王都ローエンタールまで、十一日かかった。
馬車には乗らなかった。乗る金がない。
荷馬車に便乗して、途中から歩いた。ボリスがついてきた。
「なんで来た」
「三十ターレン賭けたからな」
こいつは、麻袋を担ぎ直した。
「見に行く権利はあるだろ」
◆
王都は、大きかった。
メルクの三倍はある。
だが、街に入って半刻で、俺が最初に数えたのは、建物の数ではなかった。
物乞いの数だ。
大通りを、南の門から市庁前まで歩いた。
距離にして、メルクの港から旧市街までと同じくらいだ。
メルクなら、物乞いは三人か四人いる。
王都では、四十一人いた。
そのうち、十九人が、片腕か片脚がなかった。
戦だ。
王都は、戦をしている国の首都だ。
兵が帰ってくる。全部は帰ってこない。帰ってきた者も、全部は帰ってこない。
俺は、それを数えながら歩いた。
ボリスは、何も言わなかった。
両替商の店先で、俺は銀貨を一枚出した。
メルクの一ターレン。今年のものだ。銀の目方で八匁ある。
両替商は、それを秤に乗せて、こう言った。
「王都のターレンなら、一枚と二グロートになる」
俺は、王都のターレンを一枚もらって、秤に乗せてもらった。
七匁だった。
メルクの銀貨は、二十年で二割痩せた。
王都の銀貨は、もっと痩せている。
王が、王都で改鋳する。
改鋳した銀貨は、まず王都で使われる。
——近くにいるほど、盗まれてる。
◆
軍務庁は、王城の東にあった。
石造りで、窓が小さい。書類を守る建物の形だ。
俺は、三日通った。
四日目に、やっと中に入れた。
主計官のブラントという男が、卓の向こうに座っていた。
五十がらみで、痩せていて、指にインクの染みがある。
俺は、この男を、少し好きになった。
書類を書く男は、たいてい、嘘が下手だ。
「徴発手形の、支払いを」
俺は、紙を出した。
千五百ターレン。四つの村。軍務庁の判が押してある。
ブラントは、それを見た。
「来春です」
「来春に、払えますか」
彼は、答えなかった。
「ブラントさん」
俺は言った。
「今、この紙は、王都の裏でいくらで売られてるか、ご存じですか」
彼は、顔を上げなかった。
「二割です」
俺は言った。
「額面千五百の紙が、三百ターレンで売れる。それが、この国の紙の値段だ」
俺は、卓に手を置いた。
「俺は、これを六百ターレンで買いました」
ブラントの手が、止まった。
「四割で買ったんです」
俺は、笑った。
「もう、三百ターレン損してます」
ブラントは、俺の顔を見た。
「……なぜ、そんな高値で」
「仲間が、そう値をつけました」
俺は言った。
「三割でいい、と俺は言った。四割で買え、と言われました。俺が王国に払わせると思ってる、と」
俺は、椅子に座り直した。
「俺の仲間は、荷役と、船具屋と、賭場の親父です。あの連中は、この国の紙が二割で売られてることを知りません」
俺は、ブラントを見た。
「知らないから、四割を出した」
ブラントは、何も言わなかった。
この男は、四十年、書類を書いてきた。
王国が払わない紙を、四十年、書き続けてきた。
俺は、待った。
「ハーゼルどの」
彼は、やっと言った。
「王国は、払えません」
「知ってます」
「では、なぜ来た」
「払わせるためです」
俺は、二枚目の紙を出した。
ヴェルナーと交わした契約書だ。
——秘薬十樽。一樽二百ターレン。締めて二千ターレン。来春、王都へ納入。納入後に支払う。
ブラントは、それを見た。
見て、目を見開いた。
「これは……ヴェルナーどのの判だ」
「そうです」
「十樽、納められるのか」
「納められます」
ブラントは、椅子から立ち上がった。
「王都に、秘薬はありません」
彼は言った。
「軍が買えないのです。闇の値で、一樽五百ターレン。とても手が出ない」
彼は、窓の外を見た。
「傷病兵が、二千人おります。秘薬があれば、その半分は戦列に戻れる」
彼は、俺のほうを向いた。
「戻れなければ、死にます」
俺は、椅子に座ったまま、この男を見上げていた。
インクの染みのついた指が、震えていた。
「ブラントさん」
俺は言った。
「闇の値で、一樽五百。十樽なら、五千ターレンです」
彼は、頷いた。
「俺は、二千でいい」
俺は、指を一本立てた。
「しかも、銀貨は要りません」
「——この紙で、払ってください」
俺は、徴発手形を、卓の上に押した。
千五百ターレン。
「二千のうち、千五百は、この紙で相殺してください」
俺は言った。
「残りの五百だけ、銀貨でください」
ブラントは、動かなかった。
俺は、指を折りながら、数えた。
「軍務庁は、五百ターレン払う。それだけです」
一本。
「五千ターレン分の秘薬が、手に入る」
二本。
「王国の借金が、千五百ターレン減る」
三本。
「傷病兵が、千人、戦列に戻る」
