手元に、一グロートもない。
四百二十ターレンは、北の畑に埋まっている。麦になるのは秋だ。あと七月ある。
七月、何も食わずに生きられる人間はいない。
俺は「三の目」の隅で、そのことを考えていた。
考えていると、卓のほうで、誰かが銭を叩きつける音がした。
術師のカスパーは、痩せた男だった。
三十くらいだろうか。手が白い。荷を担いだことのない手だ。この街では随分と珍しい。
この男は、二に置いていた。
三十倍だ。当たれば大きい。当たらない。三十六回に一回しか当たらない。
俺は、隣に座った。
「二がお好きで」
「うるさい」
「三十六回に一回です」
「知ってる」
彼は、また銭を置いた。
「知ってて置いてるんだ。当たれば三十倍だぞ」
俺は頷いた。
「置きたい気持ちは、値段のつかないものです。俺は口を出しません」
カスパーは、俺を睨んだ。
睨んで、それから、笑った。
「……変な奴だな、あんた」
◆
この男は、術師だった。
メルクハーフェンに、術師は十一人いる。カスパーはその一人だ。
術師は、秘薬を使う。
秘薬がなければ、術師は術師ではない。ただの手の白い男だ。
「一年に、どれくらい使うんです」
「俺は、樽半分だ」
「十一人で」
「六つだな。毎年、だいたい六つだ。増えも減りもしねえ」
俺は、その数字を、頭の中に置いた。
六つ。
増えも減りもしない。
「値は」
「一樽、二百ターレンだ」
カスパーは、麦酒を飲んだ。
「高えよ。だが、買うしかねえ。俺たちは、これがねえと何もできねえ」
「作れないんですか」
「南でしか採れねえ」
彼は肩をすくめた。
「南から船で来る。夏場に来ると、三割腐ってる。だから商人は、腐る分を乗せて売る。俺たちは、腐った分の金も払ってるんだ」
俺は、麦酒の椀を置いた。
「三割?」
「三割だ。昔からそうだ」
カスパーは、あくびをした。
「海のせいだ。しょうがねえ」
◆
しょうがない。
この街で、俺が一番嫌いな言葉だ。
しょうがない、というのは、誰も数えていないという意味だから。
俺は、書記室へ行った。
ヴィルムは、俺を見て、椅子を一つ寄越した。六年、この部屋で箒を持っていた男に、この老人はいつも椅子を出す。
「秘薬の綴りを」
「ないぞ」
「ないんですか」
「そんなもん、誰が数える」
俺は、少し考えた。
「では、船の綴りを。南方便の、夏の分だけ」
三日かかった。
秘薬を積んで、夏に着いた船。二十年ぶん。三十七隻あった。
その船が、どういう航路で来たか。どこに寄ったか。何日かかったか。
書いてある。誰も読まない。書記の綴りというのは、そういうものだ。
俺は、三十七隻を、二つに分けた。
——四十日以上かかった船と、四十日未満の船。
◆
四十日以上かかった船。二十二隻。
腐った量は、平均で四割。
四十日未満の船。十五隻。
腐った量は、平均で一割五分。
俺は、その二つの数字を、三度見た。
海は、同じ海だ。
船倉は、同じ船倉だ。
違うのは、時間だけだ。
◆
俺は、書記室の窓を開けた。
冬の風が入ってきた。冷たい。
秘薬が腐るのは、海のせいではない。
熱いところに、長く置くからだ。
メルクハーフェンの旧市街に、地下の石倉がある。
二十年前、氷を売ろうとした男がいた。北の湖から氷を切ってきて、夏に売る。夏に氷が要る人間はいない、ということに、その男は二年目に気づいた。
石倉は、そのまま残っている。
市庁舎の持ち物だ。二十年、何も入っていない。
俺は、その扉を開けた。
中は、冷たかった。
市庁舎の書記官に、借り賃を聞いた。
「年に、五ターレンだ」
「高くありませんか」
「二十年、誰も借りとらん」
彼は、書類から顔も上げなかった。
「一ターレンでもいい。空けとくだけ無駄だからな」
俺は、頷いた。
「二ターレンで」
「……なんで上げるんだ」
「一ターレンで借りると、来年、誰かが二ターレンで横から取ります」
俺は言った。
「二ターレンで借りれば、五年、誰も来ません」
◆
金は、ゲルトが出した。
二ターレンだ。この男は、また理由を聞かなかった。
「返せ」
「返します」
「利息は取らねえ」
ゲルトは、卓を拭いていた。
「あんたが儲かると、俺の卓に客が来る。それでいい」
この男は、数字を読まない。
