北へ戻るのに、二日で行った。
馬を借りた。借りる金はなかったので、ゲルトが出した。この男は理由を聞かなかった。
「返さなくていいのか」
「返せ」
ゲルトは言った。
「利息は取らねえ。三十を出方の数で割るってのを、教わった礼だ」
村には、天幕が張ってあった。
ヴィント商会の天幕だ。鷲が天秤を掴んだ紋が、風で膨らんでいる。
その下に、卓が一つ。卓の上に、木箱が四つ。
箱の蓋は、開いていた。
銀貨が、積んであった。
◆
六百人が、それを見ていた。
見ているだけだ。誰も近づかない。近づけない。あれだけの銀貨を見た人間は、この村に一人もいない。
俺は、その光景を、少し離れたところから見た。
上手い。
金は、貸すより、見せるほうが効く。
卓の向こうに、若い男が座っていた。
二十歳そこそこだ。背が高くて、身なりがいい。手代だろう。
俺が近づくと、彼は立ち上がった。
「ハーゼルさんですね」
「ご存じで」
「聞いております」
彼は、丁寧に頭を下げた。育ちがいい。嫌味なところが一つもない。
「ヨナスと申します」
◆
「三千ターレン」
ヨナスは言った。
「四つの村の畑を、締めて三千ターレンで買います。今日、この場で」
彼は箱を示した。
「村の方々は、そのまま畑を耕していただきます。小作としてです。小作料は、収穫の四割」
彼は、俺を見た。
悪意のない目だ。
「ハーゼルさんは、種を貸されるとか」
「貸しました」
「秋に、三倍の麦で返せと」
「そうです」
ヨナスは、微笑んだ。
「うちは金を出します。あんたは種を貸す」
彼は、両手を広げた。
「村の方々は、どちらを取られますかね」
正しい。
この若造は、正しい。
俺の手元には、一グロートもない。四百二十ターレン、全部、種になって畑に埋まっている。
値段では、勝てない。
勝てないから、俺は勝負しなかった。
「ヨナスさん」
「はい」
「その紙、読ませてもらえますか」
◆
彼は、一瞬も迷わなかった。
迷わずに、契約書を差し出した。
「どうぞ」
隠していないからだ。
この男は、隠すという発想を持っていない。持っていないのは、読んだことがないからだ。
俺は、紙を受け取った。
条項は、七つあった。
一つ目。畑を売る。
二つ目。売った者は、小作として耕す。
三つ目。小作料は、収穫の四割とする。
四つ目。
俺は、そこで、手が止まった。
止めた、のではない。止まった。
◆
——凶作の年は、小作料の納めを、翌年に延べる。
俺は、その一行を、三度読んだ。
三度読んでも、同じことが書いてあった。
紙の下に、署名がある。
ヴィント商会。
十二年前の紙と、同じ書式だった。同じ書き出し、同じ言い回し、同じ位置に、同じ四つ目。
この紙を作った男の癖が、一文字も変わっていない。
十二年、この紙は、この街を回っている。
俺は、卓の上に紙を戻した。
「ヨナスさん」
「はい」
「四つ目は、読みましたか」
彼は、少し首を傾げた。
「……凶作の年は、納めを翌年に延べる、という項ですね」
「読みましたか」
「読みました」
「意味は、分かりましたか」
彼は、答えなかった。
答えられなかったのではない。
分かっていると思っていたのに、聞かれて、分からなくなった。この男の顔は、そういう顔だった。
◆
俺は、村人の方を向いた。
六百人が、俺を見ていた。
「読みます」
俺は言った。
「字が読めない方が多いでしょう。俺が読みます。読んだうえで、決めてください」
俺は、卓の上に立った。
立って、指を四本、立てた。
「一粒の種から、よい年は七粒穫れる。悪い年は三粒。村長さんが、そう言った」
村長が頷いた。
「小作料は、四割です。よい年なら、七粒のうち二粒と八分を納める。残り四粒と二分」
俺は指を折った。