俺は、手を開いた。
「——断る理由が、一つでもありますか」
沈黙は、長かった。
窓が小さいので、部屋は暗い。
ブラントは、卓の上の二枚の紙を、交互に見ていた。
インクの染みのついた指で、片方を押さえ、もう片方を押さえた。
「……ない」
彼は、言った。
「断る理由は、ありません」
彼は、判を取った。
取って、卓の上に置いた。
置いて、押さなかった。
「ハーゼルどの」
「はい」
「わたしの一存では、押せません」
彼は、俺を見た。
「上に、上げます」
◆
軍務庁を出て、俺は、自分の勘定を、もう一度数えた。
いい取引には、見えないはずだ。
俺は、徴発手形を千五百で持っている。額面千五百。本来なら、王国から千五百、もらえる紙だ。
それを、秘薬代の二千から差し引かせた。
王国は、千五百の借金が消える。俺には、五百しか来ない。
——本来もらえるはずだった千五百が、消えた。
俺は、それを、承知でやった。
商人は、こういうことをしない。
千五百の紙を持っているなら、千五百、取り立てる。取り立てられないなら、二割でも売って、三百を懐に入れる。
俺は、そのどちらもしなかった。
千五百の紙を、五百に化けさせた。
千、捨てた。
だが、と俺は思う。
二割で売れば、三百だ。取り立てれば、王国は「認めがたし」と突っぱねる。ゼロだ。
この紙は、単体では、死んでいる。
三百か、ゼロか。それが、この紙の本当の値だ。
俺は、その死んだ紙を、額面のまま、王国に呑ませた。
千五百の借金を、王国に、千五百のまま消させた。
薬が、それをやった。
兵が生き返る薬だ。王国が、今すぐ欲しいものだ。
死んだ紙は、動かない。だが、動く薬にくくりつければ、動く。
俺は、死んだ紙を、生きた薬の背に乗せて、王国の懐まで運んだ。
千を、捨てた。
だが、俺は、この国の紙を、額面で回収した、初めての男になる。
——紙の信用は、まだ死んでる。回収の実績だけが、先に立つ。
妙な話だ。
紙は死んだまま、回収だけが成った。
俺は、それでいい。
千を捨てて、面目を買った。
面目には、まだ値がついていない。
だが、いつか、つく。
——そのときに、千は、返ってくる。
◆
三日、待った。
宿は、王都でいちばん安い部屋を取った。ボリスと二人で、藁の上に寝た。
三日目の夕方、軍務庁から使いが来た。
紙が一枚。
——本件、認めがたし。
——理由は、記さず。
俺は、その紙を、三度読んだ。
三度読んでも、二行しか書いていなかった。
ボリスが、藁の上から俺を見た。
「どうだった」
「駄目だった」
「なんでだ」
「書いてない」
俺は、紙を畳んだ。
「理由は、記さず、と書いてある」
俺は、窓の外を見た。
王都の夜は、暗い。街灯を焚く油が、戦に取られている。
断る理由は、一つもなかった。
軍務庁は、五百ターレンで五千ターレン分の薬を手に入れられた。借金が減った。兵が生きた。
全部、勘定が合っていた。
合っていて、断られた。
勘定が合っているのに断られるとき、理由は一つしかない。
勘定の外に、誰かがいる。
俺は、藁の上に座った。
座って、笑った。
笑うようなことではないのだが、こういうときには笑う。笑え。
「ボリス」
「なんだ」
「俺は、この国の紙を、六百ターレンで買った」
「ああ」
「王都では、三百ターレンで売ってる」
「……半分か」
「半分だ」
俺は、膝を抱えた。
「あんたの三十ターレンは、今、十五ターレンだ」
ボリスは、藁の上で、寝返りを打った。
「なあ」
「なんだ」
「あんた、その紙、いくらだと思ってる」
俺は、少し考えた。
「……千五百だ」
「じゃあ、千五百だろ」
こいつは、天井を見ていた。
「あんたが値をつけたんだ。あんたが値をつけたもんは、その値になる。俺はそう思ってる」
俺は、何も言わなかった。
こいつは、俺の言うことの半分も分かっていない。
だが、信じるところだけは、いつも間違えない。
その夜、宿の戸が叩かれた。
ボリスが起きて、扉を開けた。
男が二人立っていた。
歩き方が、揃っていた。
「カイ・ハーゼルどのか」
「そうです」
俺は、藁の上から立ち上がった。
男は、上着の内から、紙を出した。
封蝋に、紋がある。
鷲ではない。天秤でもない。
——冠と、二本の麦の穂。
アルヴェント王家の紋だ。
「王女殿下が、お呼びです」
俺は、その紙を受け取った。
受け取って、上着の埃を払った。
払うほどの上着ではなかった。
十一日、歩いてきた上着だ。
「今からですか」
「今からです」
俺は、ボリスを見た。
こいつは、藁の上で、口を開けたまま、俺を見ていた。
俺は、扉のほうへ歩いた。
歩きながら、少し笑った。
——勘定の外に、誰かがいる。
その誰かが、俺を呼んだ。
悪くない。
少なくとも、顔を見せに来た。