ヤニねことカラカラねこ   作:きのこ大三元

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第15話 妹ねこ、姉を迎えに来る

 夕方。

 

 妹ねこは、スマートフォンの画面を見ながら眉を寄せていた。

 

『お姉ちゃん、今日そっち行くから、夕方には部屋にいて』

 

 送ったのは昼前。既読はついているのに返事がないので、もう一度『見てる?』と送ってみたが、それにも反応はなかった。

 

「……もう」

 

 電話もかけてみる。一回、二回、三回。呼び出し音だけが続き、姉は出ない。

 

 妹ねこは通話を切り、もう一度メッセージ画面を見る。既読は間違いなくついている。つまり一度は画面を開いたはずなのだが、それで返信まで済ませるとは限らないのが姉だった。

 

 寝ているのか、タバコを吸っているのか。それともスマートフォンそのものを部屋のどこかへ埋めたのか。

 

 姉なら全部あり得る。

 

 もっとひどい場合は、読んだ直後に別のことへ気を取られ、そのまま自分が連絡を受けたことまで忘れている。

 

「絶対忘れてる……」

 

 もう一度電話をかけようとして、やめた。

 

 どうせ出ないなら、こちらから行った方が早い。

 

 妹ねこは少し迷ったあと、そのままコーポ大谷へ向かうことにした。

 

◇

 

 姉の部屋をノックしてみても返事はなかった。

 

「お姉ちゃん。いる?」

 

 もう一度叩く。

 

 静かなままだった。

 

 鍵が掛かっているところを見ると、少なくとも中で倒れているわけではなさそうだ。そこまで確認してから、妹ねこはため息をつく。

 

 前にも似たようなことがあった。その時は姉の部屋を何度叩いても返事がなく、結局、隣の部屋から本人の声が聞こえてきた。

 

 嫌な前例がある。

 

 今回も少しだけ耳を澄ませる。

 

「これもう一個食っていい?」

「一個だけですよ」

「二個にゃ」

「一個です」

「間を取って三個にゃ」

「増えてるやん」

 

 聞こえた。

 

 姉だった。

 

 しかも、角子だけではない。今のツッコミはカンサイねこだ。

 

 妹ねこは姉の部屋から、ゆっくり隣の扉へ顔を向けた。

 

「……またここか」

 

 予想が当たったことが、まったく嬉しくない。

 

 こん、こん。

 

「はい」

 

 こちらは一回で返事があった。

 

 少しして扉が開く。

 

「あ、妹さん」

「こんにちは」

 

 軽く頭を下げながら角子の肩越しに部屋を見ると、やはりいた。

 

 姉は畳の上へ座り、皿を前にして肉料理を食べている。隣にはカンサイねこ。肝心のスマートフォンは、本人から少し離れた床へ放置されていた。

 

 届かない距離ではない。

 

 手を伸ばせば取れる。

 

 だから余計に腹が立つ。

 

「お姉ちゃん」

 

 ヤニねこの耳が動いた。

 

「妹ちゃんにゃ」

「連絡くらい返して」

「飯食べてたにゃ」

「返事できない理由にならないよ」

「手汚れてたにゃ」

 

 妹ねこは姉の手を見る。

 

 持っているのは箸だけだった。しかも指先は別に汚れていない。

 

「今は?」

「今も飯食ってるにゃ」

「一回置いて返せるでしょ」

「後で返そうと思ってたにゃ」

「もう私が来てるよ」

「早いにゃ」

「遅いのはお姉ちゃん」

 

 ヤニねこは少し考えたものの、何も言い返せなかったらしい。そのまま肉を一枚食べる。

 

 昔からこうだった。

 

 都合が悪くなると、急に口へ何か入れる。タバコだったり、菓子だったり、今は肉だった。

 

「食べて誤魔化さないで」

「うまいにゃ」

「感想聞いてない」

 

 カンサイねこが横で笑う。

 

「相変わらずやなあ」

「カンサイねこさんもいたんですね」

「さっき来たとこ」

 

 妹ねこも部屋へ上がる。

 

「角子さんも、連絡気づきませんでした?」

「すみません。私もスマートフォン見てなくて」

「配信準備してたんですか?」

「はい」

 

 角子が部屋の隅を指す。三脚、照明、スマートフォン、小さなマイク。以前より少しだけ物が増え、撮影環境らしくなっていた。

 

