俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
レイの心臓が止まった時刻を、私は六時四十八分十三秒まで覚えている。
鐘を鳴らした時刻は覚えていない。
覚える必要がないからではない。
あの後の私は、時間を見ていなかった。
胸を押した。治癒を重ねた。名前を呼んだ。手袋を握った。戻すなと言われた。隠すなと言われた。
それでも鐘を鳴らした。
世界が戻り、目を開ける。
戻る瞬間は、落ちる感覚に似ている。
けれど下へは落ちない。後ろへ落ちる。レイの体温が腕の中から抜け、血の匂いが薄れ、鳴らした鐘の振動が骨を逆向きに通り抜けていく。割れた硝子が窓枠へ戻り、こぼれた水が杯へ昇り、息をしなくなった人々が、死んだことも知らずに昨日の姿へ畳まれる。
七百回見ても慣れない。
慣れてはいけない、と考えた回数も、たぶん同じだけある。
それでも私は毎回、レイより先に目を開ける。彼が戻ったか確認するためだ。もし一度でも戻らなければ、私には次がない。その可能性を数えるのは無意味なのに、鐘を鳴らすたび必ず数える。戻る可能性。戻らない可能性。私だけが記憶を持ったまま、彼のいない起点へ立つ可能性。
答えは出たことがない。
初夏月二日。午前三時。
白塔の台所で、私は黒パンを切る前に立っていた。
右手にパン切り包丁。
左手に、七百一個目の円環傷。
傷はまだ赤い。
三時を知らせる小鐘が鳴る。大きな暁鐘ではない。厨房係が時刻を知るための普通の鐘。それでも身体が震え、包丁の刃がパンの表面を滑った。
深呼吸を一度。
足りない。
二度目。
足りない。
三度目をする代わりに、包丁を置いた。
いま確認するべきことは呼吸ではない。私の呼吸が止まっても、レイは生きている。起点へ戻った。鎮静の聖刻を受け、上階の寝台で眠っている。
生きている。
確かめる。
階段を上がる。三階の曲がり角、五階の礼拝窓、六階の白い扉。すべて起点どおり。南窓の留め釘は十二本。油も黒糸もない。ダリオが触れる前へ戻っている。
寝台のレイは、右を向いて眠っていた。
前回は仰向けだった。
違う。
鎮静聖刻をかけた位置が半歩ずれた。運ぶ時、私が手袋を胸へ抱えていた記憶を引きずり、右腕の置き方を変えた。その差で寝返りの向きが変わっただけ。
原因は私。
危険ではない。
寝台へ膝をつき、首へ指を当てる。
一分に五十八。
呼吸十四回。
体温、正常。
瞳孔は眠っているため確認しない。起こせば予定が変わる。
胸へ耳を当てたくなる。
脈を指で数えている。必要ない。
それでも耳を当てた。
音がする。
一度。
間。
一度。
六時四十八分十三秒の後には、なかった音。
胸郭が上下するたび、私の頬が少し動く。レイの寝間着から、洗った布と鎮静香の匂いがした。毒はない。鐘蝕はまだダリオの袖針にも塗られていない。調合されるのは今日の午後、大聖堂西棟。
先に止められる。
ダリオを捕らえる。
袖針を焼く。
調合師を拘束する。
大司教の印を回収する。
前回の失敗を消せる。
私はレイの胸から顔を上げた。
黒革手袋が机にある。
起点へ戻ったため、親指の縫い目に白い擦れはない。毒もない。内張りへ刻んだ物理的な線も、すべて消えている。
それでも、近づく前から冷気を感じた。
死痕。
レイが残した。
私は手袋へ触れない。
触れれば、彼の最期が流れ込むかもしれない。流れ込まなくても、あの時の冷たい右手を思い出す。
もう思い出している。
右手で手袋を取り、内側を返す。
線は見えない。
聖刻を目へ集める。
薄い青が浮かんだ。
円環が一つ。その中に縦線が七本。左上の欠けた四角。針。三本の鐘索を持つ太陽。《一一二》。最後に、文字。
《彼女は覚えている》
成功した。
嬉しいと思った。
レイが死んだ結果へ、嬉しいという感情を持った。
吐き気がした。
手袋を机へ戻す。捨てればいい。起点の手袋は何度でも交換できる。同じ革、同じ縫い目、同じ匂いに整えた予備が保管庫に十三枚ある。
この一枚だけを燃やせば、レイは知らないままになる。
毒殺を避ける。ダリオを捕らえる。墓所へ入る保守通路を塞ぐ。七百回を話さない。三十日間、塔で生かす。
前回より安全になる。
それが私の役目だ。
手を伸ばす。
《隠すな》
最期のレイの声が戻る。
「戻すなら、隠すな」
約束はしていない。
私は「はい」と言っていない。
彼も私の返事を待たずに亡くなった。
だから破る約束はない。
そう考えた瞬間、自分が第五百十二回と同じ場所へ立っていると分かった。
あの紙も、燃やせた。
