王城の廊下は、長かった。
絨毯が敷いてある。俺の上着より、この絨毯のほうが上等だ。十一日、歩いてきた靴で踏むのが、少し申し訳なかった。
少しだけだ。
案内の男は、一言も喋らなかった。
通されたのは、書庫だった。
謁見の間ではない。
書庫だ。
棚が、天井まである。綴りが、床から積んである。
俺は、その匂いを知っている。
六年、この匂いの中で箒を持っていた。
卓が一つ。
その向こうに、女が座っていた。
頭巾は、被っていなかった。
髪は、黒い。
目は、灰色だ。
若い。俺より少し上だろうか。
顔は、整っている。整っているが、痩せている。この街の物乞いとは違う痩せ方だ。眠っていない人間の痩せ方である。
俺は、そういう顔を、知っている。
毎朝、水桶に映る。
「イレーネ・ヴァル・アルヴェント」
彼女は、そう名乗った。
「カイ・ハーゼルです」
「知っています」
「井戸のときは、名乗ってくださらなかった」
「名乗る場面ではありませんでした」
俺は、椅子を勧められる前に座った。
行儀が悪い。
彼女は、何も言わなかった。
「軍務庁が、断りましたね」
「断られました」
「理由は、記されていなかった」
「ええ」
俺は、椅子に背を預けた。
「殿下は、理由をご存じで」
「知っています」
彼女は、即答した。
この女は、いつも即答する。
答えを、先に持っているからだ。
「王国は、十四万ターレン借りています」
彼女は言った。
「そのうち、九万は、ヴィント商会です」
俺は、その数字を、頭の中に置いた。
九万。
三分の二だ。
「ヴィント商会は、王国の、最大の貸し手です」
「だから、断られた?」
「違います」
彼女は、首を振った。
「あなたが相殺を通せば、こうなります」
彼女は、指を一本立てた。
「王国に物を納めた者は、王国の古い手形で、代金を受け取れる」
二本目。
「つまり、古い手形に、値がつきます」
三本目。
「値がつけば、誰でも王国に物を納めます。手形で払ってもらえるからです」
彼女は、俺を見た。
「——そうなると、ヴィント商会は、要らなくなります」
俺は、動かなかった。
この女は、俺が三日かけて数えたことを、たぶん、俺より先に数え終えている。
「今、王国に物を納める商人は、ヴィント商会だけです」
彼女は言った。
「他の商人は、納めません。王国が払わないからです。払わないと知っている商人は、王国と商いをしない」
彼女は、卓の上で手を組んだ。
「ヴィント商会だけが、納めます。払われなくても、納めます」
「手形が欲しいからだ」
「そうです」
「あの男の商売は、秘薬でも、麦でもありません」
彼女は言った。
「王国に、ものを納められる、唯一の商人であることです」
俺は、しばらく、何も言わなかった。
メルクで、俺はこう言った。
——あんたらは、危険を引き受けて儲けてるんじゃない。引き受けられるのが自分たちだけだから、儲けてるんだ。
同じだ。
街でやっていたことを、この男は、国でやっている。
「では、断ったのは」
「宰相です」
彼女は言った。
「グレゴール・ザイツ」
俺は、その名を、頭の中に置いた。
「ヴィント商会の味方ですか」
「いいえ」
彼女は、首を振った。
「王国の味方です」
「ヴィント商会が怒れば、来月の貸付が止まります」
彼女は言った。
「来月、兵の給金が払えません」
彼女の声は、平らだった。
「給金が払えなければ、兵は逃げます。逃げれば、戦線が崩れます」
彼女は、俺を見た。
「宰相は、正しい判断をしました」
◆
俺は、天井を見た。
書庫の天井は、高い。
——勘定の外に、誰かがいる。
いなかった。
勘定の中に、全員がいた。
全員が正しくて、全員が動けない。
◆
「殿下」
俺は言った。
「一つ、伺っていいですか」
「どうぞ」
俺は、彼女を見た。
「この国は、いくら足りないんですか」
彼女は、動かなかった。
灰色の目が、俺を見ていた。
瞬きを、しなかった。
「税は、年に八万ターレンです」
彼女は言った。
「戦費が、六万」
「利息が、二万一千」
彼女は、指を折らなかった。
折る必要がないのだ。この数字を、この女は、何千回も数えている。
「八万入って、六万が戦に消えて、二万一千が利息に消える」
彼女は、卓の上で手を組み直した。
「——千ターレン、足りません」
「王国は、利息を払うために、借りています」
彼女は言った。
「借りれば、利息が増えます。増えれば、また足りません。また借ります」
彼女は、俺を見た。
「この国は、もう、死んでいます」
「いつから、ご存じで」
「九つの年です」
俺は、椅子の上で、動かなかった。
「父の机に、紙が積んでありました。借入の綴りと、税の見込みです」
彼女は言った。
「並べれば、答えが出ます」
彼女は、少しだけ、目を伏せた。
「出ました」
「誰にも、言わなかったんですか」
「言いました」
彼女は、顔を上げた。
「——誰も、聞きませんでした」
俺は、何も言わなかった。
言うことがなかったのではない。
言うべきことが、多すぎたのでもない。
——十二の俺には、読めた。
——誰も、聞かなかった。
俺は、それを、この十二年、一度も口に出したことがない。
出さずに、この街で商売をしてきた。
俺は、口を開かなかった。
彼女も、開かなかった。
書庫の中は、静かだった。
綴りの匂いがした。
「ハーゼル」
彼女が、先に言った。
「あなたが、王であればよかった」
