翌朝。
角子の部屋は、昨夜が嘘のように静かだった。ただし、静かなだけできれいになったわけではない。テーブルには空き瓶と使い終わったグラス、床にも空き缶が転がり、皿には食べ残したつまみがわずかに残っている。昨夜まで氷でいっぱいだったグラスも、今では薄い水を底へ溜めているだけだった。
昨日の「酒豪決定戦」が、そのまま朝まで放置されて遺跡になったような部屋である。
その横で、角子は布団へ半分だけ入り、片腕を外へ投げ出していた。アルねこは床に敷いた座布団を枕代わりにして、昨夜倒れた場所からほとんど動かず眠っている。
そして、もう一匹。
「……なんか食うものないにゃ?」
ヤニねこだけが元気だった。
二人が寝ている横を普通に歩き、棚を開けては閉め、今度は冷蔵庫の上段から下段まで覗き込む。
「んー……残ってないにゃ」
昨夜、つまみが残るたびに食べていたのは自分だったが、その事実と現在の食料不足を結びつける様子はない。
冷蔵庫を閉めたところで、布団から低い声がした。
「……閉めてください」
「閉めたにゃ」
「音が……」
「閉める音にゃ」
「もう少し静かに……」
角子は顔だけ布団へ埋めた。普段から朝に強い方ではないが、今日はさらに酷い。頭の奥に鈍い重さが残り、少し身体を動かすだけで、昨夜飲んだ酒がまとめて自己主張してくるようだった。
ヤニねこが少し近づく。
「二日酔い?」
「たぶん」
「弱いにゃ」
角子は片目だけ開けた。
「昨日、止めてくれましたよね」
「包丁だけにゃ」
「お酒も止めてくれればよかったのに」
「ニャー飲んでないにゃ」
言われてみれば、その通りだった。
「そうでしたね……」
そこで会話は終わり、角子は再び布団へ沈んだ。床のアルねこも起きる気配はなく、ようやく静かな朝が戻る。
ヤニねこは二人を数秒眺めたあと、結局もう一度冷蔵庫を開けた。
「やっぱなんかない?」
「さっき見たやろ……」
今度は床から声がした。
アルねこがうっすら目を開けている。身体を起こそうと肘をついたものの、途中で諦め、そのまま座布団へ顔を戻した。
「頭いたい」
「負けにゃ」
「勝ったよ」
「寝たにゃ」
「でも後だったじゃん」
「寝たら負けにゃ」
「そんなルールだった?」
ヤニねこは少し考えた。
「知らないにゃ」
「じゃあ言わないでよ……」
アルねこも目を閉じる。
今度こそ静かになるかと思われた。
こん、こん。
数秒もしないうちに、扉が叩かれる。
誰も動かない。
もう一度、こん、こん。
「お姉ちゃん?」
妹ねこの声だった。
ヤニねこが玄関を見る。
「妹ちゃんにゃ」
「出てください……」
角子は布団から出る気配すら見せない。
「なんでニャーが?」
「動けないので」
「アルねこは?」
「無理」
即答だった。
この部屋でまともに立てるのは、結局ヤニねこしかいない。
「ニャーはなにも悪いことしてないのに……」
ぶつぶつ言いながら、それでも玄関まで歩いて扉を開ける。
「おはよにゃ」
「お姉ちゃん?」
妹ねこは姉の肩越しに室内を覗き込み、そのまま固まった。
空き瓶、転がった缶、食べ残し。その奥では角子が布団へ半分沈み、アルねこが床へ転がっている。昨日の夜に何があったのか、説明を聞く前から大体分かる光景だった。
「ちょっと、何これ!?」
妹ねこはすぐ靴を脱ぎ、角子のところへ向かった。
「角子さん!?」
「大丈夫です……」
「大丈夫に見えないですけど!」
「二日酔いです」
妹ねこの動きが止まる。
「……二日酔い?」
「はい」
次にアルねこを見ると、床から親指だけ立てた。
「ボクも」
「何やってるんですか……」
妹ねこはその場へしゃがみ込み、二人と空き瓶を交互に見る。近くの瓶を持ち上げれば空、その隣も空。少し残っている物もあるが、昨夜並んでいた量から考えると、かなり減っていた。
「これ、昨日の全部?」
「たぶん」
「たぶんって。こんなに飲んだんですか?」
「勝負だったので」
「普通に飲むって言ってませんでした?」
角子が黙り、アルねこも黙る。
妹ねこは二人を順番に見る。
「……勝負したんですね」
「途中から」
アルねこが小さく答えた。
「最初は普通だったよ」
「途中から普通じゃなくなったなら同じです」
反論する元気は二人とも残っていなかった。
妹ねこはため息をつき、今度は姉へ振り返る。