読まないが、この街で一番、俺の商売を理解している。
氷は、北の湖から切り出した。
冬だ。切るだけなら、荷役でできる。ボリスと、卓の連中と、荷馬車。
賃金は、払えなかった。
だから、こう言った。
「秋まで待ってくれ。秋になれば、麦で払う」
誰も、文句を言わなかった。
ボリスが、最初に鶴嘴を持った。
◆
春に、南から船が来る。
夏に、また来る。
夏の便が、問題だ。
俺は、秘薬商のボーデのところへ行った。
この男は、五十がらみの太った男で、メルクの秘薬を一手に扱っている。ヴィント商会の傘の下にいる。
「腐るんですよ、あれは」
ボーデは言った。
「三割ね。毎年三割。しょうがない」
俺は、椅子に座った。
座って、しばらく、この男の顔を見ていた。
◆
「ボーデさん。秘薬は、腐るんじゃない」
「は?」
「温まるだけです」
俺は、紙を一枚、卓に置いた。
書記室の綴りから写した、三十七隻の表だ。
「四十日以上かかった船。四割腐ってる」
俺は、指で押さえた。
「四十日未満の船。一割五分」
もう一方を押さえた。
「同じ海です。同じ船倉です。違うのは、暑いところに何日いたかだけだ」
ボーデは、紙を見ていた。
「秘薬は、海に負けてるんじゃない。熱に負けてる」
「……だから、どうしろと」
「冷やせばいい」
「冷やす?」
「旧市街の地下に、石倉があります。二十年、空いてる。氷を詰めました」
俺は、椅子に背を預けた。
「夏の便が着いたら、その日のうちに、俺の倉へ入れてください」
「……いくらだ」
◆
ここが、この商売の勘所だ。
俺は、指を一本立てた。
「一銭も要りません」
ボーデの眉が、上がった。
「腐らなかった分。あんたが去年捨てた分が、今年、腐らずに残る。その残った分の、三割を俺にください」
「……残らなかったら」
「一銭も要りません」
俺は、笑った。
「俺が損をするだけです」
ボーデは、動かなかった。
この男は、算術を知らない。だが、損得は分かる。
断る理由が、一つもない。
払うのは、今まで捨てていた分だけだ。それが残らなければ、払わない。残れば、七割は自分のものになる。
二十年、海に捨ててきたものが、七割戻ってくる。
「……あんた」
ボーデは、やっと言った。
「なんで、こんな話を、俺に持ってきた」
「あんたが、一手に扱ってるからです」
「ヴィントの傘の下だぞ、俺は」
「知ってます」
俺は、立ち上がった。
「傘の下にいる人が、傘を差してる人より儲かる。悪くない話でしょう」
◆
ボーデは、判を押した。
紙は、五つの条項でできている。
四つ目に、罠はない。
その帰りに、書記室に寄った。
ヴィルムが、俺を待っていた。
この老人が、俺を待っているというのは、珍しいことだった。
「小僧」
「なんです」
「妙な女が来た」
俺は、椅子に座らなかった。
「女」
「頭巾を被っとった。顔は見せん。だが、若い」
ヴィルムは、綴りの山を指した。
「南方便の綴りを出せと言った。二十年ぶん」
俺は、動かなかった。
「それから、徴発令の写しを出せと言った」
老人は、次の山を指した。
「それから、麦の値の綴りだ」
◆
俺は、その三つを、見ていた。
俺が読んだ三つだ。
同じ三つを、同じ順に。
「読んだんですか」
「読んだ」
「どれくらい」
「四刻」
ヴィルムは、椅子を軋ませた。
「休まずに、な。わしが灯りを足しても、顔を上げんかった」
俺は、しばらく、何も言わなかった。
この街で、綴りを読む人間は、二人しかいなかった。
俺と、ヴィルムだ。
ヴィルムは、片付けるために読む。
俺は、数えるために読む。
「その女は」
俺は、聞いた。
「数えてましたか」
老人は、俺を見た。
「数えとった」
◆
「最後にな」
ヴィルムは、綴りを閉じた。
「一つ、言い残していった」
俺は、待った。
「——この街に、数える男がいる、と聞いた」
「なんて答えたんです」
「知らん、と」
俺は、笑った。
「上出来です」
外に出た。
冬の空は、高い。氷を切りに行く荷馬車が、通りを北へ抜けていく。ボリスが荷台の上で手を振った。
俺は、手を振り返した。
振り返しながら、少しだけ、考えた。
——もう一人、いるのか。
それだけだ。
それだけ考えて、俺は氷室のほうへ歩き出した。
考えても、金にならない。
今は、氷が要る。