「画角を調整してました」

「二人ともスマホ使ってるのに、連絡には気づかないんですね」

「配信用なので」

「ニャーは飯用にゃ」

「スマホを飯には使わないでしょ」

「飯食ってる時に邪魔されたくないにゃ」

 

 妹ねこが姉を見る。

 

「私の連絡は邪魔なの?」

 

 ヤニねこの動きが止まった。

 

「…………」

「お姉ちゃん?」

「大事にゃ」

「今考えたでしょ」

「考えてないにゃ」

「間あったよ」

 

 答えるまでに肉一枚分くらいの間があった。

 

 妹ねこは姉の隣へ座った。

 

 前回来た時より、この部屋にも少し慣れた気がする。配信機材、大量の調味料、酒瓶、古い電子レンジ。畳の上には相変わらず炊飯器が置かれている。

 

 最初に見た時は、一つひとつに引っかかっていた。今では、炊飯器が畳に直接置かれている程度なら一度見て流せる。

 

 慣れていいことなのかは分からない。

 

 ただ、前よりは少しだけ整理されているように見えた。足の踏み場は普通にあるし、食べ終えた皿が何日分も積まれているわけでもない。

 

 姉の部屋とは違う。

 

 比較対象が姉なので、それだけでは褒めきれない。

 

 妹ねこが部屋を眺めていると、カンサイねこが気づいた。

 

「角子さんのこと、まだ気になる?」

「え?」

「前に来た時、結構警戒してたって聞いたで」

「お姉ちゃんが毎日入り浸ってるみたいだったので」

「入り浸ってるにゃ」

「自分で言わないで」

 

 角子は少し申し訳なさそうに笑った。

 

「毎日ではないですよ」

「匂いしたら来るんやろ?」

「来ますね」

「ほぼ野良猫やん」

「ニャー住んでるにゃ」

「行動がや」

 

 カンサイねこは箸を置く。

 

「まあ、角子さん自体は思ってたよりちゃんとしてるで」

「そうなんですか?」

「料理はちゃんと作れる」

「それは前に食べました。おいしかったです」

 

 あの時の料理は、妹ねこも覚えている。

 

 見た目はともかく、味そのものは普通においしかった。姉が何度も飯目当てに来る理由だけは、よく分かった。

 

 角子の耳が少し立つ。

 

「ありがとうございます」

 

「あと、ヤニねこに毎回ただで飯出してへん」

「それも聞きました」

「金ない時は手伝わせたりしとるしな」

「洗い物したにゃ」

「水につけただけやろ」

「一枚洗ったにゃ」

「成果ちっさ」

 

 妹ねこは姉を見る。

 

 一枚。

 

 姉にしてはやった方なのかもしれない。

 

 そう考えかけて、基準が下がりすぎていることに気づいた。

 

 危ないところだった。

 

「タバコもあげてへんみたいやし」

「そこは本当に助かってます」

「ニャーは助かってないにゃ」

「健康には助かってるよ」

「心が死ぬにゃ」

「大げさ」

 

 料理ができる。それも姉が「うまいにゃ」しか言わなくなる程度にはおいしい。タバコをねだられても渡さず、飯も毎回ただでは出さない。

 

 少なくとも、姉の機嫌を取るために何でも与える人ではなかった。

 

 最初は、姉が妙な人に餌付けされているのではないかと少し警戒していた。実際には逆で、姉の方が勝手に匂いを嗅ぎつけ、隣室へ寄ってきているだけらしい。

 

 囲い込まれているというより、住み着こうとしている。

 

 角子側の被害の方を心配した方がいいのかもしれない。

 

 少なくとも、最初に会った時より評価は上がった。

 

 その様子を待っていたように、カンサイねこが口を開く。

 

「ただな」

「はい」

「酒瓶めちゃくちゃ溜める」

「……はい?」

 

 評価上昇が止まった。

 

「この前、廊下いっぱいに並べとった」

 

 妹ねこが角子を見る。

 

「そんなに?」

「ゴミの日を間違えました」

「それだけなら、まあ……」

「瓶の底に残った酒、全部一個のジョッキに集めようとしてた」

 

 妹ねこの目が細くなる。

 

「なんでですか?」

「捨てるのがもったいなかったので」

「何のお酒を?」

「ウイスキーと、焼酎と、日本酒と、梅酒です」

「全部?」

「はい」

「混ぜるつもりだったんですか?」

「案外まとまるかもーと思って」

「まとまらなくていいです」

 

 評価が下がった。

 

 料理はできる。

 

