ハーゼル商会は、穀物と塩を扱っていた。
地味な商売だ。派手に儲からない。船が沈んでも大したことはないが、当たっても大したことはない。街の胃袋を回すだけの、そういう商会だった。
父は三代目だった。
俺は、四代目になるはずだった。
十二の冬に、商会が消えた。
十三の春に、母が死んだ。
咳をしていた。三月ほど咳をして、それから熱が出て、動かなくなった。医者を呼べば助かったかもしれない。呼ばなかったのではない。呼べなかった。
この街の医者は、前金で三ターレン取る。
俺の手元には、六グロートあった。
——金のないものにとって、病は、死と同じ意味を持つ。
俺は、そのことを、十三の春に覚えた。
◆
商会が消えてから六年、俺は市庁舎の書記室で箒を持っていた。
掃除と、使い走りと、綴りの片付け。それだけの仕事で、飯が食えた。
十八になった年に、俺は書記室を出て、港へ行った。
箒より、麻袋のほうが、日銭がよかったからだ。
書記室には、綴りがある。
この街に入った船の綴り。出た船の綴り。麦の値の綴り。塩の値の綴り。徴発の綴り。二百年ぶん、埃をかぶって積んである。
誰も読まない。
俺は読んだ。
六年かけて、全部読んだ。
書記のヴィルムは、俺が綴りを開いていても、何も言わなかった。一度だけ、こう言った。
「小僧。そいつは、数えてやらんと、ただの紙だぞ」
俺は、この街で一番、その言葉に金を払っている。
◆
冬が来て、麦の値が動き始めた。
夏の終わりに一俵二ターレン。冬の初めに二ターレンと五グロート。年が明けて、二ターレン十グロート。
じわじわ上がる。誰も騒がない。
騒がないのは、まだ買えるからだ。
穀物商のケラーが、俺のところに来た。
この街で麦を扱う商人の中では、大きいほうだ。ヴィント商会の下請けのようなことをしている。
「ハーゼルさん。乗りませんか」
「何にです」
「麦だ。春には三割上がる」
俺は、この男の顔を見た。
「上がりますね」
「知ってたか」
「知ってました」
ケラーは笑った。
「なら話が早い。今のうちに買い占める。倉に積んで、春に出す。あんたの紙で金を集めてくれ。儲けは折半だ」
◆
俺は、断った。
「なんでだ。三割だぞ」
「三割、上がります」
俺は頷いた。
「上がった値で、誰が買うんです」
ケラーの笑いが、少し止まった。
「そりゃ、街の連中が」
「荷役の日銭は、三グロートです」
俺は指を折った。
「一日三グロート。一月で九十グロート。四ターレンと十グロートだ。女房と子ども三人で、麦が月に一俵半要る。今の値で、三ターレン十五グロート」
俺は、もう一本折った。
「三割上がったら、四ターレン十八グロートだ。日銭を全部つぎこんでも、届かない」
俺はケラーを見た。
「薪も、塩も、肉も買えない。子どもが咳をしても、医者は呼べない」
◆
「……それが、どうした」
この男は、悪人ではない。
悪人ではないから、本当に分かっていない。
「ケラーさん。飢えた奴は、パンを買いません」
俺は言った。
「盗みます」
部屋が静かになった。
「あんたの倉には、三千俵ある。春になれば、六千俵になってる。街の連中が、それを知ってる」
俺は、この男の肩を叩いた。
「その倉、燃えますよ」
ケラーは、帰った。
帰り際に、こう言った。
「あんた、親父さんそっくりだ」
俺は、その言葉を、しばらく玄関に立ったまま聞いていた。
父が判を押したのは、飢饉の年だった。
俺は、十二の冬に、あの綴りを読んだ。
北の村が凶作で、麦が採れなかった。父は村へ行って、麦を高く買った。買わなければ、村が売り食いを始める。売り食いを始めた村は、翌年、何も蒔けない。
父は、そのために金を借りた。
豊作の年は返済を待つ、と書いてある紙に、判を押した。
温情だと思ったのだ。
——三代目が村を救って、四代目が箒を持った。
◆
俺は、北へ行った。
ボリスと、荷馬車一台。三日かかった。
村は、四つ。麦を作っている。人は、締めて六百人ばかり。
村長は、痩せた老人だった。
「種を、食いました」
