秋が来た。
北の四つの村で、麦が実った。
よい年だった。一粒から、六粒。
種を貸した分の、三倍が返ってくる。六百俵。値にして、千二百ターレンだ。
俺は、荷馬車を十台、手配していた。
十台目が出る前に、少年が走ってきた。
村長の孫だ。春にも、走ってきた。
「兵隊が」
少年は、それだけ言った。
息が上がっていて、それ以上、言えなかった。
俺は、水を飲ませた。
飲ませながら、もう、全部分かっていた。
◆
徴発だ。
王国は、戦をしている。兵は麦を食う。
王国は、領内の村から、麦を集める権利を持っている。
北の四つの村は、メルクハーフェンの外だ。
——王国領である。
俺は、六年、市庁舎の書記室にいた。
徴発令の写しは、あの部屋の棚にある。
俺は、それを読んだ。何度も読んだ。第六話で、フォーゲルに小麦の話をしたとき、俺が使ったのがあの綴りだ。
王国は、麦を持っていける。
掟の上で、正しい。
村に着いたときには、麦は無かった。
倉が、空だった。
村長が、卓の上に紙を置いていた。
俺は、それを読んだ。
——アルヴェント王国は、本徴発により受領せし麦の代価として、金千五百ターレンを支払う。
——支払期日は、来春とする。
——アルヴェント王国、軍務庁。
千五百ターレン。
麦の値でいえば、七百五十俵ぶんだ。実際に持っていったのは、六百俵と少し。
多く書いてある。
気前がいい。
気前がいいのは、払う気がないからだ。
村長は、俺を見なかった。
「返せません」
彼は言った。
「麦が、ありません」
「知ってます」
「あんたの種で、蒔きました。あんたに三倍返すと、判を押しました」
老人の手が、震えていた。
「……返せません」
俺は、椅子を引いて、この老人の向かいに座った。
「村長さん」
「はい」
「食う分は、残ってますか」
彼は、顔を上げた。
「……種と、冬の分だけは」
「なら、いい」
俺は、頷いた。
「三つ目の条項です。穫れなかったら、返さなくていい」
「ですが、…穫れました」
「穫れませんでした」
俺は、首を振った。
「あんたの倉は、空だ。空の倉は、凶作と同じです」
老人は、何も言わなかった。
言わずに、俺の手を掴んだ。
俺は、その手を、しばらくそのままにしておいた。
メルクに戻る道で、俺は数えた。
俺の倉に、麦は来ない。
だが、俺の紙は、街に出ている。
麦一俵と引き換える紙。三百俵ぶん。
紙の下には、こう書いてある。
——渡さなければ、この紙は、俺の首と引き換えである。
俺は、笑った。
自分で書いた紙に、自分で首を絞められている。
笑うようなことではないのだが、こういうときに笑わないと、俺は俺でなくなる。
三百俵は、六百ターレンだ。
俺の手元には、四百ターレンある。術師組合の口銭と、夏の航海の口銭を足した額だ。
足りない。二百ターレン、足りない。
俺は、宿の机に、持ち物を書き出した。
氷室の借り賃の権利。次の航海の口。術師組合の預かり方の株。
全部売れば、二百ターレンになる。
俺は、全部売った。
三日で、三百俵ぶんの紙を、全部買い戻した。
一俵につき、二ターレン。銀貨で。
トーマが、最後だった。
「麦じゃなくていいのか」
「麦がありません」
「……あんた、なんで銀貨で払うんだ。待ってくれと言えば、俺は待つぞ」
俺は、この男に銀貨を数えて渡した。
「トーマさん。待ってくれと言った紙が、俺の親父を殺しました」
◆
俺の手元は、また、ゼロになった。
二度目だ。
ボリスが、宿に来て、机の上を見た。
紙が一枚もない。銀貨も一枚もない。
「また、無一文か」
「また、無一文だ」
「慣れたな」
「慣れた」
こいつは笑った。
俺も、笑った。
だが、話は、終わっていない。
村には、紙が残っている。
千五百ターレンの、王国の紙が。
あの紙は、今、紙屑だ。
王国は払わない。来春に払うと書いてあるが、払わない。
払えない。十四万ターレン借りている国が、千五百ターレンの徴発手形を、律儀に払うわけがない。
村の連中も、それを知っている。
知っているから、あの紙は、村では焚きつけにもならない。
だが。
紙屑にしているのは、王国が払わないからだ。
払わせれば、紙屑ではなくなる。
千五百ターレンだ。
俺は、マイヤーの店へ行った。
狭い店だ。相変わらずに。
「マイヤーさん」
「なんだ」
「紙を出したい」
マイヤーは、帳面から顔を上げた。
「何の紙だ」
「王国の徴発手形を、買います。四つの村から。額面千五百ターレン」
俺は、椅子に座った。
「買うのに、六百ターレン要ります。額面の四割だ」
「手元は」
「ゼロです」
「……ゼロで、どうやって買う」
「紙を出す」
マイヤーは、帳面を閉じた。
「駄目だ」
「マイヤーさん」
「駄目だ」
彼は、俺を見なかった。
「あんたの規則を、読んでやろうか」
彼は、抽斗から紙を出した。
俺が書いた規則だ。判が二つ押してある。俺の判と、この男の判。
「俺の紙は、俺が値をつけられるものの値打ちを超えて出さない。数えられるものに限る」
彼は、指で押さえた。
「王国の徴発手形は、数えられるのか」
俺は、答えなかった。
数えられない。
王国が払うかどうかは、俺には数えられない。海の船なら、二十年の綴りがある。畑の麦なら、収量の記録がある。
