根は光の輪へ集まり、そこで止まった。

 

ミレーユが息を吐く。

 

成功したように見えた。

 

黒い線が、輪の反対側へ一本だけ抜ける。

 

胸へ走った。

 

「切ります」

 

彼女が光の刃を作る。

 

「腕を?」

「毒の道だけです」

 

刃が皮膚へ入る。血は出ない。代わりに黒い線が断たれ、右腕の感覚が完全に消えた。

 

一秒。

二秒。

 

胸の奥で、別の黒い線が増える。

 

「毒が聖刻を食べている」

「分かっています」

「大司教は、あなたが治すことまで前提に作った」

「分かっている!」

 

二度目の大声だった。

 

彼女はすぐ謝らない。謝る時間も惜しみ、別の瓶を割る。今度は金色。薬ではなく、液体へ溶かした聖句だ。

 

「右腕の感覚を捨てます。心臓への道を閉じる」

「後で戻る?」

「戻します」

「成功したら?」

 

答えない。

 

成功しても右腕が戻らない可能性がある。それでも心臓より安い。俺も同意する。

 

「やってください」

 

ミレーユが俺を見る。

 

初めて、処置の前に待った。

 

俺の返事を。

 

「右腕を切り離す聖刻に同意します」

 

言葉にすると光が強くなる。誓約術は本人の同意で効力が変わるらしい。

 

肩から先が消えた。

 

見た目はある。けれど自分の身体として感じない。床へ置かれた他人の腕が、自分の袖から生えている。

 

黒い線が止まる。

 

十秒。

 

二十秒。

 

左足の指が冷えた。

 

毒は右腕だけから入ったのではない。すでに心臓を通り、全身へ回っていた。

 

「六時四十五分。左足に症状」

 

予定表へ書く。

 

筆先が震え、数字の五が三に見える。書き直す。

 

ミレーユが紙を奪った。

 

「あなたは患者です」

「記録官でもある」

「今だけは違う」

「死ぬ時だけ職を外される規則はない」

 

軽口のつもりだった。

 

ミレーユは笑わない。

 

予定表を床へ投げることもできたはずだ。それでも彼女は紙を寝台へ置いた。俺の手が届く位置へ。

 

完全には認めない。

完全には奪わない。

 

昨日の彼女より、一つだけ違う。

 

「三回の俺は、どう死んだ」

 

「一回目は発症に気づかず、眠っている間に。二回目は右腕を切り離した後、肺停止。三回目は鐘蝕を焼こうとして、治癒聖刻ごと心臓が崩れました」

「今回は二回目まで同じ」

「違います。あなたが起きている。毒の経路も記録できた。次の薬を――」

 

次。

 

今の処置の次ではない。

次の周回の薬まで、彼女は同時に考えている。

 

助けようとしながら、失敗を持ち帰る準備をしている。

 

「俺が死ぬ前から、次を見ないでください」

 

ミレーユの顔が歪んだ。

 

「では、死なないで」

 

無理な要求だ。

 

「努力します」

 

それでも答えた。

 

左手で胸を押さえる。鼓動は速い。数えると一分に百四十を超える。速いのに、一拍ごとの間が伸びている気がする。

 

《六時四十六分、頻脈。不整》

 

紙へ追加する。

 

次の俺へ渡すなら、症状の帳面だけでは足りない。帳面そのものが起点へ戻れば消える。

 

消えない記録が要る。

 

「ミレーユ」

「喋らないで」

「次の俺へ残す方法を考えてください」

 

彼女の手が止まった。

 

「必要ありません」

「二割もない」

「助けます」

「助からなかった時の話です」

「しません」

 

短くなった。

 

限界へ近い。

 

俺は左手で床を押し、寝台へ背を預けた。右脚は動かない。左はまだ使える。呼吸もできる。心臓も速いが、止まってはいない。

 

時間がある。

 

死ぬまでの時間を、死なないふりへ使う余裕はない。

 

「戻すんでしょう」

 

ミレーユは解毒の聖刻を続ける。

 