彼は、正直に言った。
「去年、採れなかった。子どもに食わせるものがなかった。……蒔く分を、食った」
「今年、蒔く種はありますか」
「半分です」
半分。
つまり、この村は、今年の秋、半分しか採れない。
半分しか採れなければ、来年また種を食う。
四つの村が、そうやって、二年で消える。
俺は、村長の前に、種袋を一つ置いた。
街から持ってきた。四百二十ターレン、全部使った。
「貸します」
「……買え、ではなく」
「貸します」
老人は、俺の顔を見た。
この目を、俺は知っている。判を押す前の人間の目だ。
「利息は」
「利息は取りません」
「では、何を」
「麦で返してください」
◆
俺は、指を三本立てた。
「一つ。種は、俺が出す。ただでは出さない。貸す」
「はい」
「二つ。返すのは、秋の麦です。銀貨じゃない。麦だ。貸した種の、三倍の麦を返してもらう」
村長は、少し考えた。
「一粒の種から、何粒穫れます」
「……よい年なら、七粒。悪い年なら、三粒」
「三倍返しても、あんたのところに残る。悪い年でも、ちょうど足りる」
俺は、三本目を折った。
「三つ。穫れなかったら、返さなくていい」
老人の手が、止まった。
「……返さなくて、いい?」
「凶作なら、返さなくていい。俺が損をします」
「それでは、あんたが」
「損をします」
俺は頷いた。
「四つの村に貸します。四つ全部が凶作になることは、めったにない。一つ凶作でも、三つ穫れれば、俺は足りる」
俺は、種袋の紐を解いた。
「危険は、割ってあります」
◆
村長は、長いこと黙っていた。
それから、聞いた。
「なぜ、そこまで」
俺は、少し考えた。
考えて、こう答えた。
「安いからです」
「安い?」
「四百二十ターレンで、四つの村が来年も麦を蒔く。街の胃袋が、四百二十ターレンで買える」
俺は、袋を老人の足元に押した。
「安いでしょう」
メルクに戻って、俺はマイヤーの店へ行った。
「規則を変えます」
「なんだと」
俺は、規則を書いた紙を卓に置いた。
——俺の紙は、海に浮かんでいる荷の値打ちを超えて、出してはならない。
「麦は、海に浮かんでません」
マイヤーが、紙を見た。
「北の村に、種を貸した。秋には麦になる。だが、今は畑の中だ。俺の規則では、この麦に紙は出せない」
「……出せねえな」
「出せない」
俺は、二枚目の紙を出した。
「だから、規則を書き直す」
◆
マイヤーは、俺を睨んだ。
「都合が悪くなったら書き直すのか。それを規則って言うのか」
「言いません」
俺は頷いた。
「だから、あんたの前で書き直す」
俺は、新しい紙を卓に広げた。
「一つ。俺の紙は、俺が値をつけられるものの値打ちを超えて出さない。海の荷でも、畑の麦でもいい。ただし、数えられるものに限る」
「二つ」
「畑の麦は、海の荷より当てにならない。だから、値打ちの半分しか紙を出さない」
「三つ」
俺は、この男の目を見た。
「規則を変えるときは、必ずあんたに見せる。あんたが首を横に振ったら、変えない」
◆
マイヤーは、動かなかった。
この男は、俺が何をしたのか、また正確に分かってしまった。
俺は、自分に鎖を打ち直した。しかも、鎖の鍵を、この男に渡した。
「ハーゼルさん」
「はい」
「あんた、規則を破らねえために、規則を変えたのか」
「破ると、誰も気づきません」
俺は、上着を取った。
「変えると、あんたが見てる」
マイヤーは、紙を二度読んだ。
二度読んで、それから、頷いた。
「……いいだろう」
彼は、判を押した。
金貸しの判が、俺の規則の下に押された。
この街で、たぶん、誰も見たことのない紙だ。
◆
三日後、北から使いが来た。
村長の孫だという少年で、走ってきたらしく、息が上がっていた。
俺は、水を飲ませた。
「なんだ」
「商会の人が、来ました」
少年は言った。
「麦を、買うと」
俺は、椅子から立ち上がった。
「畑ごと、買うと」
少年は、懐から紙を出した。
封蝋に、鷲が天秤を掴んでいる。
——ヴィント商会が、先に村を回っていた。