秘薬の値は落ちない。
メルクハーフェンでは、それは常識ということになっている。
常識というのは要するに、誰も確かめていないという意味の言葉である。
ヴィント商会の応接間は無駄に広く、無駄に暖かい。冬でもないのに炭が焚かれていて、壁には南方の織物が掛かっている。俺のような男を座らせるための椅子ではないのだが、座らせる以上は用があるということだ。
用件は秘薬の樽が三つ。
番頭のエーリク・フォーゲルが提示してきた値は、俺の言い値のちょうど倍だった。
損はさせません、と彼は言う。買え、とは言わない。そういう言い方をしない男だと知っている。買え、と言った瞬間に、その取引の責任は言った側に移る。この男はそれを知っていて、二十年、一度も言ったことがない。
俺は鞄から帳面を出さなかった。
出す必要が、なかったからだ。
「フォーゲルさん」
「はい」
「この街の術師、何人でしたっけ」
「十一人ですな」
即答だった。この男は数字を覚えている。覚えているが、並べない。
「年に使う量は?」
返事はなかった。
答えられなかったのではない。答えると何が起きるか、口を開く前に見えてしまったのだと思う。頭の回る男というのは、こういうところで正直に黙る。だから俺はこの男が嫌いではない。むしろこの街で一番、話していて疲れない相手だった。
沈黙を破る義理もなかったが、俺は喋る側の人間だ。
秘薬というのは、術師が使う。術師以外は使えない。使えないものを買う人間はいないから、この街の秘薬の需要は、術師十一人が一年に使う量で天井が決まっている。これは意見ではなく、算術だ。
その量が、樽にして年に六つ。
彼の商会の帳簿に書いてある。俺の帳簿ではない。彼の商会のだ。
次に、夏場の海運。秘薬は熱に弱く、南回りの船倉で夏を越えると三割が使い物にならなくなる。これも彼の商会の損耗表に十年ぶん、律儀に記録されている。三割という数字を出したのは俺ではない。彼の先代だ。
最後に、南から二隻。
春先に出た船が、樽にして九つ分の秘薬を積んで、今年はいつもより二十日早く着く。二十日早いのは、南方諸市の戦況が悪くて港の順番待ちが消えたからだ。これは港の書記に酒を一杯おごれば聞ける話で、実際に俺は一杯おごった。
三つを、順に並べた。
並べただけだ。
どれも彼の商会の紙に書いてある。誰も、並べて見なかっただけの話である。
「六つしか要らない街に、九つ来る。しかも早く来るから、夏を越す分が増える。腐る前に叩き売る奴が出ますよ、必ず」
彼の目が動いた。まぶただけが、一度。
「つまり、あんたの言い値の半分でも売れ残る」
俺は椅子の背に体を預けた。
「——買うのはこっちの好意ですよ」
彼は何も言わなかった。
沈黙というのは、この世で唯一、値段のつかないものだ。
だから俺は、こいつが一番好きだ。
◆
結局、樽三つは俺の言い値からさらに八掛けで俺のものになった。
三月後には、その八掛けの倍で売れる。腐りかけの秘薬を、腐らせずに持っていられる倉が、この街に一つしかないからだ。去年のうちに買っておいた。誰も欲しがらなかったので安かった。
フォーゲルは玄関まで見送りに出てきた。番頭がわざわざそこまでする相手ではない。
「ハーゼルさん」
名を呼ばれた。
ハーゼル、というのは、この街で十二年前に消えた商会の名だ。呼ぶ人間はもうほとんどいない。
「うちの主が、あなたに会いたがっています」
「そりゃ光栄だ」
「光栄、で済ませないほうがいい」
忠告だ、と彼は言わなかった。言わないのがこの男のやり方で、俺はそれを忠告として受け取った。受け取ったうえで、笑って手を振って帰った。そういうやり方が、俺のやり方だ。
◆
港の酒場は、この街で一番安く座っていられる場所だ。
ボリスは先に来ていて、既に二杯目を空けていた。港湾の荷役上がりで、腕は俺の腿より太く、数字は三桁から怪しくなる。三年前、俺が食うに困っていた頃に、こいつだけが理由もなく飯を奢った。理由を聞いたら、腹が減ってる奴を見るのが嫌いだと言った。それ以来、俺の隣にいる。
「どうだった」
「勝った」
「そりゃよかった。何をどうしたんだ」
「言っても分からんよ」
「分からんな」
こいつは笑う。分からないことを、恥じない。この街で一番真っ当な感性だと俺は思っている。
三杯目が来て、四杯目が来て、それからボリスが、ジョッキの縁越しに俺を見た。
「あんた、博打の王様だな」
俺は鼻で笑った。
笑ってから、少し考えて、言った。
「王様ねぇ、…王冠ってのは髑髏だ」
「なんだそりゃ」
「かぶった瞬間から、飯の毒を疑って、寝床の影を数えて、自分の死ぬ日を予定に組み込んで生きることになる」
俺はジョッキを傾けた。
「割に合わん。俺は儲けたいだけだ」
「難しいこと言うねえ」
ボリスは笑った。この男はいつも笑う。俺の言うことの半分も分かっていないくせに、笑うところだけは間違えない。
「じゃあ何なら欲しいんだよ、あんたは」
俺は少し考えた。
考えるふりをしたのではない。本当に、その時まで考えたことがなかった。
「金庫の鍵、かな」
「なんだそりゃ」
「さあ」
自分でも分からなかったので、そう答えた。
ボリスは五杯目を頼んだ。俺は勘定を持った。
◆
部屋に戻ったのは、鐘が二つ鳴った後だ。
窓の外は港で、荷役の松明がまだ動いている。夜通し働く。働かないと食えないからだ。俺も三年前まではあそこにいた。
机の引き出しを開けた。
紙が一枚だけ入っている。
十二年前の日付で、父の判が押してある。借用証だ。
条項は七つあって、六つは何でもない。問題は四つ目だった。
豊作の年は返済を待つ、と書いてある。
父はそれを温情だと思った。判を押した日、父は帰ってきて、いい人たちだ、と言った。母もそう言った。番頭も、丁稚も、みんなそう言った。
待つ、というのは、免除ではない。
待った分は元本に足される。だから待てば待つほど山は高くなり、翌年は返せなくなり、また待ってもらうことになる。豊作の年ほど、山は速く伸びる。豊作というのは、この街では船の入りがいい年のことだ。
三年で、山は倍になった。
十二の俺には、読めた。
誰も、聞かなかった。
俺は紙を戻して、引き出しを閉めた。
◆
俺には、前に一度、生きた覚えがある。
何を見たのかは、もう思い出せない。誰だったのかも、どこだったのかも、何ひとつ残っていない。
ただ——世界は数で書ける、ということだけ、知っていた。
証明は、全部この手でやり直した。
翌朝、宿の下女が手紙を持ってきた。
封蝋には、ヴィント商会の紋。
開けもせずに、俺は上着を取った。中身は分かっている。会いたがっている、とフォーゲルが言っていた。会いたいのなら、会えばいい。
ただ、その前に一つだけ。
俺は引き出しをもう一度開けて、紙を上着の内側に入れた。
こういうものは、持っていったほうがいい。
——三年前、俺は無一文だった。