夏の便が着いたのは、七月の三日だった。
俺は、氷室の前で待っていた。
氷は、たっぷりある。冬に切って、藁と籾殻で包んで、地下に積んだ。夏になっても半分も溶けていない。ボリスが二日おきに見に行って、溶けた分を捨てている。
秘薬は、樽で八つ来る。
値にして、千六百ターレン。
三割腐れば、四百八十ターレンが海に消える。俺の氷室に入れれば、消えるのは百六十ターレンで済む。三百二十ターレン、助かる。
その三割が、俺の取り分だ。九十六ターレン。
悪くない。何より、元手が二ターレンだ。
◆
昼までに、荷は来なかった。
夕方まで待った。
来なかった。
俺が港に着いたとき、樽は、もう荷馬車に積まれていた。
行き先は、東の倉だ。
石造りの、大きな倉。壁に、鷲が天秤を掴んだ紋が彫ってある。
ボーデが、荷馬車の脇に立っていた。
俺の顔を見て、こいつは、目を伏せた。
この街の男は、みんな同じ伏せ方をする。
「ボーデさん」
「……悪い」
「判を押しましたね」
「押した」
彼は、顔を上げなかった。
「ヴィントさんに、言われた」
俺は、懐から紙を出した。
五つの条項。四つ目に、罠はない。ボーデの判が、下に押してある。
「これは、なんです」
「……紙だ」
「守らないなら、なんです」
ボーデは、答えなかった。
俺は、その紙を、しばらく見ていた。
◆
市庁舎に行った。
参事会は、この街の掟を作る。契約を守らせるのも、参事会の仕事だ。
俺は、書類を出した。
係の男は、それを受け取って、奥へ行った。
半刻待たされて、戻ってきた。
「取り上げられません」
「理由は」
「参事会が、そう決めました」
俺は、係の男の顔を見た。
この男も、目を伏せていた。
参事会は、十二人でできている。
俺は、その名簿を、書記室で読んだことがある。六年、あの部屋で箒を持っていたのだ。
十二人のうち、四人が大商会の当主だ。
三番目に、こう書いてある。
——アルノー・ヴィント。
◆
俺は、市庁舎の階段に座った。
夏の石は、熱い。
俺は、そこで、しばらく動かなかった。
◆
俺は、紙を作った。
危険を割る紙。信用でできた紙。麦を貸す紙。氷で秘薬を守る紙。
全部、紙だ。
紙は、破れる。
破ったとき、破った奴を捕まえるのは、俺じゃない。
掟だ。
俺は、掟を持っていない。
◆
十二年前、父の紙は守られた。
一文字も漏らさず、正確に守られた。豊作の年は返済を待ち、待った分は元本に足され、三年で山は倍になり、商会は消えた。
あの紙は、守られたから、父を殺した。
俺の紙は、守られないから、俺を殺す。
同じ街の、同じ掟だ。
◆
俺は、笑った。
石段に座って、一人で笑った。
通りかかった荷役が、変な顔をして通り過ぎた。
——掟は、持ってる奴のものだ。
俺は、それを、その日、覚えた。
ボーデの店に、もう一度行った。
この男は、俺が来るのを待っていた。
殴られると思っていたのだろう。ボリスを連れてこなかったのが、少し残念そうな顔をした。
「訴えるのか」
「訴えません」
「……なぜだ」
「勝てないからです」
俺は、椅子に座った。
「この街の掟は、ヴィント商会のものだ。あんたは、それを知ってた」
俺は、この男の目を見た。
「だから、破れた」
◆
「すまん」
「謝らなくていい」
俺は、首を振った。
「あんたは、正しい判断をした」
ボーデが、顔を上げた。
「訴えられても勝てる相手と、逆らったら潰される相手。どっちを裏切るか。考えるまでもない」
俺は、肩をすくめた。
「俺があんたでも、俺を裏切ります」
◆
ボーデは、殴られたような顔をした。
殴ったほうが、この男は楽だったろう。
「ただ、一つだけ」
俺は、立ち上がった。
「なんだ」
「来年、あんたは要りません」
ボーデの手が、卓の上で止まった。
「……どういう意味だ」
「言葉の通りです」
俺は、上着を取った。
「秘薬は、南から来る。買うのは術師です。十一人。年に六樽」
俺は、指を折った。