「お姉ちゃんまで巻き込まれてないよね?」
「ニャーは飲んでないにゃ」
そこだけは即答だった。
「つまみはかなり食べてたよね?」
「全部じゃないにゃ」
「かなり食べたよね?」
「残ってるにゃ」
ヤニねこが皿を指す。残っているのは枝豆が三粒と、端で乾き始めたチーズが一切れだけだった。
「それで『残ってる』は無理あるよ」
「ゼロじゃないにゃ」
「そういう問題じゃない」
妹ねこは姉との不毛なやり取りを切り上げ、窓を開けた。酒とつまみの匂いが残った部屋へ冷たい朝の空気が流れ込み、角子とアルねこがほぼ同時に顔をしかめる。
「まず、水分取ってください」
角子は布団へ手をつき、ゆっくり身体を起こした。
「何か食べた方がいいかもー」
「今作る気ですか?」
「おかゆとか」
「やめてください」
「簡単ですよ」
角子は一度布団へ手をつき直し、何とか立ち上がった。そこから二歩進んだところで、妹ねこがすぐ前へ回り込む。
「その状態で料理しないでください」
「火は弱めにします」
「火の強さの話じゃないです」
角子は止まり、少し考えてからキッチンへ視線を向けた。
「包丁使わないものなら」
「昨日それで止められたんですよね?」
角子が黙る。
横からヤニねこが口を挟んだ。
「ニャーが止めたにゃ」
「そこは偉い」
妹ねこが珍しく素直に褒めると、ヤニねこの耳が立った。
「もっと言っていいにゃ」
「でも、その後つまみ食べてたんでしょ」
すぐ戻った。
「昔の話にゃ」
「昨日だよ」
妹ねこは冷蔵庫を確認した。炭酸水はあるが、普通の水は見当たらない。
「お姉ちゃん、水持ってきて」
「なんでニャー?」
「一番元気だから」
「アルねこも起きてるにゃ」
「起きてるだけです」
アルねこは床へ寝たまま片手を上げる。
「ボク無理」
角子に至っては、すでに壁へ片手をついていた。
「……分かったにゃ」
さすがのヤニねこも諦め、部屋を出ていった。
◇
しばらくして戻ってきたヤニねこの手には、ペットボトルが一本あった。
「持ってきたにゃ」
妹ねこが受け取る。
「炭酸水?」
「水にゃ」
「炭酸入ってるでしょ」
「水分にゃ」
間違ってはいないので、少し面倒だった。
すると、布団へ戻りかけていた角子の耳が動く。
「炭酸水あります?」
「ありますけど」
角子の視線がテーブルへ向かう。その先には昨夜飲み残した角瓶が一本あり、底にはまだ少しウイスキーが残っていた。
手が伸びる。
妹ねこの方が早かった。
角瓶を掴み、そのまま自分の後ろへ隠す。
「駄目です」
「まだ何もしてませんよ」
「今ハイボール作ろうとしましたよね?」
「炭酸水があったので」
「だから駄目です」
角子は少し残念そうに炭酸水を見る。
「迎え酒の方が楽になるかもー」
「なりません」
「少しなら」
「駄目です」
「薄くします」
「昨日もその話聞きました」
逃げ道がなくなった。
角子は諦めて炭酸水だけを一口飲み、少しだけ顔を歪めた。
「酒入ってないですね」
「炭酸水なんだから当たり前です」
横ではアルねこがうっすら目を開けている。
「迎え酒……」
「アルねこさんも駄目です」
「まだ何も言ってないよ」
「今言いました」
「言っただけ」
「飲まないでください」
「はい……」
アルねこは素直に座布団へ顔を戻した。
昨日までは二人とも「普通に飲んでいるだけ」と言っていたのに、朝になればこの有様である。妹ねこの中で、酒飲みに対する信用が少し下がった。
◇
少しして、廊下からまた足音が近づいてきた。
「まだ寝とる?」
今度はカンサイねこだった。
開いた扉から部屋を覗き込み、妹ねこ、角子とアルねこ、昨夜からほとんど変わっていないテーブルを順番に見る。
「うわ。まだこのまま?」
「今片づけようとしてます」
妹ねこが答える。
「角子さんは?」
「料理しようとしてました」
カンサイねこの視線が角子へ移った。
「まだ懲りてへんの?」
「お腹空いたので」
「そういう問題ちゃう」
アルねこも少しだけ身体を起こした。
「次は勝負じゃなくて普通に飲もう」
カンサイねこの動きが止まる。
「まだ次の話しとるん?」
「だって普通に飲めばこうならないじゃん」
「昨日も最初それ言うてたで」
「そうだっけ?」
「そこ忘れとる時点で次やめとき」
アルねこは少し考えた。
「じゃあ量減らす?」
「次ありきで考えるな」