王国の借金には、綴りがない。
誰も、数えたことがない。
「マイヤーさん」
俺は言った。
「あの村は、種を蒔きました。俺が貸した種です。麦は実った。実った麦を、王国が持っていった」
俺は、卓に手を置いた。
「村に残ったのは、紙一枚だ。あの紙が紙屑なら、あの村は、来年、また種を食います」
「知ってる」
「二年で、村が消えます」
「知ってる」
マイヤーは、俺を見なかった。
「今回だけだ」
俺は、そう言った。
言ってから、自分の口が何を言ったかに気づいた。
マイヤーは、顔を上げた。
この男は、俺を憎んでいる。俺が街の金の値段を下げた。五割で貸せた男が、一割三分でしか貸せなくなった。
俺が潰れれば、この男は儲かる。
だから、この男に見張らせた。
俺が、そう決めた。
「ハーゼルさん」
彼は、静かに言った。
「あんた、自分が何を言ったか、覚えてるか」
「一年前だ」
彼は、抽斗から、もう一枚出した。
俺が、ゲルトに規則を説明した日の話を、この男は、どこかで聞いていたらしい。
書き留めてある。金貸しの癖だ。
「——三年後に、俺の商会が傾いてる日が来る。あと百枚出せば持ち直す、という日が来る。百枚出せば、誰も損しない。俺は自分にそう言う。俺は、必ず、そう言う」
彼は、紙を卓に置いた。
「あんたが言ったんだ」
俺は、その紙を、長いこと見ていた。
見て、それから、笑った。
声を出して、笑った。
「……早かったな」
俺は言った。
「三年も、かからなかった」
マイヤーは、笑わなかった。
「出すなら、俺は触れを出す」
彼は言った。
「ハーゼルの紙は危ない、と。この街の全員に」
俺は、頷いた。
「出してください」
「……なんだと」
「俺が規則を破ったら、そうしろと言ったのは、俺です」
俺は、立ち上がった。
「あんたは、仕事をしてる。俺が雇った仕事だ」
俺は、扉のところで、振り返った。
「マイヤーさん」
「なんだ」
「止めてくれて、助かりました」
◆
この男は、答えなかった。
答えずに、帳面を開いた。
開いた帳面を、しばらく見ていた。
俺が店を出るまで、一度も、こちらを見なかった。
「三の目」の卓に、俺は座った。
ゲルトが、麦酒を出した。
「紙は、出せません」
俺は言った。
「規則です。マイヤーが、首を横に振った」
ゲルトは、卓を拭いていた。
「じゃあ、どうする」
「あんたらの銀貨で、買ってください」
俺は、卓の上に、王国の徴発手形の写しを置いた。
「王国が、北の村から麦を取った。代わりに、この紙を置いていった。額面、千五百ターレン」
俺は、指で押さえた。
「今、これは紙屑です。王国は払わない」
俺は、卓を見回した。
ゲルト。ボリス。トーマ。ドールス。ヨスト。「三の目」の十八人。
「額面の三割で、買えます。四百五十ターレン」
俺は、言った。
「俺は、口銭を取りません。紙も出しません。俺は、値をつけるだけだ。
危険は、割ります」
俺は言った。
「王国が払えば、儲かる。払わなければ、丸損だ」
俺は、麦酒を一口飲んだ。
「王国が払う見込みは、俺には数えられません」
俺は、椀を置いた。
「綴りがない。二十年の記録がない。この賭けの目は、誰にも見えない」
卓の周りが、静かになった。
俺は、こういうときに喋らない男だ。
喋らずに、待った。
ゲルトが、卓を叩いた。
「三割は、安すぎる」
「……安すぎる?」
「四割で、だ」
彼は、俺を見た。
「あんた、王国に払わせるつもりなんだろう」
俺は、この男を見た。
数字を読まない男だ。掛け算ができない。
二十年、卓の裏で銭を数えてきた。
「……払わせます」
「なら、四割だ」
ゲルトは、麦酒の樽を叩いた。
「俺は、あんたが払わせると思ってる。三割で買ったら、それは村から盗んだことになる」
六百ターレン、集まった。
ゲルトが百。トーマが八十。ドールスが五十。ヨストと水夫たちが、締めて七十。
残りは、「三の目」の卓の連中が出した。十八人が、十ターレン、二十ターレンと置いていった。
ボリスが、三十ターレン出した。
この男の、全財産だ。
「分からんが、出す」
「分からんのに出すのか」
「あんたが値をつけたんだろ」
「俺は、値をつけられませんでした」
俺は言った。
「今回は、つけられなかった」
ボリスは、笑った。
「なら、俺が勝手に賭けただけだ。あんたのせいじゃない」
◆
俺は、村へ行った。
千五百ターレンの徴発手形を、六百ターレンで買った。
村長は、銀貨を数えて、それから、俺の顔を見た。
「あんた、損をするんじゃないのかね」
「するかもしれません」
俺は、紙を懐に入れた。
「しないかもしれません」
メルクに戻る道は、長かった。
懐に、王国の紙がある。
千五百ターレン。
これを払わせるには、王国へ行かなければならない。
王国には、掟がある。
王国には、アルノー・ヴィントが待っている。
◆
宿に戻って、俺は机に向かった。
紙を一枚、広げた。
書いたのは、一行だ。
——王都へ行く。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
見て、それから、書き足した。
——取りに行く。掟じゃない。金だ。