「間に、あんたがいる。あんたが南で買って、術師に売る。その差が、あんたの飯だ」
俺は、扉の前で振り返った。
「術師に、直に買わせます」
ボーデは、立ち上がった。
「そんなことが、できるか。奴らは商売を知らん。船も知らん。南に伝手もない」
「知ってます」
「じゃあ——」
「俺が組みます」
俺は、扉を開けた。
「十一人で金を出し合う。船を雇う。南で買う。俺の倉に入れる。腐らない。あんたの取り分が、丸ごと術師のものになる」
◆
「ハーゼル」
ボーデが、俺の背に言った。
「俺を、潰す気か」
俺は、振り返った。
「潰しません」
俺は、この男の目を見た。
「あんたは、塩も扱ってる。麻も扱ってる。飯は食えます」
俺は、扉を押した。
「——通らないだけです」
「三の目」に、術師を十一人集めた。
集めるのに、二週間かかった。術師というのは、手が白くて、鼻が高くて、荷役の集まる賭場に足を運ぶような人種ではない。
カスパーが、九人を連れてきた。
残る一人は、来なかった。ヴィント商会の顧問だからだ。それでいい。十人いれば足りる。
俺は、卓の上に立った。
卓の上に立つのは、これで三度目だ。
◆
「あんたらは、金持ちだ」
俺は言った。
「一樽二百ターレン。年に六樽。千二百ターレン。十一人で割れば、一人あたり百ターレン。荷役の三年ぶんです」
術師たちは、退屈そうな顔をしていた。
「そのうち、三割は腐ってます」
顔が、少し動いた。
「三百六十ターレン。あんたらは毎年、三百六十ターレン分の、腐った薬に金を払ってる」
俺は、指を折った。
「二十年で、七千二百ターレンです」
部屋が、静かになった。
「あんたらは、それを、しょうがないと言ってきた」
俺は、卓の縁を叩いた。
「しょうがないものか。四十日以上、暑い船倉に置くから腐るんだ」
俺は、綴りから写した表を広げた。
「四十日未満で着いた船。腐ったのは一割五分。二十年ぶん、書記室の綴りに書いてあります。誰でも読める」
カスパーが、身を乗り出した。
「俺の倉に入れれば、一割も腐りません。氷が詰めてある」
◆
「金を出し合ってください」
俺は言った。
「十人で、千二百ターレン。船を雇う。南で買う。俺の倉に入れる」
俺は、指を三本立てた。
「一つ。俺は、口銭を取ります。一割」
「二つ。船が沈んだら、金は消えます。十のうち一つは沈む。これは俺が数えた」
「三つ」
俺は、術師たちの顔を見回した。
「危険は、十人で割れます」
カスパーが、最初に手を挙げた。
「乗る」
「賭場で三十六回の内の一回に賭けてる男が言うと、説得力がある」
「うるさい」
彼は、笑った。
残りの九人が、順に手を挙げた。
最後の一人が挙げるまで、四半刻もかからなかった。
◆
金は、集まった。
千二百ターレン。俺の口銭は、百二十ターレンだ。
俺は、それを、まず氷切りの荷役に払った。
冬に、秋まで待ってくれと言った男たちだ。
麦で払うと言ったが、麦はまだ畑の中だ。
だから、銀貨で払った。
約束より、早い。
ボリスが、銀貨を掌に乗せて、しばらく見ていた。
「秋じゃなかったのか」
「秋だ」
「今は夏だぞ」
「早いぶんには、文句ないだろう?」
こいつは、笑った。
その夜、カスパーが「三の目」で、また二に置いていた。
俺は、隣に座った。
「まだやってるんですか」
「三十倍だぞ」
「三十六回に一回です」
「知ってる」
彼は、麦酒を飲んだ。
それから、思い出したように、言った。
「そういや、あんた」
「なんです」
「王都から、人が来るらしいぞ」
◆
俺は、椀を置いた。
「王都?」
「秘薬の買い付けだ。戦で要るんだと。うちの組合に、話が回ってきた」
カスパーは、賽を振る音のほうを見ていた。
「王国が、直に買いに来る。前代未聞だ」
「誰が来るんです」
彼は、肩をすくめた。
「名代だそうだ」
◆
俺は、待った。
カスパーは、賽の目を見て、舌打ちをした。
三が出ていた。
「——王女の、名代だと」