三日、宿から出なかった。
紙を三十枚使った。
俺が数えていたのは、秘薬ではない。
アルノー・ヴィントが、何で儲けるつもりかだ。
二十樽は、無い。
ヴィントは、そんなことは百も承知だ。あの男は、この街で一番、南の船を知っている。二十樽が無いことを、俺より正確に知っているだろう。
知っていて、「承りました」と言った。
なぜか。
商人が、納められない注文を受ける理由は、一つしかない。
納めなくても、金が入るからだ。
王国は、戦をしている。
戦の物資を買うのに、王国は先に金を払う。
いや、正確ではない。王国は、金を持っていない。
だから、手形を切る。
——アルヴェント王国は、ヴィント商会に、三千ターレンを支払う。期日は、来年の春。
こういう紙だ。
商人は、その紙を受け取って、物を納める。
では、納められなかったら?
紙は、残る。
王国が切った手形は、王国の借金だ。物が納まらなくても、紙を切ってしまえば、借金は成立する。
しかも。
払えなければ、期日が延びる。
延びれば、利がつく。
——豊作の年は返済を待つ。
◆
俺は、その一行を、紙の隅に書いた。
書いて、しばらく見ていた。
十二年前に父を殺した一文が、国の大きさで、そこに立っていた。
ヴェルナーは、市庁舎の裏の館に泊まっていた。
門番が、俺を止めた。
俺は、名を言った。
門番は、奥へ入って、しばらくして戻ってきた。
「お通しになるそうです」
門番が、少し驚いた顔をしていた。
ヴェルナーは、卓に向かっていた。
書き物をしていた。宮廷の人間は、いつも何か書いている。
「商人か」
「カイ・ハーゼルです」
「昨日、広間で吠えた男だな」
「吠えました」
彼は、羽根ペンを置いた。
「何用だ」
「二十樽を、お納めできません」
◆
ヴェルナーの眉が、動いた。
「納められん、と言いに来たのか」
「はい」
「わざわざ」
「わざわざです」
俺は、椅子を勧められる前に座った。行儀が悪い。行儀のいい商人は、この部屋に入れてもらえない。
「ヴィント商会は、承ると申した」
「申しました」
「そなたは、納められんと言う」
「言います」
俺は、彼を見た。
「どちらも、二十樽が無いことを知っています」
ヴェルナーは、動かなかった。
この男は、馬鹿ではない。宮廷で使者を務める男が馬鹿であるはずがない。ただ、数を見る習慣がないだけだ。
「では、なぜヴィント商会は承った」
「そこです」
俺は、紙を出した。
「ヴェルナーさん。王国は、物を買うとき、先に金を払いますか」
彼は、答えなかった。
「手形を切りますね」
◆
「……よく知っているな」
「知りません」
俺は、首を振った。
「今、あんたの顔を見て、分かりました」
彼の頬が、少し動いた。
「王国は、二十樽ぶんの手形を切る。三千ターレン。ヴィント商会が受け取る」
俺は、指を一本立てた。
「そして、納められない。南に無いんですから」
二本目。
「納められなくても、手形は残ります。あの男は、それを返さない。返さない理由なら、いくらでも作れる。船が沈んだ。南が閉じた。値が上がった」
三本目。
「王国は、期日に払えない。払えなければ、延ばす。延ばせば、利がつく」
◆
俺は、椅子から身を乗り出した。
「ヴェルナーさん」
「なんだ」
「あの男が売ってるのは、秘薬じゃない」
「——王国の、借金です」
◆
部屋が、静かになった。
ヴェルナーは、羽根ペンを見ていた。
この男は、宮廷の人間だ。四十年、王国のために生きてきた。忠義で飯を食う人種だ。
だから、今、この男の中で何かが崩れている。
俺は、それを待った。
こういうとき、喋ってはいけない。
「ハーゼル」
彼は、やっと言った。
「そなた、王国が、この街の商会にいくら負っているか、知っているか」
「知りません」
俺は、正直に答えた。
「書記室の綴りには、王国の借金は載りません」
ヴェルナーは、羽根ペンを卓に置いた。
置いて、しばらく指で押さえていた。
言うべきではない。この男は、そう思っている。
思っていて、言う。
「十四万ターレンだ」
俺は、動かなかった。
十四万。
メルクの荷役が、一日三グロート稼ぐ。
十四万ターレンは、二百八十万グロートだ。
