朝。
カンサイねこが二階の廊下へ出ると、いつもと少し景色が違っていた。
「……何やこれ」
壁際に、酒瓶がずらりと並んでいる。ウイスキー、焼酎、日本酒、梅酒。大きい物から小さい物まで妙に整列しており、何本かはラベルが剥がれかけ、底には少しだけ液体まで残っていた。
朝の共用廊下としては、あまり見たくない光景である。
「酒屋でも始めるん?」
当然、返事はない。カンサイねこが瓶の列を目で追っていくと、その先にあるのは氷川角子の部屋だった。
「……まあ、そうやろな」
ちょうど階段を上がってきた大家へ声をかける。
「大家さん」
「ん?」
「これ、全部誰の?」
大家は瓶を見て、次に角子の部屋を見た。
「聞かなくても分かるだろ」
「やっぱり?」
「昨日の夜から増えてたんだ……最初は三本だった。朝見たらこれだ」
「増殖しとるやん」
大家は額を押さえた。
「共用廊下に出されると困るんだよな」
「今日、瓶の日ちゃうの?」
「来週」
「来週?」
二人で角子の部屋を見る。
「日ぃ間違えたんやな」
「たぶんな」
その時、扉が開いた。
「おはようございます」
角子が出てくる。
手には、さらに空き瓶が二本。
カンサイねこが見る。
大家も見る。
角子も二人を見る。
「どうしました?」
「それ、どこ持ってくん?」
「瓶の日なので」
「来週やで」
角子の動きが止まった。
「…………」
手元の瓶を見て、次に大家を見る。
「今日じゃないんですか?」
「今日は缶の日だ」
「そうでしたか」
角子は少し考え、そのまま二本を廊下へ置こうとした。
「置くな置くな」
カンサイねこがすぐ止める。
「来週までここ置いとく気?」
「まとめておけば忘れないかと」
「共用廊下や」
大家も頷いた。
「部屋に戻して」
「結構ありますよ」
「知ってるよ。今見てるからな…」
角子は改めて壁際を見回した。自分でも少し多いと思ったらしい。
「いつの間にこんなに」
「飲んだんやろ」
「そうですね」
「原因分かっとるやん」
角子が一本持ち上げると、中でちゃぷんと音がした。
カンサイねこの耳が動く。
「ちょい待ち。それ空ちゃうやん」
「はい?」
角子も瓶を覗き込む。底に少しだけウイスキーが残っていた。
「ほんの少しですね」
「他のも?」
三人で確認すると、焼酎にも日本酒にも梅酒にも少しずつ残っている。きれいな空瓶の方が少なかった。
「空にして、軽く洗ってから出さなあかんで」
「洗うんですか?」
「自治体の出し方にもよるけど、中身残したままはあかんやろ」
大家も瓶を指す。
「すまんが、角子さんとにかく中身入りはやめてくれ…」
「分かりました」
角子は素直に頷き、一本持って部屋へ戻っていった。
「お、意外と素直やな」
カンサイねこも数本を抱え、大家は残りを指す。
「全部戻して、中身処理してからにして」
「はい」
◇
数分後。
角子の部屋には、回収された酒瓶が床いっぱいに並んでいた。カンサイねこは窓際に座り、角子が一本ずつ中身を確認するのを見ている。
「これ、ウイスキー。ちょっと残ってますね」
「捨て」
「もったいないですね」
「底だけやで」
「一口はあります」
「その一口のために瓶残しとったん?」
「残したというか、残っていました」
「同じや」
次は焼酎だった。
「これもあります」
「捨て」
「まだ飲めますよ」
「飲みたいなら今飲めば?」
「朝です」
「そこは分かるんや」
「朝からはあまり飲みません」
「『あまり』なんや」
嫌な部分だけ聞こえた。
日本酒にも梅酒にも、やはり少しずつ残っている。捨てれば早いし、角子自身もそれは分かっているようだった。
でも、酒である。
まだ飲める物をそのまま流しへ捨てるのは、かなり惜しいらしい。
角子はしばらく瓶の列を眺めたあと、ステンレスジョッキを取り出した。
カンサイねこの目が細くなる。
「何するん?」
「まとめます」
「何を?」
「残ってるお酒です」
「どこに?」
角子はジョッキを持ち上げた。
「これに」
「飲み物に戻そうとすんな」
即座に止められた。
「まだ飲めますよ」
「種類バラバラやろ」
「ウイスキーと焼酎と日本酒と梅酒ですね」
「言うてておかしいと思わん?」
「度数は近いものもあります」
「度数の話ちゃうねん」
角子は少し考える。
「梅酒が甘いので、案外まとまるかもー」