燃やさず、都合のよい一行だけ残した。
今回は手袋を残して、都合のよい対策だけ先にしておけばいい。選択を返したと自分へ説明できる。
でも、彼が残したのは図だけではない。
大司教の証拠だけでもない。
私が覚えているという事実だ。
隠せば、次のレイはまた私だけを情報源にする。私が安全な答えを選び、彼へ渡す。七百一回目と同じ。
私は手袋を燃やさなかった。
机の、前回と同じ位置へ置く。
右手用。親指の二重縫いが上を向く角度。
予備の十三枚を入れた箱には封印をかける。誰かが善意で交換しないように。革職人へ出した修繕記録にも、今朝の一枚を廃棄したと書かせないよう、短い命令を添える。
証拠を残すだけなら、それで足りる。
けれど私は、机と寝台の間を三度往復した。
手袋をもっと目立つ位置へ動かすべきか。いいえ、誘導が強すぎる。隠すべきか。もう決めた。なら触らない。そう結論を出した後で、親指の角度を指一本分だけ直した。
自分でも分かっている。
私は彼へ選択を返したいのではなく、私が返せる形の選択だけを渡そうとしている。
それでも、昨日までの私なら一枚ごと燃やしていた。
レイなら調べる。
いつ調べるか。
目覚めて十二分以内。私の言葉に一つ目の矛盾を見つけた後。あるいは、右手の冷えを感じた瞬間。
死痕が強ければ、触れた時点で読む。
読む量は分からない。
私が解毒を失敗した場面まで見れば、レイは私を責めないかもしれない。それが一番危険だ。私が苦しんだことを理由に、彼が自分の自由を値引きする。
だから、私の苦しみは見せたくない。
大司教の証拠は見せる。
七百一回目の死は見せる。
私の泣いた声は消したい。
残響は編集できない。
彼が選んだ情報だけが残る。
私は選べない。
胸の奥が狭くなる。
それを恐怖と認める。
レイの死ではない。彼が私の知らない証拠を持ち、私の知らない質問をすることへの恐怖。
私は、彼が死ぬことだけを恐れているのではない。
管理できない彼を恐れている。
認めたからといって、すぐ変われるわけではない。
それでも、名前を間違えなければ対策の向きは変えられる。
私は予定表を開いた。
前回の予定は戻っている。
朝食。説明。休暇届。手紙。逃走確認。すべて白紙になる前の状態。ダリオの姉を治療する一行はない。
書き足す。
《ダリオ・セルンを殺さず拘束》
《マリア・セルンの肺灰症を治療》
《西棟の鐘蝕を押収》
マリア。
名前は前回、ダリオの残響ではなく命令書の記憶から拾った。西州の小さな工房。窓辺に青い鉢。治療師を送れば助かる。
前回、私は行かなかった。
レイが死んだから戻した。
ダリオとの約束も、姉の治療も、なかったことにした。
今度は先にする。
レイが頼む前に治せば、これは彼の生存率のためではないと証明できる。
誰に。
自分に。
予定表の次の頁へ、失った記憶の確認欄がある。
還暁の後は必ず調べる。
自分の名前。
年齢。
教会での役目。
母の名前。
育った修道院。
最初の祈祷。
好きだった花。
一つずつ読む。
答えられる。
母はエレナ。亡くなったのは私が七歳の冬。形見は押し花の祈祷暦。育ったのは東鐘修道院。最初の祈祷は朝の第三節。
好きだった花。
答えられない。
頁には《青鈴花》と書いてある。
文字は私の筆跡だ。
青鈴花。
名前を読んでも、何も浮かばない。色も、匂いも、花弁の数も知識としては分かる。私が好きだった理由だけがない。
前回までは、覚えていたのだろうか。
祈祷暦を開けば、押し花があるはずだった。確かめようとして、手が止まる。
花を見れば戻る記憶なら、失ったとは言わない。戻らなければ、青い花を前に何も感じない私を確認することになる。
どちらが怖いのか判断できなかった。
判断できない項目は後回しにする。私は昔からそうしてきた。傷の塞がる人を先に治し、助からない人を後へ送った。鐘を鳴らせば全員戻ると知ってからは、もっと簡単になった。失敗を一日の終わりへ集め、レイの死で消した。
だから後回しは嫌いだ。
後回しにしたものが、世界から先に消える。
確認欄の横へ小さな印をつける。
七百一回目の代価。
レイには話さない。
話せば、自分の死が私から記憶を奪うと思う。罪悪感を持つ。鐘を止めるため、自分を危険に置く。
だから隠す。
手袋を残すと決めた直後に、別のことを隠す。
全部を一度に変えられない。
そう説明する。
説明できることが正しいとは限らない。
それでも、青鈴花の欄を閉じた。
午前三時二十分。
私は三通の命令書を書いた。
一通は信頼できる教会騎士へ。ダリオを西棟へ入る前に拘束する。口内の灰鐘毒を壊さず、顎の聖刻を先に置く。