「俺が死んだら鐘を鳴らす。初夏月二日へ戻る。あなたは覚えている。俺は忘れる」

「死なせません」

「仮定です」

「しません」

「あなたが仮定を嫌う時は、答えを知っている時だ」

 

言い返さない。

 

俺は右手の黒革手袋を探す。

 

机の端。昨日、毒がついたまま封じるべきだった。ミレーユは浄化したと言った。浄化後の検査では反応なし。だが俺の血へ入った毒は消えない。

 

「あれをください」

「駄目です」

「もう入っています」

「触れれば残響負荷が増える」

「だから使える」

 

死痕は物へ残る。

 

俺には残響適性がある。手袋は何度も死の直前まで身につけていた。今の死を意識して刻めば、世界が戻っても薄い跡くらい残るかもしれない。

 

証拠はない。

 

証拠がないから試す。

 

「物も戻るんですか」

「起点の状態へ」

「傷をつけても消える」

「はい」

「死痕は?」

 

ミレーユの視線が手袋へ動く。

 

可能性に気づいた。

 

「前例がありません」

「七百回もやって?」

「過去のあなたは、還暁を知ってから手袋を刻む前に――」

 

言葉が切れる。

 

死んだのだろう。

 

今回の俺には時間がある。殺し屋の毒が遅かったからだ。

 

「手袋を」

「それをしたら、あなたは助かることより死を残すことへ集中する」

「もうしています」

「レイ」

「選ばせてください」

 

声を荒げる力はない。

 

だから、ただ言った。

 

「俺の死を戻すなら、せめて次の俺へ選ぶ材料を渡してくれ」

 

ミレーユは動かなかった。

 

七百回、彼女は次の俺へ何も渡さなかった。渡せなかったのか、渡さなかったのかは分からない。自分だけが覚え、自分だけが対策を増やし、俺には安全な選択肢だけを見せた。

 

今度も同じなら、七百一回目はただの追加だ。

 

「お願いします」

 

彼女へ頼んだのは初めてかもしれない。

 

外へ出してくれとも、説明してくれとも言った。それは要求だった。今は、彼女が拒める形で渡している。

 

ミレーユの指が震える。

 

手袋を取った。

 

俺へ渡す前に、胸へ抱く。

 

「これで助からなくなるわけではありません」

「分かってます」

「聖刻は止めません」

「止めないでください」

「刻み終えたら、手を戻して」

「はい」

 

条件が増える。

 

監禁の契約ではない。二人とも結果を知らない作業の手順だ。

 

手袋を受け取る。

 

右手は動かない。左手で裏返し、内張りを出す。革の内側には親指の二重縫い。毒が通った道だ。

 

刻む道具が要る。

 

机の予定表へ刺してあった金属筆を抜く。先は細いが、革を切るには弱い。

 

「何を書くんです」

「文章は消えます。形と残響を重ねる」

 

円を一つ。

 

還暁傷の形。

 

その中へ縦線を七本。七百を示す。正確な文字でなくても、次の俺なら数を疑う。

 

円の外へ左窓。

 

窓枠を四角、左上を欠く。そこから針。針の先を手袋の親指へつなぐ。

 

大司教の印は、昇る太陽と三本の鐘索。

 

《一一二》は数字で刻む。

 

最後に、内張りの中央へ短い言葉を書く。

 

《彼女は覚えている》

 

筆先で革を傷つけても、線は浅い。世界が戻れば物理的には消える。

 

残響を乗せる。

 

右手を内張りへ当てた。

 

動かない指を、左手で押さえる。

 

死者の残響を読む時とは逆だ。物から受け取るのではなく、こちらから物へ押し込む。

 

鐘蝕の冷え。ダリオの指輪。ミレーユの七百本の傷。墓銘板。未来板。全部を一度に渡せば、次の俺が壊れる。

 

必要なものだけ。

 

毒。

大司教。

七百一回目。

ミレーユは覚えている。

 

情報を絞る。

 

葬院で死者の声を記録する時と同じだ。最期の叫びを全部書くのではない。身元と死因と、次に渡すべき未完了を選ぶ。

 

