髑髏の王冠   作:朝凪小夜

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第二十話 髑髏の王冠

 

 王城の廊下は、長かった。

 絨毯が敷いてある。俺の上着より、この絨毯のほうが上等だ。十一日、歩いてきた靴で踏むのが、少し申し訳なかった。

 少しだけだ。

 案内の男は、一言も喋らなかった。

 通されたのは、書庫だった。

 謁見の間ではない。

 書庫だ。

 棚が、天井まである。綴りが、床から積んである。

 俺は、その匂いを知っている。

 六年、この匂いの中で箒を持っていた。

 卓が一つ。

 その向こうに、女が座っていた。

 頭巾は、被っていなかった。

 髪は、黒い。

 目は、灰色だ。

 若い。俺より少し上だろうか。

 顔は、整っている。整っているが、痩せている。この街の物乞いとは違う痩せ方だ。眠っていない人間の痩せ方である。

 俺は、そういう顔を、知っている。

 毎朝、水桶に映る。

 

「イレーネ・ヴァル・アルヴェント」

 

 彼女は、そう名乗った。

 

「カイ・ハーゼルです」

「知っています」

「井戸のときは、名乗ってくださらなかった」

「名乗る場面ではありませんでした」

 

 俺は、椅子を勧められる前に座った。

 行儀が悪い。

 彼女は、何も言わなかった。

 

「軍務庁が、断りましたね」

「断られました」

「理由は、記されていなかった」

「ええ」

 

 俺は、椅子に背を預けた。

 

「殿下は、理由をご存じで」

「知っています」

 

 彼女は、即答した。

 この女は、いつも即答する。

 答えを、先に持っているからだ。

 

「王国は、十四万ターレン借りています」

 

 彼女は言った。

 

「そのうち、九万は、ヴィント商会です」

 

 俺は、その数字を、頭の中に置いた。

 九万。

 三分の二だ。

 

「ヴィント商会は、王国の、最大の貸し手です」

「だから、断られた?」

「違います」

 

 彼女は、首を振った。

 

「あなたが相殺を通せば、こうなります」

 

 彼女は、指を一本立てた。

 

「王国に物を納めた者は、王国の古い手形で、代金を受け取れる」

 

 二本目。

 

「つまり、古い手形に、値がつきます」

 

 三本目。

 

「値がつけば、誰でも王国に物を納めます。手形で払ってもらえるからです」

 

 彼女は、俺を見た。

 

「——そうなると、ヴィント商会は、要らなくなります」

 

 俺は、動かなかった。

 この女は、俺が三日かけて数えたことを、たぶん、俺より先に数え終えている。

 

「今、王国に物を納める商人は、ヴィント商会だけです」

 

 彼女は言った。

 

「他の商人は、納めません。王国が払わないからです。払わないと知っている商人は、王国と商いをしない」

 

 彼女は、卓の上で手を組んだ。

 

「ヴィント商会だけが、納めます。払われなくても、納めます」

「手形が欲しいからだ」

「そうです」

「あの男の商売は、秘薬でも、麦でもありません」

 

 彼女は言った。

 

「王国に、ものを納められる、唯一の商人であることです」

 

 俺は、しばらく、何も言わなかった。

 メルクで、俺はこう言った。

 ——あんたらは、危険を引き受けて儲けてるんじゃない。引き受けられるのが自分たちだけだから、儲けてるんだ。

 同じだ。

 街でやっていたことを、この男は、国でやっている。

 

「では、断ったのは」

「宰相です」

 

 彼女は言った。

 

「グレゴール・ザイツ」

 

 俺は、その名を、頭の中に置いた。

 

「ヴィント商会の味方ですか」

「いいえ」

 

 彼女は、首を振った。

 

「王国の味方です」

「ヴィント商会が怒れば、来月の貸付が止まります」

 

 彼女は言った。

 

「来月、兵の給金が払えません」

 

 彼女の声は、平らだった。

 

「給金が払えなければ、兵は逃げます。逃げれば、戦線が崩れます」

 

 彼女は、俺を見た。

 

「宰相は、正しい判断をしました」

 

              ◆

 