 食材の組み合わせも、一応考えられる。

 

 なのに酒になると、その能力が急にどこかへ消えるらしい。

 

「あと、朝から残り酒飲もうとしてた」

「朝?」

「朝からはあまり飲みませんよ」

 

 角子が補足する。

 

「『あまり』って言うてる時点で弱いねん」

 

 妹ねこは少し考え、確認しておきたいところを聞いた。

 

「出勤前も?」

「出勤前は飲みません」

「ほんとですか?」

「そこは大丈夫です」

「『たぶん』じゃなくて?」

「はい」

 

 今度は即答だった。

 

 角子が普段使う「たぶん」も「かもー」も出ない。そこだけは本当に線を引いているらしい。

 

「仕事はちゃんとしてるみたいやで」

「そこはまともなんですね」

「そこは、って何です?」

 

 角子が少しだけ不満そうにする。

 

 妹ねこは少し申し訳なくなったが、部屋を見回して撤回するのはやめた。

 

「でもな」

 

 カンサイねこが部屋の一角を指した。

 

「配信画面に映るところだけ片づける」

 

「…………」

 

 妹ねこもそちらを見る。

 

 三脚の正面だけは比較的きれいだった。テーブルの上も物が少なく、背景へ映り込みそうなところには余計な物もない。

 

 そこだけ見れば、普通に片づいた部屋である。

 

 少し横へ視線をずらす。

 

 酒瓶。

 

 調味料。

 

 段ボール。

 

 炭酸水。

 

 よく分からないケーブル。

 

 全部、画面の外へ追いやられていた。

 

「映る範囲はきれいですよ」

「部屋は画面の外にもあるって前言うたやろ」

「はい」

「改善してないんですね」

 

 妹ねこが言うと、角子は少し考えてから一角を指した。

 

「少しはしました。ここです」

 

 箱が一つ減っていた。

 

 確かに、その場所だけ少し床が広くなっている。

 

「……少しですね」

「少しやな」

 

 評価がまた下がった。

 

 ただ、姉の部屋なら箱が一つ減った場所へ新しいゴミが二つ増えていても不思議ではない。

 

 また姉を基準にしかけた。

 

 本当に危ない。

 

 妹ねこは角子を見て、次にカンサイねこを見る。

 

「まともなのか、まともじゃないのか、どっちなんですか?」

 

 カンサイねこは少し考えた。

 

「仕事と料理はまとも寄り」

「はい」

「生活はあかん寄りやな」

「分かりやすいですね」

「酒絡むと特にあかん」

「それも分かります」

 

 角子がステンレスジョッキを見る。

 

「まだ今日は飲んでませんよ」

「今何時?」

「五時前です」

「その言い方、五時過ぎたら飲むやつやん」

「休日なので」

「ほら」

 

 妹ねこは思わず少し笑った。

 

 前よりは、角子という人物が分かってきた気がする。

 

 第一印象は、姉より少し年上の落ち着いた社会人だった。料理ができて、仕事もして、会話も普通に通じる。そこだけなら、姉の隣人としてはかなり安心できる。

 

 しかし私生活へ一歩踏み込むと、酒瓶を溜め、画面に映る場所だけ片づけ、料理にも妙な調味料を入れる。

 

 まともか、まともではないか。

 

 たぶん、どちらか一つで考えるのが間違っている。

 

 姉を悪い方向へ引きずり込もうとしているわけではない。むしろ姉の方が勝手に飯を求めて入り込んでいるし、角子は必要なところでは断っている。

 

 角子も角子で生活には問題があるが、姉とは問題の種類が違う。

 

 姉は欲望のままに動いて失敗する。

 

 角子は一度もっともらしく考えてから、変な結論へたどり着く。

 

 結果だけ見れば、どちらも大家に注意されそうだった。

 

 お互い、まともな部分と駄目な部分が妙なところで噛み合っているらしい。

 

「角子さん」

「はい?」

「お姉ちゃんが迷惑かけたら、本当に追い出していいですからね」

「分かりました」

「妹ちゃん!」

 

 妹ねこは少しだけ笑う。

 

「だって、お姉ちゃん遠慮しないでしょ」

「するにゃ」

「いつ?」

「…………」

「ほら」

 

 また黙った。

 

「ただ、ご飯食べさせてもらってるのはありがとうございます」

「いえ。余った時だけなので」

「おいしいにゃ」

「お姉ちゃんはちゃんと払って」

「急に話戻ったにゃ」

「ずっとその話だよ」

 