俺の未完了は何だ。

 

逃げること。

 

違う。

 

鐘を見ること。

彼女を鐘から離すこと。

大司教が百十二と何を数えたのか調べること。

 

そして、俺の命を俺の知らない俺へ勝手に預けないこと。

 

手袋の内側が冷たくなる。

 

冷えが腕を上がり、心臓へ重なる。

 

息が止まった。

 

一度だけ。

 

吸おうとしても胸が動かない。

 

ミレーユが手袋を奪い、俺の身体を床へ倒す。頭の下へ腕が入る。もう一方の手が胸へ重なる。

 

「戻って。戻って、レイ」

 

圧迫。

 

空気が喉から押し出される。

 

聖刻の光が胸骨を通り、心臓を掴む。強制的に縮み、すぐ開く。自分の鼓動ではない。彼女の手で身体を動かされている。

 

「時間は」

 

声が出ない。

 

左手の指で床を二度叩く。

 

朝六時四十八分。

 

予定表へ珈琲がこぼれてから八分。

 

普通の蘇生なら、心停止から八分前後が限界。葬院で何度も見た。死体になる側から数えるのは初めてだ。

 

ミレーユは数えない。

 

俺の胸を押しながら、同時に治癒を重ねる。手首の傷が一つずつ光る。過去の失敗を燃やして、今の心臓へ足しているみたいだ。

 

一分。

 

意識はまだある。

 

視界の外側が白い。

 

二分。

 

音が遠くなる。

 

ミレーユの口が動く。

 

「嫌」

 

敬語が消えていた。

 

「今回は違う。早く見つけた。薬も増やした。食事も、体温も、全部」

 

説明ではない。

 

祈りでもない。

 

変更点を並べ、世界へ今回だけは同じ結果を出すなと命令している。

 

三分。

 

心臓は戻らない。

 

「鐘を鳴らすな」

 

声になったか分からない。

 

ミレーユの目が俺を見る。

 

聞こえた。

 

「嫌」

 

二度目。

 

「手袋を、次へ」

 

「次なんていらない」

 

「俺には要る」

 

「あなたがいない」

 

短い言葉だけになる。

 

仮面がない。

 

聖女でも守護者でもない。十九歳の人間が、目の前の死を拒んでいる。

 

その姿を見て、同情した。

 

同情したまま、従わないと決めた。

 

「戻すなら、隠すな」

 

最後まで言えたかは分からない。

 

視界が暗くなる。

 

死ぬ時、人生が全部見えるという話は嘘だ。

 

見えたのは、机の左に置かれた珈琲。珈琲で濡れた予定表。ダリオの姉を治療すると囲った文字。ミレーユの袖から一つだけ覗いた円環傷。

 

それから、俺の手袋。

 

彼女が胸へ抱えている。

 

内側の傷は見えない。

 

それでいい。

 

次の俺が見る。

 

音が消える。

 

身体の境目も消える。

 

最後に残ったのは、右手の冷たさだった。

 

そして、心臓が止まった。

 

無音。

 

どれほど続いたか分からない。

 

遠くで、ミレーユが泣いた気がした。

 

違う。

 

鐘だ。

 

低い音が一度、世界の底から響く。

 

石壁が白くなる。

床がほどける。

こぼした珈琲が机へ戻り、割れた窓がつながり、運ばれた死体が左窓の外へ引き上げられていく。

 

見えているのではない。

 

死痕だけが、逆向きに引かれる時間を感じている。

 

二度目の鐘。

 

七百枚の墓銘板が一枚ずつ遠ざかる。

 

三度目。

 

俺の名前が消える。

 

手袋だけを離すまいと、動かない右手で掴む。

 

物理的な指はもうない。

 

それでも、刻んだ冷えが一本の糸になって残った。

 

世界が朝食前へ戻る。

 

俺は何も知らない俺へ戻る。

 

ミレーユだけが、俺の死を持っていく。

 

七百一回目の傷を、手首へ増やして。

 

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