 俺は、天井を見た。

 書庫の天井は、高い。

 ——勘定の外に、誰かがいる。

 いなかった。

 勘定の中に、全員がいた。

 全員が正しくて、全員が動けない。

 

              ◆

 

「殿下」

 

 俺は言った。

 

「一つ、伺っていいですか」

「どうぞ」

 

 俺は、彼女を見た。

 

「この国は、いくら足りないんですか」

 

 彼女は、動かなかった。

 灰色の目が、俺を見ていた。

 瞬きを、しなかった。

 

「税は、年に八万ターレンです」

 

 彼女は言った。

 

「戦費が、六万」

「利息が、二万一千」

 

 彼女は、指を折らなかった。

 折る必要がないのだ。この数字を、この女は、何千回も数えている。

 

「八万入って、六万が戦に消えて、二万一千が利息に消える」

 

 彼女は、卓の上で手を組み直した。

「——千ターレン、足りません」

 

「王国は、利息を払うために、借りています」

 

 彼女は言った。

 

「借りれば、利息が増えます。増えれば、また足りません。また借ります」

 

 彼女は、俺を見た。

 

「この国は、もう、死んでいます」

「いつから、ご存じで」

「九つの年です」

 

 俺は、椅子の上で、動かなかった。

 

「父の机に、紙が積んでありました。借入の綴りと、税の見込みです」

 

 彼女は言った。

 

「並べれば、答えが出ます」

 

 彼女は、少しだけ、目を伏せた。

 

「出ました」

 

「誰にも、言わなかったんですか」

「言いました」

 

 彼女は、顔を上げた。

 

「——誰も、聞きませんでした」

 

 俺は、何も言わなかった。

 言うことがなかったのではない。

 言うべきことが、多すぎたのでもない。

 ——十二の俺には、読めた。

 ——誰も、聞かなかった。

 俺は、それを、この十二年、一度も口に出したことがない。

 出さずに、この街で商売をしてきた。

 俺は、口を開かなかった。

 彼女も、開かなかった。

 書庫の中は、静かだった。

 綴りの匂いがした。

 

「ハーゼル」

 

 彼女が、先に言った。

 

「あなたが、王であればよかった」

 

 俺は、鼻で笑った。

 王女の前で、鼻で笑う商人は、この国にいない。

 俺は、それを知っていて、笑った。

 

「割に合わん」

「……なんと」

「割に合わない、と申し上げました」

 

 俺は、椅子に座り直した。

 

「王冠ってのは、髑髏です」

「かぶった瞬間から、飯の毒を疑うことになる。寝床の影を数えることになる」

 

 俺は、指を折った。

 

「自分が、いつ、どこで、誰に殺されるかを、予定に組み込んで生きることになる」

 

 俺は、手を開いた。

 

「そんなもん、割に合いません」

 

 俺は、笑った。

 

「俺は、儲けたいだけです」

 

 彼女は、動かなかった。

 俺は、その顔を見て、しくじったかと思った。

 王女に無礼を働いた商人が、この城でどうなるかは、知らない。

 知らないが、いい話ではないだろう。

 

「……無礼ですね」

 

 彼女は、やっと言った。

 

「知ってます」

 

 沈黙が、長かった。

 俺は、待った。

 こういうときに喋る奴は、負ける。

 

「ハーゼル」

「はい」

「もう一度、仰ってください」

 

 俺は、彼女を見た。

 

「……は?」

「もう一度」

 

 彼女の声は、低かった。

 平らだった声が、初めて、平らでなくなっていた。

 

「今、仰ったことを、もう一度」

              ◆

 

 俺は、しばらく、この女の顔を見ていた。

 痩せている。眠っていない。

 九つの年から、この国が死んでいることを知っている。

 言って、誰にも聞かれなかった。

 毎朝、毒味された飯を食っている。

 毎晩、寝床の影を数えている。

 ——この女は、俺が冗談で言ったことを、生まれた日から予定に組み込んで生きている。

 俺は、もう一度、言った。

 今度は、笑わなかった。

 

「王冠は、髑髏です」

 

「かぶれば、死ぬ日を数えて生きることになる」

 

 俺は、静かに言った。

 

「——割に、合いません」

 