 カンサイねこも笑った。

 

「まあ、お互い一方的に世話しとる感じではないから、そこは大丈夫ちゃう?」

「そうですね」

 

 妹ねこは頷いた。

 

 全面的に安心したわけではない。それでも、前ほど警戒する必要もなさそうだった。

 

 姉には姉で問題がある。角子には角子で問題がある。

 

 二人とも大人である。

 

 全部を妹ねこが面倒見る必要はない。

 

 姉が何かしでかすたびに先回りして止めようとしても、どうせ別方向から抜けていく。それなら、本当に困った時だけ口を出すくらいでいいのかもしれない。

 

 少なくとも角子相手なら、何かあれば「駄目です」と姉へ言ってくれる。

 

 それだけでも、隣人としてはかなりありがたかった。

 

 そう思ったところで、ヤニねこが空になった皿を差し出した。

 

「おかわり」

「ありません」

「まだあるにゃ」

「これは保存用です」

「一個だけ」

「駄目です」

 

 早速断られている。

 

 少し安心した。

 

 ヤニねこは諦めず、今度は妹へ皿を向けた。

 

「妹ちゃん」

「何?」

「頼んで」

「嫌」

「即答にゃ」

「自分で交渉して」

「断られたにゃ」

「じゃあ終わり」

「家族冷たいにゃ」

 

 角子は姉の抗議を気にせず、残った料理を保存容器へ詰め始めた。汁気が漏れないよう蓋をしっかり押さえ、一度傾けて確認してから脇へ置く。

 

 こういうところだけ見ると、妙にきっちりしている。

 

 その慎重さを、部屋の掃除にも半分くらい使えばいいのに。

 

「明日の分ですか?」

「半分はそうです」

 

 角子はもう一つ、小さめの容器を取り出した。

 

「これはヤニねこさんに」

 

 ヤニねこの耳が立った。

 

「やったにゃ!」

 

 妹ねこが少し驚く。

 

「いいんですか?」

「作りすぎたので。置いておいても食べきれないと思うので」

「無料にゃ?」

「今日の分は」

「やったにゃ!」

「ただし、明日は来ても出ませんよ」

「明後日は?」

「知りません」

「じゃあ明後日来るにゃ」

「話聞いて」

 

 妹ねこは、そのやり取りをしばらく眺めた。

 

 余れば渡す。

 

 なければ断る。

 

 作りすぎた物を持たせることはあっても、姉が欲しがった分だけ無制限に出すわけではない。

 

 その距離なら悪くない。

 

 姉も「毎日飯が出る」と完全に勘違いしているわけでは――たぶんない。

 

「ありがとうございます。本当に助かります」

「いえいえ」

「妹ちゃん、ニャーの飯に礼言ってるにゃ」

「もらう側が言わないからでしょ」

「ありがとうにゃ」

「遅い」

 

 それでもちゃんと言えば礼は言う。

 

 姉のいいところを探すハードルが低くなっている気はしたが、今日は考えないことにした。

 

 角子は保存容器を袋へ入れたあと、妹ねこを見る。

 

「妹さんも、よかったら少し持っていきます?」

「私は大丈夫です」

「では、飲み物だけでも」

 

 角子がステンレスジョッキを持った。

 

 妹ねこは嫌な予感がした。

 

「ハイボールありますよ」

「飲みません」

「薄くしますよ」

「量の問題じゃないです」

 

 角子が少し首を傾げる。

 

「かなり薄くできます」

「そういう意味じゃないです」

 

 カンサイねこが笑った。

 

「この人、酒の誘いだけは懲りへんな」

「おいしいですよ」

「飲まない人に味の説明してもあかんで」

「そうですか」

 

 角子は少し残念そうにジョッキを戻した。

 

 妹ねこはその様子を見て、角子の評価を心の中でもう一度修正する。

 

 人へ無理やり飲ませるわけではない。

 

 断れば引く。

 

 ただし、一回は勧める。

 

 酒に関してだけ妙に前向きだった。

 

 妹ねこも立ち上がる。

 

「じゃあ、お姉ちゃん。帰るよ」

「もう?」

「もう」

「まだタバコ一本吸ってないにゃ」

「帰ってから吸えば?」

「歩きタバコしたいにゃ」

「駄目」

「厳しいにゃ」

「普通」

 

 ヤニねこは渋々立ち上がった。

 

 立ち上がるまでには少し時間がかかったのに、保存容器の入った袋だけはすぐに持つ。

 