すると角子まで、炭酸水を飲みながら口を挟む。
「料理を多めにした方がいいかもー」
「そっちも次の話すんな」
妹ねこが額を押さえた。
「二人とも全然懲りてないですね」
角子とアルねこは互いの顔を見た。
「そんなことないですよ」
「反省はしてるよ」
カンサイねこは床へ転がる空き瓶を見る。
「どの辺?」
二人とも答えなかった。
反省はしているらしい。
何を変えるのかは、まだ決まっていない。
◇
その後、とりあえず片づけを始めることになったが、角子とアルねこはほとんど戦力にならなかった。
角子は空き瓶を一本持って立ち上がったものの、数歩で諦めて再び座る。アルねこも空き缶を三つほどまとめたところで壁へ寄りかかり、そのまま動かなくなった。昨夜はあれだけ酒を取りに動いていた二人とは思えない。
一方、ヤニねこだけは元気に部屋を歩き回っていた。
ただし、片づけはしていない。
「お姉ちゃん、これ袋に入れて」
「ニャー飲んでないにゃ」
「皿使ったでしょ」
「使ったのは口にゃ」
「皿から食べたでしょ」
「皿が勝手にあったにゃ」
「無理あるよ」
責任の所在を皿へ押しつけ始めたところで、また廊下から足音がした。
「朝から何してるんだ?」
大家が扉の前まで来て中を覗き込み、少しだけ動きを止めた。
「……昨日より増えてないか?」
誰も答えない。
大家は部屋へ入らず、入口から空き瓶、缶、皿、グラス、つまみの袋を順番に見ていく。
「これ、全部昨日の?」
「たぶんです」
「たぶんじゃなくて、そこにあるならそうなんだろうな」
大家はそれ以上追及せず、現実的な方へ話を戻した。
「とりあえず、今日中に片づけてくれ」
角子が少し顔を上げる。
「今日はちょっと……」
「飲んだのは昨日だろ?」
「そうですけど」
「じゃあ、今日片づけるしかないな」
アルねこも床から小さく手を上げた。
「ボクも?」
「飲んだなら手伝って」
「はい……」
その横で、ヤニねこが妙に偉そうに腕を組む。
「飲んだ人が片づけるにゃ」
大家がすぐヤニねこを見る。
「皿を使った人も洗え」
「…………」
ヤニねこが黙った。
妹ねこも横を見る。
「お姉ちゃん?」
「聞こえなかったにゃ」
「聞こえてたでしょ」
大家は流しへ積まれた皿を指した。
「これ、食べたの誰?」
ヤニねこは皿を見て、角子、アルねこ、最後に妹ねこまで順番に見る。
「みんなにゃ」
「お前が一番食べてたやろ」
カンサイねこが即座に返した。
「証拠ないにゃ」
「配信残っとるで」
ハメねこの存在を思い出した瞬間、ヤニねこの耳が少し下がる。
「……洗うにゃ」
「最初からそう言え」
大家はそれ以上追い込まず、次は空き瓶を指した。
「瓶は次の回収日まで部屋の中でまとめといて。廊下には出さないでくれよ」
「はい」
第14話の件まであるので、そこだけは角子も素直だった。
「あと、今日はもう飲まない方がいいんじゃないか?」
「……はい」
返事までに、ほんの少し間があった。
大家はその間を見逃さない。
「角瓶、預かろうか?」
「それは大丈夫です」
返事だけは早かった。
カンサイねこが笑う。
「そこだけ元気やな」
角子は何も答えず、炭酸水を一口飲んだ。横ではアルねこが再び床へ寝転がり、それでも「次はほんとに普通にしようね」と言い出している。
「そうですね」
「まだ言うてる」
カンサイねこが呆れ、妹ねこは何も言わず、さっき没収した角瓶をさらに遠い棚の上へ置いた。
角子の視線はしっかりその瓶を追っていたが、今は取りに行く元気もない。
ヤニねこも一度瓶を見たあと、今度は流しに積まれた皿へ目を向ける。
「……これ全部洗う?」
「使った分はね」
「多いにゃ」
「昨日いっぱい食べたからでしょ」
ヤニねこはしばらく皿の山を見つめた。
「楽しい時間の代償が重いにゃ……」
「自業自得」
妹ねこが切り捨てる。
ヤニねこはしぶしぶ蛇口をひねった。
じゃああ、と水が流れ始める。
その瞬間、角子とアルねこがほとんど同時に頭を押さえた。
「うるさい……」
「頭に響く……」
洗わなければ片づかないが、洗えば二日酔いに響く。
ヤニねこは蛇口と二人を交互に見た。
「ニャーはなにも悪いことしてないのに……」
「いいから洗って」
妹ねこに即座に切られる。
水の音だけが、二日酔いの部屋へやけに大きく響いていた。