「まとめんでええ」
「香りも複雑になります」
「複雑で済むん?」
それでもウイスキーの瓶を傾けようとするので、カンサイねこがジョッキの上へ手を置いた。
「やめとき」
「少しだけ」
「少しを四種類集めようとしとるやろ」
「捨てるよりは」
「朝やぞ」
「あとで飲めます」
「作り置きすんな」
その時、玄関が開いた。
「何してるにゃ?」
ヤニねこが顔を出した。
誰も呼んでいない。酒の匂いだけで来た可能性が高かった。
「また勝手に入ってきたな」
「開いてたにゃ」
「開けたんやろ」
ヤニねこは床に並んだ瓶を見た瞬間、耳を立てる。
「酒いっぱいにゃ」
「空瓶や」
「まだ入ってるにゃ」
「見つけるの早いな」
底に残った酒へ、すぐ気づいたらしい。
「捨てる?」
「その話してたとこや」
「捨てるならニャーが飲むにゃ」
「朝から何しに来たん?」
「酒を救いに」
「大義名分みたいに言うな」
角子は少し納得したように頷いた。
「それなら無駄にはならないですね」
「角子さんも乗るな」
ヤニねこは焼酎の瓶を持ち上げた。
「ちょっとあるにゃ」
「飲まないでください」
「捨てるんだろ?」
「そのまま飲むのはちょっと」
「なんで?」
「いろんな瓶の口、ずっと開いてましたし」
「角子は飲もうとしてたにゃ」
「ジョッキに移してからです」
「何が違うん?」
カンサイねこが突っ込む。
角子は少し考えた。
「雰囲気ですかね」
「雰囲気で衛生よくならんで」
その時、玄関がまた叩かれた。
「角子さん?」
今度はヤクねこだった。
「どうぞ」
入ってきたヤクねこは、床いっぱいの瓶、ステンレスジョッキ、焼酎を持ったヤニねこ、その腕を押さえているカンサイねこを順番に見た。
「……何してるんですか?」
「廃酒救済活動にゃ」
「先輩には聞いてません」
少し眺めただけで、大体察したらしい。
「瓶の日、間違えたんですか?」
「そうみたいです」
「中身残ってますね」
「今それを飲もうとしとんねん」
「先輩が?」
「角子さんも」
ヤクねこは間を置かず答えた。
「二人ともやめてください」
「ほら。まともな人来たわ」
カンサイねこが少し安心する。
「私も全部混ぜるのはよくないと思います。保存状態も分からないですし」
「でも少しずつですよ」
「少しずつでも駄目です」
「捨てるの、もったいなくないですか?」
「次から飲み切ってください」
「正論やな」
ヤクねこは今度はヤニねこを見る。
「あと先輩。朝から残り酒拾って飲もうとしないでください」
「拾ってないにゃ」
「意味としては同じです」
「角子の酒にゃ」
「もっと駄目です」
「本人が捨てるって言ってるにゃ」
「だからって飲んでいいことにはなりません」
ヤニねこは不満そうに瓶を見る。
「酒がかわいそうにゃ」
「先輩が言うと、酒じゃなくて自分が飲みたいだけに聞こえます」
「違うにゃ」
「じゃあ飲まなくていいですね」
「…………」
ヤニねこが黙った。
「分かりやす」
◇
結局、残っていた酒は全部処分することになった。
角子が流しの前に立ち、一本ずつ瓶を傾けていく。
まずウイスキー。
「……」
「捨て」
「はい」
次は焼酎。
「……」
「捨て」
「はい」
日本酒は少し多かった。
「これ、一口くらい――」
「捨て」
「はい」
最後は梅酒。
角子は瓶を傾ける前に、少し長く眺めた。
「これ、甘くて飲みやすかったんですけどね」
「思い出話始めんな」
「最後まで飲めばよかったです」
「そこはほんまにそうや」
流す。
横でヤニねこが悲しそうな顔をしていた。
「酒が死んでいくにゃ……」
「大げさや」
「まだ飲めたにゃ」
「お前が言うとほんまに飲みそうで怖いねん」
「もうないにゃ」
「だから良かったんや」
すべて流し終えると、今度は瓶を一本ずつ水ですすいでいく。角子、カンサイねこ、ヤクねこで自然と流れ作業になったが、ヤニねこだけは途中から座って見ていた。
「手伝わんの?」
「ニャーのゴミじゃないにゃ」
「酒飲もうとはしたやろ」
「飲んでないにゃ」
「止められたからや」
角子が一本洗い終える。
「ヤニねこさん、ラベル分けてもらえます?」
「飯出る?」
「出ません」
「じゃあやらないにゃ」
「潔いな」
カンサイねこは逆に感心した。
洗った瓶は種類ごとにまとめて袋へ入れ、回収日を書いた紙も貼る。