俺は、鼻で笑った。
王女の前で、鼻で笑う商人は、この国にいない。
俺は、それを知っていて、笑った。
「割に合わん」
「……なんと」
「割に合わない、と申し上げました」
俺は、椅子に座り直した。
「王冠ってのは、髑髏です」
「かぶった瞬間から、飯の毒を疑うことになる。寝床の影を数えることになる」
俺は、指を折った。
「自分が、いつ、どこで、誰に殺されるかを、予定に組み込んで生きることになる」
俺は、手を開いた。
「そんなもん、割に合いません」
俺は、笑った。
「俺は、儲けたいだけです」
彼女は、動かなかった。
俺は、その顔を見て、しくじったかと思った。
王女に無礼を働いた商人が、この城でどうなるかは、知らない。
知らないが、いい話ではないだろう。
「……無礼ですね」
彼女は、やっと言った。
「知ってます」
沈黙が、長かった。
俺は、待った。
こういうときに喋る奴は、負ける。
「ハーゼル」
「はい」
「もう一度、仰ってください」
俺は、彼女を見た。
「……は?」
「もう一度」
彼女の声は、低かった。
平らだった声が、初めて、平らでなくなっていた。
「今、仰ったことを、もう一度」
◆
俺は、しばらく、この女の顔を見ていた。
痩せている。眠っていない。
九つの年から、この国が死んでいることを知っている。
言って、誰にも聞かれなかった。
毎朝、毒味された飯を食っている。
毎晩、寝床の影を数えている。
——この女は、俺が冗談で言ったことを、生まれた日から予定に組み込んで生きている。
俺は、もう一度、言った。
今度は、笑わなかった。
「王冠は、髑髏です」
「かぶれば、死ぬ日を数えて生きることになる」
俺は、静かに言った。
「——割に、合いません」
イレーネ・ヴァル・アルヴェントは、目を閉じた。
閉じて、しばらく、開けなかった。
どれくらい経ったのか、分からない。
書庫の蝋燭が、一本、短くなった。
彼女が、目を開けた。
目は、乾いていた。
「商いの話をしましょう」
彼女は言った。
声は、また平らだった。
「けっこうです」
彼女は、卓の下から、紙を出した。
束になっている。
「王国と、ヴィント商会の契約書です。写しです」
彼女は、それを俺のほうへ押した。
「秘薬、二十樽。一樽百五十ターレン。締めて三千ターレンの手形が、すでに交付されています」
「納入は」
「されません」
彼女は言った。
「二十樽は、南にありません。あなたが広間で言った、その通りです」
「では、手形は」
「そこを、お読みください」
俺は、紙をめくった。
条項は、七つあった。
一つ目。納入の期日。
二つ目。品目と数量。
三つ目。代価と手形の交付。
四つ目。
——納入がなされざる場合、王国は、既に交付せる手形を無効とせず、これに年一割五分の利を付し、期限を延べるものとする。
俺は、その一行を、三度読んだ。
三度読んでも、同じことが書いてあった。
「納めなければ、手形は消えます」
イレーネは言った。
「普通は、そうです。物が来なければ、金は払わない」
彼女は、卓の上で手を組んだ。
「この契約では、消えません。納めなくても、手形は残り、利がつきます」
彼女は、俺を見た。
「ヴィント商会は、二十樽を納めないほうが、儲かります」
俺は、紙を卓に置いた。
置いて、指で、四つ目を押さえた。
「殿下」
「はい」
「この一文を、俺は、三度見ました」
俺は言った。
「一度目は、十二の年に。父が判を押した紙で」
俺は、指を離さなかった。
「二度目は、去年。北の村を買う紙で」
俺は、顔を上げた。
「三度目が、これです」
イレーネは、俺を見ていた。
「同じ文ですか」
「同じ男の癖です」
俺は言った。
「エーリク・フォーゲル。ヴィント商会の番頭です」
俺は、紙を畳んだ。
「——あいつは、十二年、書き方を変えてない」
彼女は、しばらく黙っていた。
「ハーゼル」
「はい」
「その紙で、何ができますか」
「今は、何も」
俺は、正直に答えた。
「一介の商人が、王国の契約書を持って歩いても、紙屑です。誰も、取り上げてくれない」
俺は、笑った。
「メルクで、同じことをやりました。訴えて、負けました」
「掟が、要ります」
俺は言った。
「俺は、掟を持っていない」
イレーネは、立ち上がった。
棚のほうへ歩いて、綴りを一つ、引き抜いた。
埃が舞った。
彼女は、それを卓に置いた。
「アルヴェント王国には、監査の職があります」
彼女は言った。
「王の名において、王国のあらゆる帳簿を開く権を持ちます。参事会も、商会も、拒めません」
俺は、その綴りを見た。
「今、誰が」
「三十年、空席です」
「置くのは、王です」
彼女は言った。
「置いた者は、王の犬になります」
彼女は、俺を見た。
「首に、輪をつけて」
俺は、その綴りを、指で叩いた。
叩いて、笑った。
「割に合わん」
イレーネは、笑わなかった。
笑わずに、こう言った。
「——そうでしょうね」
俺は、王城を出た。
外は、まだ夜だった。
街灯は、焚かれていない。油が、戦に取られている。
俺は、階段を降りて、そこで、しばらく動かなかった。
——あの女は、笑わなかった。
俺が王冠の話をすると、みんな笑う。
ボリスは笑う。マイヤーは笑う。ゲルトは笑う。
難しいことを言う、と言って、笑う。
笑わなかったのは、初めてだ。
俺は、上着の襟を立てた。
王都の夜は、冷える。
——もう一度、と言われたのも、初めてだ。