騎士の名はリゼット・ヴァン。第六十八回でレイを庇って右腕を失い、第百四回では私の命令を疑って塔へ踏み込み、第百九十九回では何も知らず城門の当直を終えた人。七百一回目では、今朝も北宿舎で眠っている。
彼女にダリオの罪を伝える時、姉の病を脅迫材料にしたことまで書く。暗殺者、で終わらせれば処刑される。追い詰められた人、と書けば監視が甘くなる。どちらも事実で、どちらかだけなら人を殺す。
《殺さず拘束。自害手段を最優先で除去。供述前にマリア・セルンの治療開始を本人へ通知》
命令文としては長い。
長くてもいい。短い命令の隙間で、何人死んだか知っている。
一通は市外の治療院へ。マリア・セルンを治療する。費用は聖女私費。
一通はオスカー院長へ。
書きかけて止める。
前回、院長は葬院にいなかった。今回も同じとは限らない。世界は起点へ戻ったが、死痕の影響で小さな差が生まれる。私自身の行動も変わる。
知らないふりをして、前回と同じ失敗を誘導する必要はない。
《レイは白塔にいる。本人の同意は得ていない。面会方法を相談したい》
書いた。
監禁と書く勇気はなかった。
本人の同意はない。
それだけでも前回より正確だ。
封蝋を押す前に、もう一行だけ足した。
《七百一回目の還暁を行った。原因は大司教の印を持つダリオ・セルンによる鐘蝕。レイは死痕を次へ残した》
オスカー院長がこの文を読めば、私が何をしたか分かる。止めるために来るかもしれない。レイを塔から出せと命じるかもしれない。
その時、私は従えるだろうか。
仮説は要らない。来た時に選ぶ。
封蝋を押した。
四時。朝食を作る。
黒パン。固ゆで卵。豆。林檎。バター半量。
同じにする。
毒の経路を変えたため、食事まで変える必要はない。違いを増やせば、どの変更が死を避けたか分からなくなる。
でも、珈琲の位置は最初から左へ置く。
前回、レイが教えた。
今回の彼はまだ教えていない。
知っていることを隠すなら右へ置くべきだ。
左へ置いた。
手袋と同じ。
私が覚えていることを、完全には隠さない。
五時二十分。
レイの脈を測る。
一分に五十八。
七百一回目の死から戻っても、同じ数だった。
一度確認し、指を離す。
二度目はしない。
七秒後、また手を伸ばしかけた。
拳を握る。
脈はさっきと同じだ。七秒で鐘蝕は調合されない。窓は閉じている。扉の外には二人。水差しは封印済み。寝台の下にも、天井裏にも人はいない。
安全だ。
少なくとも、私が把握している危険に対しては。
その但し書きが、七百一回目の死だった。
代わりに布団を直す。必要な行為。髪には触れない。
触れたいと思ったことだけは、否定しない。
六時十一分。
扉の外から、朝番の足音が一度だけ近づいた。知らせを持ってきた騎士なら三回、食事係なら二回、緊急なら合図なしで入る。これは廊下を巡回しただけ。
分かっているのに、私は寝台と扉の間へ立った。
剣を持つ相手が来ても同じ位置を選ぶ。火事でも、毒でも、崩落でも。私の身体で防げる危険は少ない。聖女の身体なら治せるというだけで、壁より硬いわけではない。
それでも七百回、私はここへ立った。
守るという言葉は便利だ。相手の前へ立つことも、扉へ鍵をかけることも、未来を奪うことも、全部同じ音で呼べる。
今朝は、その音を使わない。
レイの瞼が動く。
私は水差しを持ち、寝台の横へ立つ。
最初の言葉は決めている。
「三十日だけ、ここにいてください」
前回と同じ。
レイが目を開ける。
最初に天井。窓。扉。私の手。水差し。順番も同じ。
次に両足を確かめる。
私は答えを待つ。
前回は「断ったら?」だった。
その次は、私が「外へ出れば、あなたは死にます」と言う。
私は知っている。
レイの視線が机へ動く。
黒革手袋。
右手が冷えたのかもしれない。
彼は起き上がらない。
私を見た。
「俺は前にも、ここで目を覚ましましたか」
知らない質問だった。
用意した答えが、全部止まる。
レイは手袋へ視線を戻す。
「それとも、目を覚ます前に死んだ?」
死痕は、もう届いている。
七百一回目のレイが、七百二回目の朝へ残っている。
怖い。
嬉しい。
どちらも隠して、私は水差しを机へ置いた。
「どこから話せば、あなたは逃げませんか」
聞いてから、間違いに気づく。
また安全な答えを先に選ぼうとしている。
言い直す。
「どこから聞きたいですか」
答えが何でも、私は聞く。
安全な質問へ誘導しない。彼が知らないほうが幸せだと、先に決めない。
少なくとも、今、この一問だけは。