「そこから、来年の種を一粒取る。食えるのは、三粒と二分だ。……よい年なら、生きられます」
俺は、二本目を折った。
「悪い年は、三粒しか穫れない。四割納めれば、一粒と二分。残り一粒と八分」
俺は村人を見た。
「そこから種を一粒取る。食えるのは、八分です」
誰かが、息を吸った。
「食えません」
◆
「だから、四つ目があります」
俺は、紙を掲げた。
「凶作の年は、納めを翌年に延べる。優しい」
俺は言った。
「悪い年に、納めなくていい。飢えなくて済む。……そう、思いますね」
村人が頷いた。
全員が、頷いた。
俺は、その頷きを、十二年前に見たことがある。
俺の父が、同じ頷き方をした。
「三本目です」
俺は、指を三本目に折った。
「延べた分は、消えません」
風が、天幕を鳴らした。
「延べた一粒と二分は、翌年の小作料に足されます」
俺は、卓の上から、村長を見た。
「悪い年が、二度続いたとします」
村長の顔が、白くなった。
「一年目、三粒穫れて、一粒と二分を延べる」
俺は指で数えた。
「二年目、また三粒。今年の納めが一粒と二分。延べた分が一粒と二分。締めて、二粒と四分」
俺は、村人を見回した。
「三粒穫れて、二粒と四分、納めるんです」
俺は、一度、言葉を切った。
「——収穫の、八割です」
◆
誰も、動かなかった。
「残るのは、六分。種は一粒要る。種が足りません」
俺は、紙を卓に置いた。
「種が足りなければ、蒔けない。蒔けなければ、また凶作です。凶作なら、また延べる。延べれば、また足される」
俺は、四本目を折った。
「抜けられません」
◆
俺は、卓から降りた。
降りて、紙をヨナスの前に置いた。
「これは、村を買う紙じゃない」
俺は言った。
「村を、永久に借金の中に置く紙です」
沈黙は、長かった。
風が、天幕を鳴らしていた。銀貨は、箱の中で光っていた。本物だ。
「一つ、言っておきます」
俺は、村人の方を向いた。
「その銀貨は、本物です。三千ターレンある。今日、この場で受け取れる。嘘は一つもありません」
俺は、ヨナスを指した。
「この人は、嘘をついてない。全部、紙に書いてある。読めば、書いてある」
俺は、両手を広げた。
「取ってもいい。俺は止めません。俺は、金を出せない。一グロートも出せない。俺が出すのは、種だけです」
俺は、村長を見た。
「四つ目を読んでから、決めてください。それだけです」
◆
村は、種を取った。
誰も、銀貨に近づかなかった。
ヨナスは、木箱の蓋を閉めた。
閉めながら、手が震えていた。
俺は、この男の隣に立った。
「ヨナスさん」
「……はい」
「あんたは、悪くない」
彼は、俺を見上げた。
「あんたは、紙を持ってきただけだ。読まずに持ってきた。それだけだ」
俺は、彼の肩を叩いた。
「読め」
俺は言った。
「次は、読んでから来い。読んでから来る奴は、強い」
ヨナスは、頭を下げた。
深く下げた。
下げたまま、しばらく上げなかった。
メルクに戻ったのは、四日後だ。
俺は、ヴィント商会の玄関に行った。
番頭を呼んでくれ、と言った。
フォーゲルは、すぐに出てきた。
「ハーゼルさん」
俺は、何も言わなかった。
言わずに、懐から紙を出した。
北の村で、ヨナスから受け取った契約書だ。
俺は、それを玄関の卓に置いた。
置いて、四つ目の条項を、指で押さえた。
◆
フォーゲルは、それを見た。
見て、動かなかった。
「フォーゲルさん」
俺は、初めて口を開いた。
「十二年、変えてないんですね」
この男は、俺の目を逸らさない男だ。
あのときも、逸らさなかった。俺が父の話をしても、逸らさなかった。嘘は書きましたか、と聞いても、一つも、と答えた。
この日、初めて。
エーリク・フォーゲルは、目を逸らした。