「これで来週ですね」
「次は間違えんなよ」
「スマホに入れておきます」
「それがええわ」
角子はその場で予定を登録した。
『瓶・ゴミの日 来週・午前』
「できました」
「最初からそれやっとけばよかったな」
「そうですね」
素直に認める。
角子は生活が雑なだけで、注意そのものを嫌がるわけではない。言えば聞くし、教えれば一応やる。
ただし、言われる前にやるかは別だった。
◇
瓶を全部まとめ、ゴミ置き場へ運ぶ頃には廊下も元通りになっていた。大家も確認しに来る。
「終わった?」
「終わりました」
「中身も?」
「捨てました」
「全部?」
角子が一瞬だけ黙る。
「全部です」
「その間なんやったん」
カンサイねこが笑う。
「惜しかったので」
「酒に未練残さんでええ」
大家はまとめられた瓶を確認した。
「次から、溜める前に出してくれ」
「次は大丈夫かもー」
「“かも”じゃ困るんだよ」
「予定には入れました」
「なら、それ見て出して」
「はい」
そこへヤニねこもついてきた。
なぜか両手を後ろへ回している。
カンサイねこはすぐ気づいた。
「何隠してんの?」
「何もにゃ」
「見せてみ」
「嫌にゃ」
「絶対なんか持っとるやん」
ヤニねこが少しずつ後ろへ下がったところで、ヤクねこが横から覗き込む。
「先輩」
「あ」
背中に隠していたのは、空のウイスキー瓶だった。
「一本持ってるじゃないですか」
「これはゴミじゃないにゃ」
「何に使うん?」
カンサイねこが尋ねると、ヤニねこは瓶を抱え込んだ。
「酒を入れてもらうにゃ」
「誰に?」
「カラカラねこ」
角子を見る。
「容器持ってきたから入れてにゃ」
「中身代は必要です」
「瓶あるにゃ」
「酒代は別です」
「容器持参でも無料にはならへんで」
「エコにゃ」
「エコと無料は別や」
「再利用にゃ」
「そこはええけど、中身まで湧いてこん」
ヤニねこは角子へ期待するような目を向ける。
「少しくらい」
「昨日の分もまだ払ってませんよ」
「…………」
「また黙った」
ヤクねこが呆れる。
大家も空瓶を見る。
「持って帰るなら、ちゃんと洗って使って」
「酒入れるだけにゃ」
「洗え」
「面倒にゃ」
「じゃあ捨てろ」
「もったいないにゃ」
話が一周した。
カンサイねこはそのやり取りを聞きながら、改めて角子を見る。
前に来た時は、自分の酒量だけ管理できていない人だと思った。今回は、それに加えて空瓶まで溜める人だと分かった。ただ、言えば片づけるし、教えれば一応やる。
酒を流す時だけ、未練がかなり強い。
「角子さん」
「はい?」
「料理以外の家事、あんま得意ちゃうやろ」
角子は少し考えた。
「料理は好きですよ」
「そこは聞いてへん」
「掃除は、必要になったら」
「必要になる前にやるんや」
「ゴミも、溜まったら」
「溜める前に出すんや」
「洗濯はします」
「それは偉い」
「着る服なくなるので」
「基準が全部ギリギリやな」
角子は少し笑った。
「生活できてるので大丈夫かもー」
「その理屈、ヤニねこに近づいてきとるで」
ヤニねこがすぐ反応する。
「ニャーも生活できてるにゃ」
「お前を基準にしたら全員合格するわ」
「すごいにゃ」
「褒めてへん」
大家がため息をついた。
「とにかく、次の瓶の日は頼むよ。ちゃんと空にして、洗って、廊下に一週間置かない」
「分かりました」
角子は素直に頷いた。
その横で、ヤニねこはまだ空瓶を抱えている。
「これ、ほんとに酒入れてくれないかにゃ?」
「中身代をもらえれば」
「それはツケにゃ」
「前のツケがあります」
「まとめて払うにゃ」
「いつ?」
「金ある時にゃ」
「いつやねん」
カンサイねこが突っ込む。
ヤニねこは少し考えた。
「……未来にゃ」
「便利な言葉使うな」
角子も頷いた。
「では、未来にお願いします」
「角子さんも受け入れんな!」
カンサイねこの声が、ようやくきれいになった廊下へ響いた。
瓶は全部片づき、残っていた酒も処分した。次の回収日もスマートフォンへ登録してある。
これなら、しばらくは大丈夫だろう。
少なくとも、カンサイねこはそう思った。
◇
その夜。
角子は新しく開けたウイスキーの瓶を、いつもの場所へ置いた。
空になったら、今度こそ忘れないようにする。
たぶん。