 イレーネ・ヴァル・アルヴェントは、目を閉じた。

 閉じて、しばらく、開けなかった。

 どれくらい経ったのか、分からない。

 書庫の蝋燭が、一本、短くなった。

 彼女が、目を開けた。

 目は、乾いていた。

 

「商いの話をしましょう」

 

 彼女は言った。

 声は、また平らだった。

 

「けっこうです」

 

 彼女は、卓の下から、紙を出した。

 束になっている。

 

「王国と、ヴィント商会の契約書です。写しです」

 

 彼女は、それを俺のほうへ押した。

 

「秘薬、二十樽。一樽百五十ターレン。締めて三千ターレンの手形が、すでに交付されています」

「納入は」

「されません」

 

 彼女は言った。

 

「二十樽は、南にありません。あなたが広間で言った、その通りです」

「では、手形は」

「そこを、お読みください」

 

 俺は、紙をめくった。

 条項は、七つあった。

 一つ目。納入の期日。

 二つ目。品目と数量。

 三つ目。代価と手形の交付。

 四つ目。

 

 ——納入がなされざる場合、王国は、既に交付せる手形を無効とせず、これに年一割五分の利を付し、期限を延べるものとする。

 俺は、その一行を、三度読んだ。

 三度読んでも、同じことが書いてあった。

 

「納めなければ、手形は消えます」

 

 イレーネは言った。

 

「普通は、そうです。物が来なければ、金は払わない」

 

 彼女は、卓の上で手を組んだ。

 

「この契約では、消えません。納めなくても、手形は残り、利がつきます」

 

 彼女は、俺を見た。

 

「ヴィント商会は、二十樽を納めないほうが、儲かります」

 

 俺は、紙を卓に置いた。

 置いて、指で、四つ目を押さえた。

 

「殿下」

「はい」

「この一文を、俺は、三度見ました」

 

 俺は言った。

 

「一度目は、十二の年に。父が判を押した紙で」

 

 俺は、指を離さなかった。

 

「二度目は、去年。北の村を買う紙で」

 

 俺は、顔を上げた。

 

「三度目が、これです」

 

 イレーネは、俺を見ていた。

 

「同じ文ですか」

「同じ男の癖です」

 

 俺は言った。

 

「エーリク・フォーゲル。ヴィント商会の番頭です」

 

 俺は、紙を畳んだ。

 

「——あいつは、十二年、書き方を変えてない」

 

 彼女は、しばらく黙っていた。

 

「ハーゼル」

「はい」

「その紙で、何ができますか」

「今は、何も」

 

 俺は、正直に答えた。

 

「一介の商人が、王国の契約書を持って歩いても、紙屑です。誰も、取り上げてくれない」

 

 俺は、笑った。

 

「メルクで、同じことをやりました。訴えて、負けました」

「掟が、要ります」

 

 俺は言った。

 

「俺は、掟を持っていない」

 

 イレーネは、立ち上がった。

 棚のほうへ歩いて、綴りを一つ、引き抜いた。

 埃が舞った。

 彼女は、それを卓に置いた。

 

「アルヴェント王国には、監査の職があります」

 

 彼女は言った。

 

「王の名において、王国のあらゆる帳簿を開く権を持ちます。参事会も、商会も、拒めません」

 

 俺は、その綴りを見た。

 

「今、誰が」

「三十年、空席です」

「置くのは、王です」

 

 彼女は言った。

 

「置いた者は、王の犬になります」

 

 彼女は、俺を見た。

 

「首に、輪をつけて」

 

 俺は、その綴りを、指で叩いた。

 叩いて、笑った。

 

「割に合わん」

 

 イレーネは、笑わなかった。

 笑わずに、こう言った。

 

「——そうでしょうね」

 

 俺は、王城を出た。

 外は、まだ夜だった。

 街灯は、焚かれていない。油が、戦に取られている。

 俺は、階段を降りて、そこで、しばらく動かなかった。

 ——あの女は、笑わなかった。

 俺が王冠の話をすると、みんな笑う。

 ボリスは笑う。マイヤーは笑う。ゲルトは笑う。

 難しいことを言う、と言って、笑う。

 笑わなかったのは、初めてだ。

 俺は、上着の襟を立てた。

 王都の夜は、冷える。

 ——もう一度、と言われたのも、初めてだ。

 

 

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