「飯忘れないんだ」

「大事にゃ」

「私の連絡より?」

 

「…………」

 

「お姉ちゃん?」

「両方大事にゃ」

「また間あった」

 

 カンサイねこが吹き出す。

 

「正直やなあ」

「正直じゃ困るんですけど」

 

 さっきまでは姉を角子の部屋へ置いて帰ってもいいかもしれない、と少し思っていた。

 

 やっぱり今日は連れて帰ろう。

 

 二人は玄関へ向かった。妹ねこは靴を履きながら、角子へもう一度頭を下げる。

 

「今日はありがとうございました」

「またどうぞ」

「姉が入り浸りすぎたら言ってください」

「分かりました」

「妹ちゃん、またそれ言うにゃ」

「毎回言うよ」

 

 角子は小さく笑い、カンサイねこも手を振った。

 

「気ぃつけてな」

「はい」

 

 妹ねこが扉を開け、廊下へ出る。

 

 そこで、足が止まった。

 

「……ん?」

「どうしたにゃ?」

「なんか……最近、ここ酒の匂い強くない?」

 

 妹ねこは少し鼻を動かした。

 

 角子の部屋にいたのだから、多少酒の匂いがすること自体は不思議ではない。実際、後ろからはウイスキーらしい匂いも漂っている。

 

 でも、それとは少し違った。

 

 もっと濃い。

 

 角子の部屋だけではなく、廊下の奥からまとまったアルコールの匂いが流れてきている。

 

「前来た時、こんなだったかな……」

 

 カンサイねこも廊下へ出て、空気を嗅いだ。

 

「言われてみれば、ちょっと強いな」

「私の部屋ですか?」

 

 角子も玄関から顔を出す。

 

「角子さんとこからもするけど、そっちちゃうな」

 

 カンサイねこが廊下の奥を見る。

 

 妹ねこもつられてそちらへ目を向けた。廊下自体は静かなもので、特に騒いでいる部屋もない。

 

 ヤニねこも鼻を動かす。

 

「いっぱい飲んでる匂いにゃ」

「そんなことまで匂いで分かるん?」

「なんとなくにゃ」

 

 タバコと飯に関しては妙に鼻が利く姉なので、完全に信用できないとも言い切れないのが困る。

 

「誰か飲んでるんですかね」

 

 妹ねこは少し気になったものの、それ以上は追及しなかった。

 

 このアパートで気になるものを一つひとつ確認していたら、いつまで経っても帰れない気がする。

 

 今日は姉を連れて帰る方が先だ。

 

「ほら、お姉ちゃん。帰るよ」

「分かったにゃ」

 

 妹ねこが歩き出すと、ヤニねこも保存容器の袋を揺らしながらついてくる。

 

 二人の足音が階段へ消えていく。

 

 カンサイねこと角子も、その背中を見送った。

 

◇

 

 その頃。

 

 廊下の少し先にある一室では、テーブルの上へ空き缶と酒瓶が並んでいた。

 

 飲み終わった物だけではない。開封済みの瓶、半分ほど残った缶、次に飲むつもりらしい未開封の酒まで、手の届く場所へきれいに集まっている。

 

 片づいているのか散らかっているのか、少し判断に困る部屋だった。

 

 その真ん中で、アルねこが新しい缶を開ける。

 

 ぷしゅ。

 

「……ん?」

 

 廊下から、自分のことを話しているような声が聞こえた。

 

 酒の匂いがどうとか。

 

 いっぱい飲んでいるとか。

 

 アルねこは缶を持ったまま少しだけ耳を向け、それから自分の服を嗅ぐ。

 

「ぼく、酒臭い……?」

 

 袖。

 

 胸元。

 

 念のため、もう一度。

 

 よく分からない。

 

 そこで部屋を見る。

 

 空き缶。

 

 酒瓶。

 

 飲みかけの缶。

 

 テーブルの横にも酒。

 

 冷蔵庫にも、たぶん酒。

 

 だいたい酒だった。

 

「まあ、酒飲んでるんだから普通じゃないかなぁ……?」

 

 納得したらしい。

 

 気にする理由が一つ消えた。

 

 アルねこは缶を一口飲み、ふふっと幸せそうに笑った。

 

「今日もちゃんと、多幸感への道は開いてるよね~」

 

 もう一口。

 

 本人にとっては、いつもの夕方だった。

 

 酒の匂いだけが、扉の隙間から廊下へ流れていった。

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