荷役一人が、九十三万日働いて、やっと届く。
二千五百年だ。
◆
「税は、年にいくら入るんです」
俺は、聞いた。
ヴェルナーは、答えなかった。
「言えませんか」
「……申せぬ」
「言わなくていい」
俺は、椅子に背を預けた。
「もう、分かりました」
この男は、十四万という数字を、俺に言った。
言えないはずの数字を、言った。
言いたかったからだ。
四十年、忠義で飯を食ってきた男が、その数字を一人で抱えていられなくなった。
それだけで、税収がどれくらいかは、だいたい分かる。
——足りていないのだ。
利息すら、足りていない。
「ヴェルナーさん」
「なんだ」
「十樽なら、納められます」
俺は、言った。
「術師組合が、船を出します。南で買う。来年の春に、王都へ届けます」
「値は」
「一樽、二百ターレン」
彼の眉が、上がった。
「王が定めた値は、百五十だ」
「百五十では、誰も売りません」
俺は、首を振った。
「南の商人は、王を知りません。あの連中は、二百でしか売らない。百五十で買ってこいと言われれば、俺は南で立ち尽くすだけです」
ヴェルナーは、俺を睨んだ。
「それでは、王命に背くことになる」
「なります」
俺は頷いた。
「ですから、こうしましょう」
俺は、紙を一枚、卓に置いた。
「手形は、受け取りません」
ヴェルナーの目が、動いた。
「先に金は要りません。一グロートも」
俺は、紙を彼のほうへ押した。
「十樽、届けます。届いたら、そのとき払ってください。届かなければ、一銭も要りません」
「……船が沈んだら」
「俺が損をします」
俺は、笑った。
「十のうち一つ沈む。これは俺が数えました」
ヴェルナーは、紙を見ていた。
条項は、五つ。
四つ目に、罠はない。
「なぜ、そこまでする」
「安いからです」
「安い?」
「王国は、俺の手形を持たずに済む」
俺は、立ち上がった。
「借金が、二千ターレン増えません。それだけで、俺は買ってもらう値打ちがある」
◆
ヴェルナーは、判を押した。
押しながら、こう言った。
「ハーゼル。そなたの話は、名代に伝える」
「名代」
「王女殿下の、名代だ」
俺は、扉のところで足を止めた。
「その方は、この街に?」
ヴェルナーは、顔を上げなかった。
「……さあ、な」
外は、夕方だった。
通りに、人が集まっていた。
市庁舎の壁に、触れが貼り出されている。
俺は、人垣の後ろから、それを読んだ。
——メルクハーフェン参事会、布告。
——何人も、銀貨に代わる紙を発行してはならない。
——貨幣の発行は、参事会および王国のみが行う。
——これに反する紙は、無効とする。
——本日をもって、これを施行する。
◆
俺の紙が、今日、紙屑になった。
人垣が、俺に気づいた。
誰かが、俺の名を呼んだ。
トーマが、俺の紙を握って走ってきた。船具屋の三代目だ。半年前まで博打を打ったことのない男が、俺の紙を十二枚持っている。
「ハーゼルさん! これは!」
俺は、その紙を見た。
俺が書いた紙だ。五つの条項。四つ目に、罠はない。
「トーマさん」
俺は言った。
「その紙は、生きてます」
「だが、参事会が——」
「紙が死ぬのは、俺が払わないときだけです」
俺は、人垣の中に立った。
三十人ばかりが、俺を見ていた。
全員、俺の紙を持っている。
「参事会は、俺の紙を無効にした」
俺は言った。
「掟の上では、これはもう紙屑だ。訴えても、取り上げてもらえない」
俺は、トーマの持っている紙を、指で叩いた。
「だが、俺は払う」
◆
「掟が守ってくれなくても、俺が払う」
俺は、通りを見回した。
「一枚残らず、払う。払わなかったら、俺を殺していい」
俺は、笑った。
「そのほうが安いでしょう。訴訟は、金がかかる」
誰も、笑わなかった。
トーマが、紙を懐に戻した。
それだけだ。
三十人は、散っていった。
誰も、俺のところに払いを求めに来なかった。
◆
その夜、俺は宿の机に向かった。
紙を一枚、広げた。
書いたのは、二行だ。
——掟は、持ってる奴のものだ。
——俺は、掟を持っていない。
俺は、その二行を、長いこと見ていた。
見て、それから、三行目を書いた。
——では、どこへ行けば、掟が手に入る。