髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第一話 博打の王様

 

 秘薬の値は落ちない。

 メルクハーフェンでは、それは常識ということになっている。

 常識というのは要するに、誰も確かめていないという意味の言葉である。

 ヴィント商会の応接間は無駄に広く、無駄に暖かい。冬でもないのに炭が焚かれていて、壁には南方の織物が掛かっている。俺のような男を座らせるための椅子ではないのだが、座らせる以上は用があるということだ。

 用件は秘薬の樽が三つ。

 番頭のエーリク・フォーゲルが提示してきた値は、俺の言い値のちょうど倍だった。

 損はさせません、と彼は言う。買え、とは言わない。そういう言い方をしない男だと知っている。買え、と言った瞬間に、その取引の責任は言った側に移る。この男はそれを知っていて、二十年、一度も言ったことがない。

 俺は鞄から帳面を出さなかった。

 出す必要が、なかったからだ。

 

「フォーゲルさん」

「はい」

「この街の術師、何人でしたっけ」

「十一人ですな」

 

 即答だった。この男は数字を覚えている。覚えているが、並べない。

 

「年に使う量は?」

 

 返事はなかった。

 答えられなかったのではない。答えると何が起きるか、口を開く前に見えてしまったのだと思う。頭の回る男というのは、こういうところで正直に黙る。だから俺はこの男が嫌いではない。むしろこの街で一番、話していて疲れない相手だった。

 沈黙を破る義理もなかったが、俺は喋る側の人間だ。

 秘薬というのは、術師が使う。術師以外は使えない。使えないものを買う人間はいないから、この街の秘薬の需要は、術師十一人が一年に使う量で天井が決まっている。これは意見ではなく、算術だ。

 その量が、樽にして年に六つ。

 彼の商会の帳簿に書いてある。俺の帳簿ではない。彼の商会のだ。

 次に、夏場の海運。秘薬は熱に弱く、南回りの船倉で夏を越えると三割が使い物にならなくなる。これも彼の商会の損耗表に十年ぶん、律儀に記録されている。三割という数字を出したのは俺ではない。彼の先代だ。

 最後に、南から二隻。

 春先に出た船が、樽にして九つ分の秘薬を積んで、今年はいつもより二十日早く着く。二十日早いのは、南方諸市の戦況が悪くて港の順番待ちが消えたからだ。これは港の書記に酒を一杯おごれば聞ける話で、実際に俺は一杯おごった。

 三つを、順に並べた。

 並べただけだ。

 どれも彼の商会の紙に書いてある。誰も、並べて見なかっただけの話である。

 

「六つしか要らない街に、九つ来る。しかも早く来るから、夏を越す分が増える。腐る前に叩き売る奴が出ますよ、必ず」

 

 彼の目が動いた。まぶただけが、一度。

 

「つまり、あんたの言い値の半分でも売れ残る」

 

 俺は椅子の背に体を預けた。

 

「——買うのはこっちの好意ですよ」

 彼は何も言わなかった。

 沈黙というのは、この世で唯一、値段のつかないものだ。

 だから俺は、こいつが一番好きだ。

 

              ◆

 

 結局、樽三つは俺の言い値からさらに八掛けで俺のものになった。

 三月後には、その八掛けの倍で売れる。腐りかけの秘薬を、腐らせずに持っていられる倉が、この街に一つしかないからだ。去年のうちに買っておいた。誰も欲しがらなかったので安かった。

 フォーゲルは玄関まで見送りに出てきた。番頭がわざわざそこまでする相手ではない。

 

「ハーゼルさん」

 

 名を呼ばれた。

 ハーゼル、というのは、この街で十二年前に消えた商会の名だ。呼ぶ人間はもうほとんどいない。

「うちの主が、あなたに会いたがっています」

「そりゃ光栄だ」

「光栄、で済ませないほうがいい」

 

 忠告だ、と彼は言わなかった。言わないのがこの男のやり方で、俺はそれを忠告として受け取った。受け取ったうえで、笑って手を振って帰った。そういうやり方が、俺のやり方だ。

 

              ◆

 

 港の酒場は、この街で一番安く座っていられる場所だ。

 ボリスは先に来ていて、既に二杯目を空けていた。港湾の荷役上がりで、腕は俺の腿より太く、数字は三桁から怪しくなる。三年前、俺が食うに困っていた頃に、こいつだけが理由もなく飯を奢った。理由を聞いたら、腹が減ってる奴を見るのが嫌いだと言った。それ以来、俺の隣にいる。

 

「どうだった」

「勝った」

「そりゃよかった。何をどうしたんだ」

「言っても分からんよ」

「分からんな」

 

 こいつは笑う。分からないことを、恥じない。この街で一番真っ当な感性だと俺は思っている。

 三杯目が来て、四杯目が来て、それからボリスが、ジョッキの縁越しに俺を見た。

 

「あんた、博打の王様だな」

 

 俺は鼻で笑った。

 笑ってから、少し考えて、言った。

 

「王様ねぇ、…王冠ってのは髑髏だ」

「なんだそりゃ」

「かぶった瞬間から、飯の毒を疑って、寝床の影を数えて、自分の死ぬ日を予定に組み込んで生きることになる」

 

 俺はジョッキを傾けた。

「割に合わん。俺は儲けたいだけだ」

「難しいこと言うねえ」

 

 ボリスは笑った。この男はいつも笑う。俺の言うことの半分も分かっていないくせに、笑うところだけは間違えない。

 

「じゃあ何なら欲しいんだよ、あんたは」

 

 俺は少し考えた。

 考えるふりをしたのではない。本当に、その時まで考えたことがなかった。

 

「金庫の鍵、かな」

「なんだそりゃ」

「さあ」

 

 自分でも分からなかったので、そう答えた。

 ボリスは五杯目を頼んだ。俺は勘定を持った。

 

              ◆

 

 部屋に戻ったのは、鐘が二つ鳴った後だ。

 窓の外は港で、荷役の松明がまだ動いている。夜通し働く。働かないと食えないからだ。俺も三年前まではあそこにいた。

 机の引き出しを開けた。

 紙が一枚だけ入っている。

 十二年前の日付で、父の判が押してある。借用証だ。

 条項は七つあって、六つは何でもない。問題は四つ目だった。

 豊作の年は返済を待つ、と書いてある。

 父はそれを温情だと思った。判を押した日、父は帰ってきて、いい人たちだ、と言った。母もそう言った。番頭も、丁稚も、みんなそう言った。

 待つ、というのは、免除ではない。

 待った分は元本に足される。だから待てば待つほど山は高くなり、翌年は返せなくなり、また待ってもらうことになる。豊作の年ほど、山は速く伸びる。豊作というのは、この街では船の入りがいい年のことだ。

 三年で、山は倍になった。

 十二の俺には、読めた。

 誰も、聞かなかった。

 俺は紙を戻して、引き出しを閉めた。

 

              ◆

 

 俺には、前に一度、生きた覚えがある。

 何を見たのかは、もう思い出せない。誰だったのかも、どこだったのかも、何ひとつ残っていない。

 ただ——世界は数で書ける、ということだけ、知っていた。

 証明は、全部この手でやり直した。

 翌朝、宿の下女が手紙を持ってきた。

 封蝋には、ヴィント商会の紋。

 開けもせずに、俺は上着を取った。中身は分かっている。会いたがっている、とフォーゲルが言っていた。会いたいのなら、会えばいい。

 ただ、その前に一つだけ。

 俺は引き出しをもう一度開けて、紙を上着の内側に入れた。

 こういうものは、持っていったほうがいい。

 ——三年前、俺は無一文だった。

 

 

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